その他
2016.12.06
対馬は江戸時代、日本外交の最前線であったが、そのことはあまり知られていない。江戸時代の対外関係と言えば、長崎におけるオランダおよび清国との接触しか頭に浮かばない人が多いだろうが、実は、江戸幕府は対馬藩を通じて李朝朝鮮とさまざまな関係を結んでおり、それは外交と呼ぶのにふさわしいものだった。たとえば、国交の回復、貿易の再開、何千人もの朝鮮人捕虜の解放・帰国などである。
明治になってからも対馬は注目されなかった。わずかに対馬沖の海戦だけが有名だが、日本の安全保障の最前線だったこともある。
対馬の現状と一般の認識とはかなりのギャップがあるのだ。そんな対馬の現状を自分の目で確かめるのが旅の目的だった。
なお、対馬のこと、とくに外交を語るには、今日の外交にも立派に通用する国際感覚と熱意の持ち主であった雨森芳洲を忘れるわけにいかないが、本稿では特に言及しないことにした。
対馬で出会った旅行者はすべて韓国人だった。これほど韓国人旅行者の比率が高いところは世界中を見渡してもほかにないだろう。
韓国人旅行者の行動については、日本人から見て眉をひそめるようなことも少しあったが、礼儀正しい人にも出会った。こちらはちょっとしただけだったが、丁寧に「カムサハムニダ(ありがとうございます)」と言われたこともあった。振る舞いに気を付け、礼儀正しくしようと努めている印象だった。
韓国人は土地を買い占めているとも言われている。特にそのことについて調べたわけではないが、対馬は平地が少ないのでそういうことであれば目立つし、反発も起こるだろう。
対馬の人口は減少傾向にあり、最も多かった1960年の6万9千人と比べると、今はすでにその半分以下になっている。そのような状況では、韓国人が土地を購入する、もっと正確に言えば不動産の売買に韓国人が混じるのはむしろ自然なことである。
司馬遼太郎の『壱岐・対馬の道』に出てくる永留久恵氏は対馬の事情に詳しく、何冊も本を書いている。『対馬国誌 第三巻 戦争と平和と国際交流』では対馬の振興、韓国との交流などについて論じているが、「土地の買い占め」のようなことは何も書いていない。そのことだけで、また、市役所に尋ねもしないで「買占めなどない」と断定できないのはもちろんだが、大きな問題になっていないのではないかという印象だった。
対馬は長らく日本防衛の最前線だった。その名残は対馬の処々に残っている。歴史を追ってみていくと、まず、663年、百済を救援するため出兵した日本軍が白村江の戦で新羅・唐の連合軍に敗れたことから始まる。当時、日本では新羅・唐軍が戦勝の勢いで日本に攻めてくるのではないかと恐れ、西日本各地で防衛体制を整備した。その最前線が対馬であり、現在「城山」と呼ばれる半島に「金田城」を築いた。
大和朝廷は各地から「防人」を対馬へ派遣した。防人は人間味あふれる人たちであり、遠く離れた地で家族を思う心情を歌に詠んだ。防人が高い文学的素養も備えていたこと、そしてまた防人の歌を歌集(万葉集)に採録したことも驚嘆に値する。
防人は金田城だけでなく対馬の各地に送られた。その一つが、金田城と同じく浅茅湾に面している「竹敷」だった。万葉集には「竹敷」から始まる歌だけでも数首ある。対馬には、防人が詠った場所としてスポットされた場所が数か所あり、その地で詠まれた歌が記念碑に刻まれている。
それから約6百年後の1274年、日本に侵攻した蒙古(元)軍3万3千のうち約千の軍勢が対馬に来寇し、島の西南部の小茂田浜に上陸した。これを迎え撃ったのは宗助国以下の60騎。衆寡敵せず全滅した。死者を祭った小茂田神社、宗助国の首塚、胴塚などが残っている。
蒙古軍は金田城にも向かった可能性がある。浅茅湾に入ったばかりのところに「尾崎」という小村があり、蒙古の船団はそこを拠点とした。船が集まるのに適した地形である。現在はマグロの養殖がおこなわれており、多数の筏が見えている。
次に歴史に登場したのは「倭寇」であった。李氏朝鮮も明も倭寇に荒らされ、対応に苦慮した。日本人ばかりでなく、朝鮮人も中国人も交じっていたと言われているが、その活動の一拠点が浅茅湾内にあったそうだ。
浅茅湾とは対馬の中央部を西側から割って入る形になっている内水であり、リアス式の複雑な海岸に囲まれて多数の小島が浮かんでいる。隠れるところがいっぱいあったのだろう。今は壱岐対馬国定公園として指定され、風光明媚な地としてPRされている。
秀吉の始めた朝鮮出兵(文禄慶長の役)においても対馬は前進基地となった。これはあまり語られないことだが、対馬の中心都市、厳原の八幡宮の背後にある清水山は肥前の名護屋(秀吉が築いた朝鮮侵略の拠点)から壱岐を経由して送られてくる物資の中継地であった。
実証されたことでないのであえて順を追って記さなかったが、神功皇后の「三韓征伐」の際にも「対馬国に御着船あり」、また半島から帰国に際しては「清水山に行幸あり」と八幡宮神社の案内に記載されている。同社の縁起にそう書いてあるのだろう。神功皇后のことは神話に過ぎず歴史とは言えないというのが通説だが、このように実感のある説明を聞くと、はたして神話と片付けてよいかという疑問もわいてきた。
さらに時代を下って日清、日露戦争時には対馬各地に砲台が築かれた。その数は30にも上ったので対馬全島が要塞化したと言われたそうだ。現在でも多数残っており、観光スポットになっていると観光案内に書いてあるが、ちょっと準備していかなければ難儀するだろう。
城山には金田城跡以外に、日露戦争に備えて建設された砲台や軍道があり、今は「城山トレッキング」のコースになっている。今回の旅ではそこへ入ることはできなかったが、再度対馬へ行く機会があればぜひ行ってみたいところだ。
対馬沖海戦は対馬の東側で行われ、島からよく見えたそうだ。島民は、船が撃沈され島に上陸したロシアの軍兵を親切に救助したと伝えられている。
歴史上の激戦地はいくつもあるが、このように4回も日本の歴史に登場するところは対馬以外にない。対馬は朝鮮半島から50キロ弱の距離にあり、晴れておれば北端の韓国展望台から肉眼で釜山の町の灯を見ることができる。また、釜山からの距離は対馬のほうが済州島よりはるかに近い。対馬が日本防衛の最前線となったのはこのような地理的関係にあるからだが、対馬に住む人たちにとっては大変なことだったはずだ。
江戸時代の日朝外交では対馬藩による国書の偽造が有名だが、対馬藩だけの責めに帰せられるべきことでない。朝鮮との貿易を継続したい江戸幕府が日本のナンバーワンでないのに李王朝を対等の相手とし、かつ相手方の事情を無視して要求を通そうとしたことから生じた問題であり、それを解決しないまま結果を出すこと、つまり円滑な通交を対馬藩は求められた。強制されたに等しかった。厳原の資料館には国書偽造のため使用した10センチ四方の印鑑が展示されている。
現在の対馬は一見過疎化に悩む山間地のような印象だ。複雑な歴史の跡を見るにはいささかの努力が必要だが、十分値する。
日朝のかすがい、対馬の印象
11月29日~12月1日、対馬を訪れた。長い間希望していたがなかなか実現しなかった訪問だった。対馬は江戸時代、日本外交の最前線であったが、そのことはあまり知られていない。江戸時代の対外関係と言えば、長崎におけるオランダおよび清国との接触しか頭に浮かばない人が多いだろうが、実は、江戸幕府は対馬藩を通じて李朝朝鮮とさまざまな関係を結んでおり、それは外交と呼ぶのにふさわしいものだった。たとえば、国交の回復、貿易の再開、何千人もの朝鮮人捕虜の解放・帰国などである。
明治になってからも対馬は注目されなかった。わずかに対馬沖の海戦だけが有名だが、日本の安全保障の最前線だったこともある。
対馬の現状と一般の認識とはかなりのギャップがあるのだ。そんな対馬の現状を自分の目で確かめるのが旅の目的だった。
なお、対馬のこと、とくに外交を語るには、今日の外交にも立派に通用する国際感覚と熱意の持ち主であった雨森芳洲を忘れるわけにいかないが、本稿では特に言及しないことにした。
対馬で出会った旅行者はすべて韓国人だった。これほど韓国人旅行者の比率が高いところは世界中を見渡してもほかにないだろう。
韓国人旅行者の行動については、日本人から見て眉をひそめるようなことも少しあったが、礼儀正しい人にも出会った。こちらはちょっとしただけだったが、丁寧に「カムサハムニダ(ありがとうございます)」と言われたこともあった。振る舞いに気を付け、礼儀正しくしようと努めている印象だった。
韓国人は土地を買い占めているとも言われている。特にそのことについて調べたわけではないが、対馬は平地が少ないのでそういうことであれば目立つし、反発も起こるだろう。
対馬の人口は減少傾向にあり、最も多かった1960年の6万9千人と比べると、今はすでにその半分以下になっている。そのような状況では、韓国人が土地を購入する、もっと正確に言えば不動産の売買に韓国人が混じるのはむしろ自然なことである。
司馬遼太郎の『壱岐・対馬の道』に出てくる永留久恵氏は対馬の事情に詳しく、何冊も本を書いている。『対馬国誌 第三巻 戦争と平和と国際交流』では対馬の振興、韓国との交流などについて論じているが、「土地の買い占め」のようなことは何も書いていない。そのことだけで、また、市役所に尋ねもしないで「買占めなどない」と断定できないのはもちろんだが、大きな問題になっていないのではないかという印象だった。
対馬は長らく日本防衛の最前線だった。その名残は対馬の処々に残っている。歴史を追ってみていくと、まず、663年、百済を救援するため出兵した日本軍が白村江の戦で新羅・唐の連合軍に敗れたことから始まる。当時、日本では新羅・唐軍が戦勝の勢いで日本に攻めてくるのではないかと恐れ、西日本各地で防衛体制を整備した。その最前線が対馬であり、現在「城山」と呼ばれる半島に「金田城」を築いた。
大和朝廷は各地から「防人」を対馬へ派遣した。防人は人間味あふれる人たちであり、遠く離れた地で家族を思う心情を歌に詠んだ。防人が高い文学的素養も備えていたこと、そしてまた防人の歌を歌集(万葉集)に採録したことも驚嘆に値する。
防人は金田城だけでなく対馬の各地に送られた。その一つが、金田城と同じく浅茅湾に面している「竹敷」だった。万葉集には「竹敷」から始まる歌だけでも数首ある。対馬には、防人が詠った場所としてスポットされた場所が数か所あり、その地で詠まれた歌が記念碑に刻まれている。
それから約6百年後の1274年、日本に侵攻した蒙古(元)軍3万3千のうち約千の軍勢が対馬に来寇し、島の西南部の小茂田浜に上陸した。これを迎え撃ったのは宗助国以下の60騎。衆寡敵せず全滅した。死者を祭った小茂田神社、宗助国の首塚、胴塚などが残っている。
蒙古軍は金田城にも向かった可能性がある。浅茅湾に入ったばかりのところに「尾崎」という小村があり、蒙古の船団はそこを拠点とした。船が集まるのに適した地形である。現在はマグロの養殖がおこなわれており、多数の筏が見えている。
次に歴史に登場したのは「倭寇」であった。李氏朝鮮も明も倭寇に荒らされ、対応に苦慮した。日本人ばかりでなく、朝鮮人も中国人も交じっていたと言われているが、その活動の一拠点が浅茅湾内にあったそうだ。
浅茅湾とは対馬の中央部を西側から割って入る形になっている内水であり、リアス式の複雑な海岸に囲まれて多数の小島が浮かんでいる。隠れるところがいっぱいあったのだろう。今は壱岐対馬国定公園として指定され、風光明媚な地としてPRされている。
秀吉の始めた朝鮮出兵(文禄慶長の役)においても対馬は前進基地となった。これはあまり語られないことだが、対馬の中心都市、厳原の八幡宮の背後にある清水山は肥前の名護屋(秀吉が築いた朝鮮侵略の拠点)から壱岐を経由して送られてくる物資の中継地であった。
実証されたことでないのであえて順を追って記さなかったが、神功皇后の「三韓征伐」の際にも「対馬国に御着船あり」、また半島から帰国に際しては「清水山に行幸あり」と八幡宮神社の案内に記載されている。同社の縁起にそう書いてあるのだろう。神功皇后のことは神話に過ぎず歴史とは言えないというのが通説だが、このように実感のある説明を聞くと、はたして神話と片付けてよいかという疑問もわいてきた。
さらに時代を下って日清、日露戦争時には対馬各地に砲台が築かれた。その数は30にも上ったので対馬全島が要塞化したと言われたそうだ。現在でも多数残っており、観光スポットになっていると観光案内に書いてあるが、ちょっと準備していかなければ難儀するだろう。
城山には金田城跡以外に、日露戦争に備えて建設された砲台や軍道があり、今は「城山トレッキング」のコースになっている。今回の旅ではそこへ入ることはできなかったが、再度対馬へ行く機会があればぜひ行ってみたいところだ。
対馬沖海戦は対馬の東側で行われ、島からよく見えたそうだ。島民は、船が撃沈され島に上陸したロシアの軍兵を親切に救助したと伝えられている。
歴史上の激戦地はいくつもあるが、このように4回も日本の歴史に登場するところは対馬以外にない。対馬は朝鮮半島から50キロ弱の距離にあり、晴れておれば北端の韓国展望台から肉眼で釜山の町の灯を見ることができる。また、釜山からの距離は対馬のほうが済州島よりはるかに近い。対馬が日本防衛の最前線となったのはこのような地理的関係にあるからだが、対馬に住む人たちにとっては大変なことだったはずだ。
江戸時代の日朝外交では対馬藩による国書の偽造が有名だが、対馬藩だけの責めに帰せられるべきことでない。朝鮮との貿易を継続したい江戸幕府が日本のナンバーワンでないのに李王朝を対等の相手とし、かつ相手方の事情を無視して要求を通そうとしたことから生じた問題であり、それを解決しないまま結果を出すこと、つまり円滑な通交を対馬藩は求められた。強制されたに等しかった。厳原の資料館には国書偽造のため使用した10センチ四方の印鑑が展示されている。
現在の対馬は一見過疎化に悩む山間地のような印象だ。複雑な歴史の跡を見るにはいささかの努力が必要だが、十分値する。
2016.11.28
この提案に対する習近平主席の反応について報道は一致していない。前向きの反応であったというものもあるが、どうも明確な意思表示はなかったらしい。今後中国がどのような態度を取るか注目されるが、当分の間はとくに反応しない可能性もある。フィリピン側が一方的に提案したに過ぎないとも言われている。
ドゥテルテ大統領の考えは興味深いが、まだこちらにははっきり伝わっていない部分があるためか、若干疑問がある。11月中旬の訪中でドゥテルテ大統領は習近平主席と南シナ海の問題を平和的な方法で解決することに合意した。この会談の結果としてフィリピンの漁船が同礁で中国側の妨害を受けることなく操業することが可能となったと伝えられていた。
ではなぜ、同礁を禁漁区とする提案をしたのか。もし環境保護が目的であれば、なぜ訪中の際の会談でなく、今回のリマ会談で提案したのか。
フィリピンの漁業者の立場からすれば、スカボロー礁での漁業を再開できるようにしておいて、その後でなぜ禁漁区を設ける提案をしたのか。いったん喜ばせておいて、あとで水をかけるようなことになったのではないか。事実、ドゥテルテ提案に対してはフィリピン内部で困惑、ないし批判の声が上がっている。
ドゥテルテ大統領は、フィリピン紙の報道では、仲裁判決はフィリピンにとって有利なものであり、また中国もそのことは分かっていると発言している。同大統領が仲裁判決をどのように見ているかがよくわかる。いざというときにだけ持ち出すのが最も効果的だという考えだ。
ドゥテルテ大統領は、中国も受け入れやすい構想として今回の禁漁区設置提案をした可能性がある。
(短評)ドゥテルテ大統領の真意
仲裁裁判の対象となった南シナ海のスカボロー礁を禁漁区とする構想が出ている。最初にこの構想を提案したのはフィリピンのドゥテルテ大統領で、11月19日APEC首脳会議が開かれたリマでの習近平中国主席との会談で提案した。禁漁となるのは環礁の内側だけで、その外側では漁業は行えるという構想だそうだ。この提案に対する習近平主席の反応について報道は一致していない。前向きの反応であったというものもあるが、どうも明確な意思表示はなかったらしい。今後中国がどのような態度を取るか注目されるが、当分の間はとくに反応しない可能性もある。フィリピン側が一方的に提案したに過ぎないとも言われている。
ドゥテルテ大統領の考えは興味深いが、まだこちらにははっきり伝わっていない部分があるためか、若干疑問がある。11月中旬の訪中でドゥテルテ大統領は習近平主席と南シナ海の問題を平和的な方法で解決することに合意した。この会談の結果としてフィリピンの漁船が同礁で中国側の妨害を受けることなく操業することが可能となったと伝えられていた。
ではなぜ、同礁を禁漁区とする提案をしたのか。もし環境保護が目的であれば、なぜ訪中の際の会談でなく、今回のリマ会談で提案したのか。
フィリピンの漁業者の立場からすれば、スカボロー礁での漁業を再開できるようにしておいて、その後でなぜ禁漁区を設ける提案をしたのか。いったん喜ばせておいて、あとで水をかけるようなことになったのではないか。事実、ドゥテルテ提案に対してはフィリピン内部で困惑、ないし批判の声が上がっている。
ドゥテルテ大統領は、フィリピン紙の報道では、仲裁判決はフィリピンにとって有利なものであり、また中国もそのことは分かっていると発言している。同大統領が仲裁判決をどのように見ているかがよくわかる。いざというときにだけ持ち出すのが最も効果的だという考えだ。
ドゥテルテ大統領は、中国も受け入れやすい構想として今回の禁漁区設置提案をした可能性がある。
2016.11.21
次期大統領のトランプ氏の安全保障担当の補佐人であるジェームズ・ウールゼイ氏が、米国がAIIBに参加しないのは戦略的な誤りだと発言したことに関してのコメントだった。
トランプ新政権がはたしてAIIBに参加するか、なお疑問が残る。AIIBにおいては中国の出資額・議決権がダントツに多く、出資比率は中国が約30%であり、2位のインド(8%台)、3位のロシア(6%台)を大きく引き離している。各国の議決権は出資比率に基づいて算出され、中国が約4分の1を確保している。同銀行において重要事項を決定するには75%の賛成が必要なので、中国がノーと言えば他の国がすべて賛成しても成立しない。つまり、中国だけが拒否権を持つということだ。米国が参加してもこれに比べマイナーな加盟国となるほかない。このことは、AIIBの準備過程で話題になり、仮定の問題として考えられたことがあり、それ以来AIIBは変わっていない。米国がそのような地位に甘んじるとは思えない。
米国は日本とともにアジア開発銀行の主要メンバーであり、さらにAIIBに加わる意義は何か、という点でも疑問だ。
さらに、AIIBは中国の「一帯一路」構想、すなわち陸上および海上の新シルクロード建設構想の実現を目的としている。この構想は国際的に決定されたものでなく、中国の国家構想だ。これに米国が参加するようでは、トランプ氏が力説した「偉大な米国」の復活など夢物語であろう。
(短評)トランプ新政権はアジアインフラ投資銀行に加盟する?
11月15日、新華社は中国外交部の耿爽(Geng Shuang)スポークスマンが同日、米国がアジアインフラ投資銀行(AIIB)に参加するのはよいことだと述べたと伝えた。次期大統領のトランプ氏の安全保障担当の補佐人であるジェームズ・ウールゼイ氏が、米国がAIIBに参加しないのは戦略的な誤りだと発言したことに関してのコメントだった。
トランプ新政権がはたしてAIIBに参加するか、なお疑問が残る。AIIBにおいては中国の出資額・議決権がダントツに多く、出資比率は中国が約30%であり、2位のインド(8%台)、3位のロシア(6%台)を大きく引き離している。各国の議決権は出資比率に基づいて算出され、中国が約4分の1を確保している。同銀行において重要事項を決定するには75%の賛成が必要なので、中国がノーと言えば他の国がすべて賛成しても成立しない。つまり、中国だけが拒否権を持つということだ。米国が参加してもこれに比べマイナーな加盟国となるほかない。このことは、AIIBの準備過程で話題になり、仮定の問題として考えられたことがあり、それ以来AIIBは変わっていない。米国がそのような地位に甘んじるとは思えない。
米国は日本とともにアジア開発銀行の主要メンバーであり、さらにAIIBに加わる意義は何か、という点でも疑問だ。
さらに、AIIBは中国の「一帯一路」構想、すなわち陸上および海上の新シルクロード建設構想の実現を目的としている。この構想は国際的に決定されたものでなく、中国の国家構想だ。これに米国が参加するようでは、トランプ氏が力説した「偉大な米国」の復活など夢物語であろう。
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