平和外交研究所

6月, 2019 - 平和外交研究所

2019.06.29

G20大阪サミット

 G20大阪サミットは、安倍議長と日本政府および大阪府・市の関係者の努力で、29日、無事終了した。大会議を開催・運営するのは日本が得意とすることである。それを期待にたがわず実行したのであるが、米国を含む各国からプロフェッショナルな、つまり立派な会議運営であったと称賛されたことは積極的に評価できる。

 首脳宣言が発出されたことは過大評価も過小評価もすべきでない。「自由で公正かつ無差別な貿易・投資環境の実現に努める」と明記されたことは積極的に評価できる。しかし、「保護主義と戦う」ことに言及できなかったのは評価できないが、そうなるだろうことは今次会議開催前から予想されていたことであり、何ら驚くべきことでない。
 
 宣言ではまた、海に流出するプラスチックごみを2050年までにゼロにする日本提案,「大阪ブルー・オーシャン・ビジョン」を共有したと明記された。また、技術の急激な進展にともないデータ通信の安全が脅かされている問題を取り上げ、「信頼性に基づく自由なデータ流通」の重要性が指摘されたことも積極的に評価できる。今後、データ流通の国際ルールを作成するため「大阪トラック」が始められることになった。
 
 米中首脳会談は各国から強い関心がもたれており、決裂すれば米国は残っている3500億ドル分の中国からの輸入について第4弾の関税引き上げに踏み切ると懸念されていたが、それは行われなかった。トランプ大統領と習近平主席が結論を出したのではない。関税引き上げは当面しないこととする一方、米中両国は交渉を続けることとなった。ようするに、大阪では休戦したのであった。

 米中両国はかねてからの主張を変えていない。習主席は、今後米中両国が「協調と協力」を重視すべきことを訴えたのに対し、トランプ大統領は貿易が公平に行われるべきことを強調した。「協調と協力」は誰も反論できないことであり、また、「公平」は大阪宣言にも明言されたことである。要するに、両首脳とも直接相手から反論されない言葉で自国の主張を繰り返したのであった。

 トランプ大統領は今次会議終了後、韓国を訪問し、板門店にも足を延ばすことになっている。トランプ氏は金正恩委員長と同地で「2分間でもよいので会おう」との意向を表明しており、果たして実現するか、トランプ氏の記者会見でも質問された。これに対しトランプ氏はまだ決定していないとしたが、会うことになる可能性が高いと思っている印象であった。

 トランプ氏は、女性のエンパワメントについても活発な議論があったことを紹介した。娘のイバンカを連れてきたのはそのためであろう。この問題は、G7としては昨年のカナダ首脳会合で取り上げられた経緯がある。その時トランプは興味を示さなかったといわれていた。

 日米安保条約は日米首脳会談では話題にならなかったが、トランプ大統領の記者会見では質問が出た。トランプ氏は、同条約を解消しようとは考えていないとしつつ、「ただ、同条約は不公平だ。米国は日本を守る義務があるのに日本は米国を守る義務がないというのは不公平だ、仮に米国が攻撃されたら日本にも助けてもらう必要があると思う」とだけ述べていた。この問題のセンシティビティはトランプ大統領も理解しているようだが、今後も貿易不均衡などの関連で口にすることはあり得る感じであった。

 
2019.06.26

G20大阪サミットのみどころ

ザページに「初めて議長国を務める日本 G20大阪サミットの注目点は?」を寄稿しました。
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2019.06.23

沖縄1945年6月23日

 1945年6月23日は沖縄で「組織的戦闘が終了」した日。当研究所では、戦って命を落とされた方々を悼んで、毎年以下の一文をHPに掲載している。1995年5月10日、読売新聞に寄稿したものである。

 「戦後五十年、戦争に関する議論が盛んであるが、戦死者に対する鎮魂の問題については、戦争と個人の関係をよく整理する必要がある。あくまでも個人的見解であるが、一考察してみたい。

 個人の行動を評価する場合には、「戦争の犠牲」とか[殉国]などのように、戦争や国家へ貢献したかどうか、あるいは戦争や国家が個人にどんな意義をもったか、などから評価されることが多い。しかし、そのような評価の仕方は、少々考えるべき点があるのではないだろうか。

 歴史的には、個人の行動に焦点を当てた評価もあった。例えば「敵ながらあっぱれ」という考えは、その戦争とは明確に区別して、個人の行動を評価している。
 では、太平洋戦争末期に十五万人の民間人死者が出た沖縄戦はどうか。中でも、悲運として広く知られるひめゆり学徒隊の行動は、自分たちを守るという強い精神力に支えられたもので、何らかの見返りを期待したのでもなく、条件つきでもなかった。従って「犠牲者」のイメージで連想される弱者には似つかわしくない。勇者と呼ぶにふさわしいと思う。また、[殉国]のイメージとも違う。[殉国]型の評価は、個人が国家のために一身を捧げたとみなされており、自らを守ることについて特に評価は与えられていないのだ。
 個人と国家は区別され、その個人の評価は国家に対する献身なり、貢献という角度から下されている。しかし、ひめゆり学徒隊の大部分は、自分自身も、家族も故郷も、祖国も、守るべき対象として一緒に観念していたのではないか。「犠牲者」とか[殉国者]と言うより、人間として極めて優れた行動をとったと評価されるべき場合だったと思う。

 これは軍人についても同じことで、「防御ならよいが攻撃は不可」とは考えない。軍人の、刻々の状況に応じた攻撃は、何ら恥ずべきことではない。もちろん罪でもなく、任務であり、当たり前のことである。

 他方、このことと戦争全体の性格、すなわち侵略的(攻撃的)か、防御的かは全く別問題である。戦争全体が侵略的であるかないかを問わず、個人の防御的な行動もあれば、攻撃的な行動もある。
 さらに、局部的な戦争と戦争全体との関係もやはり区別して評価すべきである。たとえば、沖縄戦はどの角度から見ても防御であった。まさか日本側が米軍に対して攻撃した戦争と思っている人はいないだろう。他方わが国は、太平洋戦争において、侵略を行なってしまったが、防御のために沖縄戦と、侵略を行なってしまったこととの間に何ら矛盾はない。

 したがって、軍人の行動を称賛すると、戦争を美化することになるといった考えは誤りであると言わざるを得ない。その行動が、敵に対する攻撃であっても同じことである。もちろん、攻撃すべてが積極的に評価できると言っているのではない。

 もう一つの問題は、軍人の行動を「祖国を守るために奮闘した」との趣旨で顕彰することである。この種の顕彰文には、自分自身を守るという自然な感情が、少なくとも隠れた形になっており、個人の行動を中心に評価が行われていない。
 顕彰文を例に出して、「軍人が祖国を防衛したことのみを強調するのは、あたかも戦争全体が防御的だったという印象を与え、戦争全体の侵略性を歪曲する」という趣旨の評論が一部にあるが、賛成できない。個人の行動の評価と戦争全体の評価を連動させているからである。

 戦争美化と逆であるが、わが国が行った戦争を侵略であったと言うと、戦死者は「犬死に」したことになるという考えがある。これも個人と戦争全体の評価を連動させている誤った考えである。個人の行動を中心に評価するとなれば、積極的に評価できない場合も当然出てくる。
一方、戦死者は平等に弔うべきだという考えがあるが、弔いだけならいい。当然死者は皆丁重に弔うべきだ。しかし、弔いの名分の下に、死者の生前の業績に対する顕彰の要素が混入してくれば問題である。

 もしそのように扱うことになれば、間違った個人の行動を客観的に評価することができなくなるのではないか。そうなれば、侵略という結果をもたらした戦争指導の誤りも、弔いとともに顕彰することになりはしないか。それでは、戦争への責任をウヤムヤにするという内外の批判に、到底耐え得ないだろう。

 個人の行動を中心に評価することは洋の東西を問わず認められている、と私は信じている。ある一つの戦争を戦う二つの国民が、ともに人間として立派に行動したということは十分ありうることである。片方が攻撃、他方が防御となることが多いだろうが、双方とも人間として高く評価しうる行動をとったということは何ら不思議でない。

 個人と戦争全体、国家との関係をこのように整理した上で、戦争という極限状況の中で、あくまで人間として、力の限り、立派に生きた人たちに、日本人、外国人の区別なく、崇高なる敬意を捧げたい。」

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