平和外交研究所

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2022.10.17

核の呪縛から抜け出せるか

 ウクライナへ侵攻しているロシア軍はますます劣勢になっている。プーチン大統領は困難な状況に陥り、欧米の報道には八方ふさがりになっているとするものもある。クリミア半島とロシア領を結ぶクリミア大橋での爆破事件と、それに報復してロシアが行ったウクライナ全土へのミサイル攻撃は、その中には首都キーウも含まれるが、素人が考えてもロシアの劣勢を挽回するとは見えず、ロシアの非人道性のみを目立たせる結果になっている。だが、このままロシアが負け続ければプーチン氏は窮余の一策として核兵器使用に踏み切るのではないかという懸念が高まっている。

 そんな中、NATOのある高官は10月12日、ロシアによる核兵器の使用は「前例のない結果をもたらす。ほぼ確実に、多くの同盟国から、そして潜在的にはNATO自体から物理的な対応を引き出すだろう」と語ったと報道された。この高官は明言していないが、「もしロシアが核を使用すれば、NATOは一丸となって通常兵力でロシアに反撃し、せん滅する」という意味だと解されている。

 核の抑止力の根本は「相互確証破壊」、つまり、一方が核を使えば他方も核を使うのでお互いに確実に破壊しあうという考えであり、実際にそうなれば世界は破滅するので核は使えない。だから核には相手の攻撃を抑止する力があると思われてきた。

 しかしプーチンは、ロシアは必要であれば核の使用をいとわないと言い出した。ロシアの安全保障戦略にも盛り込んだ。ロシアにとっても世界の破滅は怖いはずだが、そんなことを言い出したのは、ロシアの軍事力は西側に対抗できないが、核だけは別で、核の使用につながることはさせないという考えからであったと推測される。

 プーチンは、西側は核の使用が世界の破滅に発展することが怖いので、ロシアが核を使っても、とくに小型の核、いわゆる戦術核ならば、西側は核を使えないと見たのである。

 たしかに西側は世界の破滅が怖いのでやはり核は使えない。核でなければロシアの核攻撃を防げないが、それでも核は使えないという考えが強かった。プーチンの見立て通りだったのである。

 ウクライナでロシアが劣勢になるにともない、プーチンは核の使用をほのめかすどころかほぼ公言するようになり、西側は頭を痛めた。プーチンが発言するのは止められないが、NATOとしては口が裂けても言えないことだからである。

 しかし、NATOの高官は、ロシアの核使用があっても、西側は核で対抗することしかできないのでなく、通常兵器で反撃し、ロシアをせん滅できるといいだしたのであり、これは画期的な考えである。アルマゲドン(世界を破滅させる戦争)は回避できる。ロシアは戦術核を、NATOは通常兵器を使うだけでも甚大な被害が生じるが、アルマゲドンにはならず、人類は生き残れる。

 今回のNATO高官の発言の背景には、「NATOと同盟国が力を合わせれば、ロシアをせん滅できる」という自信ができているようだ。もちろんこの新戦略は簡単でなく、まだ正式にNATOの戦略になっているわけではない。だが、ロシアが核を使えばそれに対抗する手段は世界の破滅を賭するしかないという思考の行き詰まりから抜け出す道筋を示している。

 また、NATO内では、核戦争であればどうしても反対する国が出てくるだろう。通常兵力でも困難だが、核戦争とは大違いで、合意ははるかに得られやすい、という事情もありそうだ。

 NATOがアルマゲドンの呪縛から解放されれば核の脅しはきかなくなる。ロシアにとっても核を使いやすくなるという面もあろうが、NATOから壊滅的な反撃を受けるのであれば、核はやはり使えない。核は(半分)なくても相互確証破壊になるわけである。

 このようなシナリオ通りに事が運ぶか楽観的になるのは禁物だが、ウクライナ戦争の中で新しい可能性が生まれ、NATOは「核には核で対抗するしかない」という究極の制約から抜け出しつつあるように見える。
2022.08.22

日中国交正常化を振り返る

 今から50年前に日本と中国は国交を正常化した。両国それぞれにとって戦後最大の外交成果となったこの出来事を台湾との関係を中心に振り返ってみたい。

 第二次大戦が終結する1945年まで日本は中国を含む連合国と戦争状態にあり、国交は断絶していた。戦争が終われば国交を正常な状態に戻すのが普通の習わしであるが、中国は「中国国民党(以下「国民党」)と「中国共産党」が対立する内戦状態にあり、そのため1951年になって日本はようやく連合国と平和条約を結び、戦争状態を終結させることが可能になった。だが中国は二つに分かれたままの状態だったのでそれに参加できず、日本は翌52年、あらためて台湾の「中華民国(以下「台湾」)」と平和条約を結び戦争状態を終結した。

 米国は中国との関係で日本と同様の法的処理をする必要はなかった。大戦中から米国が「中華民国」と結んでいた外交関係は大戦終結後も変わらなかったからである。

その他の国も台湾との外交関係を維持した。ソ連など共産圏の国々だけが中国大陸を支配する共産党の「中華人民共和国(以下「中国」)」と外交関係を結んだ。この対立状況は東西冷戦の一部であった。

 しかし、時間が経つとともに台湾と外交関係を持つ諸国においても、台湾の50倍以上もの人口を持つ中国と国交がないのは不都合であるという考えが強くなり、1971年10月、国連において、中国を代表するのは台湾の「中華民国」でなく「中華人民共和国」であるとする決議が成立した。

 国際情勢が大きく変化する中で、米国は中国との関係改善に動き出し、国連で歴史的決議が成立する直前の1971年7月、キッシンジャー米大統領補佐官が極秘裏に北京に赴き周恩来首相と会談を行った。そして翌年2月、ニクソン大統領が中国を訪問した。国交を樹立したのは少し遅れて1979年1月であった。

 日本は、やはり国連などでの情勢変化を背景に1972年9月25日、田中首相一行が訪中し、29日に「日中共同声明」に合意・署名した。「日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出された日に終了」した。この時まで日本と「中華人民共和国」の間に正式の関係がなかったのは「不正常な状態」と認識されたのであった。

 台湾との関係を断ち、中国と国交を樹立することについては日本でも激しい反対論があった。中国課長として先頭に立って日中国交正常化交渉を指揮していた橋本恕は後に、自民党内の反対が激しく「乱闘寸前にまで行った」と回顧したという。今の政治の世界ではちょっと考えられないことである。

 日本や米国と台湾の関係はすべてなくなったのではない。経済、貿易、文化などの面では密接な関係があり、また、台湾の発展は目覚ましく、一定分野で台湾の企業は世界の一流に成長しており、日台間、米台間の実務関係は発展している。

 しかし、日本や米国と中国との外交関係が出来上がった後、中国と台湾の関係はどのようになるか大問題となった。

 まず日本の場合、中国は「台湾が中国の領土の不可分の一部である」と表明し、そのことを日本が認めるよう求めた。これに対して日本が述べたことは、「中国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」であり、それ以上は言えなかった。

 終戦直前に米国、英国および中国の3か国が行った同宣言では、「日本の領土は本州、北海道、九州、四国とこの3か国が決定する島嶼に限られる」とされ、日本はこの宣言を受け入れていた。平たく言えば、戦争に敗れた日本は領土を決定する権限を取り上げられたので、日本領であった台湾についても「中国の領土の一部」であると認めることはできなかったのである。俗語でいえば「どうぞご随に」という立場しか取れなかったのだ。しかし、ポツダム宣言に言及して法的な立場を示すだけでは、多大の損害を与えた中国に申し訳ないので、「日本は中国の立場を十分理解し、尊重する」という気持ちも表明したのであった。

 米国は日本と立場が異なった。台湾の領有権について日本のような制約(「何も言えない」という制約)はなかった。1979年に中国と国交を結んだ際、「台湾は中国とは異なる領域であり、米国は今後も中華民国との外交関係を維持する」と主張することもできたはずだが、それでは中国は承服しなかったのだろう。米国としても外交関係を中国と結ぶなら、台湾との外交関係は犠牲にせざるを得なかったのだ。

 ニクソン米大統領の訪中の結果、1972年2月28日に発表された米中共同声明(上海コミュニケ)では、米中間にあったほとんどすべての問題について合意が成立したが、台湾の地位だけは完全な合意が出来上がったか疑問であった。
中国は、「台湾問題は中国と米国との間の関係正常化を阻害しているかなめの問題であり、中華人民共和国政府は中国の唯一の合法政府であり、台湾は中国の一省であり、つとに祖国に返還されており、台湾解放は、他のいかなる国も干渉の権利を有しない中国の国内問題であり、米国の全ての軍隊及び軍事施設は台湾から撤退ないし撤去されなければならない」という立場であり、「一つの中国、一つの台湾」、「一つの中国、二つの政府」、「二つの中国」及び「台湾独立」を作り上げることを目的とし、あるいは「台湾の地位は未確定である」と唱えるいかなる活動にも断固として反対する」と表明した。

 これに対し米国は次のように表明した。「米国は、台湾海峡の両側のすべての中国人が、中国はただ一つであり、台湾は中国の一部分であると主張していることを認識している。米国政府は、この立場に異論をとなえない。米国政府は、中国人自らによる台湾問題の平和的解決についての米国政府の関心を再確認する」と表明した。

 さらに米中外交関係樹立に関する1979年1月1日共同声明では、「米国政府は,中国はただ一つであり,台湾は中国の一部であるとの中国の立場を認める」とした。「米国は一つの中国を認めた」と今でもよく言われるが、厳密には正しくないかもしれない。米中共同声明原文の英語版では「The Government of the United States of America acknowledges the Chinese position that there is but one China and Taiwan is part of China.」であった。
 中国語版では、「美利坚合众国政府承认中国的立场,即只有一个中国,台湾是中国的一部分。」であった。

 英語版と中国語版の意味は完全に一致しているか、議論となった。二つの疑問点があり、一つは英語の「acknowledge」と中国語の「承认(繁体字では「承認」)が完全に同じ意味かである。

 もう一つは英語版でも中国語版でも米国はその立場を直接表明しておらず、「acknowledge」あるいは「承认」したのは台湾の地位についての中国の主張についてであった。

 この言葉の意味及び関連の文章をどう解するか、本稿で論じる余裕はないが、米国がもしみずから「台湾は中国の一部」だという立場であれば、直接そう表明すればよかったはずである。

 これは用語の問題に見えるかもしれないが、米中国交樹立の成否を左右する大問題であり、しかも、現在でも問い続けられている。かりに「中国は一つであり、台湾は中国の一部」の原則が国際的にも確立すれば、中国の立場は現在より強くなり、台湾の立場は逆に弱くなる。これでは台湾の23百万人の台湾人の権利と利益は十分に守られなくなると懸念されている。

 米国は中国と国交を樹立する際、台湾との関係を犠牲にしたと前述したが、単純に無効化したのではなかった。中国と台湾が統一するか、それは中国人と台湾人が決めればよいが、台湾に対して中国が武力を使うことには反対し、中国もそのような米国の立場を認めた。上海コミュニケでは「米国政府は、中国人自らによる台湾問題の平和的解決についての米国政府の関心を再確認する」と表明した。これに対し、中国政府も米側の表明に異議を唱えなかった。積極的に賛成したのと異議を唱えなかったのは同じでないが、米国のこの立場を中国が認めなければ国交を樹立できなかっただろう。

 日本と中国も「すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認」しあった(日中共同声明第6項)。台湾だけを取り出した声明ではなく、「すべての紛争」であったが、日中両国が国交を正常化する際に確認しあったことの意義は大きい。

 台湾の地位は日中間でも米中間でも困難な問題であったが、なんとか合意が成立し、日中共同声明は9月29日に署名された。

 後でわかったことであるが、当時中国内では危険な状況があり、中国を未曽有の混乱に陥れた「文化大革命(文革)」は終わっていなかった。文革はもともと毛沢東による権力奪還の闘争であったが、労働者、学生(若い学生は「紅衛兵」と呼ばれた)が参加し、既存秩序を破壊する一大革命となっていた。中国共産党も破壊の対象になっていた。死者は数百万とも2千万以上とも、被害者は1億人程度ともいわれた。日中国交正常化の際、武装闘争はほぼ終息していたが、文革の中心であったいわゆる四人組はなお健在であり、革命運動を継続していた。

 しかし、中国政府はそんなことを日本側に全く感じさせず、日中国交正常化交渉は平穏無事に行われた。

 田中首相一行は共同声明を発表した後、同日中に周恩来首相とともに上海へ向かった。田中首相は疲労困憊気味で上海へは寄りたくなかったと言われていたが、説得を受け入れ上海に降り立った。同市のナンバーワンは張春橋上海市革命委員会主任であり、四人組の一人であったが、田中首相一行を盛大に出迎えた。上海市南京西路1333号の宴会場で行われた歓迎宴では、田中首相を始め全員が酔っ払い気味になったが、大事業を成功させた喜びがあふれていた。
2022.08.04

岸田首相の核廃絶政策

 岸田文雄首相は、8月1日に米ニューヨークの国連本部で開かれた核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議に、日本の首相として初めて出席し、演説を行った。この会議の結論は約4週間後に出ることになっているが、意見の対立が激しくて結論が出ないこともあり得る。審議は始まったばかりであるが、岸田首相の演説についての印象を記しておきたい。

 岸田氏は去る6月に開催された核兵器禁止条約には参加せず、NPTの再検討会議には出席するという形になった。この会議は5年に1回の大会議であるが、閣僚級の会議と一般にはみなされており、首相の出席には反対もあったが、首相は昨年10月の就任以来、出席の意向が強かったという。

 岸田氏が核兵器禁止条約には出席せず、NPTに出席することとしたのは「核保有国と非保有国の両方が同じテーブルにつくのはNPTしかない。核保有国をいかにこっちに引っ張ってくるかだ」との考えだったからである。

 岸田氏は広島選出でNPTに強い思い入れがあるのは周知であるが、核軍縮がいかに困難な問題であるか、幻想があるわけではない。外相を長年務めてきたこともあり、「核軍縮・不拡散の機運は冷え込んでいる」との認識もしっかりある。

 岸田氏は、「やはり核保有国が動かないと何も変わらないと痛感しており、日本がやらないと他に誰もやらない」との考えであり、NPT再検討会議への出席により核保有国に直接核軍縮を説得するという目的はほぼ達成したのであろう。

 しかし、岸田氏が演説で打ち出した「ヒロシマ・アクション・プラン」、11月23日に広島で開催する「国際賢人会議」および23年に広島で開催する主要7カ国首脳会議(G7サミット)で核軍縮を進められるか。

 同プランには5つの項目が盛り込まれている。その中で「各国のリーダーたちに被爆地訪問の機会を与えるため日本が国連に1千万ドルを拠出して『ユース非核リーダー基金』を設置する」ことがおそらく唯一効果的な方策である。その他の項目が重要でないというのではないが、これまで何回も試みられてきたことの焼き直しに過ぎないのではないか。

 原子力の平和的利用(原発)の促進と北朝鮮の核・ミサイル問題とイラン核合意など性質の異なる問題を同じ項目の中で論じているのは率直に言って不可解である。

 最後になったが、日本としては核兵器禁止条約を改正し、核兵器国が条件付きであれば同条約を排除しない(そっぽを向かない)方策を提案してはいかがかと考える。岸田首相はそれが可能な日本の指導者である。

 NPTは核の存族を容認し、核兵器禁止条約は禁止すると対立的に見られているが、NPTも条件付きで核の廃絶を目指すこととしている。この両条約の矛盾点をなくし(少なくし)、共通点を増やす努力こそが日本に求められる役割ではないか。

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