平和外交研究所

ブログ

ブログ記事一覧

2014.03.24

核セキュリティ・サミット

本日(24日)から2日間、ハーグで核セキュリティ・サミットが開催される。日米韓首脳会合、ロシアによるクリミア併合の関係を協議するG7と政治問題の影響を受けることとなったが、それはさておき、今回の核セキュリティ・サミットの特徴は何か。

核セキュリティ・サミットは初回が2010年にワシントンで、第2回がソウルで開かれた。その主要テーマはテロ攻撃から核物質をいかに防御するかであり、それは最初から変わっていない。テロ攻撃については2001年に米国で起こった同時多発事件がきっかけとなったが、米国はその後もテロ攻撃の標的となり、テロの危険性にいかに対処するが大きな問題になった。オバマ大統領は、核問題に強い関心を持ち、2009年4月、ブラハでの演説で核兵器のない世界を実現しようと呼びかけるとともに、核テロは地球規模の安全保障に対する最も緊急かつ最大の脅威であると指摘し、核セキュリティ・サミットを提唱した。

核のセキュリティはテロ攻撃が主な問題であるが、それだけでなく、核に関しては幅広い問題があり危険性もさまざまである。ソ連邦が解体するに伴い、使用されなくなった兵器から外された核物質が流出し、国際的な闇市場に出回った。これ以外にも、医療用の核物質などが盗難に遭うケースなどがおこっており、1993年から2011年末までにIAEA(国際原子力機関)の不正取引データベースに報告された事案は合計2164件にのぼり、そのうち399件は放射性物質の不法所持関連の犯罪行為であり、588件は放射性物質の窃取または紛失などである。要するに1年に百件くらいの事故が起こっているのである。これは国際機関が把握している事例だけのデータであり、報告されていないことはこれ以外にかなりあると見ているNGOもある。

第2回目の核セキュリティ・サミットは2012年、ソウルで開かれた。福島原発事故のちょうど1年後であり、このサミットでは、テロ攻撃への対処が主たるテーマであったのは第1回と変わらなかったが、核の安全、つまり、放射能の危険から人間を守ることが大きなテーマとなった。これは核セキュリティの観点からは頭の痛い問題で、セキュリティを高めるためには秘密保護が重要な課題となる。しかし、安全性を高めるためには情報の開示が絶対に必要である。これは福島事故の後、我々全国民が悩みぬいたことである。
ソウル・サミットでは「原子力安全と核セキュリティの複雑な関係にかんがみ、この問題については安全で平和な核の利用を確保するのに資するように統一的で矛盾のない方法で安全性とセキュリティを検討していかなければならない」と指摘され、「そのために安全性とセキュリティのインターフェイスについて勧告を行なうことを目的にIAEAが会合を開催するのを歓迎する」という結論になった。安全とセキュリティの両方を満たすよう、一貫した、かつ、両方を考慮することで全体としての機能が向上するよう(synergy)原子力施設を設計、実行、管理することが求められている。

ハーグ・サミットでは、これまでの2回のサミットと同様核物質の防護と国際協力が主たる議題となっているが、これに加え、世界中の危険な核物質を減らすことも3大目的の1つとして掲げている。
「危険な核物質を減らす」ことが危険を少なくするもっとも効果的な手段であるのは当然であるが、ハーグ・サミットがこれを大きく掲げたことにはホスト国であるオランダ政府の特別の意気込みが感じられる。オランダは国際司法裁判所(ICJ)を始め国際の平和のために国連やその他の活動に非常に積極的であり、ICJは、1996年に、勧告という性格の判断であったが、核兵器は原則違法であるという判断を下したことがある。核セキュリティ・サミットは核兵器の廃絶を議論する場でないといのは国際的な常識であろうが、ひょっとしたらオランダ政府はそこにチャレンジしようとしているかもしれない。

日本のセキュリティ・サミットにおける役割としては、第1回目のサミットに先立って、「アジア諸国における核セキュリティ強化に関する国際会議」をIAEAと共催し、ワシントン・サミットでは核セキュリティ強化のためのアジア総合支援センターを設立する考えを発表した。これはすでに日本原子力研究開発機構(JAEA)内に設置され、保障措置や計量管理についての研修、事故の教訓に関する国際セミナー IAEAの核セキュリティ勧告を実施するための訓練、国境警備における核セキュリティ対策などを行なっている。また、IAEAの核セキュリティ事業に対して財政的・人的貢献を増やそうとしている。また、核セキュリティに関するベスト・プラクティスなどを用いて教育、研修を行なう世界核セキュリティ協会(WINS)会合を本邦で開催している。また、G8北海道洞爺湖サミットでは、原子力の平和的利用の根本原則である3S(Safeguards, Safety, Security)を提唱した。Safeguards とは核物質が兵器用に利用されないよう保障する措置のことである。

一方、日本としてハーグ・サミットにおいて危険な放射性物資の減少というオランダ政府が力を入れている課題にどのように取り組むか、大きな視野からの検討も必要である。日本では、原子力発電を脅かす危険は地震や津波によって引き起こされるという観念が強いが、テロによる核施設の攻撃は米国だけの問題でなく、ほんとうは日本においても恐ろしいことである。核の安全性やセキュリティについては決まり切ったことだけを考えるのでは許されない。

ハーグ・サミットでは、日米両国は核兵器の製造につながる高濃縮ウランやプルトニウムの保有量の最小化を図る、世界規模の取り組みの一環として、茨城県東海村にある日本原子力研究開発機構の高速炉臨界実験装置から、高濃縮ウランとプルトニウムを全量撤去し、アメリカで処分することを発表する予定であると報道されている。これは、前述した今回のサミットの目玉とも平仄が合う積極的な姿勢を示すものと考えられる。

(さらに…)
2014.03.23

習近平の権力集中

3月19日の多維新聞(海外に本部がある中立系中国語新聞)は習近平の権力集中についてつぎのように報道している。直訳調であるが。

習近平はある未公開の会議で次のように発言した。
「共産党の指導は失うわけにいかない。ひとたび失えば、動乱、あるいは状況が不安定になる。」「党の指導を旗幟鮮明にしなければならない。自覚を以て思想上、政治上、行動上において党中央と高度の一致を保たなければならない。」
「中央全面深化改革指導小組」、「国家安全委員会」および「中央インターネットの安全情報化指導小組」の3大「超級」機構が成立したことに伴い、大権を掌握する各大機構は水平的に統合された。中国の特色ある集団指導制は次第に重要でなくなっていく。これに加えて、政治局常務委員は9名から7名に削減された。中央政法委員会は調整を行なわないことになった。外部では中国共産党が再び中央集権を進めているなどと言っている。
また、2014年初頭に開かれた別の未公開中央政法工作会議の記録によると、習近平は党委員会の重要な機能を数十回強調し、「党の政法に対する指導を堅持することに関し中国共産党は現在厳しい政治闘争に直面している」と指摘した。習近平は、敵対勢力が「顔色革命(文字の意味は「色の革命」である。何を指すかはっきりしないが、政権を変えるのでなく様相を変えることか)を起こすことを警戒し、「政法機関」という「刀」をしっかりと握っていなければならないと言うのである。習近平は「党の指導を強化すること」を異常に高いところにまで押し上げた。
習近平が党委員会の重要性を強調する頻度と強度は、政権を握っている共産党内部を重視することであってもきわめて珍しいことである。習近平は「集団指導制」の弊害を取り除こうとしている意図は明らかである。「集団指導制」は毛沢東時代を終わらせる意義があったが、胡錦涛時代にまで続くに及んで「九匹の龍が治める」ように政治局の各常務委員がそれぞれ政治を行なうようになってしまい、弊害が各所に現れた。たとえば、中共の政法系統は周永康政治局常務委員のほしいままになってしまい、他の委員は口をさしはさむことができなかった。

(さらに…)
2014.03.22

醍醐寺と秀吉

今日は、ちょっと変わって醍醐寺について。

醍醐寺は桜の名所であり、秀吉が北の政所、淀殿はじめ女房衆および直参の武将など1300人余を引き連れて花見をしたことは歴史上あまりにも有名である。現在でも、4月の第2日曜日には往時をしのんで花見行列が行われる。秀吉が花見をした場所は「やり山」の中腹で「上醍醐」と呼ばれる地域にあり、記念碑がたっている。当時そこからの見晴らしは絶景であったが、今は樹木が大きくなりすぎて肝心の桜はよく見えなくなっている。秀吉はその花見から数か月後に他界したので、醍醐の花見は秀吉最後の一大イベントであった。

醍醐寺と秀吉の関係は非常に深い。一言でいえば、醍醐寺は秀吉の博物館の役割を果たしている。徳川家康については徳川記念館がある。信長については遺品やゆかりのものは後世にほとんど伝えられない(?)。秀吉については江戸時代にゆかりの建物などが破壊されたので、正規の記念館的なところはないと思っていたが、実は醍醐寺がその役割を果たしている。
秀吉は醍醐寺を大のひいきにし、紀州の湯浅のお寺の本堂を移築して金堂(醍醐寺の本堂 国宝)を建てた。醍醐寺の一角をなす三宝院の庭を自ら設計し、その庭を臨む表書院も秀吉の趣向で作らせた。いかに時の権力者とは言え、立場上そんな資格はなかったはずであるが、秀吉は醍醐寺を別邸か迎賓館のように思っていたようである。花見の後には紅葉狩り、また翌春には後陽成天皇の行幸を予定しいた。
また、醍醐寺の別の一角である「霊宝館」には秀吉が安置した仏像、直筆の書簡、使用した茶器、腰掛、野外火鉢などが展覧されている。秀吉から始まり、前田利家、秀頼、北の政所、淀殿などが花見の時に詠んだ歌を順番に収めている記録は、記録と言うよりは芸術品である。また、これは招待客の序列を示している。秀頼は当時まだ幼く歌など詠めなかったはずであるが、記録に残すためか第3位に記されている。
醍醐寺の座主義演が花見の行事や秀吉からの贈り物を細かく記した日記も興味深い。
秀吉の息遣いまで聞こえてくるようである。他のところでは、たとえば、大阪城には秀吉が作った金の茶室があるが、飾ってあるだけであり、秀吉の面影は浮かび上がってこない。
秀吉は義演座主と懇意であったのは明らかであるが、それも半端でなかったようだ。

醍醐寺は秀吉の死後も豊臣家と緊密であり、秀頼は西大門(仁王門)、上醍醐如意輪堂、五大堂開山堂などを再建、あるいは改築した。北の政所が寄贈した院もある。
醍醐寺のいたるところに豊臣家の家紋である桐が描かれているのも当然である。
醍醐寺は秀吉の病が重くなると総力を挙げて快癒の祈祷をし、死後には盛大な法要を営んだ。このことに対して豊臣家は惜しみなく礼をしたのであろう。

醍醐寺と秀吉の関係を想像するだけでやめておくべきかもしれないが、権力者と結びつく寺院という構図がある。否定しようがないくらい明らかである。
醍醐寺は秀吉以前も権力者と密接な関係にあった。そもそも醍醐、朱雀、村上天皇が薬師堂、伽藍、釈迦堂、五重塔などを建立し、また仏像を安置した。白河天皇も多くの堂宇を建てた。
南北朝時代、賢俊座主は足利尊氏の帰依を一身に集めた。満済准后は足利幕府時代黒衣の宰相と言われた。准后は皇后に準ずる皇族、貴族である。
そして義演准后は秀吉と懇意にした。父は二条晴良(藤原氏の長者)、母は伏見宮貞敦親王王女の位子であり、足利幕府15代将軍足利義昭の猶子であった。そのあたりにもいろいろは事情があったようである。

醍醐寺唐門

(さらに…)

アーカイブ

検索

このページのトップへ

Copyright©平和外交研究所 All Rights Reserved.