オピニオン
2015.03.27
韓国や台湾が参加に踏み切るのは、経済的なメリットがあるからだといわれているが、どうしてメリットがあるのかよく分からない。融資を受けたいのであれば、アジア開発銀行あるいは世界銀行から融資を受けることはできないのか。もしこれら既存の開発銀行からの融資が得にくいのであれば、新しいアジアインフラ投資銀行からならば融資を得られるのか。
メリットはそういうことでなく、インフラ建設の工事契約を獲得しやすくなるということにあるのかもしれない。韓国、台湾さらに欧州各国にとってプロジェクトを獲得することが重要であるのはよく分かる。しかし、結局多数の国が競争するのであれば、新しい銀行の参加国が期待できるメリットはなにか。そう簡単にプロジェクトを獲得するチャンスが大きくなるとも思えない。
日本には、日本や米国だけが不利になるのは困るという考えがあるようだ。そうなると問題だが、どういう不利がありそうなのか少し検討してみる必要があるのではないか。
(短文)アジアインフラ投資銀行・韓国・台湾
中国が主導して進めているアジアインフラ投資銀行設立に韓国も参加することとしたらしい。米国がそうしないよう働きかけていたが、乗り遅れると不利があると考え、参加に踏み切ったものと思われる。台湾も参加する方向であると報道されている。台湾の場合は米国の反対は韓国の場合より強かったであろう。韓国や台湾が参加に踏み切るのは、経済的なメリットがあるからだといわれているが、どうしてメリットがあるのかよく分からない。融資を受けたいのであれば、アジア開発銀行あるいは世界銀行から融資を受けることはできないのか。もしこれら既存の開発銀行からの融資が得にくいのであれば、新しいアジアインフラ投資銀行からならば融資を得られるのか。
メリットはそういうことでなく、インフラ建設の工事契約を獲得しやすくなるということにあるのかもしれない。韓国、台湾さらに欧州各国にとってプロジェクトを獲得することが重要であるのはよく分かる。しかし、結局多数の国が競争するのであれば、新しい銀行の参加国が期待できるメリットはなにか。そう簡単にプロジェクトを獲得するチャンスが大きくなるとも思えない。
日本には、日本や米国だけが不利になるのは困るという考えがあるようだ。そうなると問題だが、どういう不利がありそうなのか少し検討してみる必要があるのではないか。
2015.03.26
7年ぶりに来日したドイツのメルケル首相の発言が波紋を広げています。安倍首相との首脳会談でこそ深入りはしませんでしたが、来日中の会見や講演では、歴史認識問題や原発問題について踏み込んだ発言をしました。今回の来日をめぐっては、メディアの総括も「実利的な接近」(産経新聞)、「違い浮き彫り」(朝日新聞)などとまちまちです。どう評価すればいいのか。元外交官の美根慶樹氏が解説します。
——————————————————————-
■歴史と原発で異なる両国の状況
ドイツのメルケル首相が7年ぶりに訪日しました。ともにG8(主要国首脳会議)の一員として世界の政治・経済に大きな役割と責任を有する両国の首脳は、東アジア情勢、独仏両国の和解、ウクライナ情勢、過激派組織「イスラム国」、G8の議長、国連安保理の改革、日・EUの経済連携協定などについて話し合いました。
この中に日独両国の立場が異なる問題が含まれていました。一つは、かつて敵対していた国との和解であり、ドイツはフランスとの和解を実現し、またそのことについて強い自負と思い入れがあります。しかし、日本と中国および韓国との関係は独仏のようには進展していません。東アジアと欧州が歩んできた道は異なっています。
もう一つの原発については、ドイツはすでに脱原発を決定しているのに対して、日本は安全性を確認できた原発は再稼働する方針であり、両国の姿勢は非常に違っています。
メルケル首相はこれらの問題についてかなり踏み込んだ発言をしましたが、「東アジア情勢についてアドバイスする立場にない」と断るなど、日本に対して批判的になるのは極力避けていました。相手国の置かれた状況を理解し、それなりに認めつつ話し合いを行なうことが国家間の関係では非常に重要です。メルケル首相はそのような配慮をしっかりとしながら和解と原発について明確にドイツの考えを述べていました。立派な外交姿勢であったと思います。
しかし、多くの日本国民は、また、メディアも、メルケル首相の訪日になにかはっきりしないところがあると感じているように思われます。報道の力点もまちまちです。日独間の距離を感じたとするものもあります。そのような印象になるのは日独双方に原因があるようです。
■独にとっても対中国関係が重要に
ドイツにとっての外交課題を考えてみると、対応を誤ると直ちにドイツに影響が及んでくる国として米国、次いでロシアがあります。順序は逆かもしれません。米国とは同じNATO加盟国ですが、水面下には盗聴問題が象徴するような緊張関係もあります。米国との関係をうまく処理できないドイツの指導者は失格でしょう。ロシアはエネルギーの供給国ですが、欧州の安全保障にとって脅威となりうる国であり、冷戦時代からあまり変化していない面があります。
この両国に次いでEUとの関係が重要であり、各国と協力しながらギリシャなどの財政困難を処理することが求められています。
また、新しいパワーである中国は、ドイツにとっても重要になっています。ドイツは米国に次ぐ、またEU内では抜群の輸出大国であり、中国のような巨大な市場、しかも急速に拡大する市場はドイツにとって極めて重要です。しかも、中国は国際政治面でも独特の考えと主張があり、ドイツとしては慎重に友好関係を築き上げ、維持していかなければなりません。
日本とは、歴史的、伝統的に親しい関係にあり、同じG8のメンバーとして安心して付き合える国であり、ドイツに危険を及ぼす可能性は世界で最も小さいでしょう。メルケル首相は訪日の前に、日本は「価値を共有する国だ」と言ったそうですが、この言葉は日本のイメージを端的に表明しているように思われます。このように考えれば、メルケル首相が過去7年間日本を訪問していなかったことはうなずける面もありました。要するに、日本とドイツは分かりあえているから、あえて訪問する必要はなかったということなのでしょう。
しかし、このような日本の状況に最近変化が生じ、国内政治においても対外的においても新しい主張が強くなりました。また、尖閣諸島や歴史問題をめぐって中国との矛盾が激化し、ドイツにとって理想的な、日本との友好関係を維持しつつ中国との経済関係を増進させていくのに支障が生じるかもしれない状況になってきました。
■日本にとって独は「遠い国」
一方、日本は、ドイツを明治維新後に学んだ国、第二次大戦で共に戦って敗れた国、どちらの国民も優秀かつ勤勉である、というイメージで見る傾向が強いですが、メルケル首相が率いる現在のドイツを見るのに、このようなイメージは時代遅れか、あるいは当たり前すぎるでしょう。
もし日本が現在のドイツを、西側の重要な一員でありながらイラク戦争のような場合には米国に同調しないという選択をできる国、脱原発という、経済的には負担が大きくなるが一大決断をできる国、という目で見るならば、メルケル首相の訪日もかなり異なるものとなり、緊迫感を伴ってきたかもしれません。しかし現実には、知識としてはドイツのこのような面を知っていても、日本の現状からは遠く離れた国のこととみなしています。要するに、現在のドイツは日本にとって直接影響のある国ではなく、また、日本とは環境があまりにも異なっているという印象が強いのです。
両国とも以上のような立場の違いは十分理解しているので、メルケル首相の訪日に際し、立場の違いを目立たせないよう気を付けながら無難に首脳会談を行いました。メルケル首相はかなり踏み込んだ発言もしましたが、原発については、「日本はあれ程ひどい被害をこうむっておきながらなぜ続けるのか」と言いたかったのではないかと思われます。しかし、外交的配慮からそこまで言いませんでした。だからメルケル首相の訪日のポイントは何か分かりにくくなったのです。
■福島第一原発の視察を希望した?
最後に、メルケル首相は人道上の理由と福島原発の崩壊の2点から東日本大震災について強い関心を持っているはずです。今回の訪日に際して、日本政府に被災地や福島原発の視察を希望したのではないかと、個人的には想像しています。メルケル首相が福島原発の視察に行けばあまりにもドイツと日本の違いが強調されすぎてしまうので、日本政府としては応じることはできなかったでしょうが、この点について少しでも情報が公開されておれば、メルケル首相の姿勢が明確になったのではないでしょうか。
実際には何も発表されていないので、想像を重ねることになってしまいますが、日本政府には情報提供のあり方について考慮してもらいたく、またメディアにはこのような問題意識をもって追究してもらいたかったと思います。
歴史認識・原発問題で発言 独メルケル首相の来日をどう総括するか
THEPAGEに3月15日掲載された文章です。7年ぶりに来日したドイツのメルケル首相の発言が波紋を広げています。安倍首相との首脳会談でこそ深入りはしませんでしたが、来日中の会見や講演では、歴史認識問題や原発問題について踏み込んだ発言をしました。今回の来日をめぐっては、メディアの総括も「実利的な接近」(産経新聞)、「違い浮き彫り」(朝日新聞)などとまちまちです。どう評価すればいいのか。元外交官の美根慶樹氏が解説します。
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■歴史と原発で異なる両国の状況
ドイツのメルケル首相が7年ぶりに訪日しました。ともにG8(主要国首脳会議)の一員として世界の政治・経済に大きな役割と責任を有する両国の首脳は、東アジア情勢、独仏両国の和解、ウクライナ情勢、過激派組織「イスラム国」、G8の議長、国連安保理の改革、日・EUの経済連携協定などについて話し合いました。
この中に日独両国の立場が異なる問題が含まれていました。一つは、かつて敵対していた国との和解であり、ドイツはフランスとの和解を実現し、またそのことについて強い自負と思い入れがあります。しかし、日本と中国および韓国との関係は独仏のようには進展していません。東アジアと欧州が歩んできた道は異なっています。
もう一つの原発については、ドイツはすでに脱原発を決定しているのに対して、日本は安全性を確認できた原発は再稼働する方針であり、両国の姿勢は非常に違っています。
メルケル首相はこれらの問題についてかなり踏み込んだ発言をしましたが、「東アジア情勢についてアドバイスする立場にない」と断るなど、日本に対して批判的になるのは極力避けていました。相手国の置かれた状況を理解し、それなりに認めつつ話し合いを行なうことが国家間の関係では非常に重要です。メルケル首相はそのような配慮をしっかりとしながら和解と原発について明確にドイツの考えを述べていました。立派な外交姿勢であったと思います。
しかし、多くの日本国民は、また、メディアも、メルケル首相の訪日になにかはっきりしないところがあると感じているように思われます。報道の力点もまちまちです。日独間の距離を感じたとするものもあります。そのような印象になるのは日独双方に原因があるようです。
■独にとっても対中国関係が重要に
ドイツにとっての外交課題を考えてみると、対応を誤ると直ちにドイツに影響が及んでくる国として米国、次いでロシアがあります。順序は逆かもしれません。米国とは同じNATO加盟国ですが、水面下には盗聴問題が象徴するような緊張関係もあります。米国との関係をうまく処理できないドイツの指導者は失格でしょう。ロシアはエネルギーの供給国ですが、欧州の安全保障にとって脅威となりうる国であり、冷戦時代からあまり変化していない面があります。
この両国に次いでEUとの関係が重要であり、各国と協力しながらギリシャなどの財政困難を処理することが求められています。
また、新しいパワーである中国は、ドイツにとっても重要になっています。ドイツは米国に次ぐ、またEU内では抜群の輸出大国であり、中国のような巨大な市場、しかも急速に拡大する市場はドイツにとって極めて重要です。しかも、中国は国際政治面でも独特の考えと主張があり、ドイツとしては慎重に友好関係を築き上げ、維持していかなければなりません。
日本とは、歴史的、伝統的に親しい関係にあり、同じG8のメンバーとして安心して付き合える国であり、ドイツに危険を及ぼす可能性は世界で最も小さいでしょう。メルケル首相は訪日の前に、日本は「価値を共有する国だ」と言ったそうですが、この言葉は日本のイメージを端的に表明しているように思われます。このように考えれば、メルケル首相が過去7年間日本を訪問していなかったことはうなずける面もありました。要するに、日本とドイツは分かりあえているから、あえて訪問する必要はなかったということなのでしょう。
しかし、このような日本の状況に最近変化が生じ、国内政治においても対外的においても新しい主張が強くなりました。また、尖閣諸島や歴史問題をめぐって中国との矛盾が激化し、ドイツにとって理想的な、日本との友好関係を維持しつつ中国との経済関係を増進させていくのに支障が生じるかもしれない状況になってきました。
■日本にとって独は「遠い国」
一方、日本は、ドイツを明治維新後に学んだ国、第二次大戦で共に戦って敗れた国、どちらの国民も優秀かつ勤勉である、というイメージで見る傾向が強いですが、メルケル首相が率いる現在のドイツを見るのに、このようなイメージは時代遅れか、あるいは当たり前すぎるでしょう。
もし日本が現在のドイツを、西側の重要な一員でありながらイラク戦争のような場合には米国に同調しないという選択をできる国、脱原発という、経済的には負担が大きくなるが一大決断をできる国、という目で見るならば、メルケル首相の訪日もかなり異なるものとなり、緊迫感を伴ってきたかもしれません。しかし現実には、知識としてはドイツのこのような面を知っていても、日本の現状からは遠く離れた国のこととみなしています。要するに、現在のドイツは日本にとって直接影響のある国ではなく、また、日本とは環境があまりにも異なっているという印象が強いのです。
両国とも以上のような立場の違いは十分理解しているので、メルケル首相の訪日に際し、立場の違いを目立たせないよう気を付けながら無難に首脳会談を行いました。メルケル首相はかなり踏み込んだ発言もしましたが、原発については、「日本はあれ程ひどい被害をこうむっておきながらなぜ続けるのか」と言いたかったのではないかと思われます。しかし、外交的配慮からそこまで言いませんでした。だからメルケル首相の訪日のポイントは何か分かりにくくなったのです。
■福島第一原発の視察を希望した?
最後に、メルケル首相は人道上の理由と福島原発の崩壊の2点から東日本大震災について強い関心を持っているはずです。今回の訪日に際して、日本政府に被災地や福島原発の視察を希望したのではないかと、個人的には想像しています。メルケル首相が福島原発の視察に行けばあまりにもドイツと日本の違いが強調されすぎてしまうので、日本政府としては応じることはできなかったでしょうが、この点について少しでも情報が公開されておれば、メルケル首相の姿勢が明確になったのではないでしょうか。
実際には何も発表されていないので、想像を重ねることになってしまいますが、日本政府には情報提供のあり方について考慮してもらいたく、またメディアにはこのような問題意識をもって追究してもらいたかったと思います。
2015.03.23
多国間の安全保障としては、①紛争が継続している状況で活動する多国籍軍、および②休戦あるいは和平が成立している状況で行なわれる平和維持活動、の2種類の活動が主である。
与党が合意した共同文書「安全保障法制整備の具体的な方向性について」(以下「共同文書」)においては、①と②に加え、③「国連が統括しない人道復興支援活動や安全確保活動などの国際的な平和協力活動」があるとし、この種の活動についても一定の条件の下に自衛隊が参加する道を開いている。多国籍軍についてはすでに論じたので、本稿では②と③の平和維持活動について論じる。
順序は逆になるが、③について、共同文書は自衛隊が参加する条件の一つとして「国連決議に基づくものであることまたは関連する国連決議などがあること」を掲げているが、この条件は具体的にどのような意味か分かりにくい。
まず、「国連決議に基づくもの」であるが、③は国連でない平和協力活動の場合であり、その場合に「国連決議に基づく」ことはありうるか。常識的にはないだろう。平たく言えば、国連決議があるのに国連でない平和協力活動などないと思われる。
共同文書は「国連決議に基づくもの」に続けて、「またはこれに関連する国連決議などがあること」を条件としている。これも分からない。「関連する」とは何に関連するのか不明である。「国連決議など」の「など」とは何か、これも不明である。
与党の中では説明があるのかもしれないが、国民にとっては、このように自衛隊が参加する条件という重要なことが不明確なままになっている。
あえて想像すれば、③は過激派組織「イスラム国」に対する空爆のような事態を指しているのかもしれない。空爆は、「国連が統括しない人道復興支援活動や安全確保活動などの国際的な平和協力活動」に当てはまるからである。しかし、もしそうであれば、自衛隊がそもそも参加することを認めるべきかという基本的な問題があり、かりにそれを肯定するとしても、その条件は明確になっていなければならない。共同文書の記述ははなはだしく不明確であり、国民には不親切である。
一方、PKOについて共同文書は、「国連PKOにおいて実施できる業務の拡大および業務の実施に必要な武器使用権限の見直しを行なう」と述べている。これには原則賛成したい。
冒頭で①と②の区別として指摘したように、PKOは停戦あるいは和平の成立を前提として行なわれる業務である。かりに、停戦が崩れるとPKOは撤退する。実際にそのような例はある。停戦ないし和平を前提とするというPKOの基本的性格は維持されている。
しかるに、PKOへ自衛隊が参加する場合、武器の使用について制限を課していたのは、自衛隊は「自衛」の範囲を超えて武器を使用できないという立場であったからである。なぜ「自衛」に限っていたか。これを理解するには日本国憲法が成立していらいの経緯にそって自衛隊の在り方を見ていくのが便宜である。
憲法が制定された際、日本に「戦力」はまったくなかった。自衛隊らしきものは一切なかったのである。いわゆる絶対平和主義の時代である。しかし、数年後それはあまりに現実から遊離しており、日本国の防衛のためには武器を持つ部隊が必要であり、それは憲法においても禁じられていないという解釈となり、自衛隊が創設された(名称は変わったが、ここでは煩雑になるのでとくに言及しない)。
しかし当初は、自衛隊は海外へ派遣できないと解釈されていた。海外に出ると国際紛争に巻き込まれる恐れがあるからである。しかし、この解釈を厳格に維持することも現実に合わなかった。たとえば、航海訓練などで海外へ出ていくのはどの国でも当たり前のことである。とくに問題になったのはPKOであり、1990年の湾岸戦争を契機に日本はPKO法を成立させ自衛隊などが国連PKOに参加する道を開いた。その限りにおいてはいわゆる「海外派兵」は可能となった。
しかし、そうなっても自衛隊は「自衛」しかできないという方針は変わらなかった。自衛隊員が武器を使用できるのは自らを守るためだけであり、他国の部隊が危険にさらされても武器は使用できない。つまり、憲法下で厳禁されている「武力の行使」が例外的に許されるのは「自衛」の場合だけだという立場は変わらなかったのである。
(日本では「武器の使用」と「武力の行使」は区別されているが、これも煩雑なことになるので、本稿では同じ意味とみなし、文脈次第で使い分けている。)
現在もその解釈は変わっていない。2014年7月の閣議決定が集団的自衛権を行使できる道を開いた際、憲法解釈が変わったと評されたが、日本国憲法は「自衛」の場合に限り武力を行使できるという解釈は放棄しなかった。
具体的には、集団的自衛権が必要となる他国に対する攻撃であっても、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」は、「あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち、我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として初めて許容される」と記載した。外国が攻撃された場合に防衛に協力するという国際間の問題を、「自衛」という日本国憲法のふるいにかけたのである。
そうすることは憲法擁護、憲法解釈の一貫性の観点から積極的に評価される面があったが、集団的自衛権の行使という国際間の問題を、「自衛」という我が国の問題に転換させることに他ならず、不可能を可能にするくらい困難な離れ業であった。
共同文書は、「国連PKOにおいて実施できる業務の拡大および業務の実施に必要な武器使用権限の見直しを行なう」とだけ記載した。今まで「自衛」でないからという理由でできなかった範囲の武力行使ができるようになる、と読める。たとえば他国のPKO部隊が危険な状態に陥った場合、それを助けることは「自衛」でないからわが自衛隊はできないと解してきたが、共同文書によればそれができるようになるようである。そうなると、憲法違反の問題が出てくるはずであるが、共同文書はどのような理屈を考えているのか何も説明していない。
ここでもう一度、PKOは紛争が終了したことを前提に成立していることを想起してもらいたい。従来自衛隊がこれに参加する場合も、「自衛」の範囲内ということで自衛隊員の生命を守るためにしか武器を使用できないというのが日本の立場であったが、PKOという国際の場で「自衛」に徹することはそもそも無理ではなかったか。国際社会における我が国の責任を果たすためにPKOへの参加を認めざるをえなくなったが、憲法の解釈を変えるわけにはいかないという制約のために、国際社会でも我が国の論理を貫いたのであり、やむをえず採用した方便であったと思われる。しかし、その方便には限界があり、「自衛隊員は隊員自身の生命を守るためだけに武力を行使できる」という非国際的な結論にならざるをえなかった。
このように従来は憲法の武力行使禁止の例外はつねに「自衛」の例外で見てきたが、国際的観点から憲法を見なおしてみると、PKOへの参加は「自衛」であるか否かにかかわらず日本国憲法に反しないと見ることが可能である。すなわち、憲法が禁止しているのは国際紛争を解決する手段としての武力行使であり、国際紛争が終了しているPKOにおいては、日本が国際紛争に巻き込まれることはそもそもありえない。したがって、PKOは憲法の禁止に当てはまらない事態として憲法解釈を再構築することが可能であると考える。
もちろん、日本国憲法が武力の行使を禁止し、また戦力を持たないこととしてきたこと、その下で現実の事態に照らして「自衛」だけは憲法に触れないという解釈を導き出してきたことは我が国の戦後の歴史において重要なことであった。しかしながら、「自衛」には限界があることがますますはっきりしつつある今日、「自衛」論にこだわるべきでない。一方、日本国憲法を再度読み直してみれば、国際紛争に巻き込まれる危険がないPKOでは憲法の禁止に触れないと解釈できるし、それは自然な解釈である。その場合、「自衛」論がなくなるわけではない。自衛隊はあくまで「自衛」の範囲内で活動する。しかし、それと同時に、自衛隊は海外でPKOなどに参加し、必要に応じて武器を使用する。それが憲法に触れないことはPKOの本来的性格である「紛争がない状態である」ことにより担保されている。
さらに、PKOにおいては、国連決議は必ず存在し、決議のないPKOはない。このことも重要なことである。多国籍軍の場合、国連決議の存在を絶対の条件とすれば、米国から100点満点をもらえないだろうことは3月15日に述べたが、PKOの場合はそのような問題もない。
多国籍軍とPKOを通じて、国連決議の存在を条件とすることは日本国憲法の国際紛争に巻き込まれることの厳禁にもっともよく調和する。また、憲法を離れても、国連決議が成立しないのは各国の意見が割れているからであり、そのような場合には我が国はとくに注意し、自制してよいのではないか。何もしないというのではない。意見が割れている場合には武器行使につながることはしないということである。
日本では「歯止め」の有無がよく問題になる。もちろんこれは重要なことであるが、国際的に理解されるかと言えば、疑問がある。「国際貢献は自衛の範囲内に限る」も「集団的自衛権の行使はできるが自衛の範囲内である」も国際的には分かりにくい。表現は若干簡略化したが、閣議決定、あるいは共同文書の文言をそのまま使っても各国には分かってもらえないどころか、ますます分かりにくくなるだろう。このような観点から見ても「自衛」だけで自衛隊の行動を律することは限界にきていると考える。
安保関連の法律を整備するにあたって、「自衛」を貫くのがよいか、それとも「国際紛争に巻き込まれない」という柱を立てて行くのがよいか再検討すべき時が来ている。
安保法制‐「自衛」か「紛争に巻き込まれない」か
(この文章を読まれる方は3月15日の「安全保障関連法案‐国連決議を条件にするべきだ」も参照されることをお薦めします。)多国間の安全保障としては、①紛争が継続している状況で活動する多国籍軍、および②休戦あるいは和平が成立している状況で行なわれる平和維持活動、の2種類の活動が主である。
与党が合意した共同文書「安全保障法制整備の具体的な方向性について」(以下「共同文書」)においては、①と②に加え、③「国連が統括しない人道復興支援活動や安全確保活動などの国際的な平和協力活動」があるとし、この種の活動についても一定の条件の下に自衛隊が参加する道を開いている。多国籍軍についてはすでに論じたので、本稿では②と③の平和維持活動について論じる。
順序は逆になるが、③について、共同文書は自衛隊が参加する条件の一つとして「国連決議に基づくものであることまたは関連する国連決議などがあること」を掲げているが、この条件は具体的にどのような意味か分かりにくい。
まず、「国連決議に基づくもの」であるが、③は国連でない平和協力活動の場合であり、その場合に「国連決議に基づく」ことはありうるか。常識的にはないだろう。平たく言えば、国連決議があるのに国連でない平和協力活動などないと思われる。
共同文書は「国連決議に基づくもの」に続けて、「またはこれに関連する国連決議などがあること」を条件としている。これも分からない。「関連する」とは何に関連するのか不明である。「国連決議など」の「など」とは何か、これも不明である。
与党の中では説明があるのかもしれないが、国民にとっては、このように自衛隊が参加する条件という重要なことが不明確なままになっている。
あえて想像すれば、③は過激派組織「イスラム国」に対する空爆のような事態を指しているのかもしれない。空爆は、「国連が統括しない人道復興支援活動や安全確保活動などの国際的な平和協力活動」に当てはまるからである。しかし、もしそうであれば、自衛隊がそもそも参加することを認めるべきかという基本的な問題があり、かりにそれを肯定するとしても、その条件は明確になっていなければならない。共同文書の記述ははなはだしく不明確であり、国民には不親切である。
一方、PKOについて共同文書は、「国連PKOにおいて実施できる業務の拡大および業務の実施に必要な武器使用権限の見直しを行なう」と述べている。これには原則賛成したい。
冒頭で①と②の区別として指摘したように、PKOは停戦あるいは和平の成立を前提として行なわれる業務である。かりに、停戦が崩れるとPKOは撤退する。実際にそのような例はある。停戦ないし和平を前提とするというPKOの基本的性格は維持されている。
しかるに、PKOへ自衛隊が参加する場合、武器の使用について制限を課していたのは、自衛隊は「自衛」の範囲を超えて武器を使用できないという立場であったからである。なぜ「自衛」に限っていたか。これを理解するには日本国憲法が成立していらいの経緯にそって自衛隊の在り方を見ていくのが便宜である。
憲法が制定された際、日本に「戦力」はまったくなかった。自衛隊らしきものは一切なかったのである。いわゆる絶対平和主義の時代である。しかし、数年後それはあまりに現実から遊離しており、日本国の防衛のためには武器を持つ部隊が必要であり、それは憲法においても禁じられていないという解釈となり、自衛隊が創設された(名称は変わったが、ここでは煩雑になるのでとくに言及しない)。
しかし当初は、自衛隊は海外へ派遣できないと解釈されていた。海外に出ると国際紛争に巻き込まれる恐れがあるからである。しかし、この解釈を厳格に維持することも現実に合わなかった。たとえば、航海訓練などで海外へ出ていくのはどの国でも当たり前のことである。とくに問題になったのはPKOであり、1990年の湾岸戦争を契機に日本はPKO法を成立させ自衛隊などが国連PKOに参加する道を開いた。その限りにおいてはいわゆる「海外派兵」は可能となった。
しかし、そうなっても自衛隊は「自衛」しかできないという方針は変わらなかった。自衛隊員が武器を使用できるのは自らを守るためだけであり、他国の部隊が危険にさらされても武器は使用できない。つまり、憲法下で厳禁されている「武力の行使」が例外的に許されるのは「自衛」の場合だけだという立場は変わらなかったのである。
(日本では「武器の使用」と「武力の行使」は区別されているが、これも煩雑なことになるので、本稿では同じ意味とみなし、文脈次第で使い分けている。)
現在もその解釈は変わっていない。2014年7月の閣議決定が集団的自衛権を行使できる道を開いた際、憲法解釈が変わったと評されたが、日本国憲法は「自衛」の場合に限り武力を行使できるという解釈は放棄しなかった。
具体的には、集団的自衛権が必要となる他国に対する攻撃であっても、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」は、「あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち、我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として初めて許容される」と記載した。外国が攻撃された場合に防衛に協力するという国際間の問題を、「自衛」という日本国憲法のふるいにかけたのである。
そうすることは憲法擁護、憲法解釈の一貫性の観点から積極的に評価される面があったが、集団的自衛権の行使という国際間の問題を、「自衛」という我が国の問題に転換させることに他ならず、不可能を可能にするくらい困難な離れ業であった。
共同文書は、「国連PKOにおいて実施できる業務の拡大および業務の実施に必要な武器使用権限の見直しを行なう」とだけ記載した。今まで「自衛」でないからという理由でできなかった範囲の武力行使ができるようになる、と読める。たとえば他国のPKO部隊が危険な状態に陥った場合、それを助けることは「自衛」でないからわが自衛隊はできないと解してきたが、共同文書によればそれができるようになるようである。そうなると、憲法違反の問題が出てくるはずであるが、共同文書はどのような理屈を考えているのか何も説明していない。
ここでもう一度、PKOは紛争が終了したことを前提に成立していることを想起してもらいたい。従来自衛隊がこれに参加する場合も、「自衛」の範囲内ということで自衛隊員の生命を守るためにしか武器を使用できないというのが日本の立場であったが、PKOという国際の場で「自衛」に徹することはそもそも無理ではなかったか。国際社会における我が国の責任を果たすためにPKOへの参加を認めざるをえなくなったが、憲法の解釈を変えるわけにはいかないという制約のために、国際社会でも我が国の論理を貫いたのであり、やむをえず採用した方便であったと思われる。しかし、その方便には限界があり、「自衛隊員は隊員自身の生命を守るためだけに武力を行使できる」という非国際的な結論にならざるをえなかった。
このように従来は憲法の武力行使禁止の例外はつねに「自衛」の例外で見てきたが、国際的観点から憲法を見なおしてみると、PKOへの参加は「自衛」であるか否かにかかわらず日本国憲法に反しないと見ることが可能である。すなわち、憲法が禁止しているのは国際紛争を解決する手段としての武力行使であり、国際紛争が終了しているPKOにおいては、日本が国際紛争に巻き込まれることはそもそもありえない。したがって、PKOは憲法の禁止に当てはまらない事態として憲法解釈を再構築することが可能であると考える。
もちろん、日本国憲法が武力の行使を禁止し、また戦力を持たないこととしてきたこと、その下で現実の事態に照らして「自衛」だけは憲法に触れないという解釈を導き出してきたことは我が国の戦後の歴史において重要なことであった。しかしながら、「自衛」には限界があることがますますはっきりしつつある今日、「自衛」論にこだわるべきでない。一方、日本国憲法を再度読み直してみれば、国際紛争に巻き込まれる危険がないPKOでは憲法の禁止に触れないと解釈できるし、それは自然な解釈である。その場合、「自衛」論がなくなるわけではない。自衛隊はあくまで「自衛」の範囲内で活動する。しかし、それと同時に、自衛隊は海外でPKOなどに参加し、必要に応じて武器を使用する。それが憲法に触れないことはPKOの本来的性格である「紛争がない状態である」ことにより担保されている。
さらに、PKOにおいては、国連決議は必ず存在し、決議のないPKOはない。このことも重要なことである。多国籍軍の場合、国連決議の存在を絶対の条件とすれば、米国から100点満点をもらえないだろうことは3月15日に述べたが、PKOの場合はそのような問題もない。
多国籍軍とPKOを通じて、国連決議の存在を条件とすることは日本国憲法の国際紛争に巻き込まれることの厳禁にもっともよく調和する。また、憲法を離れても、国連決議が成立しないのは各国の意見が割れているからであり、そのような場合には我が国はとくに注意し、自制してよいのではないか。何もしないというのではない。意見が割れている場合には武器行使につながることはしないということである。
日本では「歯止め」の有無がよく問題になる。もちろんこれは重要なことであるが、国際的に理解されるかと言えば、疑問がある。「国際貢献は自衛の範囲内に限る」も「集団的自衛権の行使はできるが自衛の範囲内である」も国際的には分かりにくい。表現は若干簡略化したが、閣議決定、あるいは共同文書の文言をそのまま使っても各国には分かってもらえないどころか、ますます分かりにくくなるだろう。このような観点から見ても「自衛」だけで自衛隊の行動を律することは限界にきていると考える。
安保関連の法律を整備するにあたって、「自衛」を貫くのがよいか、それとも「国際紛争に巻き込まれない」という柱を立てて行くのがよいか再検討すべき時が来ている。
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