平和外交研究所

ブログ

オピニオン

2014.06.09

集団的自衛権論議ー他国の領域へ自衛隊を派遣しない

政府・自民党は集団的自衛権の行使を認める決定を実現するために、自衛隊の活動に一定の歯止めをかける「指針」を作り、「自衛隊を他国の領域に派遣しない」などの制限を盛り込む方向であると報道されている(6月8日『朝日新聞』)。
集団的自衛権の行使が可能となった場合でも、わが自衛隊が出動する範囲は限定されるとかねてから説明されていたが、この政府・自民党案は出動要請に応じない場合を具体的に示したものである。
集団的自衛権を行使できるとしても、どのような場合に、どのような条件が備わった場合に行使するかは各国が判断することであるというのは国際的な常識であり、このことに異論を唱える国はないだろう。したがって、政府・自民党案のように自衛隊の派遣先について歯止めをかけることは国際的に問題ないと見えるかもしれない。
しかし、歯止めをかけることは「可能」だとしても、それは理屈だけの「可能」であり、現実に「他国の領域に派遣しない」ということを貫徹できるかは別問題である。結論を先に言うと、「派遣しない」ということは極めて困難になることがあると思う。
具体的な例で考えてみると、容認論者は「公海上の米艦船に対して北朝鮮のミサイル攻撃が行われる場合、近くに日本の艦船がいて米艦を防衛できるにもかかわらず助けないのは極めて不適切だ」という例をよく持ち出すが、では、米国の領域を北朝鮮のミサイルが攻撃してきた場合に、米国が日本に自衛隊の出動を要請してきても断れるか。政府・自民党の案では断れるということになりそうだが、実際には断れないと思う。米国にとって艦船が攻撃された場合と領土が攻撃された場合とどちらが深刻か、領土を攻撃された場合の方がはるかに重大な問題である。その時に、日本は、閣議決定にしたがい「他国の領域には派遣しないことになっているので要請に応じられない」とは言えないからである。
具体的な例は一部の状況だけ抽出されて議論されるきらいがあるが、前後の状況も周辺の状況も見ておく必要がある。米国が日本に自衛隊の出動を要請するというのはよほど深刻な場合である。そのような状況の中で、日本は米国を助けられるにもかかわらず助けないと言っても米国は納得しない。
これまで日本は自衛隊の海外派遣要請には応じられなかった。実際には米国はじめ各国もそのことを知っていたので要請はしてこなかったが、かりに要請してきても同じ答えであったことは間違いない。日本には憲法の制約があったからである。しかるに、この集団的自衛権に関する解釈変更によって制約がなくなったにもかかわらず、政府の方針だという理由で、やはり要請を拒否することを米国は受け入れるだろうか。憲法のほうが政府方針よりはるかに重く、憲法には法的拘束力があるが、政府方針にはそれはない。米国としては、日本が憲法を理由に断るのは、なんとか認める余地があっても、政府方針を理由に断るのは納得しないだろう。
さらに、米国としては、日本が方針を変えてくれればよいではないかと主張する可能性もある。日本の方針は尊重したいが、方針よりはるかに重い憲法の解釈まで日本は変更できた。それにかんがみると憲法よりはるかに軽い政府の方針など変更は簡単だと米国は思うからである。米国がこのように反発した場合にも日本としてそのような制限の必要性を説明できるか。
歯止めをしっかりとつければ不都合はないというのは、日本だけの都合である。日本政府としては、いっぺんにどこへでも出ていくとするのはあまりに急激だし、政治的にも困難だし、国民の学習も必要だしということで、「他国の領域へ派遣しない」とするのは一つの賢明な工夫と考えたのかもしれないが、集団的自衛権の行使を認めながら密接な関係にある米国の領域を防衛するために出動しないというのは、理論的には可能であっても政治姿勢としては自己矛盾に陥っている。
もし、「他国の領域に派遣しない」という方針をあくまで達成したいならば、米国の了解を取ってはどうか。米国が、「公海上の米艦船は助けてもらわなければ困るが、本土が攻撃されても自衛隊を派遣しなくてよい」ということを確約するのであれば矛盾は解消される。しかし、米国がこのようなことを受け入れるはずがない。
米国の領域が攻撃される場合というのはあまりに非現実的であるという反論があるかもしれない。実は、公海上の米艦船に対する攻撃と米国の領域に対する攻撃はいずれも非現実的なことであるが、そのことはしばし論じないとして、実際に起こった次のケースを想起してもらいたい。
2001年秋、アフガニスタンのタリバン政府に対し米国が攻撃したのは自衛権の発動であり、そのことは国連の決議でも認められた。米国は同盟関係にある各国に対しても参戦を要請したが、日本に対しては日本がインド洋上で給油をすることで何とか満足した。憲法上の制約があったからである。この制約がなくなると米国は日本に参戦を要請してくる可能性が高い。その場合に、「他国の領域へ自衛隊を派遣しないのは政府の方針」だからと言って断れるか。到底断れない。断ったら米国は怒り狂い、同盟国として信頼できないと日本を非難し、日米関係は壊れてしまうのではないか。そこまで極端に事態にならないとしても、日米関係が今より悪化する恐れがあるのは否定できないと考える。

2014.06.05

PKOと多国籍軍への参加

安保法制懇の報告後行なわれている与党協議では、「多国籍軍」と「平和維持部隊(PKO)」への日本の関与のあり方について新しい考えが検討されているそうである。PKOも複数の国の部隊が派遣されるので、その意味では「多国籍軍」と呼ぶことも可能であろうが、両者の間には明確な違いがあり、日本の関与のあり方を検討するためにはその違いを明確にしておく必要がある。
両者の最大の相違点は、PKOは和平の合意がすでに成立している場合に派遣されるが、「多国籍軍」は和平がまだ成立していない場合に行動することである。PKOは和平が成立していることを条件に派遣されるので、その性格は非常に明確であり、PKOとして認識され、扱われる。

1990年代の初め、ブトロス・ガリ国連事務総長は国連の機能として「平和の維持」とともに「平和の構築」を掲げた。前者は戦争や内戦はすでに終わっている場合のことであり、後者はそれがまだ成立していない場合である。両方ともに国連の任務としたかったが、「平和の構築」を「平和の維持」と同等に扱うのは時期尚早という感じが強かった。
しかし、国連は国際の平和と安定の維持が目的であり、そのために「安全保障理事会は、平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為の存在を決定し、並びに、国際の平和及び安全を維持し又は回復するために、勧告をし、又は第41条及び第42条に従っていかなる措置をとるかを決定する」(国連憲章第39条)。この権限を基礎に、安保理の決議で「多国籍軍」に対してもお墨付きを与えている。旧ユーゴスラビア、イラク、リビアなどの場合がその具体例である。
しかし、PKOと「多国籍軍」の違いは明確であり、和平の成立については前述したが、さらに、部隊を率いる指揮のあり方も違っている。PKOの最高指揮権は国連事務総長にあり、後者の指揮はいずれかの国(の司令官)が行なう。PKOの場合も実際には各国の部隊を統括、指揮する司令官がいるが、それはあくまで国連事務総長の下にあり、その指図にしたがう。

日本が国連に協力し、これらの活動に参加することを検討する場合にもこのような違いは決定的に重要である。PKOへ参加する場合、日本の部隊が海外で武器を使用することについて、かつては非常に制限的に考え、他の国の部隊が行なうこともできないとしていた。日本国憲法(の解釈だが)が厳しく禁じていたと考えたからである。
しかし、PKOは国連も日本国憲法も想定していなかった事態であり、また、PKOでは和平の成立が前提であるので、任務を果たすために必要であれば武器の使用は認められるべきである。各PKOには国連決議があるのでそれを実行するのに必要な範囲内であることはもちろんであるが、それ以外には武器使用を制限すべきでない。国内で警察官が武器を使用するのは自衛のためやむをえない場合に限られると解されているが、それは国内のことであり、国際社会にはいろいろな状況とそれに応じた必要性があり、国連がそれらを勘案して決議を採択したからには、日本として日本の国内基準を国際的に適用したいと主張すべきでない。
また、PKOはそもそも和平の成立が前提であり、しかも国連事務総長の指揮下にあるので、日本国憲法が厳しく禁じている海外での侵略になることはありえない。

一方、「多国籍軍」の場合は、これら2つの条件・制約はない。もちろん「多国籍軍」でも単独の行動でなく、また、国連の決議がある。しかし、国際政治の現実によって左右されることがまったくないとは言えない状況にある。この点については異論もありうるが、日本としては慎重に考え、これには直接関与しないという立場を取ることは合理的であろう。
報道によれば、政府は「多国籍軍」への支援制限を緩和し、戦闘地域でも医療支援や物資輸送など一定行為を可能にするよう対処方針を変更する案が示されたそうだが、日本として「多国籍軍」には慎重に対処すべきであるということと、国連のお墨付きがあるということとのバランスをどこで取るべきか。すくなくとも、ここで述べたようなPKOとの区別ははっきりさせておいた上で決定すべきであろう。
日本はアフガニスタンでもイラクの場合でもすでに一定の後方支援を行なったが、それはPKOでの貢献があまりに少ないということから、「多国籍軍」の場合に逆に積極的に応じざるをえなかったのではないか。つまり、PKOという和平が成立している場合にあまりにも厳しい規律をみずからにかけてしまったので、「多国籍軍」に協力せざるをえなかったのではないか。
ともかく、PKOも「多国籍軍」も国連が成立した時には想定されていなかったことであるが、今や国連でもっとも重要な機能になっている。そうなったのは国際社会として必要だからである。厳格な平和主義に立つ憲法を持つ日本としては、「多国籍軍」については慎重に対処しつつ、理論的にまったく問題がないPKOには各国と同等の条件で参加すべきである。

2014.05.31

シャングリラ対話での安倍首相演説

シンガポールで5月31日~6月1日開催されたアジア安全保障会議(シャングリラ対話)において、安倍首相は名指しこそしなかったが、誰が聞いても中国を批判しているとわかる内容の、「法の支配」を何回も強調する演説を行った。主要点は次の通りであった。
海洋における法の支配のために、国家は法に基づいて行動すべきこと、力や威圧を加えてはならないこと、および紛争は平和的に解決しなければならないことの3つの原則を守るべきである。フィリピン、べトナムはこれらの原則を守っており、日本は強く支持する。
数年前温家宝首相との間で海や空での不測の事態を避けるため連絡しあうメカニズムを作ることに合意したが、その後実行されていない、話し合ってこの合意を実行しようではないか。
軍備に関して情報を開示し、透明性を高めることが重要である。軍備拡張はこの地域の安定を妨げる。
今や1か国だけでは平和は守れない。多数の国が協力することが必要であり、日本はこれまでの憲法の解釈を見直している。
日本では新しい日本人を育成するよう努めている。

これに対し、中国の代表の一人から、歴史に向き合う姿勢が重要であり、安倍首相は靖国神社に参拝した、中国や韓国では多数の人が殺された、これをどのように考えるか、という質問があった。
これに対する安倍首相の答えは、「国のために戦った人を祈るため手を合わせた。同時に、20世紀には多くの人が戦争で苦しんだ。日本は2度としないという不戦の誓いをした。先の大戦での痛切な反省に立つとともに、自由と民主主義を尊重する日本を目指すこととした。これからも日本は平和国家を目指していく」であった。
この回答の直後拍手が起こり、日本の一部新聞は、安倍首相の靖国神社参拝についての賛同であったように報道しているが、決して靖国神社に参拝することに対する賛同ではなかった。

また、尖閣諸島に関する争いを解決するために、仲裁など第三者的機関による解決を求める考えはないかという質問に対し、安倍首相は「日本は国際司法裁判所の強制管轄を受諾しているが、中国は受諾していない。ICJに訴えるのは要求している中国であろう。日本は実効支配しているので、日本から提訴する考えはない」と答えた。これは、玄葉外相がニューヨーク・タイムズに寄稿したものと全く同じ内容である。安倍首相が外務省の事務方の振り付けに忠実に説明したのには驚いた。
しかし、ICJでの解決についてそこまで考えているならば、このように一般人にはわかりにくい説明でなく、日本はICJでの解決を望んでいることを明言した方がよかった。外務省の用意している説明は、法的には正確かもしれないが、日本のICJでの解決について希望しているということは伝わらない。このような説明でとどまっていると、日本はかたくなだという印象を払しょくできないだろう。

アーカイブ

検索

このページのトップへ

Copyright©平和外交研究所 All Rights Reserved.