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2015.07.10

(短文)新国立競技場の建設

 新国立競技場の建設について途方もない話が進んでいる。これまでのオリンピック競技場で4ケタの億円に上った例はないが、新競技場の建設費用は2520億円。これは国際比較して恥ずかしい金額である。しかも、この見積りには、数百億円の土砂運搬費用や屋根の工事費用が含まれていないので、トータルな建設費用は2520億円を大幅に上回るらしい。また、建設後の運営費用も莫大で、その負担にあえぐことになる恐れがあるそうだ。
 先日の有識者会議は2520億円の見積もりで建設を進めることを了承したそうだが、さらに数百億円必要なのに、どうして了承できたのか理解に苦しむ。一部についての了承など何の意味があるのかわからない。
 これまでの推移を見ていると、責任を負うべき人が責任を果たしていないと言わざるを得ない。国立競技場は、文科省の監督下にある独立行政法人日本スポーツ振興センター(JSC)が管理運営しており、建設する主体は同センターなのであろう。ところが、センター側は難しい話になると文科省の指導でやっていると言い、一方、文科大臣は費用が高額になることについて文科省に相談があったのは今年の4月だと言っている。
 オリンピック・パラリンピック組織委員会が建設にどのように関わっているのか詳しいことは知らないが、委員長は有識者会議のメンバーである。
 また、500億円の拠出を要請されている舛添東京都知事は数日前まで根拠の薄弱な拠出に難色を示していたが、やはり有識者会議のメンバーとして2520億円を了承した。立場が違うと言っても500億円の拠出はもはや抵抗できないだろう。
 このような恐ろしい状況であるにもかかわらず、建設はこの秋に開始されるそうだ。偉い役所、偉い人が関与しているのに誰からも責任ある意見は聞かれない。これらの人たちからは、ただ時間がない、期日までに完成させるには2520億円プラス数百億円の建設費用見積もりで進むしかないという話しか聞かれない。
 全体を見てうまくいっていなければ調整役を務めるべき内閣からは、オリンピック招致の際安倍首相は新競技場のデザインを見せつつ招致に努めたので、このデザインを変えることはできないという説明がなされているが、費用全体について国際的にどう説明したのか。このように途方もない費用であれば、デザインの変更もやむをえないということに国際的な理解が得られることなどまったく考慮されていないのではないか。
 とほうもない巨額の費用がかさむ計画がタイムリミットの脅迫の下にだれもコントロールできないまま進んでいく。何という無責任体制であろうか。日中戦争以来の日本の対応は問題であったと指摘されるが、今回ほどあきれた無責任ぶりではなかったように思う。
 今からでも遅くない。全体の費用予測をもっと正確に立て、デザインを見直すべきである。文科大臣、官邸はその方向で指導力を発揮すべきである。そのためにラグビーのワールドカップに間に合わなくなるのであれば、花園ラグビー場など既存の施設の改修で対応すべきである。
 それと、比較的次元の低いことだが重要なことがある。後日の検査・監査に耐えうる会計処理が必要であり、そのため、建設に関する帳簿の作成責任者を明確にし、正しく作成・管理すべきである。
2015.07.07

地域的核軍縮と非核三原則

最近、ある大学で行なった講義の要点。

 今年の4月から5月にかけて開催された核不拡散条約(NPT)の再検討会議は失敗に終わったが、NPTの歴史から見れば珍しいことでない。曲がりなりにも会議を開催した意義があったと言えるのは1995年と2000年の2回だけであった。1995年はNPTの延長問題があったので核兵器国は譲歩せざるをえなかったからである。
 NPTはそもそも妥協の産物であった。国連ができたとき各国とも核兵器は廃絶しなければならないという気持ちが強かったが、なかなか実現しないうちに核保有国が増えていったので、やむをえず、核兵器の拡散禁止に方向転換することになったのである。
 その際、核の廃絶についてはgeneral and complete disarmamentの中で実現することになった。第6条である。これはもともと国際連盟で試みられた、各国には最小限の武装しか許さないという方式に淵源がある。NPTで合意されたことは、平たく言えば、「すべての核兵器国が一斉に核を放棄するのでなければならない、また、その放棄については厳格な監督が必要である」ということであった。
 核の廃絶がなかなか進まないので、特定の地域だけでも核兵器をなくそうとする動きが出てきた。現在いくつかの地域で成立しているが、完成しているのはラテン・アメリカ、南極および宇宙の3つに過ぎない。
 完成しているかどうかについては、条約の内容と核兵器国による保証の2つのポイントから見ていく必要がある。
 条約の内容とは、核に関するどのような行為を禁止しているかである。ラテン・アメリカの場合(Tlatelolco条約)は、核兵器をmanufacture, produce(「作る」こと)、acquire, receive, install(「入手」すること)、possess, use, test, store, deploy(「使用」すること)などの行為が禁止されている。後に締結された条約では、さらに核爆発装置の研究、開発、使用済み核物質の廃棄なども禁止される傾向があるが、Tlatelolco条約の禁止は包括的であるとみなされている。
 核兵器国による保証は、核兵器5カ国が当該地域の国に対して核兵器を使用しないという約束であり、通常、条約の議定書に核兵器国が署名・批准することで達成される。核兵器国が核を使わないと約束しなければ、域内の国でいくら核を持たないことにしても自己満足でしかない。
 
 今年の4~5月開催されたNPT再検討会議が失敗に終わった主な原因は核軍縮に関する急進派国と核兵器国との間の溝が埋まらなかったからであり、最後の段階で再検討会議を決裂させたのは中東における非核兵器地帯設置に関する国際会議開催問題であった。両者は表面的には別問題であるが、実は関連がある。
 中東に非核兵器地帯を設置するという構想が打ち出されたのは1995年の再検討会議であった。
 そこで採択された文書では、中東で唯一NPTに参加していないイスラエルに条約への参加を求めているが、それと同時に「中東和平が進展すれば核兵器地帯を設置するのに貢献する」という一文が入っている。イスラエルの存在を一部例外を除き中東諸国は認めておらず、イスラエルとしてはつねに生存を抹殺される危機に瀕しており、したがって核兵器を保有するのもやむをえないという事情があり、中東和平が実現すればイスラエルの存在が認められ、そうなるとイスラエルが核保有する必要もなくなるという考えである。
 このようなことはどの中東諸国も分かっているが、表向きには、イスラエルが核兵器を持っているのは実は自分たちのせいだということを認めるわけにいかない。しかし、エジプトは、ヨルダンとともにイスラエルを承認しているので、イスラエルが核を持つのは認められないと言える。そういう事情があるので再検討会議でエジプトは米国などと激しく対立する。今回もそうなった。しかし、欧米諸国にとってはエジプトとヨルダンだけがイスラエルを承認しても大多数の中東諸国が承認していない限り同じことであり、エジプトの主張を認めるわけにいかない。

 日本は非核三原則を表明しているので、一見非核兵器地帯の一種のような外観があるが、国際社会ではそのように考えられていない。地域でなく1カ国だからではない。1カ国でもモンゴルは非核兵器地帯の一種とみなされている。
 日本の場合は、核を「作らず」「保有せず」「持ち込ませない」というのが三原則であるが、その中には「使用せず」が入っておらず、これでは非核兵器地帯としては十分でない。
 日本の非核三原則が、「核を使用しない」ことを含めていないのは、米国の核の抑止力に依存している日本として、必要な場合には核を使ってでも日本を防衛してもらわなければならないからである。日本が「核を使わない」よう米国に要請するのは、米国の核の抑止力に依存せざるをえない日本として自殺行為に等しく、ありえない。
 一方、「持ち込ませない」は、小笠原諸島や沖縄が日本に返還される際(それぞれ1968年、1972年)、米軍の保有していた核兵器を撤去してもらう必要があったので原則の一つとした。日本国内に核兵器があるということは受け入れられなかったのである。
 しかし、ここには困難な問題、矛盾と言えるかもしれない問題があった。日本は、核兵器を使ってでも日本を防衛してもらわなければならないが、同時に、核兵器を「日本に持ち込んでもらっては困る」と言わざるをえなかった。日本を守る武器を日本に持ち込んでもらっては困るというのはそもそも無理なことだった。非核三原則はそのような矛盾を内包したまま宣言された。

2015.07.06

日韓首脳会談と70年談話 安倍政権のジレンマ

 安倍首相は2012年末、政権に復帰したころから、戦後70周年には首相としての談話を発表する考えを表明しており、その後国会答弁などで50周年の村山談話や60周年の小泉談話を「全体として引き継ぐ」と説明してきました。
 村山談話と小泉談話では、日本が先の大戦で近隣諸国などに対し、「植民地支配と侵略によって」「多大の損害と苦痛を与えた」ことについての「痛切な反省」と「心からのお詫び」の気持ちが表明されています。
 しかし、安倍首相は、これらのうち、どの部分は継承し、どの部分は継承しないか、明確な説明をしていません。

 安倍首相は「戦後レジームからの脱却」が持論です。戦後に作られた制度や秩序は本来の日本のあるべき姿を歪めており、是正する必要があるという考えであり、日本国憲法についても改正が「不可欠」だと主張しています。
 また安倍首相は、「侵略」の定義は定まっておらず、先の大戦における日本の行為を侵略であったと断定するのは適当でないという考えです。
 このような事情から、安倍首相は村山・小泉両談話において重要な表明である、日本は近隣諸国を「侵略」したという認識を引き継がないのではないかという疑問を持たれています。

 安倍首相は談話の内容について有識者の意見を徴するため懇談会(21世紀構想懇談会)を設置し、同懇談会は6月25日に審議を終えました。そこで議論がもっとも白熱したのは日本の行為を「侵略」と位置付けるかどうかであり、「侵略」であったとする意見が相次いだ一方、侵略の定義は明確でないとして、「侵略という言葉の使用は問題性を帯びる」との声も出たと報道されました(26日付『読売新聞』)。
 懇談会の議論の結果を談話に取り入れるか、取り入れるとしてもどの程度か、決まっていません。菅官房長官は6月22日の記者会見で、「懇話会でのさまざまな意見を聞いた上で、最後は首相を中心に政府として判断する」と述べています。
 「談話」の意味やその発表要件は法律で定義されていませんが、首相として見解を表明しておいたほうがよい重要問題について談話が発表されるのが習わしです。首相限りで発表されることもありますが、談話が閣議決定されると内閣全体が了承したことになり、重みが増します。村山・小泉両首相談話は閣議決定されました。
 しかし、安倍首相の談話については閣議決定しない考えがあるといううわさが出ています。そのことを質問された菅官房長官は、「まだ何も決まっていない」と答えました。これが日本政府の公式な立場です。
 このようなうわさが出るのは、安倍首相には「侵略」の意味などについてこだわりがあるからのようですが、「侵略」への言及を避けた談話については、内閣の他の構成員(国務大臣)が賛成するか必ずしも明確でありません。また対外的にも問題がありうるからです。

 中国や韓国は村山・小泉両談話を積極的に評価し、安倍首相も戦後70周年談話を発表するのであれば、両談話のような歴史認識を明確に示すことを強く希望しています。先の大戦で日本による植民地支配と侵略によって多大の損害と苦痛をこうむった両国として当然でしょう。
 しかし、安倍首相の談話が「侵略」など重要な歴史認識を明言せず、避けて通れば両国が反発することは不可避であると思われます。日韓首脳会談実現の努力に悪影響を及ぼし、結局開かれなくなる恐れも排除できません。また、米国からも問題視される危険があります。米国は安倍首相の靖国神社参拝など歴史に対する姿勢に疑問を抱いているからです。
 下手をすると一種の矛盾した状況に陥る危険があります。つまり、安倍首相にしても重要な問題だからこそ談話を発表するのでしょうが、安倍首相個人の歴史認識にこだわれば内外で強く批判され、ひいては政治的な問題に発展して国会運営に困難が生じ、安保法制審議にも影響が及ぶ恐れがあります。そういう事態を回避するために閣議決定しないというのは、結局談話を重要な表明として扱わないことになるのではないかと思われます。閣議決定しないことにより反対意見を交わそうとするのはしょせん姑息な手段ではないでしょうか。
 談話は発表しなければならないものではありません。しかし、首相として談話を発表する限り、内容的にも、手続き的にも堂々とした姿勢で臨んでもらいたいと願わずにおられません。

(THE PAGEに7月3日掲載)

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