平和外交研究所

2016 - 平和外交研究所 - Page 28

2016.07.08

イラク戦争参加に関する英国の反省

 2003年のイラク戦争への参加に関する英国の独立調査委員会(チルコット委員会)の報告書が7月6日に公表された。非常に興味深いものだ。

 当時、イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を開発していることが疑われ、それを阻止するために米国や英国はイラクに進攻した。しかし、チルコット委員会は、平和的方法で問題を解決する努力が尽くされないままに行われた戦争であったと判断した。
 これはわたくしの記憶と符合する。イラク戦争の後に書いたノートの一節を紹介させてもらいたい。
「湾岸戦争の終結後、イラクの大量破壊兵器を調査・廃棄するために国連イラク特別委員会(UNSCOM United Nations Special Commission on Iraq)が設置されIAEAと両方で調査が行われた。
 これに対するイラク政府の協力は十分でなく、一歩前進と半歩後退を何回も繰り返し、ときには一歩前進一歩後退になる場合もあった。国連の調査委員会はその間UNSCOMから国連監視検証査察特別委員会(UNMOVIC United Nations Monitoring, Verification and Inspection Commission)に編成しなおされ、安保理は2002年11月、イラク内のあらゆる場所への即時・無条件・無制限・例外なしの査察という厳しい要求をイラクに突きつけた(安保理決議1441号)。これはさすがにイラクとしても受け入れるほかなく、UNMOVICおよびIAEAによる査察が再開された。しかし、この場合も大量破壊兵器の存在は確認されなかったが疑惑が解消されるには至らなかったので、2003年2月、UNMOVICとIAEAは、イラク政府が一定程度査察に協力してきたことを認めつつもさらにいっそうの協力を求めた。
 一方、米国はその時点までは、イラク政府の姿勢を批判しつつも国際査察のプロセスを尊重していたが、UNMOVICの報告以後一段と態度を硬化させ、3月17日にはブッシュ米大統領はフセイン大統領に対しイラクからの立ち退き、つまり自国から出て行くことを要求するに至り、これをフセイン大統領が拒否したので19日から対イラク軍事行動に踏み切った。こうなると査察どころの話ではなくなってしまい、UNMOVICの活動は2月に報告されたままの状態となり、その後再開されることはなかった。
 軍事行動はすみやかに進行して5月1日に終結し、UNMOVICに代わって米英豪の専門家からなるイラク監視グループ(ISG Iraq Inspection Group)が大量破壊兵器の捜索・調査を行ったが、核・化学・生物兵器いずれについてもそれまで判明していた以外のことは発見されなかった(2004年10月に報告)。この報告には、サダム・フセインは将来制裁が解除された場合大量破壊兵器計画を再構築できる能力を維持する意図を有していたという内容も含まれていたが、そうであっても対イラク作戦の主要な根拠となっていた大量破壊兵器の存在は否定されたわけであり、イラク戦争の正当性は大きく損なわれた。」
 チルコット委員会の報告については、この種の報告にありがちなことだが、様々な意見があるだろうし、英国の参戦を決めたブレア元首相は批判を受け入れるとしつつ、戦争に踏み切った判断は「正しかった」と述べたそうだが、報告書の内容は大筋において否定できないと思う。
 英国はEUからの離脱を国民が選んだ。その判断も、また、国民投票を実施した政府も賢明であったか疑われている。また、経済的な理由から中国に接近している。英国について大きな疑問符がついているのは間違いないが、このような調査をできる英国は強いし、魂を失っていないと思う。

 米国でも大量破壊兵器の開発に関し大統領に提出された情報に瑕疵があったことは公式に認められている。米大統領自身も認めたと記憶している。英国も米国も強いと思う。自国の過ちを明確に認識できるし、それを公に扱うことができるからだ。
 日本では、イラク戦争について公式に、あるいは権威のある第三者によって日本の行動が適切であったか調査されたことはなかった。目立ったことは、日本は憲法などの制約から国際的に、他国並みの、普通の行動さえできない、何とか工夫して参加する道を模索しなければならないという発想と米国への協力だけであった。
 安保関連法の改正の際にはイラク特措法を恒久法化することに努力が傾注された。それはイラク特措法を善であったとみなし、さらにその方向で一歩を進めることでなかったか。英米が自己を見つめなおし、軍事行動を開始したのは間違っていたと判断したのとは逆であった。
 日本は国際的に行動するのに強くなければならない。ハード面での軍事的な強さでなく、ソフト面、精神的な強さが必要である。
2016.07.07

スプラトリー諸島(南沙諸島)と「聖ヨハネ・コロニア王国」

 7月12日に国際仲裁裁判の決定が出る予定のスプラトリー諸島(中国名「南沙諸島」)について、フィリピン、中国、台湾およびベトナムが領有権を主張していることは広く知られているが、そのほか、「聖ヨハネ・コロニア王国」がこの群島の主であると言っていることはほとんど知られていない。
 「聖ヨハネ・コロニア王国」は、元来、フィリピンの提督であったTomas Clomaが、第二次大戦後の1947年にスプラトリー諸島で建設した植民地が元であるという趣旨の説明がこの王国のHPに書かれている。
 1974年にClomaが引退したとき、1426人の市民(住民と訳すべきかもしれないが、原文はcitizen)が王国におり、1995年の調査では2557人に増加していたそうだ。
 王国には憲法も政府もあり、外交、通商、財政などの機能も果たしている。つまり、国家を形成するのに必要な領土も、国民も統治の事実もあるというわけだ。
 誰も知らないこの王国がスプラトリー諸島に対して諸国家と同様の領有権の主張をしていると言ってもまともに受け取ってもらえないだろうが、以下に紹介するその国際法的根拠は決して弱くない。

 「スプラトリー諸島は1938年に日本が領有を宣言し、「新南群島」と命名していた。これは国際的に認められたことであった。第二次大戦後の1947年、Clomaは日本軍が去って無主地となった「新南群島」に植民地を建設し、日本と連合国との平和条約交渉が終わるのを待って各国に承認を求める考えであった。しかし、平和条約で日本は「新南群島」を「西沙群島」とともに「放棄」したにとどまった。
 そこで、Clomaは自らが建設した植民地であることを示す標識などを建てるとともに、独立した領域である”Free State of Freedomland”であると宣言した。名称はその後変更・アップグレードされ今日の“Kingdom of Colonia”となった。」
 たしかに、サンフランシスコ平和条約で日本は「新南群島」と「西沙群島」を「放棄」したにとどまり、どの国に属するかは同条約で決定されなかった。
日本は別途台湾(中華民国)との間で日華平和条約を結んだが、この条約では「新南群島」と「西沙群島」について、サンフランシスコ平和条約の規定を確認したにとどまった。つまり、日華平和条約においても、これら2つの群島の帰属は決定されなかった。
 中華民国政府(台湾)と中華人民共和国政府(中国)はそれぞれ、「十一段線」「九段線」の主張で南シナ海の大部分をかこったが、それらは一方的に宣言したことにすぎず、日本が「放棄」した2群島がいずれかに帰属するのではない。また、フィリピンやベトナムもそれぞれ国内法でこれらの群島に対して領有権を主張しても、国際法上の権利が発生するわけではない。
 つまり国際法的には、中国、台湾、フィリピン、ベトナムの主張にかかわらず、「新南群島」は無主地となったのであり、その群島を支配したKingdom of Coloniaの権利が優先すると言っているのであり、それは一つの考えかもしれない。少なくともそれを否定するのは容易でないだろう。
 フィリピンとしてはClomaがフィリピン人であったことを理由に、「新南群島」に対して領有権を主張するのかもしれないが、これはCloma自身の考えとは異なる。フィリピンの主張を認めるか否かは別問題だ。
 
 ともかく、日本が「放棄」した後の2群島の帰属はサンフランシスコ平和条約では未定であり、その後帰属を決定する行為が行われなかったことまでは比較的容易に確認されるだろう。では、これら2群島は未来永劫に無主地だというのが国際法の解釈か。これも問題だ。そうすると、コロニア王国の主張も重みを帯びてくる。7月12日の仲裁裁判はどのような判断を下すのか注目される。

なお、コロニア王国には内閣に相当する事務局(Seretariat)があり、憲法ではアンボン島(インドネシア)に置かれていることになっているが、現在はロンドンの 123 Whitehall Court にあるそうだ。
 
2016.07.06

(短文)南シナ海に関し東インド会社の資料が物語ること

 あまり語られないことだが、英国やフランス(英国人やフランス人というほうが適切かもしれないが)は17世紀からスプラトリー諸島(南沙諸島)を知っていた。もちろん、地元の漁民は彼らが関係する限りにおいて状況をよく知っていただろうが、英国やフランスは外来者であったために調査が必要であり、またその結果比較的系統だって南シナ海の実情を知ることになったと思われる。
 南シナ海の調査をしたのは英国の東インド会社(EIC 1600年設立)やフランスの東インド会社(1604年設立)であり、EICは平戸に1604年商館を設置しており、17世紀の初頭には南シナ海にとどまらず、東シナ海から、さらに我が国まで行動範囲を拡大していた。それだけ航海能力があったからであり、当時彼らが世界で最もよく南シナ海の情勢を把握していたと思われる。
 調査結果を示す海図が現存している。EICは18世紀の終わりころから専門の水路測量学者に南シナ海の実情を調査させ、1821年に南シナ海の海図を出版した。この海図はインターネット上で閲覧可能である(”A Geographical Description of the Spratly Islands and an Account of Hydrographic Surveys Amongst those Islands”で検索可能)。
 これより以前、17世紀の初期に作られていた南シナ海の海図があり、現在は英オクスフォード大学のポドリアン図書館に保存されている。南シナ海の地図としてはこちらのほうがむしろ有名であり、2014年に米紙(ウォールストリート・ジャーナル)が報道したので広く知られているが、日本ではあまり注意されなかったようだ。
 残念ながらこの地図の制作者は不明だが、やはりEICが関係していた可能性がある。この地図がカバーしているのは、北東は日本から、南はチモール島までであり、南シナ海も東シナ海も含んでおり、中国の泉州港からこの海域の主要港との間の方位と距離が示しているのが特徴だ。ビル・ヘイトンの『南シナ海』によれば、この地図は「南シナ海の歴史に対する見かたをがらりと変えた」といわれるほど歴史資料として価値があったらしい。
 航行の目的地までの方位と距離に関する情報として東インド会社が製作した地図が活用されたのであろう。アジアのことについて英国やフランスの情報が頼りにされたのだが、当時の歴史的状況に照らせば自然なことだった。
 ポドリアン図書館の地図は中国との関係を詳しく説明しているが、それは取引上の便宜によることであり、地図の制作者は一方で広大な海域を範囲に収めつつ、他方で、中国の泉州港を経由する貿易の便宜を考慮していた。
 領土問題が起こるのはもっと後のことである。中国領土の範囲について、18世紀以来の中国の資料は一貫して海南島を最南端としていた。

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