平和外交研究所

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2015.01.29

自衛隊は邦人を救出出来るか

「イスラム国」による日本人拘束事件が重大局面を迎えています

日本人が海外で危険な目にあうケースが増えています。様々な形態がありますが、どうしても必要な場合自衛隊が救出に行けないか、という気持ちが我々の頭をよぎります。日本政府もそのような質問に対してどのように説明するか、すでに準備しているようです。
基本から言えば、日本人の安全を保護するのはその日本人が居住、活動あるいは滞在している国の責任であり、逆に、日本にいる外国人の安全を確保するのは日本の責任です。
しかし、自然災害のため、あるいはテロ攻撃に巻き込まれたため外国人が危険な状態に陥っても十分に保護できない場合があります。それでも滞在国の政府によって保護してもらうという筋道を踏み外すことはできません。地震などの場合は、外国の救助隊が駆け付けその国の人たちと協力して救助に当たることがよくありますが、その場合も当該国が受け入れに同意することが必要です。

相手国の同意なしに警察や軍隊などを送り込むことがこれまでなかったわけではありません。たとえば、1980年、イランに拘束されている大使館員を救出するために米国は軍を出動させましたが、失敗に終わりました。イランには事前に知らせず行なったことでありルール違反でした。その結果、米国とイランとの関係がますます悪化しただけでなく、米国内からも批判の声が上がりました。
一方、人道上の理由で外国軍が住民などを救済する場合には、相手国の同意がなくても認められるべきである、という考えが国連などで強くなっています。これは「保護する責任」と呼ばれる問題です。現在、過激派組織の「イスラム国」に対して米国などが行なっている空爆の場合も住民や外国人の保護など人道上の理由を掲げており、国際的に広い支持を得ています。一部中東諸国も参加しています。しかし、「保護する責任」はまだ一般的に認知されるには至ってないので、日本がこの考えに依拠して行動するには問題があるでしょう。

わが自衛隊が日本人を救出することについては、憲法の定める平和主義に照らしてそのような海外での行動が可能かという問題があります。日本の自衛隊が海外で活動することについては、国連の平和維持活動への参加やソマリア沖で海賊からの襲撃を防ぐため輸送船を護衛することなど憲法に抵触しないと判断された場合以外は認められていませんでした。
2014年7月に閣議決定された新方針では、この他、自衛隊が海外で日本人を救出するために出動することが検討され、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」などいわゆる3要件を満たす場合には可能と考えられました。もちろんこの場合も相手国の同意は必要です。
しかし、最近発生した「イスラム国」による日本人の拘束のような場合には、この要件を満たすと言えないのではないかと思われます。また、同意を求める相手国はイラクか、シリアか、それとも「イスラム国」か、ということも問題になります。
「イスラム国」の関係から離れて一般論として考えますと、かりに憲法に照らして問題ないと判断された場合にも、特別の法律を制定して自衛隊の行動準則を明確にするのが通例です。平和維持活動の場合は最初から法律を制定しました。海賊対策の場合は、当初、自衛隊法ですでに想定されている「海上警備行動」と性格付けられましたが、すぐ後で海賊対策のための特別法が制定されました。将来邦人を救出する場合にもやはり特別の法律を制定することとなると思われます。

なお、法的な問題をクリアできても、自衛隊が邦人を救出するには特別の訓練・装備が必要です。

(THEPAGEに1月29日掲載された)
2015.01.27

尖閣諸島の地位に関する古文献

尖閣諸島については多数の研究(玉石混淆)があり、その結果を記した資料は膨大な量に上るが、重要な論点はつぎのようなものだと思う。

①古い文献にどのような記載があるか。

②日本が1895年に尖閣諸島を日本の領土に編入したことをどのように見るか。

③戦後の日本の領土再画定において尖閣諸島はどのように扱われたか。とくにサンフランシスコ平和条約でどのように扱われたか。簡単に言えば、尖閣諸島の法的地位いかんである。

④その後日中両政府は尖閣諸島をどのように扱ってきたか。いわゆる「棚上げしたか否か」などの議論である。

⑤1968年の石油埋蔵に関する国連調査との関係。

⑥沖縄返還との関連。

このなかでも基本的な問題は、もともと中国領であったか否か、および、国際法的に尖閣諸島はどのような地位にあるか、である。前者については、①の古い文献が何と記載しているかが決め手になる。

中国はかつて明国の海防書『籌海圖編』(胡宗憲著)、清国の使節(冊封使)である汪楫(オウシュウ)の『使琉球雑録』、それに西太后の詔書を引用していたが、最後の文献は偽造であることが判明しており、現在は使わなくなっているようである。
汪楫『使琉球雑録』は、冊封使として琉球へ赴いた時の旅行記で、福建から東へ航行し、尖閣諸島の最東端の赤嶼で「郊」を過ぎる、そこが「中外の界」だと記載した。これについて、中国政府は「中外の界」は中国と外国との境だと主張しているが、この「中外の界」と言ったのは案内の琉球人船員であり、その意味するところは「琉球の境界」という意味であった。つまり尖閣諸島は当時琉球の外であるとみなされていた(らしい)のである。
しかし、琉球の外は明の領域だったのではない。明や清の領土は大陸が海に至るまでであり、それに近傍の島嶼だけが領域に含まれていた。
そのことを示す文献として次のようなものがある。
○同じ汪楫が著した『観海集』には「過東沙山、是閩山盡處」と記載されていた。「閩山」とは福建の陸地のことであり、この意味は「東沙山を過ぎれば福建でなくなる(あるいは福建の領域が終わる)」である。東沙山は馬祖列島の一部であり、やはり大陸にへばりついているような位置にある島である。
○明朝の歴史書である『皇明実録』は、臺山、礵山、東湧、烏丘、彭湖、彭山(いずれも大陸に近接している島嶼)は明の庭の中としつつ、「この他の溟渤(大洋)は、華夷(明と諸外国)の共にする所なり」と記載している。
○16,17世紀の明代の地方誌(多数)も明の領域が海岸までであると明記している。例、萬暦『福州府志』巻三「疆域」「東抵海一百九十里」
○明代の勅撰書『大明一統志』も同様に明の領域は海岸までであると記載している。例、巻七十四福建・福州府「東至海岸一百九十里」

なお、尖閣諸島の法的地位については、2014年3月12日にアップしたもの(オピニオンのアーカイブから検索)を参照願います。         
2015.01.17

外交文書公開で明らかになった非核三原則の裏事情

外務省が1月15日に公開した外交文書は1960年代から70年代のものが中心であるが、50年代の文書も含まれている。

内容は、小笠原および沖縄諸島の返還(それぞれ1968年、1972年)、核実験の停止・禁止(50年代からの経緯は複雑)、核兵器不拡散条約交渉(NPT 条約が成立したのは1968年)、日本の非核3原則(現在の形で表明されたのは1967年)、通常兵器の取引規制(日本は67年に多国間で取引を規制する提案を行なった)、日本の武器輸出三原則(佐藤首相の67年発言を経て三木首相が76年に表明した)など、戦後史のみならず現在の日本の対外政策の基本に関わる重要な記録である。

各新聞は公開された文書を大きく報道しており、とくに、沖縄返還に先立つ1965年、佐藤首相が同地を訪問した際に、演説原稿にはなかったことであるが、極東における沖縄の戦略的・軍事的重要性について言及することを米政府から強く求められ、結局応じることとなったことに各紙とも焦点を当てている。強い立場の米国が弱い立場の日本に注文を付けたという印象が強いのでそのような報道になったのは分からないではないが、沖縄が極東において重要な戦略的・軍事的な地位にあることは当然であり、そう考えると米政府の要請をそのような角度から、つまり強圧的であったのではないかという角度から取り上げるのは適切でないのではないかという気がする。ただし、沖縄返還がまだ実現していない当時は、戦略的・軍事的に重要だということは沖縄の将来に関わる強い政治的な意味合いがあったので日本政府が慎重に構え、深入りしたくなかったことも理解できる。

公開された文書には、日本が、一方では米国の核の抑止力に依存しなければならないが、他方では日本で核兵器が使用される可能性は排除したい、「非核」の立場を取りたいという矛盾した考慮があったことが如実に示されている。この矛盾は現在も存在しており、広く知られていることと言えるが、当時は日本の姿勢が試されていた。すなわち、中国は1964年に初の核実験を行なっており、日本としては米国の核の傘が絶対的に必要であった。1966年の国連総会では、日本政府は、NPTの交渉において、核兵器の持ち込みが禁止されることになるかもしれないと警戒し、そのような考えには日本として同調できないと国連総会への代表団宛の訓令で明確に指示していた。この時点ではNPTの交渉がたけなわであり、日本は「非核保有国」となることがほぼ確実視されていた。そうなると核兵器の持ち込みまで禁止されると困ったことになるのであった。

しかし、日本が表だって、核の持ち込みはNPTで禁止されるべきでないと主張すると2つの方面に問題があった。1つは、NPT自体の交渉に問題を投げかけることになるからであった。米国もソ連も、いざというときには核兵器を世界のどこでも使わざるをえなくなるという考えであったが、そのことを議論し始めるととくに非同盟諸国は強く反対するであろうからNPTの交渉が危うくなる。実際NPTは不平等条約として反対する勢力は強かった。だから米ソはそのようなことはおおっぴらに議論したくなかった。つまり、米国やソ連も、核兵器はどこでも使わなければならないが、NPTを成立させるには核兵器を非核保有国に広げることはできない、という矛盾した状況があったのである。

ともかく、日本政府は翌年には核兵器の持ち込みは必要という考えを口にしなくなったどころか、佐藤首相は非核三原則を掲げ、核兵器を「持ち込まない」、現在は「持ち込ませない」と言われる立場を明言していた。前年の国連総会の際の訓令とは正反対の立場であった。この立場はNPTを成立させるには好都合である。米国は核を持ち込まないという日本の立場表明を歓迎した。ただし、どうしても必要なときは持ち込むという「密約」付きで。

核兵器を持ち込まないというのはNPTとの関連以外に、小笠原諸島や沖縄諸島に核兵器を持ち込まない、つまり残さないという国内事情からも重要なことであった。日本としてはむしろこちらの方が深刻な政治問題であったかもしれない。だから、非核三原則で「核を持ち込まない」というのは2重の意味で必要な態度表明だったのである。しかし、核兵器の抑止力には引き続き依存せざるをえなかった。その間の事情が今回の外交文書公開によってかなり明確になったのである。

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