オピニオン
2016.02.26
その中で李明博前政権については簡単に触れただけだったが、あらためてその特色を振り返ってみた。今後の作業のためのノートである。
朴槿恵大統領は最近、親日、親米に外交方針を転換した。一方、李明博前大統領も盧武鉉前前大統領も政権の末期、姿勢が変わった。変わったという意味では朴槿恵大統領と似ているが、反日に変わったことは朴槿恵大統領と逆だった。
李明博大統領は2008年2月~2013年2月、その職にあった。政権についた当初は、日米中ロとの「4強外交」を標榜しつつ、それまでの10年間革新政権が続き、とくに盧武鉉前大統領の任期の終わり近くになって摩擦が高じてきた日本との関係を修復することに努めた。
李明博は日本生まれで、日本に強い親近感があるか不明だが、経済人として日本との関係は深かった。李明博大統領になる前の2006年に来日した際には、安倍首相に対して「韓国国民の3大懸案を未来志向的な解決に向け、積極的な努力をお願いしたい」と話していた。 歴史認識・靖国神社・竹島のことであり、間接的な表現にとどめたのは日本に配慮したからだった。
しかし、08年7月、日本で中学校の新学習指導要領に竹島に関する記述が盛り込まれることになったため韓国は反発し、権哲賢駐日大使を一時帰国させた。韓国政府は竹島の実効支配を強化する総合対策を発表する一方、9月に日本で行われる予定の日中韓首脳会談への大統領の出席を留保した。出席できないかもしれないという姿勢を示したのだ。その後李明博大統領は出席を決めたが、今度は福田首相が辞任し(9月24日)、3国首脳会談はいったん流れた。
これと前後するが、リーマンブラザーズ・ショックが9月15日に発生した。福田首相辞任の9日前だった。韓国が受けたダメージは日本よりはるかに大きく、李明博大統領はその対応に追われ、日本とは通貨スワップ枠の拡大について話し合った。
12月には延期されていた3国首脳会談が大宰府で行われた。日本は麻生新首相、中国は温家宝首相であった。
翌年1月には麻生首相が訪韓し、両首脳は竹島・歴史問題をさておいて、日韓経済連携協定(EPA)の交渉の加速などに合意し、「成熟したパートナーシップ」を進めると謳った。数カ月前の竹島問題についての騒動は尾を引かなかったのだ。李明博大統領としてはそれにかかずらわっている余裕はなかったと見るべきかもしれない。
李明博大統領の対日姿勢が変化したのは野田佳彦首相との会談が契機であった。野田首相は2011年9月に就任し、翌月韓国を訪問した。そのとき、李明博大統領は「歴代の韓国大統領は任期後半になれば反日を利用して支持率を上げたが、私はそのような事はしない」と話した(野田佳彦『時代の証言者』読売新聞に連載した)。ここまでは対日姿勢に変化はなかった。
そして、12月、京都で2人が再会した。その際、野田首相はソウルの日本大使館前の少女像の撤去を求め、李明博大統領は野田首相に対し、慰安婦問題を政治的決断で解決するよう求めた。会談時間のほとんどすべてが慰安婦問題だったとも言われている。
野田前首相は『時代の証言者』で、「李明博大統領は「最初の出会いの時には(李前大統領が)先輩指導者として心から尊敬を受けるだけのことはあると思っていた」「ところがその直後である12月の京都での首脳会談から、慰安婦問題でおかしくなった」と述べている。
日韓の請求権問題に関する日本政府の法的立場は固く、揺るがない。野田首相といえども法的な立場を変更できない。しかし、李明博大統領の日本に対する理解は十分でなく、野田首相が要請に応じなかったことに不満で、翌12年8月10日、突如竹島に上陸した。李明博大統領もそれまでの政権と同じことをするようになったのだ。これに対し、日本側は強く反発し武藤正敏駐韓大使を一時帰国させた。
13日、李明博大統領は青瓦台での昼食会で「国際社会における日本の影響力は以前のようではない」と発言。翌14日には韓国教員大学での懇談の場において、「 天皇が韓国を訪問したければ、独立運動をして亡くなった方々を尋ね、心から謝罪をするならばよいと考える。 痛惜の念のような言葉を言うだけなら、来る必要はない」と発言した。
日本政府は竹島問題を国際司法裁判所(ICJ)に共同付託することを韓国側に提案し、17日に李明博大統領宛の野田佳彦首相親書を送付した。これに対し韓国政府は、「そんな島(野田首相の親書に書かれている「竹島」)には行ったことがない」との大統領の一声で日本側に親書を送り返す措置を取った。日本語表記ではどの島の事か分からないということである。日本外務省は、「親書を受け取らないこと自体が外交慣例上有り得ない」と反発。親書を直接返しに来た在日韓国大使館職員の外務省敷地内立ち入りを認めなかった。結局親書は郵送されてきた。
日本との関係はこのような状態のまま、李明博大統領はこの数カ月後、任期満了で辞任した。
米国との関係では、李明博大統領は就任直後からBSE(牛海綿状脳症)問題で韓国内の激しい抗議への対応に追われた。また、2007年に締結された米国とのFTAについては追加交渉が行われたが、BSEとの関係などから韓国内の反対は強く、そのため、ブッシュ大統領の訪韓を一時延期せざるをえなくなった。
ブッシュ大統領の訪韓は08年8月に実現したが、その直後にリーマンブラザーズ・ショックが起こって韓国経済は混乱し、ウォンは下落傾向に陥った。
李明博大統領は最初の1年間、このような経済問題と米国および日本との関係に忙殺された。
この間、進展したのは中国との関係だった。韓国の輸出は長い間1位米国、2位日本であり、輸入は日本が1位であったが、盧武鉉大統領時代に高度成長を続ける中国経済との関係が急進展し、輸出は03年に、輸入は07年に中国が1位となっていた。
李明博大統領の時代にはその傾向がますます激しくなり、貿易相手国としての中国は2位以下を大きく引き離すようになった。
またロシアとの関係では、李明博大統領は08年7月洞爺湖サミットでメドベージェフ大統領と会談し、その直後に(9月)「資源外交」を掲げてロシアを訪問するなど熱のこもった外交を展開した。
1990年にはロシアと「戦略的協力関係」を結び、シベリア鉄道と南北朝鮮を結ぶ鉄道を連結する「鉄のシルクロード」構想を打ち出した。
北朝鮮との関係では、太陽政策的な南北関係促進と対北支援に積極的であった廬武鉉前大統領とは異なり、李明博大統領は、根からの経済人らしく支援の透明性を重視し、前政権の姿勢を修正することに努める一方、北朝鮮が核を放棄すれば大幅な経済援助を行うと持ち掛けた。「非核・開放・3000」(北朝鮮が非核化と改革・開放を実現するならば、1人当たりの年間所得を3000米ドルにするための経済支援を行う)政策である。
しかし、北朝鮮は、従来通り米国との関係が最重要だとし、韓国に対しては非協力的な姿勢を取っただけでなく、南北境界線付近で韓国側に砲撃を加えたりした。
09年4月にはテポドン2号を日本の上空を通過するルートで発射した。
南北間ではその後もさまざまな試みがあったが、関係改善にはつながらなかった。
李明博前政権の外交姿勢
朴槿恵大統領の外交姿勢の転換について、2月24日、東洋経済オンラインに「韓国が「親米」「親日」へとカジを切った事情」を寄稿した。その中で李明博前政権については簡単に触れただけだったが、あらためてその特色を振り返ってみた。今後の作業のためのノートである。
朴槿恵大統領は最近、親日、親米に外交方針を転換した。一方、李明博前大統領も盧武鉉前前大統領も政権の末期、姿勢が変わった。変わったという意味では朴槿恵大統領と似ているが、反日に変わったことは朴槿恵大統領と逆だった。
李明博大統領は2008年2月~2013年2月、その職にあった。政権についた当初は、日米中ロとの「4強外交」を標榜しつつ、それまでの10年間革新政権が続き、とくに盧武鉉前大統領の任期の終わり近くになって摩擦が高じてきた日本との関係を修復することに努めた。
李明博は日本生まれで、日本に強い親近感があるか不明だが、経済人として日本との関係は深かった。李明博大統領になる前の2006年に来日した際には、安倍首相に対して「韓国国民の3大懸案を未来志向的な解決に向け、積極的な努力をお願いしたい」と話していた。 歴史認識・靖国神社・竹島のことであり、間接的な表現にとどめたのは日本に配慮したからだった。
しかし、08年7月、日本で中学校の新学習指導要領に竹島に関する記述が盛り込まれることになったため韓国は反発し、権哲賢駐日大使を一時帰国させた。韓国政府は竹島の実効支配を強化する総合対策を発表する一方、9月に日本で行われる予定の日中韓首脳会談への大統領の出席を留保した。出席できないかもしれないという姿勢を示したのだ。その後李明博大統領は出席を決めたが、今度は福田首相が辞任し(9月24日)、3国首脳会談はいったん流れた。
これと前後するが、リーマンブラザーズ・ショックが9月15日に発生した。福田首相辞任の9日前だった。韓国が受けたダメージは日本よりはるかに大きく、李明博大統領はその対応に追われ、日本とは通貨スワップ枠の拡大について話し合った。
12月には延期されていた3国首脳会談が大宰府で行われた。日本は麻生新首相、中国は温家宝首相であった。
翌年1月には麻生首相が訪韓し、両首脳は竹島・歴史問題をさておいて、日韓経済連携協定(EPA)の交渉の加速などに合意し、「成熟したパートナーシップ」を進めると謳った。数カ月前の竹島問題についての騒動は尾を引かなかったのだ。李明博大統領としてはそれにかかずらわっている余裕はなかったと見るべきかもしれない。
李明博大統領の対日姿勢が変化したのは野田佳彦首相との会談が契機であった。野田首相は2011年9月に就任し、翌月韓国を訪問した。そのとき、李明博大統領は「歴代の韓国大統領は任期後半になれば反日を利用して支持率を上げたが、私はそのような事はしない」と話した(野田佳彦『時代の証言者』読売新聞に連載した)。ここまでは対日姿勢に変化はなかった。
そして、12月、京都で2人が再会した。その際、野田首相はソウルの日本大使館前の少女像の撤去を求め、李明博大統領は野田首相に対し、慰安婦問題を政治的決断で解決するよう求めた。会談時間のほとんどすべてが慰安婦問題だったとも言われている。
野田前首相は『時代の証言者』で、「李明博大統領は「最初の出会いの時には(李前大統領が)先輩指導者として心から尊敬を受けるだけのことはあると思っていた」「ところがその直後である12月の京都での首脳会談から、慰安婦問題でおかしくなった」と述べている。
日韓の請求権問題に関する日本政府の法的立場は固く、揺るがない。野田首相といえども法的な立場を変更できない。しかし、李明博大統領の日本に対する理解は十分でなく、野田首相が要請に応じなかったことに不満で、翌12年8月10日、突如竹島に上陸した。李明博大統領もそれまでの政権と同じことをするようになったのだ。これに対し、日本側は強く反発し武藤正敏駐韓大使を一時帰国させた。
13日、李明博大統領は青瓦台での昼食会で「国際社会における日本の影響力は以前のようではない」と発言。翌14日には韓国教員大学での懇談の場において、「 天皇が韓国を訪問したければ、独立運動をして亡くなった方々を尋ね、心から謝罪をするならばよいと考える。 痛惜の念のような言葉を言うだけなら、来る必要はない」と発言した。
日本政府は竹島問題を国際司法裁判所(ICJ)に共同付託することを韓国側に提案し、17日に李明博大統領宛の野田佳彦首相親書を送付した。これに対し韓国政府は、「そんな島(野田首相の親書に書かれている「竹島」)には行ったことがない」との大統領の一声で日本側に親書を送り返す措置を取った。日本語表記ではどの島の事か分からないということである。日本外務省は、「親書を受け取らないこと自体が外交慣例上有り得ない」と反発。親書を直接返しに来た在日韓国大使館職員の外務省敷地内立ち入りを認めなかった。結局親書は郵送されてきた。
日本との関係はこのような状態のまま、李明博大統領はこの数カ月後、任期満了で辞任した。
米国との関係では、李明博大統領は就任直後からBSE(牛海綿状脳症)問題で韓国内の激しい抗議への対応に追われた。また、2007年に締結された米国とのFTAについては追加交渉が行われたが、BSEとの関係などから韓国内の反対は強く、そのため、ブッシュ大統領の訪韓を一時延期せざるをえなくなった。
ブッシュ大統領の訪韓は08年8月に実現したが、その直後にリーマンブラザーズ・ショックが起こって韓国経済は混乱し、ウォンは下落傾向に陥った。
李明博大統領は最初の1年間、このような経済問題と米国および日本との関係に忙殺された。
この間、進展したのは中国との関係だった。韓国の輸出は長い間1位米国、2位日本であり、輸入は日本が1位であったが、盧武鉉大統領時代に高度成長を続ける中国経済との関係が急進展し、輸出は03年に、輸入は07年に中国が1位となっていた。
李明博大統領の時代にはその傾向がますます激しくなり、貿易相手国としての中国は2位以下を大きく引き離すようになった。
またロシアとの関係では、李明博大統領は08年7月洞爺湖サミットでメドベージェフ大統領と会談し、その直後に(9月)「資源外交」を掲げてロシアを訪問するなど熱のこもった外交を展開した。
1990年にはロシアと「戦略的協力関係」を結び、シベリア鉄道と南北朝鮮を結ぶ鉄道を連結する「鉄のシルクロード」構想を打ち出した。
北朝鮮との関係では、太陽政策的な南北関係促進と対北支援に積極的であった廬武鉉前大統領とは異なり、李明博大統領は、根からの経済人らしく支援の透明性を重視し、前政権の姿勢を修正することに努める一方、北朝鮮が核を放棄すれば大幅な経済援助を行うと持ち掛けた。「非核・開放・3000」(北朝鮮が非核化と改革・開放を実現するならば、1人当たりの年間所得を3000米ドルにするための経済支援を行う)政策である。
しかし、北朝鮮は、従来通り米国との関係が最重要だとし、韓国に対しては非協力的な姿勢を取っただけでなく、南北境界線付近で韓国側に砲撃を加えたりした。
09年4月にはテポドン2号を日本の上空を通過するルートで発射した。
南北間ではその後もさまざまな試みがあったが、関係改善にはつながらなかった。
2016.02.23
米朝が話し合った時期は、北朝鮮が第4回目の核実験をした1月6日より前であり、直前だった可能性がある。
話し合った内容は、休戦状態にある朝鮮戦争について平和協定を締結することだ。米側より、「朝鮮半島の非核化が議論に含まれるべきだとの考えを明確にした」のに対し、北朝鮮は米側の提案を拒絶した(カービー国務省報道官の説明)。
米朝が平和協定の交渉をすることは、膠着状態にある北朝鮮の核やミサイル問題を解決するために必要なことであり、その交渉が早期に開始されることを願うが、今回伝えられている米国の試みにはいくつかの点で疑問がある。
米朝は直接会って話し合ったのではなく、米側は北朝鮮の国連代表部にメッセージを送り、北朝鮮は拒否したと報道されているが、そもそもこれは理解に苦しむことだ。
メッセージを何によって伝えたのか。直接会っていないということから推測すれば、何らかの文書によったことが考えられるが、国務省から誰も行かずに文書を送るのは異例だ。失礼だと思われても不思議でない。国家が意思表示をする形式としては、非公式の場合であっても外交的には考えられないことだ。すでに深い関係が出来上がっている場合は、いろんな形式が可能だ。普通の書簡でもよい。電話もよく使われる。
しかし、北朝鮮と米国は外交関係がなく、外交官同士が日ごろ接触しているわけでもない。しかも、話し合った内容が「戦争状態を終わらせる平和協定」や「核兵器」だ。そのように高度に政治的な問題について、誰も行かずに、あるいは国務省に来るよう求めないで、「メッセージを送った」というのはありえないことだ。
昨年の国連総会で北朝鮮の李洙墉外相は、今回米側が打診したこととまったく同じ内容のこと、つまり平和協定を結ぶことを提案した。この提案を行ったのは国連総会の場であり、これは外交の常識にかなう堂々とした方法であった。
しかるに、米国はなぜ北朝鮮からの正式の提案には応じないで、今回異例の非外交的方法で同じことを提案したのか。メッセージを受け取った北朝鮮(代表部)は、米側の意図を測れず戸惑ったのではないか。北朝鮮の日頃のふるまいには国家間の儀礼も常識もわきまえないことが、残念ながら少なくないが、今回については米側のふるまいのほうが理解に苦しむ。
推測に過ぎないが、米国は核実験が間近であることを察知し、それをやめさせようとしてそのような提案をしたのではないか。
本当に平和協定交渉を行う用意があるなら、方法はいくらでもある。米国務省としては百も承知だ。あえてこのように奇妙な方法によったのは、アリバイ作りだったのではないか。米国としてあらゆる手段を使って核実験を阻止しようとしたと説明するためのアリバイ作りだ。
以上のように見ていくと、今回のメッセージの交換は政治的な意味は少ないと思われる。北朝鮮が拒否したことをもって朝鮮半島の非核化の問題を論じても大した結果は得られない。北朝鮮の拒否は、外相の正式提案を無視したうえで行われた、奇妙な米側の提案を受け取ることの拒否だったかもしれない。いずれにしてもこのような提案は混乱を激化させる恐れがある。
念のために付言しておくと、わたくしには米国を批判する意図はまったくない。これまでにも平和協定の交渉に関してすれ違いは何回も起こった。米朝双方で打診されたが、そこから進まなかった。肝心なことは、米国がこれまでのような不明確な姿勢をあらためて交渉についての方針を明確にし、正式に交渉の提案をする、あるいは北朝鮮からの交渉の提案に応じることだ。
北朝鮮の核兵器保有を認めるということでない。あくまで平和協定の締結と核兵器の放棄について交渉することである。北朝鮮の核兵器保有を認める必要はないし、そうすべきでない。北朝鮮が核兵器を放棄することを条件に平和協定締結に応じることだ。この交渉は現在の米国の方針でないことは知っているが、この交渉で米国が失うものはなく、米国の利益にかなうはずだ。
米国と北朝鮮の直接交渉?
米国が北朝鮮との直接交渉を秘密裏に試みたが成立しなかったと報道されている。報道された日は2月21日から23日にかけてであり、米国紙の報道が最初だった。米朝が話し合った時期は、北朝鮮が第4回目の核実験をした1月6日より前であり、直前だった可能性がある。
話し合った内容は、休戦状態にある朝鮮戦争について平和協定を締結することだ。米側より、「朝鮮半島の非核化が議論に含まれるべきだとの考えを明確にした」のに対し、北朝鮮は米側の提案を拒絶した(カービー国務省報道官の説明)。
米朝が平和協定の交渉をすることは、膠着状態にある北朝鮮の核やミサイル問題を解決するために必要なことであり、その交渉が早期に開始されることを願うが、今回伝えられている米国の試みにはいくつかの点で疑問がある。
米朝は直接会って話し合ったのではなく、米側は北朝鮮の国連代表部にメッセージを送り、北朝鮮は拒否したと報道されているが、そもそもこれは理解に苦しむことだ。
メッセージを何によって伝えたのか。直接会っていないということから推測すれば、何らかの文書によったことが考えられるが、国務省から誰も行かずに文書を送るのは異例だ。失礼だと思われても不思議でない。国家が意思表示をする形式としては、非公式の場合であっても外交的には考えられないことだ。すでに深い関係が出来上がっている場合は、いろんな形式が可能だ。普通の書簡でもよい。電話もよく使われる。
しかし、北朝鮮と米国は外交関係がなく、外交官同士が日ごろ接触しているわけでもない。しかも、話し合った内容が「戦争状態を終わらせる平和協定」や「核兵器」だ。そのように高度に政治的な問題について、誰も行かずに、あるいは国務省に来るよう求めないで、「メッセージを送った」というのはありえないことだ。
昨年の国連総会で北朝鮮の李洙墉外相は、今回米側が打診したこととまったく同じ内容のこと、つまり平和協定を結ぶことを提案した。この提案を行ったのは国連総会の場であり、これは外交の常識にかなう堂々とした方法であった。
しかるに、米国はなぜ北朝鮮からの正式の提案には応じないで、今回異例の非外交的方法で同じことを提案したのか。メッセージを受け取った北朝鮮(代表部)は、米側の意図を測れず戸惑ったのではないか。北朝鮮の日頃のふるまいには国家間の儀礼も常識もわきまえないことが、残念ながら少なくないが、今回については米側のふるまいのほうが理解に苦しむ。
推測に過ぎないが、米国は核実験が間近であることを察知し、それをやめさせようとしてそのような提案をしたのではないか。
本当に平和協定交渉を行う用意があるなら、方法はいくらでもある。米国務省としては百も承知だ。あえてこのように奇妙な方法によったのは、アリバイ作りだったのではないか。米国としてあらゆる手段を使って核実験を阻止しようとしたと説明するためのアリバイ作りだ。
以上のように見ていくと、今回のメッセージの交換は政治的な意味は少ないと思われる。北朝鮮が拒否したことをもって朝鮮半島の非核化の問題を論じても大した結果は得られない。北朝鮮の拒否は、外相の正式提案を無視したうえで行われた、奇妙な米側の提案を受け取ることの拒否だったかもしれない。いずれにしてもこのような提案は混乱を激化させる恐れがある。
念のために付言しておくと、わたくしには米国を批判する意図はまったくない。これまでにも平和協定の交渉に関してすれ違いは何回も起こった。米朝双方で打診されたが、そこから進まなかった。肝心なことは、米国がこれまでのような不明確な姿勢をあらためて交渉についての方針を明確にし、正式に交渉の提案をする、あるいは北朝鮮からの交渉の提案に応じることだ。
北朝鮮の核兵器保有を認めるということでない。あくまで平和協定の締結と核兵器の放棄について交渉することである。北朝鮮の核兵器保有を認める必要はないし、そうすべきでない。北朝鮮が核兵器を放棄することを条件に平和協定締結に応じることだ。この交渉は現在の米国の方針でないことは知っているが、この交渉で米国が失うものはなく、米国の利益にかなうはずだ。
2016.02.19
3カ月前のクアラルンプールでの米・アセアン首脳会議では、一部の国が中国を刺激することを恐れたため共同声明を発出することができず、議長声明という軽い形式の総括になった。米国はこれが不満で、今回の特別サミットをホストしたのだった。
共同声明は中国と名指しこそしていないが、中国が南シナ海で東南アジア諸国との対立を省みないで行っている拡張的行動を指していることは明らかだ。
米国は中国に対抗して国際法順守の国際的連帯を形成しようとしている。中国との関係に強く縛られ参加できない国もあるが、国際的連帯形成の努力はサニーランズで一歩前進したと言えるだろう。
日本は国際連帯の重要な一員であり、尖閣諸島の関係でも南シナ海の状況を密にフォローする必要がある。
中国は日本にとって重要な国だが、東シナ海及び南シナ海での中国の拡張的行動に日本が毅然として反対し続けるのは当然だ。今回、米・アセアン諸国の特別サミットが開催されたこと自体、また発表された共同声明は日本にとっても積極的な意義がある。
フィリピンが提訴していた国際仲裁裁判の決定が近日中に下る予定だ。領有権問題について結論が出るわけではないが、中国のいわゆる「九段線」主張、つまり、南シナ海のほぼ全域を中国の領域だとする主張の妥当性については判断が示される可能性がある。
東洋経済オンラインに寄稿した「「反中同盟」の呼びかけに加わる国と逃げる国 南シナ海を巡る攻防が緊迫度を増している」を参照願いたい。
米国による南シナ海での国際的連帯の形成
オバマ大統領が2月15~16日、アセアン諸国の首脳をカリフォルニア州のサニーランズ別荘に迎えて開催した特別サミットで、南シナ海の問題について米国とアセアン諸国が共通の認識を表明したことの意義は大きい。3カ月前のクアラルンプールでの米・アセアン首脳会議では、一部の国が中国を刺激することを恐れたため共同声明を発出することができず、議長声明という軽い形式の総括になった。米国はこれが不満で、今回の特別サミットをホストしたのだった。
共同声明は中国と名指しこそしていないが、中国が南シナ海で東南アジア諸国との対立を省みないで行っている拡張的行動を指していることは明らかだ。
米国は中国に対抗して国際法順守の国際的連帯を形成しようとしている。中国との関係に強く縛られ参加できない国もあるが、国際的連帯形成の努力はサニーランズで一歩前進したと言えるだろう。
日本は国際連帯の重要な一員であり、尖閣諸島の関係でも南シナ海の状況を密にフォローする必要がある。
中国は日本にとって重要な国だが、東シナ海及び南シナ海での中国の拡張的行動に日本が毅然として反対し続けるのは当然だ。今回、米・アセアン諸国の特別サミットが開催されたこと自体、また発表された共同声明は日本にとっても積極的な意義がある。
フィリピンが提訴していた国際仲裁裁判の決定が近日中に下る予定だ。領有権問題について結論が出るわけではないが、中国のいわゆる「九段線」主張、つまり、南シナ海のほぼ全域を中国の領域だとする主張の妥当性については判断が示される可能性がある。
東洋経済オンラインに寄稿した「「反中同盟」の呼びかけに加わる国と逃げる国 南シナ海を巡る攻防が緊迫度を増している」を参照願いたい。
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