平和外交研究所

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2014.01.24

無人機問題 2

無人機の開発が進んでいる。昨年11月18日のブログで書いたが、これはその続きである。
技術の進歩により、一般人には想像もできない無人機が作られている、あるいは構想されている。一つの例がマイクロ無人機であり、昆虫サイズの無人機が登場しつつある。これは映像情報だけでなく、ディジタル通信傍受、湿度・温度センサーなども装備する。最近衛星画像が茶の間でも見られるようになっているが、そのうち、さらにこのマイクロ無人機が至近距離からとった映像がテレビに流れるようになるかもしれない。
海では海水の温度差エネルギーを使って長時間行動できる水中無人グライダーとも言うべき潜水艦が作られている。最長5年間水中を航行して偵察行動をするという途方もないものまで計画されている(2013/12/23 Time Magazine)。敵が敷設した機雷の状況を調べたりするのは結構だが、悪用されるとどうなるか。
極め付きは、ロボットが無人機を作るようになるかもしれないことである。これは未来のこととして語られているが、そのような可能性が出てきているわけである。
一方、国連はこれまで無人機利用の危険性について警告を発するなど、ブレーキ役を果たしてきたが、最近国連がコンゴ民主共和国で情報収集のために無人機を使っていることが明らかになった(2013/12/24 Common Dreams)。兵器化しないとの約束の下で使われているらしいが、人道活動目的のために無人機を積極的に活用する議論をするときかもしれないと言われている。
超小型化した無人機がテロリストにより悪用される危険があることは言うまでもないだろう。

2014.01.21

「風立ちぬ」と中国人の目

宮崎駿監督の最近作「風立ちぬ」について、早稲田大学アジア研究機構現代中国研究所の張望講師が寄稿した評論を香港の新聞『明報』(1月21日付)が掲載している。
「風立ちぬ」の主人公堀越二郎は、第二次大戦当時の世界的常識をはるかに超える性能の零戦を設計したことで知られており、そのイメージは研究者あるいは技術者の性格が強いが、張望講師が中国人研究者として、「風立ちぬ」を分析したことは参考に値する。

たとえば、張望は次のように言っている。
「「風立ちぬ」は第二次大戦中、日本最強の零式戦闘機を設計した堀越二郎の夢と愛を語る映画である」
「以前の宮崎監督にはおとぎ話的な題材が多かったが、この作品はがらりと変わって写実的である」「設計士、堀越二郎と文学者、堀辰雄の優れた描写を通して1930年から40年代に至る日本の戦争の歴史を振り返っている」
「この作品には何とも言えない重々しさ(沈重感)と抑圧感(圧抑感)がある。上映終了後、観客には作品を思い出しての笑い声はなく、沈黙のうちに退場していた」
「純粋に飛行機を設計することが好きな青年が、あの戦争期には、国家のため戦闘機を製造することを通じてしか自らの夢を実現する道はなかった。しかも、その成果は軍隊により、神風特攻隊員が自殺的攻撃するのに使われるという、まことに皮肉な結果となった」
「宮崎監督は、この映画を作ったのは、あの苦難な時代を懸命に生きてきた人たちを記念するためだと言っている」

以上は張望講師の印象であり、言わば論評の前段である。そして、「あの苦難な時代を懸命に生きてきた人たち、と言うと、抗日戦争の惨烈な記憶を持つ中国の観衆にはこの言葉の背景にある日本の悲しみは理解困難かもしれない」と問題提起する。要するに、中国人から見れば、日本人は加害者という観念が強く、日本人が苦難の時代を懸命に生きたということなど、思いもよらないだろうと言いながら、以下の日本論(当時の?)に入っていくのである。
「日本の社会においては、「集団(組織)」と「個人」の間にきわめて微妙な緊張関係がある。個人は理想を抱いているが、集団を通じて初めて実現できる。また、一方では、民衆は精神的に集団に依存している。この集団とは政府、会社あるいは団体などである」
そして、張望講師は、日本では国家が自分たちのために働いてくれないと怒ったり、恨んだりするが、他方では、したくないことでも国家のために不承不承することもある、などと分析している。そのバランスが微妙だというのであろう。
このような分析については、評価する人も、しない人もあるはずである。私は、個人主義的傾向が強い中国人らしいと思うと同時に、ひょっとすると、張望講師は共産党の独裁下の中国のことを皮肉っているのではないかという気もしたことを付け加えておく。
いずれにしても、この論評の前段は一般の中国人の反応を意識しつつ、率直な印象を述べているので参考になるかもしれないと思った次第。

2014.01.20

日トルコ原子力協定」

日本とトルコとの原子力協定がアラブ首長国連邦との原子力協定とともに国会へ提出されたが、昨年末に審議はいったん打ち切られた。1月末から始まる通常国会にあらためて提出されるそうだ。トルコとの協定にはアラブ首長国連邦との協定にはない、核燃料の再処理を認めることが盛り込まれており、核不拡散の原則を重視する日本としてそのようなことを認めるべきでないという声が上がり、原子力関連の輸出に熱心な現政権に対する批判と絡んで議論となっている。
日本とトルコとの交渉の詳細は知る由もないが、ある程度推測は可能である。トルコ側が核燃料の再処理を認めてほしいと強く要望したのに対し、日本としては認めたくなかったが、あくまでその姿勢を貫くと、協定の成立、ひいては日本製原子炉のトルコへの輸出ができなくなる恐れがあったので、やむをえず承認したのではないかということである。
福島の事故処理が進行中であるなかで他国に原子炉を輸出すべきでないという反対意見もある。これは最大の論点の一つであろうが、すでに政治問題化していることもあり、ここでは深入りしない。
日本が第三国に核燃料の再処理を認めるのは、日本と米国との原子力協定の下で可能な範囲に限られる。そもそも、日本自身、米国との間で再処理を認められており、今回トルコに対して再処理を認めることは、父(米国)から権利を認めてもらった子(日本)が孫(トルコ)に認めることにたとえることができる。したがって、トルコとの間で再処理を認める前に米国に異論がないか、確かめていたはずである。
しかるに、米国自身、外国に再処理を認めるべきか、方針がぐらついている。1月10日の本ブログで紹介したが、要は、米国としても外国に再処理を認めたくないが、国内の圧力もあり、再処理を認める、ないし目をつぶることが起こっている。その例が2013年10月に仮署名されたベトナムとの原子力協定であり、再処理を禁止する規定が盛り込まれなかった。一方、アラブ首長国連邦との協定では禁止されていた。このようなことから、米国議会などでは米政府の一貫しない姿勢に対する批判も起こっている。
親である米国の事情は子に似ているのである。そのような米国として、日本からトルコへの再処理承認について同意を求められると、駄目だとは言えなかったであろう。推測にすぎないが、どうしてもそういうことになりそうである。
日米ともに、もっと毅然とした態度を取れないかという気もするが、再処理が核武装に直結するわけではない。再処理が悪だ、つまり、平和利用でないとは言えない。もし再処理が悪ならば日本が米国から認められていることも悪になる。
問題は再処理の結果生じるプルトニウムをどのように管理し、利用するかである。悪用すれば核兵器に転用できるのは確かであるが、それは再処理自体の問題でなく、その結果であるプルトニウムの利用いかんである。
また、悪用されないよう監視するのは国際原子力機関(IAEA)であり、この監視を受けることはどの原子力協定でも義務付けられる。そうすることにより、間違いが起こさないための保障措置である。日本・トルコ原子力協定にはもちろんそのことが明記されているので、日米両政府とも安心できる形になっている。

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