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2021.04.02

領土問題に関する日本の立場(要点)

 我が国の領土問題に関する立場である。日本政府の立場とは異なる部分が含まれているが、ご参考まで。

領土問題に関する日本の立場(要点)
2021/04/01

1 総論
〇歴史的な根拠の有無は重要な問題だが、「固有の領土」と主張するだけでは解決困難。
〇法的地位が決定的である。終戦に際し、日本は「戦後の日本の領土は連合国が決定する」という(とんでもない)ポツダム宣言を受諾した(せざるを得なかった)。そしてサンフランシスコ平和条約で日本は朝鮮や台湾などを放棄した。形式は日本の「放棄」だが、実質的にはポツダム宣言の実現であった。しかし、その解釈をめぐって領土問題が発生した。
〇国際司法裁判所や常設仲裁裁判所で解決できれば紛争を避けることができる。が、実際には困難。

2 尖閣諸島

〇歴史的経緯
(明清時代)
中国の領土については、明清時代の公文書である『大明一統志』などに中国大陸のみが領土だという趣旨が記載されていた。
中国は、明代の海防の範囲を定めた文書(籌海図編)に尖閣諸島が記載されていたことを挙げるが、海防の範囲は領有権の範囲でない。
また、中国は冊封使の記録に尖閣諸島が記載されていることを挙げるが、それは中国からの渡航経路の目印として出てくるものであり、実効支配していたことを示すものでない。

(日清戦争)
中国は、尖閣諸島は「戦争の結果、台湾の付属島嶼として日本に割譲した」と主張。
これに対し日本は、「1885年に調査を行い、95年1月に日本の領土として編入した。日清戦争が終了する95年4月の3か月前から日本の領土となっていた」との立場。ただし、この立場は弱いとする論者もいる。

(新中国成立後の立場)
中国は、1971年までは尖閣諸島が日本領であると認めていた。1953年1月8日『人民日報』などにも明記されていた。

(中国の海洋戦略)
中国は1992年、「領海法」を制定し、尖閣諸島、台湾、南シナ海の島嶼をすべて中国領と定めた。これが中国の海洋戦略の基礎となり、膨張的行動を行っている。

〇法的地位
 日本はサンフランシスコ平和条約で台湾を放棄したが、尖閣諸島を放棄したとはどこにも書かれていなかった。尖閣諸島は沖縄と同様同条約3条により処理されたと解され、米国の信託統治下におかれた。そして1972年の沖縄返還協定で日本に返還された。
 米国が統治した沖縄の範囲は米国民政府布告第27号(1953年12月25日付)で定義されており、尖閣諸島はその中に入っていた。

(ICJでの解決)
 日本からも中国からもICJでの解決を求めたことはない。なお、玄葉光一郎外相は2012年11月20日付のNYT紙に、「日本は尖閣諸島を実効支配しており、中国がそれにチャレンジしようとしているので、なぜICJで解決しようとしないのかという質問は中国に向けられるべきである。日本はICJの強制的管轄を受諾している。いろいろと主張しているのは中国であり、中国はなぜICJの強制的管轄を受け入れて主張しないのか」という趣旨の投稿を行った。微妙な表現なので原文を掲げておく。
“Why does not Japan refer the issue to the International Court of Justice?
This is a question that is often wrongly directed toward Japan. It is Japan that has valid control over the Senkaku Islands under international law, and it is China that is seeking to challenge the status quo. The question should be posed to China.
Japan has accepted the jurisdiction of the I.C.J. as compulsory. Since China is undertaking various campaigns to promote their assertions in international forums, it seems to make sense for China to seek a solution based on international law. Why don’t they show any signs of accepting the jurisdiction of the I.C.J. as compulsory and taking their arguments to the I.C.J.?”
3 北方領土

〇歴史的経緯
1855年、日本とロシアの国境を定めた「日ロ通好条約」において、日本とロシアの国境は「択捉島と得撫(ウルップ)島の間」とされた。
1875年、「千島樺太交換条約」で千島列島はすべて日本領とし、樺太は全島ロシア領となった。
 この二つの条約は戦争と関係なく、平和的な交渉の結果であった。
 
 第二次大戦終結後、ロシア(当時はソ連)は北方領土を含む全千島列島を「占領」した。このことは連合国間で承認されたが、国境を定める法的な効果はなく、サンフランシスコ平和条約で千島列島の法的解決が得られるはずであった。ソ連は条約交渉に参加していたが、戦後の自由世界と共産主義国との対立が原因で、条約成立を待たずに脱退してしまった。そのため日本とソ連との間の戦争状態の法的処理は同条約の枠組みではできなくなり、領土問題も未解決のまま残された。
 
日ソ両国は1956年、平和条約交渉を行い、その結果、日ソ共同宣言で両国は外交関係を再開することとなった。しかし、領土問題と平和条約問題については合意が得られず、平和条約交渉を続けることとなり、その交渉が合意に達した後、ソ連は「歯舞群島および色丹島」を日本に「引き渡す」ことに合意した。
 
その後、東西の冷戦が激化し、日ソ間の交渉は進捗しないどころか後退することもあったが、1973年の田中首相とブレジネフ書記長、1991年の海部首相とゴルバチョフ書記長、1993年の細川首相とエリツィン大統領、橋本首相とエリツィン大統領などの会談において平和条約交渉を前進させる努力が続けられ、細川・エリツィン会談後発表された東京宣言では、「択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島の帰属に関する問題」を「歴史的・法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成された諸文書および法と正義の原則を基礎として解決することにより平和条約を早期に締結するよう交渉を継続し、もって両国間の関係を完全に正常化すべきことに合意する」と明記された。
1998年には橋本首相からエリツィン大統領に対し、領土問題解決のためのさらなる提案(川奈提案)を行ったが、後にロシアは受け入れできないと回答してきた。
 
しかるに、プーチン大統領は「1956年の日ソ共同宣言を基礎として平和条約交渉を進めよう」と突如言いだし、2018年11月、安倍首相はシンガポールにおいてこの提案に合意した。これは日本の歴代の首相がロシア側と懸命な努力を重ね、とくに日ソ共同宣言では記載されなかった「4島」を、具体的名称まで両国間の合意文書に書き込んだことを無視することだと批判された。
 
時間をさかのぼるが、米国の影響は日本とソ連との2国間交渉のころから及んでおり、日本は、「ソ連に不当な譲歩をするなら沖縄を返さない」と言われたこともあった(ダレスの恫喝)。
 いまでも、米国との関係はロシアとの北方領土問題に影を落としている。北方領土が返還された場合、米軍基地を置かないという条件を明確に示さなければならないとプーチン大統領が要求していることである。プーチン氏は、そのことについて合意文書まで要求しているそうだが、それは日本の主権を無視する要求であった。プーチン氏は米国といかに対抗していくかが最重要問題であり、その枠の中で日本との関係をとらえているのでそのような要求をしてきたのであった。
 あまり言われないことだが、筆者個人としては、日ロだけでなく、米国も加わって解決するのがよいと思っているが、米国がそれに応じるか分からない。

〇法的地位
日本はサンフランシスコ平和条約で「千島列島」を放棄したのは事実である。しかし、日本は「千島列島」をロシアの領土だと認めたのではない。もちろん米国領だとみなしたのでもない。つまり、日本が放棄した後の「千島列島」の帰属は未定なのである。
 日本政府の交渉方針も一貫しておらず、4島返還でなく、2島であってもよいという考えがあったのも事実であった。しかし、そうだからと言って、ロシアの主張が正しくなる(ロシアの獲得する島の数が多くなる)わけではない。

ロシアは、「戦争の結果としてロシアが取得した」と主張しているが、ロシアの領土主張を裏付ける根拠は皆無である。戦争の結果ロシアは「千島列島」を獲得してよいとどの国も認めていない。第二次大戦後米国がソ連に認めたのは「千島列島」を「占領」することだけであった。
ロシアは心の中では法的問題が解決していないことを自認している。だからこそ、ロシアは日本に対し、千島列島に対するロシアの主権を認めるよう求めている。ロシアの平和条約案第5条が「日本国はいっさいの付属島嶼を含む樺太島南部および「千島列島」に対するソヴィエト社会主義共和国連邦の完全なる主権を承認」するよう求めていることがその証左である。
要するに、日本もロシアも領土問題を解決し、平和条約を締結することを必要としているのである。

〇ICJでの解決
1973年(昭和47年)10月23日にモスクワで行なわれた日ソ外相会談において、大平外相より「北方領土の領有権問題」をICJに付託することを提案した。しかし、ソ連のグロムイコ外相はこれを拒否した。

4 竹島

〇歴史的経緯
外務省のパンフレット『竹島問題を理解するための10のポイント』は要旨次の通り記載している。
 
「日本は古くから竹島の存在を認識していた。
韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はない。韓国があげる古文献には「于山島」の記載があるが、これが「竹島」であるとは言えない。これは鬱陵島のことだという見解もある。
我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには竹島の領有権を確立していた。
17世紀末、朝鮮との友好関係を尊重して、幕府は日本人の鬱陵島への渡航を禁止することを決定し、これを朝鮮側に伝えるよう対馬藩に命じた。この鬱陵島の帰属をめぐる交渉の経緯は、一般に「竹島一件」と称されている。つまり、幕府は鬱陵島への渡航は禁止したが、その一方で、竹島への渡航は禁止しなかったのである。このことからも、当時から、我が国が竹島を自国の領土だと考えていたことは明らかである。」

注1 このパンフレットは、重要な経緯の一つであった明治10年(1977年)の太政官決定が、「竹島外一島の儀は本邦と関係のない儀と心得べきこと」と述べていたことを記載していないという問題がある。幕府の姿勢には矛盾した点があるとも考えられるのである。
注2 1905年、日本政府は隠岐島民の願い出を受け、閣議決定によって同島を「隠
岐島司ノ所管」と定めるとともに、「竹島」と命名した。外務省パンフレットは「これにより、我が国は竹島を領有する意思を『再確認』した」と記述しているが、もし明治政府がその以前から竹島を領有していたと認識していたのであれば、閣議決定などしない。「再確認」はパンフレットの作成者の言葉に過ぎない。

 第二次大戦が終結した後、竹島は米軍の演習地となった。
サンフランシスコ平和条約の発効が間近になった1951年、韓国は、条約案に竹島が言及されていないことに不満で、鬱陵島などと同様日本が放棄することを明記するよう求めたが、米国は応じなかった。
翌年1月、李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」を行い、いわゆる「李承晩ライン」を、竹島を含む形で一方的に設定した。しかし、当時は米軍が訓練に使用していたので手出しはできなかった。
 1953年、竹島を在日米軍の訓練地から解除することが日米合同委員会で合意された。韓国は沿岸警備隊を竹島に派遣し始め、監視所、灯台、接岸施設、宿舎等を構築し、警備隊員を常駐させた。日本からICJでの解決を提案したが、韓国は応じなかった。
 
〇1965年に日韓基本条約・請求権協定が締結された際のやり取り
 1962年、請求権問題について大筋合意がなされた際、日本側から国際司法裁判所で解決を図ることを提案したが、韓国側は拒否。
 1965年6月17日(条約署名の5日前)、条約と共に署名されることとなっている「紛争解決に関する交換公文」において「両締約国間のすべての紛争は(略)竹島に対する主権に関する紛争を含み」との文言を記入することを日本側より提案したが、韓国側が反対したため、結局交換公文は「両国政府は、別段の合意がある場合を除くほか、両国間の紛争は、まず外交上の経路を通じて解決するものとし、これにより解決することができなかつた場合は、両国政府が合意する手続に従い、調停によつて解決を図るものとする。」となった。
日本政府は、「紛争の解決に関する交換公文にいう「両国間の紛争」には、竹島をめぐる問題も含まれている」「大韓民国による竹島の不法占拠は、我が国として受け入れられるものではない」との立場である(2007年4月3日、鈴木宗男衆議院議員の質問に対する外務省の回答)。

2012年8月、李明博大統領は韓国大統領として初めて竹島に上陸した。

〇法的地位
 サンフランシスコ平和条約2条a項では、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島および鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原および請求権を放棄する」と記載され、竹島は日本が放棄することになっていない。
 この草案内容を知った韓国は、前述したように交渉中の1951年7月、米国に対し、「第2条a項の日本の放棄に関する文言は『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換える」よう要望した。「独島」は「竹島」の韓国名であり、要するに、竹島も日本が放棄すると平和条約で明記してほしいと要請したのであった。
 これに対し米国は、「竹島に関しては、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない」と返答し、条約案の修正要求に応じなかった(ラスク極東担当国務次官補から梁(ヤン)大使への書簡)。
 この経緯から、日本は竹島を放棄していないことが明白である。

〇ICJでの解決
日本から1954年(李承晩ラインが宣言された年)、1962年(日韓間で請求権の扱いについて大筋合意された年)、2012年(李明博大統領が竹島に上陸した年)に国際司法裁判所への付託を提案したが、韓国側は拒否し続けた。韓国政府は、韓国の法的立場が弱いことを自認しているからであろう。
1954年当時、米国も韓国に対してICJでの解決を勧めていた。1954年に韓国を訪問したヴァン・フリート大使の帰国報告に「米国は、竹島は日本領であると考えているが、本件をICJに付託するのが適当であるとの立場であり、この提案を韓国に非公式に行った」との記録が残されていた。

2021.03.18

日米2+2(外務・防衛担当閣僚会合)とバイデン政権のアジア・太平洋戦略

 バイデン大統領は3月3日、「暫定国家安全保障戦略ガイダンス」を発表し、13日には日米豪印の4カ国(Quad=クアッド)首脳会議を主唱した。「中国は急速に自己主張を強めており、安定し開かれた国際システムに挑戦する能力がある、唯一の競争相手だ」というのがバイデン氏の認識である。
 そして、国務長官と国防長官が来日し、3月16日、日本側と外務・防衛担当閣僚会合(2+2)を行った。バイデン政権のアジア・太平洋地域に対する外交・安全保障政策は着実に固められつつある。
 
 アジア・太平洋地域において現在生じている大問題は、中国の拡張的、かつ国際法違反の疑いが濃厚な行動であり、また、仲裁裁判所の判断を尊重しようとしない姿勢である。今回の2+2が中国を名指ししてその行動を強く問題視したのも、また茂木外相が「インド太平洋の戦略環境は以前とは全く異なる次元にある」と指摘したのもそのためである。

 日本は、中国によるハラスメントが増加している尖閣諸島について、米国から防衛義務の再確認を取り付けた。また、これは中国の問題でないが、北朝鮮による拉致問題について、日米は2+2であらためてその即時解決の必要性を確認した。これらの成果は積極的に評価できる。

 しかし、日本としては、尖閣諸島を防衛するだけでなく、より広範な海域、とくに東シナ海や南シナ海についてどのような貢献をし、義務を果たすかが問われる。日本は米国とともにこれらの海域は厳しい状況にあるとの認識を示し、また「緊張を高める行動は断じて受け入れられない」としているが、具体的な行動については明言していない。

 とくに、台湾の平和と安全を維持することについては米国と日本の立場は、共通している面があるのはもちろんだが、異なる面がある。なかでも台湾有事の場合であり、米国は中国が軍事力を行使することに反対であり、中国がもしそうすれば米国も軍事介入する姿勢である。これは周知のことであるが、あまりにも重要なので再確認しておきたい。

 1972年の上海コミュニケでは「米国は,台湾海峡の両側のすべての中国人が,中国はただ一つであり,台湾は中国の一部分であると主張していることを認識している。米国政府は,この立場に異論をとなえない。米国政府は,中国人自らによる台湾問題の平和的解決についての米国政府の関心を再確認する」と表明した。

 ただ、これだけでは台湾有事の場合、米国政府がどうのように行動するか明確でないが、同コミュニケの後、米国で制定された「台湾関係法」では「台湾人民の安全または社会、経済の制度に危害を与えるいかなる武力行使または他の強制的な方式にも対抗しうる合衆国の能力を維持する」とされ(台湾関係法2条B項6)、さらに「大統領は、台湾人民の安全や社会、経済制度に対するいかなる脅威ならびにこれによって米国の利益に対して引き起こされるいかな危険についても、直ちに議会に通告するよう指示される。大統領と議会は、憲法の定める手続きに従い、この種のいかなる危険にも対抗するため、とるべき適切な行動決定しなけれぱならない。」と明記された(同法3条C項)。軍事力の行使を含め対抗することがありうることが明記されているのである。

 一方日本の立場については、1972年の国交正常化の際の共同声明3項で、「中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」と明記されている。単純化して言えば、「日本は敗戦の結果台湾を放棄したので、台湾がどの国の領土かは言えない。だから、中国の主張を認めることはできないが、かといって反対するのでもない」という立場だったのである。

 「インド太平洋の戦略環境は以前とは全く異なる次元にある」現在も、日中共同声明に反することはできないが、台湾の平和と安定の維持はインド太平洋の戦略環境にかかわる要の問題である。中国がエスカレートして軍事行動に出た場合、米国が台湾海域で行動を取ることがありうる。その場合、日本は共同声明に反しない範囲内で後方支援などを求められるのではないか。2+2の共同声明には「日本は日米同盟を更に強化するために能力を向上させることを決意した」という一文が盛り込まれた。これは在日米軍駐留経費負担(思いやり予算)だけの問題でない。インド太平洋地域の安全保障環境の悪化に伴い、米国は日本に役割の拡大を求めてくる可能性がある。

 なお、台湾有事と日本の安全保障の関係は古典的な重要問題であるが、本稿では立ち入らない。

 台湾の世界保健機構(WHO)へのオブザーバー参加は中国によって妨げられている。これも中国による台湾を屈服させるための方策の一環であり、日本は米国やEUと共同で台湾のオブザーバー参加を支持すべきである。台湾はオブザーバーとなることによって台湾の国際的地位を変更しようというのではない。保健衛生の問題に関して、台湾がWHOの対応や各国の状況をフォローし、可能であれば貢献しようとしているだけであり、それに対して、「台湾は中国の言うとおり控えておればよい」とする中国の態度はあまりにも政治的であり、かつ傲慢である。

 またミャンマーで起こっていることに2+2はどのように対応したか。ミャンマーでは軍のクーデタにより民主的な人たちは弾圧され、毎日多数の犠牲者が出ている。ミャンマーは中国の「一帯一路」にとっても要の国である。日米が重視しているアジア・太平洋地域の開かれた国際秩序にも直接関係する国である。

 日米外相会談では、ミャンマー情勢について「多数の民間人が死傷している状況を強く懸念する」との認識で一致したという。またブリンケン国務長官は16日、2+2後の共同会見で「民主主義や人権といった価値が脅かされている」と述べ、ミャンマーの軍事クーデターに加え、香港や台湾、中国の新疆ウイグル自治区やチベット自治区の状況を挙げて、中国を名指しで批判した。

 ミャンマーで起こっている問題について、日米とも言葉では強く述べているが、それだけで足りるか。米国はミャンマーの国軍に対して制裁を強化している。そのこと自体は結構であるが、ミャンマー問題は、国連の有効性が問われる事態を惹起している。これも国際社会全体にとって深刻な問題である。日米が重視する「インド太平洋の戦略環境」にも直接かかわる。それにしては、日米両国は2+2を含め、あまりにもおとなしい扱いではないか。両国ともこれまでの経緯や考えにとらわれることなくなすべきことを真剣に検討すべきである。
2021.02.08

ミャンマーの「クーデター」

ミャンマーのクーデターに関する一文をザページに寄稿しました。
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