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2017.11.06
「朝鮮通信使」とは江戸時代、前後12回にわたって朝鮮朝廷から徳川幕府に派遣された使節のことである。日本と李氏朝鮮との交流は室町時代から行われていたが、戦国時代に途絶えてしまった。そして、秀吉の朝鮮出兵により両国間の関係は極度に悪化した。
江戸時代になって徳川幕府は朝鮮からの使節派遣を求め、1607年、秀忠将軍の時に第1回目の「朝鮮通信使」が実現した。それから1811年の第12回まで継続された。
「朝鮮通信使」という名称だが、外交使節にほかならず、朝鮮朝廷は大規模な使節団を派遣した。多い時には約500人にも上った。
随員の中には文化水準が非常に高い人が含まれていた。当時の日本人は通信使一行との交流に熱心であり、宿泊先に駆けつけ、自作の詩を朝鮮側の随員に見せたり、詩や文章を書いてもらったりしていた。現在、関連資料は日韓両国にまたがる40カ所に残されている。
「朝鮮通信使」は我々の想像力をかきたててくれる。いくつか挙げてみると、
〇日本は江戸時代、原則鎖国であり、オランダと中国(明と清)にだけは例外的に門戸を開いていたと説明されることが多いが、朝鮮との交流は、政府間の交流の意味でも、また、貿易の点でもこれら両国に引けを取らないものであった。しかし、我が国ではそのような位置づけは与えられていない。「朝鮮通信使」のことは最近ようやく話題になることが漸増してきたが、オランダや中国とはまだまだ比較にならない扱いである。「朝鮮通信使」は日本史の中で正しく位置付けられるべきであり、また、日本の外交史としても語られるべきではないか。
〇使節は朝鮮からだけ派遣され、日本からは送られなかった。日本側で朝鮮との交流の窓口になっていた対馬藩からは使者が朝鮮に派遣され、将軍からの書簡(「国書」と呼んでいた)を持参したこともあったが、幕府の使節とはみなされていなかった。かりに、幕府の使節だとしてもその規模は朝鮮からの使節とは比較にならない小規模であったし、朝鮮朝廷としても幕府の使節とみなしていなかったのではないか。
〇幕府は自ら使節を派遣せず、平たく言えば、朝鮮側を呼びつけた格好になった。
朝鮮側としては、日本の状況を知りたく、また、日本に連れ去られていた朝鮮人を連れ帰りたかったが、幕府に呼びつけられた形で訪日することについては抵抗があり、できるだけ平等の形にしたかった。そのためであろう、朝鮮朝廷は、日本側に正式の要請状を提出するよう求めた。「国書」と呼ばれていたものである。「国書」問題は対馬藩の努力により、何とか解決したが、その間に、幕府も朝鮮朝廷もたがいにメンツにこだわり、両方から圧力を受けた対馬藩は対応に苦慮した。同藩では「国書」の偽造まで行った。
朝鮮側は第3回目まで「朝鮮通信使」でなく、「回答兼刷還使」と呼称していた。「回答」は、日本側からの要望に応えて使節を派遣するのだということ、「刷還使」は朝鮮人を連れ帰ることが目的だと言っているのである。
朝鮮側にはそのような抵抗はあったが、結局は幕府の要望に応じた。両国間の力関係は対等でなく、特に武力面では日本側が優位にあったからだと思われるが、はたしてそのような理解でよいか。
〇幕府は、朝鮮からの使節を大名の参勤交代のように見ていたわけではなく、一国の正式の使節にふさわしい接遇をしなければならないと考え、関係する拡販に丁重に接待するよう命じていた。各藩にとってそのための負担は非常に重かったそうだ。
また、幕府が第1回通信使で約1300人の朝鮮人の帰国を認めたのは、一定程度朝鮮側を尊重する気持ちがあったからではないか。
〇朝鮮出兵の際、日本側が連れてきた朝鮮人は数千名から一万名を超える数であったらしい。そのうち、第3回の通信使(1624年)までに帰国できたのは6000~7500人に上ったと言われている。南蛮などに奴隷として売られた者、滞在の長期化で日本に家族ができた者もあったというが、実情はどうだったのか。さらなる調査研究が必要ではないか。
「朝鮮通信使」に関する資料が「世界の記憶」に登録されたことはよろこばしい。これを機会に、日朝交流史と日本外交史の研究がさらに進むことが期待される。
朝鮮通信使の「世界の記憶」登録
10月30日、ユネスコで「朝鮮通信使」に関する記録と「上野三碑」が「世界の記憶(以前は「世界記憶遺産」と呼ばれていた)」に選ばれた。「朝鮮通信使」とは江戸時代、前後12回にわたって朝鮮朝廷から徳川幕府に派遣された使節のことである。日本と李氏朝鮮との交流は室町時代から行われていたが、戦国時代に途絶えてしまった。そして、秀吉の朝鮮出兵により両国間の関係は極度に悪化した。
江戸時代になって徳川幕府は朝鮮からの使節派遣を求め、1607年、秀忠将軍の時に第1回目の「朝鮮通信使」が実現した。それから1811年の第12回まで継続された。
「朝鮮通信使」という名称だが、外交使節にほかならず、朝鮮朝廷は大規模な使節団を派遣した。多い時には約500人にも上った。
随員の中には文化水準が非常に高い人が含まれていた。当時の日本人は通信使一行との交流に熱心であり、宿泊先に駆けつけ、自作の詩を朝鮮側の随員に見せたり、詩や文章を書いてもらったりしていた。現在、関連資料は日韓両国にまたがる40カ所に残されている。
「朝鮮通信使」は我々の想像力をかきたててくれる。いくつか挙げてみると、
〇日本は江戸時代、原則鎖国であり、オランダと中国(明と清)にだけは例外的に門戸を開いていたと説明されることが多いが、朝鮮との交流は、政府間の交流の意味でも、また、貿易の点でもこれら両国に引けを取らないものであった。しかし、我が国ではそのような位置づけは与えられていない。「朝鮮通信使」のことは最近ようやく話題になることが漸増してきたが、オランダや中国とはまだまだ比較にならない扱いである。「朝鮮通信使」は日本史の中で正しく位置付けられるべきであり、また、日本の外交史としても語られるべきではないか。
〇使節は朝鮮からだけ派遣され、日本からは送られなかった。日本側で朝鮮との交流の窓口になっていた対馬藩からは使者が朝鮮に派遣され、将軍からの書簡(「国書」と呼んでいた)を持参したこともあったが、幕府の使節とはみなされていなかった。かりに、幕府の使節だとしてもその規模は朝鮮からの使節とは比較にならない小規模であったし、朝鮮朝廷としても幕府の使節とみなしていなかったのではないか。
〇幕府は自ら使節を派遣せず、平たく言えば、朝鮮側を呼びつけた格好になった。
朝鮮側としては、日本の状況を知りたく、また、日本に連れ去られていた朝鮮人を連れ帰りたかったが、幕府に呼びつけられた形で訪日することについては抵抗があり、できるだけ平等の形にしたかった。そのためであろう、朝鮮朝廷は、日本側に正式の要請状を提出するよう求めた。「国書」と呼ばれていたものである。「国書」問題は対馬藩の努力により、何とか解決したが、その間に、幕府も朝鮮朝廷もたがいにメンツにこだわり、両方から圧力を受けた対馬藩は対応に苦慮した。同藩では「国書」の偽造まで行った。
朝鮮側は第3回目まで「朝鮮通信使」でなく、「回答兼刷還使」と呼称していた。「回答」は、日本側からの要望に応えて使節を派遣するのだということ、「刷還使」は朝鮮人を連れ帰ることが目的だと言っているのである。
朝鮮側にはそのような抵抗はあったが、結局は幕府の要望に応じた。両国間の力関係は対等でなく、特に武力面では日本側が優位にあったからだと思われるが、はたしてそのような理解でよいか。
〇幕府は、朝鮮からの使節を大名の参勤交代のように見ていたわけではなく、一国の正式の使節にふさわしい接遇をしなければならないと考え、関係する拡販に丁重に接待するよう命じていた。各藩にとってそのための負担は非常に重かったそうだ。
また、幕府が第1回通信使で約1300人の朝鮮人の帰国を認めたのは、一定程度朝鮮側を尊重する気持ちがあったからではないか。
〇朝鮮出兵の際、日本側が連れてきた朝鮮人は数千名から一万名を超える数であったらしい。そのうち、第3回の通信使(1624年)までに帰国できたのは6000~7500人に上ったと言われている。南蛮などに奴隷として売られた者、滞在の長期化で日本に家族ができた者もあったというが、実情はどうだったのか。さらなる調査研究が必要ではないか。
「朝鮮通信使」に関する資料が「世界の記憶」に登録されたことはよろこばしい。これを機会に、日朝交流史と日本外交史の研究がさらに進むことが期待される。
2017.11.01
今年の決議案について推進派が特に問題視したのは、去る7月に国連で採択された核兵器禁止条約にまったく触れていないことであった。慎重派からすれば、核兵器禁止条約はそもそも反対の意見を顧みず強引に成立させた条約だから、それを決議案に記入する必要はないということなのであろう。
この立場の違いは解消されていない。慎重派である日本はこの条約に署名しておらず、そのため強い批判も受けているが、米国の核の傘に依存している限りやむを得ない選択だという判断もありうる。
しかし、賛成か反対かはともかく、この条約の成立は核の歴史において一つの重要な出来事であり、無視することは適切でない。日本としては積極的に臨むことは困難であっても、核の廃絶決議案においてこの条約に言及しつつ、現時点では慎重派の意見にも注意を払う必要があることを記入するなど、工夫の余地があったと思う。
推進派が問題視するもう一つの点は、これまで核をめぐる矛盾に満ちた、困難な状況下で、日本を含め各国が汗水流して考案してきた、核の非人道性や核廃絶の決意に関する文言が、今回の決議案によって薄められたことであった。中には、今回の決議案が、国際社会がこれまで努力してきたことに反しているという認識もあったようだ。NZのデル・ヒギー軍縮大使は「今年の決議案には過去の決議からの根源的な逸脱があり落胆している」とも述べたそうだ。スウェーデンやスイスの大使も来年以降の決議案の内容に強い警戒感を示していたという。
これらの国は、大国ではないが、推進派の中でも急進的でなく、日本の状況をよく理解し、何かと助け舟を出してくれており、日本として協力していくことが必要な国ばかりである。日本政府には、これらの国の存在と意見を無視することがないよう希望したい。日本政府は、これまで、核兵器国と非核保有国との間の橋渡し役になると述べてきており、評価されてきた。日本政府は、今後もそのような姿勢を維持すべきであるが、そのためには核軍縮のために各国が払ってきた努力を尊重する必要がある。
日本が1994年以来、核兵器の廃絶のために国連に提出してきたこの決議案は、被爆国でありながら、米国の核に依存しているという日本の矛盾した立場が根底にあった。そのため日本はどちらを向いているのか分からない、と疑惑の目で見られたことも少なくなかったが、苦しみながらもなんとか対応し、一方に偏するのを回避してきた。
しかし、核兵器禁止条約の成立後の状況は違う。今までの方法でも決議案を成立させることはできるだろうが、その過程において日本は核の使用論者だという印象をますます強く与える結果になるおそれがある。日本は最近、米国の核先制不使用宣言に反対した。また、今回の決議案をめぐっても日本は核の使用を必要と考えているのだという疑惑を惹起してしまった。
にもかかわらず、日本としては今後も核の使用に制約となることは一切言えないと考えるのであれば、推進派と折合う道はますます狭くなるだろう。逆に対立が強くなるおそれもある。そうなれば泥沼に陥る。
極端なようだが、この際、思い切って、この決議案の提出を終了させてはいかがかと考える。そして、あらたに日本の積極性を示す方策を検討すべきである。
その方策として、国連などで核の非人道性に対する各国の理解を深める努力を強化することが考えられる。数年前から始まった非人道性に関する会議は途中から推進派によって核兵器禁止条約に転換されてしまった。しかし、非人道性については表面的なことしか理解されていないという現実は変わらない。なすべきことは多々ある。また、日本としては特別の義務がある。非人道性を深める努力には核兵器国のなかにも理解しようとする国があるだろう。
日本が提出する核廃絶決議案
国連総会に日本が毎年提出している核廃絶決議案は今年も提出されたが、賛成する国は23カ国減少して144カ国となった。かつてない大幅な減少となったのは、先般成立した核兵器禁止条約をめぐって、核の抑止力に依存している国(慎重派)と、核の廃絶を何としても進めなければならないという考えの国(推進派)が対立することになったからである。今年の決議案について推進派が特に問題視したのは、去る7月に国連で採択された核兵器禁止条約にまったく触れていないことであった。慎重派からすれば、核兵器禁止条約はそもそも反対の意見を顧みず強引に成立させた条約だから、それを決議案に記入する必要はないということなのであろう。
この立場の違いは解消されていない。慎重派である日本はこの条約に署名しておらず、そのため強い批判も受けているが、米国の核の傘に依存している限りやむを得ない選択だという判断もありうる。
しかし、賛成か反対かはともかく、この条約の成立は核の歴史において一つの重要な出来事であり、無視することは適切でない。日本としては積極的に臨むことは困難であっても、核の廃絶決議案においてこの条約に言及しつつ、現時点では慎重派の意見にも注意を払う必要があることを記入するなど、工夫の余地があったと思う。
推進派が問題視するもう一つの点は、これまで核をめぐる矛盾に満ちた、困難な状況下で、日本を含め各国が汗水流して考案してきた、核の非人道性や核廃絶の決意に関する文言が、今回の決議案によって薄められたことであった。中には、今回の決議案が、国際社会がこれまで努力してきたことに反しているという認識もあったようだ。NZのデル・ヒギー軍縮大使は「今年の決議案には過去の決議からの根源的な逸脱があり落胆している」とも述べたそうだ。スウェーデンやスイスの大使も来年以降の決議案の内容に強い警戒感を示していたという。
これらの国は、大国ではないが、推進派の中でも急進的でなく、日本の状況をよく理解し、何かと助け舟を出してくれており、日本として協力していくことが必要な国ばかりである。日本政府には、これらの国の存在と意見を無視することがないよう希望したい。日本政府は、これまで、核兵器国と非核保有国との間の橋渡し役になると述べてきており、評価されてきた。日本政府は、今後もそのような姿勢を維持すべきであるが、そのためには核軍縮のために各国が払ってきた努力を尊重する必要がある。
日本が1994年以来、核兵器の廃絶のために国連に提出してきたこの決議案は、被爆国でありながら、米国の核に依存しているという日本の矛盾した立場が根底にあった。そのため日本はどちらを向いているのか分からない、と疑惑の目で見られたことも少なくなかったが、苦しみながらもなんとか対応し、一方に偏するのを回避してきた。
しかし、核兵器禁止条約の成立後の状況は違う。今までの方法でも決議案を成立させることはできるだろうが、その過程において日本は核の使用論者だという印象をますます強く与える結果になるおそれがある。日本は最近、米国の核先制不使用宣言に反対した。また、今回の決議案をめぐっても日本は核の使用を必要と考えているのだという疑惑を惹起してしまった。
にもかかわらず、日本としては今後も核の使用に制約となることは一切言えないと考えるのであれば、推進派と折合う道はますます狭くなるだろう。逆に対立が強くなるおそれもある。そうなれば泥沼に陥る。
極端なようだが、この際、思い切って、この決議案の提出を終了させてはいかがかと考える。そして、あらたに日本の積極性を示す方策を検討すべきである。
その方策として、国連などで核の非人道性に対する各国の理解を深める努力を強化することが考えられる。数年前から始まった非人道性に関する会議は途中から推進派によって核兵器禁止条約に転換されてしまった。しかし、非人道性については表面的なことしか理解されていないという現実は変わらない。なすべきことは多々ある。また、日本としては特別の義務がある。非人道性を深める努力には核兵器国のなかにも理解しようとする国があるだろう。
2017.10.28
「東洋経済オンライン」「習近平「一強」の独走体制ににじむ中国の焦り 7人の新最高指導部が選別された舞台裏」でアクセスできます。
要点は次の通りです。
〇今回の党大会は「習近平思想」を党規約に書き込むなど、習近平体制は盤石のごとく固められたかに見える。しかし、一歩踏み込んでみてみると、そうでもなさそうだ。
〇習近平総書記の統治システムは、国政の全般にわたって非官僚機構的方法で改革を進めることと、反腐敗と言論統制の、いわば2本の鞭を用いて改革の実効性を高めることであった。
〇しかし、既存の政府、官僚機構がすべてダメなわけではない。また、習氏が設置した「小組」からの支持が常に正しいという保証はない。党の権威を背景に、2本の鞭が振るわれれば従うほかないが、既存の官僚機構にとって習氏の非官僚的方法による改革は、しょせん人為的に作り上げられたものに過ぎない。改革は今後も積極的に進められるであろうが、行き過ぎると反発を惹起する危険がある。
〇人事においてもいくつか特徴がある。
国務院の各部長(我が国では各省庁の大臣)が党の序列では格下げになった。官僚機構に対する党の優位性がさらに進められたのだ。
〇新たに中国のトップ7(政治局常務委員)入りした5名はかつての部下など習近平と特に近い関係にあった者ばかりである。中国広しと言えども習近平が本当に信頼できる人物はあまりいないのだろう。
〇陳敏爾や胡春華など、習近平の後継者候補は常務委員にならなかった。習近平の意見に反対する勢力があるようだ。
〇鄧小平は、かつて、「才能を隠して、内に力を蓄える(韜光養晦)」ことを強調したが、それから約30年後の今日、習近平はそのような深慮遠謀策は捨て去り、大国化路線に転じた。それには、中華思想的体質を帯びている国民の心をくすぐる狙いもあったのだろう。
〇共産党の一党独裁については本来的に不安定な面がある。鄧小平が1989年の天安門事件後、西側諸国は「和平演変(平和的な方法で転覆させる)」を狙っていると言ったのは有名な逸話であるが、それ以来、歴代の指導者はだれもこの危機意識を払しょくできていない。習近平も例外でない。
〇中国共産党の独裁体制は今後5年間、習近平総書記の下で最も安定し、「中国の夢」実現に近づくかもしれないが、その後は、指導者、諸改革、経済成長いずれをとっても問題が増大する危険があるのではないか。
中国共産党第19回大会
東洋経済オンラインに、中国共産党の第19回大会に関する一文を寄稿しました。「東洋経済オンライン」「習近平「一強」の独走体制ににじむ中国の焦り 7人の新最高指導部が選別された舞台裏」でアクセスできます。
要点は次の通りです。
〇今回の党大会は「習近平思想」を党規約に書き込むなど、習近平体制は盤石のごとく固められたかに見える。しかし、一歩踏み込んでみてみると、そうでもなさそうだ。
〇習近平総書記の統治システムは、国政の全般にわたって非官僚機構的方法で改革を進めることと、反腐敗と言論統制の、いわば2本の鞭を用いて改革の実効性を高めることであった。
〇しかし、既存の政府、官僚機構がすべてダメなわけではない。また、習氏が設置した「小組」からの支持が常に正しいという保証はない。党の権威を背景に、2本の鞭が振るわれれば従うほかないが、既存の官僚機構にとって習氏の非官僚的方法による改革は、しょせん人為的に作り上げられたものに過ぎない。改革は今後も積極的に進められるであろうが、行き過ぎると反発を惹起する危険がある。
〇人事においてもいくつか特徴がある。
国務院の各部長(我が国では各省庁の大臣)が党の序列では格下げになった。官僚機構に対する党の優位性がさらに進められたのだ。
〇新たに中国のトップ7(政治局常務委員)入りした5名はかつての部下など習近平と特に近い関係にあった者ばかりである。中国広しと言えども習近平が本当に信頼できる人物はあまりいないのだろう。
〇陳敏爾や胡春華など、習近平の後継者候補は常務委員にならなかった。習近平の意見に反対する勢力があるようだ。
〇鄧小平は、かつて、「才能を隠して、内に力を蓄える(韜光養晦)」ことを強調したが、それから約30年後の今日、習近平はそのような深慮遠謀策は捨て去り、大国化路線に転じた。それには、中華思想的体質を帯びている国民の心をくすぐる狙いもあったのだろう。
〇共産党の一党独裁については本来的に不安定な面がある。鄧小平が1989年の天安門事件後、西側諸国は「和平演変(平和的な方法で転覆させる)」を狙っていると言ったのは有名な逸話であるが、それ以来、歴代の指導者はだれもこの危機意識を払しょくできていない。習近平も例外でない。
〇中国共産党の独裁体制は今後5年間、習近平総書記の下で最も安定し、「中国の夢」実現に近づくかもしれないが、その後は、指導者、諸改革、経済成長いずれをとっても問題が増大する危険があるのではないか。
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