オピニオン
2017.05.08
マクロン氏の得票率は66.06%、ルペン氏は33.94%だったが、これは決選投票の結果であり、最初の投票では両者の差はわずか2・71%であった。
国民戦線の大統領候補が決選投票に進んだのは2002年にもあったが、その時は、フランス国民は極右の台頭に驚くとともに警戒を強めるようになり、結局、国民戦線への支持は後退し、党首はジャン・マリー・ルペンから娘のマリーヌに代わった。
今回の選挙結果はそれ以来国民戦線が回復し、移民・難民の制限強化、EUからの離脱、フランス第1主義などを掲げて支持を拡大してきたことを反映している。
マクロン氏は39歳。ロートシルト(ロスチャイルドのフランス名)銀行員からオランド大統領に抜擢され経済相に就任した。1970年代に「フランスのケネディ」と言われ、やはり経済通で鳴らしたヴァレリー・ジスカールデスタン氏が大統領になったのに比べられる。中道・保守の政治傾向でも共通点がある。
しかし、内外とも困難な状況の中でマクロン氏は有効な政策を打ち出せるか、成功の保証はない。5年後の大統領選挙では国民戦線がさらに力を増している可能性もある。
マクロン氏はEUとの関係を重視しているが、問題があることも事実である。EUは肥大化し、政策はEU官僚によって決められる。フランスの農民はEUの共通農業政策に不満である。その点では、フランス第一主義を掲げEUから離脱を主張するルペン氏は分かりやすく説得力がある。
しかし、フランスは歴史的にも、また現在も欧州の中心であり、欧州統合を進めてきた主要な原動力である。そのことについてフランス人は誇りを抱いている。
経済面でも欧州との関係は深く、フランスの貿易の6~7割はEU諸国との間で行われている。
ルペン氏はグローバリズムを攻撃するが、フランスはグローバリズムに押し流される一方ではなく、その恩恵も受けている。海外資産で見た世界の多国籍企業トップ20に、フランスはトタル(石油)、フランス電力公社、GDFスエズ(電気、ガス、水)の3社が入っている。ちなみに日本はトヨタと本田技研の2社だけである。さらに、フランスはいくつかのヨーロッパの協力会社や機構の本社を招致している。エアバスの本社はトゥルーズに、またアリアン・ロケットの欧州宇宙機関の本部はパリにある。フランスはこのような欧州協力のシンボルであり、看板だ。
また、フランスはグローバルな国際協力にも力を注ぎ、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)、経済協力開発機構(OECD)など世界でもっとも権威のある国際機関がフランスに本部を置いている。
ただし、EUとの関係では、英国の離脱交渉の結果がどうなるかによってフランスにも影響が出てくる可能性がある。かりに英国が大きな損害を被ることなく交渉をまとめることができれば、EU離脱を主張する国民戦線にとって追い風になるだろう。英国とEUの交渉は今後2年間で行われる。
移民・難民問題についての状況は冷戦の終了後ほぼ一貫して悪化しており、欧州各国で排外傾向がひどくなっている。最近はそれにテロの問題が加わっている。フランスも例外でないが、逆にフランスは移民・難民を受け入れることによって発展してきたという認識はあるし、フランス革命以来の理想主義も脈々と生きており、極端な排外主義に陥るのを自制してきた。
今後はシリア情勢、過激派ISとの戦いがどのように展開するかが大きな問題である。かりに、情勢が落ち着いてくれば欧州諸国を悩ましてきた難民問題の重圧は解消していくだろう。
ただし、難民問題について欧州各国が能動的に対応できる余地は少なく、マクロン氏にとっても政策で問題を解決できるような状況でない。大量の難民の発生は欧州側でコントロールできないし、押し寄せてくる難民については欧州諸国が協力して対処するしかないからだ。
フランス経済の立て直しはマクロン政権に強く期待されるが、これも難問である。とくに問題になっているのはフランスの労働市場であり、規制が多くて硬直的だと言われている。具体的には最低賃金が高いこと、労働時間の制限が強いこと、一度雇用すると解雇は極めて困難なので企業側は非正規社員を好む傾向があること、などである。そのためフランスの失業率はドイツの2倍近くで、EU平均よりも高くなっている。とくに若年層においては高学歴でも就職できないなどミスマッチの傾向が強く、若年層の失業率は全年齢の2倍に上っている。
これには歴史的事情が絡んでおり、その改革は極めて困難だ。フランスの労働法は世界中でもっとも複雑と言われ、3千ページ以上に上る。もともと100年以上も前に作られた法規であり、その後何回もの改正を経てますます複雑になったのだが、そのような法律が今でも生きていること自体異例である。
オランド大統領は、社会党政権として本来労働市場の自由化には消極的であったが、その改革なくして経済状況の改善は困難であり、EUからも圧力を受け、やむを得ず2015年末から改革に取り掛かった。しかし、やはり反対が強く、2016年4月末から5月1日のメーデーにかけて起こったデモは暴動に発展した。
オランド大統領への支持率は下がり、史上最低を更新し続けた。世界で最も不人気な指導者だとも言われた。だから、オランド氏は今回の大統領選に出馬しないこととしたのだ。
マクロン氏は2009年まで社会党員であったが、大統領選に出るため無所属となり、16年8月に経済相を辞任し、自らの政治運動「アン・マルシュ(前進)!」を立ち上げた。その旗印はリベラリズムであり、また、「右でも左でもない」と自称している。広い支持を獲得しようと努めているのだが、それだけに立ち位置がはっきりしない。マクロン氏の、「私は、ナショナリズムの脅威に対抗する愛国者の大統領になる」とは国民戦線を強く意識した発言だが、自己矛盾していると言われても仕方がないだろう。
もしマクロン政権が失業問題の改善のため有効な対策を打ち出せないと、国民戦線の支持が増えるだろう。国民戦線はEUからもユーロからも離脱して自由にフランス経済を立て直すことを主張しており、その中で労働市場問題にも取り組む考えだ。「ユーロに縛られたままフランスが競争力を回復するのは難しい。フランスが自国通貨を有していれば、減価させることで輸出競争力を高めることができる」と述べるルペン氏の主張には一定の説得力がある。
今回の大統領選では、「前進」の勝利と国民戦線の善戦が目立ったが、従来フランス政治を動かしてきた右と左の2大政治勢力はどうなったか。この右派は戦後長らく安定せず、さらに細かく分かれ、必要に応じて連合を形成した勢力だが、ナチスに親近感を示す「極右」国民戦線はこの右派には含まれない。
従来の大統領選では右と左が票を大きく2分しつつ、多数となったほうが大統領を出していたが、今回の大統領選ではいずれの得票率も激減した。その原因は、左右どちらでもないことを標榜するマクロン氏の「前進」と国民戦線によって票が奪われたからである。今後もこの傾向が続けば、伝統的な左派も右派もフランスの2大政治勢力と言えない状況になっていく。
現段階では、「前進」と国民戦線がフランスの主要政治勢力になると判断するのは早すぎるだろう。左右の2大勢力の退潮は一時的な現象かもしれない。どうなるかはマクロン政権の5年間の状況を見ていく必要があろう。
「前進」はフランスの伝統的な価値観の上に立っているが、右でも左でもないため分かりにくいのが難点であることは前述した。
一方、国民戦線は、単純すぎるかもしれないが、分かりやすい。マリーヌ・ルペン氏は選挙後早速、国民戦線の「大転換に着手する」と宣言している。ルペン氏はかつて福祉政策を重視し、「左傾化」とまで言われたことがあるだけに今後の大転換が注目される。
フランスでは過去の忌まわしい歴史の記憶が鮮明に残っており、人種差別とは今も強く戦っている。フランス国民の他民族を受け入れる寛容度は欧州でも高いほうだが、グローバル化と欧州統合の進展はフランス政治の根底にある価値観と原則に微妙な変化を及ぼしつつあるのかもしれない。
フランス大統領選挙―さらなる変化の予兆が現れている?
フランス大統領の選挙は5月7日に決選投票が行われ、エマニュエル・マクロン氏が新大統領に選ばれた。マクロン氏の得票率は66.06%、ルペン氏は33.94%だったが、これは決選投票の結果であり、最初の投票では両者の差はわずか2・71%であった。
国民戦線の大統領候補が決選投票に進んだのは2002年にもあったが、その時は、フランス国民は極右の台頭に驚くとともに警戒を強めるようになり、結局、国民戦線への支持は後退し、党首はジャン・マリー・ルペンから娘のマリーヌに代わった。
今回の選挙結果はそれ以来国民戦線が回復し、移民・難民の制限強化、EUからの離脱、フランス第1主義などを掲げて支持を拡大してきたことを反映している。
マクロン氏は39歳。ロートシルト(ロスチャイルドのフランス名)銀行員からオランド大統領に抜擢され経済相に就任した。1970年代に「フランスのケネディ」と言われ、やはり経済通で鳴らしたヴァレリー・ジスカールデスタン氏が大統領になったのに比べられる。中道・保守の政治傾向でも共通点がある。
しかし、内外とも困難な状況の中でマクロン氏は有効な政策を打ち出せるか、成功の保証はない。5年後の大統領選挙では国民戦線がさらに力を増している可能性もある。
マクロン氏はEUとの関係を重視しているが、問題があることも事実である。EUは肥大化し、政策はEU官僚によって決められる。フランスの農民はEUの共通農業政策に不満である。その点では、フランス第一主義を掲げEUから離脱を主張するルペン氏は分かりやすく説得力がある。
しかし、フランスは歴史的にも、また現在も欧州の中心であり、欧州統合を進めてきた主要な原動力である。そのことについてフランス人は誇りを抱いている。
経済面でも欧州との関係は深く、フランスの貿易の6~7割はEU諸国との間で行われている。
ルペン氏はグローバリズムを攻撃するが、フランスはグローバリズムに押し流される一方ではなく、その恩恵も受けている。海外資産で見た世界の多国籍企業トップ20に、フランスはトタル(石油)、フランス電力公社、GDFスエズ(電気、ガス、水)の3社が入っている。ちなみに日本はトヨタと本田技研の2社だけである。さらに、フランスはいくつかのヨーロッパの協力会社や機構の本社を招致している。エアバスの本社はトゥルーズに、またアリアン・ロケットの欧州宇宙機関の本部はパリにある。フランスはこのような欧州協力のシンボルであり、看板だ。
また、フランスはグローバルな国際協力にも力を注ぎ、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)、経済協力開発機構(OECD)など世界でもっとも権威のある国際機関がフランスに本部を置いている。
ただし、EUとの関係では、英国の離脱交渉の結果がどうなるかによってフランスにも影響が出てくる可能性がある。かりに英国が大きな損害を被ることなく交渉をまとめることができれば、EU離脱を主張する国民戦線にとって追い風になるだろう。英国とEUの交渉は今後2年間で行われる。
移民・難民問題についての状況は冷戦の終了後ほぼ一貫して悪化しており、欧州各国で排外傾向がひどくなっている。最近はそれにテロの問題が加わっている。フランスも例外でないが、逆にフランスは移民・難民を受け入れることによって発展してきたという認識はあるし、フランス革命以来の理想主義も脈々と生きており、極端な排外主義に陥るのを自制してきた。
今後はシリア情勢、過激派ISとの戦いがどのように展開するかが大きな問題である。かりに、情勢が落ち着いてくれば欧州諸国を悩ましてきた難民問題の重圧は解消していくだろう。
ただし、難民問題について欧州各国が能動的に対応できる余地は少なく、マクロン氏にとっても政策で問題を解決できるような状況でない。大量の難民の発生は欧州側でコントロールできないし、押し寄せてくる難民については欧州諸国が協力して対処するしかないからだ。
フランス経済の立て直しはマクロン政権に強く期待されるが、これも難問である。とくに問題になっているのはフランスの労働市場であり、規制が多くて硬直的だと言われている。具体的には最低賃金が高いこと、労働時間の制限が強いこと、一度雇用すると解雇は極めて困難なので企業側は非正規社員を好む傾向があること、などである。そのためフランスの失業率はドイツの2倍近くで、EU平均よりも高くなっている。とくに若年層においては高学歴でも就職できないなどミスマッチの傾向が強く、若年層の失業率は全年齢の2倍に上っている。
これには歴史的事情が絡んでおり、その改革は極めて困難だ。フランスの労働法は世界中でもっとも複雑と言われ、3千ページ以上に上る。もともと100年以上も前に作られた法規であり、その後何回もの改正を経てますます複雑になったのだが、そのような法律が今でも生きていること自体異例である。
オランド大統領は、社会党政権として本来労働市場の自由化には消極的であったが、その改革なくして経済状況の改善は困難であり、EUからも圧力を受け、やむを得ず2015年末から改革に取り掛かった。しかし、やはり反対が強く、2016年4月末から5月1日のメーデーにかけて起こったデモは暴動に発展した。
オランド大統領への支持率は下がり、史上最低を更新し続けた。世界で最も不人気な指導者だとも言われた。だから、オランド氏は今回の大統領選に出馬しないこととしたのだ。
マクロン氏は2009年まで社会党員であったが、大統領選に出るため無所属となり、16年8月に経済相を辞任し、自らの政治運動「アン・マルシュ(前進)!」を立ち上げた。その旗印はリベラリズムであり、また、「右でも左でもない」と自称している。広い支持を獲得しようと努めているのだが、それだけに立ち位置がはっきりしない。マクロン氏の、「私は、ナショナリズムの脅威に対抗する愛国者の大統領になる」とは国民戦線を強く意識した発言だが、自己矛盾していると言われても仕方がないだろう。
もしマクロン政権が失業問題の改善のため有効な対策を打ち出せないと、国民戦線の支持が増えるだろう。国民戦線はEUからもユーロからも離脱して自由にフランス経済を立て直すことを主張しており、その中で労働市場問題にも取り組む考えだ。「ユーロに縛られたままフランスが競争力を回復するのは難しい。フランスが自国通貨を有していれば、減価させることで輸出競争力を高めることができる」と述べるルペン氏の主張には一定の説得力がある。
今回の大統領選では、「前進」の勝利と国民戦線の善戦が目立ったが、従来フランス政治を動かしてきた右と左の2大政治勢力はどうなったか。この右派は戦後長らく安定せず、さらに細かく分かれ、必要に応じて連合を形成した勢力だが、ナチスに親近感を示す「極右」国民戦線はこの右派には含まれない。
従来の大統領選では右と左が票を大きく2分しつつ、多数となったほうが大統領を出していたが、今回の大統領選ではいずれの得票率も激減した。その原因は、左右どちらでもないことを標榜するマクロン氏の「前進」と国民戦線によって票が奪われたからである。今後もこの傾向が続けば、伝統的な左派も右派もフランスの2大政治勢力と言えない状況になっていく。
現段階では、「前進」と国民戦線がフランスの主要政治勢力になると判断するのは早すぎるだろう。左右の2大勢力の退潮は一時的な現象かもしれない。どうなるかはマクロン政権の5年間の状況を見ていく必要があろう。
「前進」はフランスの伝統的な価値観の上に立っているが、右でも左でもないため分かりにくいのが難点であることは前述した。
一方、国民戦線は、単純すぎるかもしれないが、分かりやすい。マリーヌ・ルペン氏は選挙後早速、国民戦線の「大転換に着手する」と宣言している。ルペン氏はかつて福祉政策を重視し、「左傾化」とまで言われたことがあるだけに今後の大転換が注目される。
フランスでは過去の忌まわしい歴史の記憶が鮮明に残っており、人種差別とは今も強く戦っている。フランス国民の他民族を受け入れる寛容度は欧州でも高いほうだが、グローバル化と欧州統合の進展はフランス政治の根底にある価値観と原則に微妙な変化を及ぼしつつあるのかもしれない。
2017.04.19
憲法改正により現行の議院内閣制は廃止され、大統領制になる。新制度によって大統領選挙が行われるのは2019年であり、首相職は廃止される。新大統領は、閣僚の任命や非常事態令の発令のほか、司法にも影響力を持つことになる。
エルドアン氏(現大統領)が新大統領となるのは間違いないと見られており、再選可能(これは現行制度と同じ)なので、最長で2029年まで権力を保持することが可能になる。
なぜ、トルコは大統領の権限を強めたのか。
エルドアン氏はテロ・難民対策の強化などのため必要だとしている。たしかに、トルコは長年テロ攻撃に悩まされてきた。トルコは世界でも有数の観光地だが、テロの危険がない時を選ばないと安心して行けない。
トルコは、また、中東・アフリカで発生した大量の難民が押し寄せ、欧州へ向かう通過地になっている。2016年3月には、EUと、欧州への難民流入をコントロールするために協力することで合意した。欧州で難民認定が受けられない難民を再度トルコが受け入れることも含まれている。EUはトルコに戻される難民について一定の経費負担をするが、それにしてもトルコにとって難民対策の負担は大変なものであろう。
しかし、憲法改正には複雑な背景がある。一つは「世俗主義」の国是とイスラムとのせめぎあいである。エルドアン氏は敬虔なイスラム教徒であり、かつて原理主義を扇動したとして実刑判決を受け服役したこともある。イスラム主義系の公正発展党(AKP)の立ち上げから一貫して指導者として(大統領になってからは党を離れているが実質的には変わらない)イスラムの復興を重視している。
しかし、トルコは建国以来ケマル・アタチュルクの指導の下で世俗主義を国是としてきた。イスラムの影響力が強い地域であるが、近代化のために政治面では脱イスラムが必要だという考えを取ったのだ。この傾向は今日まで変わらず、とくに軍と司法機関は世俗主義を維持するのに積極的な役割を演じてきた。親イスラムの政治勢力が台頭したので軍が介入したこともあった。
2016年7月に起こったクーデタも、エルドアン大統領がイスラム化を進めようとしていることに危機感を抱いた軍の一部勢力が都市部の知識階級やリベラル派の世俗主義者をバックに起こした事件であった。
エルドアンとしては、テロや難民問題に対処しなければならないが、軍や司法当局は足を引っ張るので憲法を改正し強い政府にする必要があるという考えなのだろう。
しかしながら、強い権限の大統領制にすることについては反対やためらいも強い。前述のクーデタを鎮圧させるとエルドアンの支持率は40%台から60%台に急上昇したが、今回の憲法改正国民投票では賛成と反対は前述したように僅差であった。つまり、エルドアンを支持している人たちの約6分の1は改正に賛成していないのだ。
独裁体制に対する警戒心も強い。エルドアンは、2003年に首相になって以来一貫して権力の座にあり、新制度になると合計26年間、トルコの最高指導者であり続けることになる。エルドアンは建国の父である偉大なケマル・アタチュルクに並ぶ地位を獲得するという見方もある。
事実、エルドアンはこれまで強硬な手段で反対勢力を抑圧してきた。2014年に大統領に就任して以降、大統領侮辱罪で1800件もの立件を行った。また、大統領の政策に反対する新聞社を閉鎖させ、政権を批判する学者やジャーナリストを摘発した。
2016年のクーデタ後、関与を疑われて拘束された者は10万人以上に上り、多数の軍人や公務員が職を追われた。メディアも100社以上が閉鎖を命じられ、200人以上の記者が逮捕された。締め付けは社会全体を萎縮させたと言われている。
国民投票キャンペーンにおいて、メディアが反対派のキャンペーンをほとんど取り上げなかったのは、反対の論陣を張るはずの文化人や知識人の多くが拘束され、批判的なメディアは閉鎖されていたからだと言われている。
新制度の大統領は戒厳令の発出権限を持つので、エルドアンがこれまで以上の専制を行う危険もあると見られている。
トルコとEUの関係は憲法改正の決定により一層複雑化した。
そもそもトルコは、アジアと欧州、東と西の接点に位置しており、世界の安全保障にとって極めて重要な地位にある。イスラム地域であり、かつ、欧州ではないがNATOに早くから加盟したのもそのような事情からであった。ちなみに、NATOの原加盟国でない国としてはギリシャとともに最も早く加盟し、ドイツやスペインよりも先であった。
EUとの関係では、トルコは1987年から加盟を申請し、2005年に加盟交渉の開始が決定された。しかし、人権問題、トルコ移民、さらにトルコは地理的にも歴史的にも欧州でなく、欧州にとって脅威であったなどという問題があり、今日まで結論が得られないでいる。
そして、前述した難民問題は欧州とトルコの協力関係を深めたが、今回の憲法改正についてEUは強く批判した。欧州議会のシュルツ議長は、エルドアン大統領の権力拡大を警戒するコメントを発表し、トルコは「欧州の価値観から大きく逸脱している。エルドアン大統領下でトルコは独裁的な国への道を進んでいる」などと批判した。
さらに、トルコの新制度では死刑が復活すると見られており、そうなるとEUとして加盟を認めることはますます困難になる。
ただし、EUは国民投票を全面的に否定しているのではなく、「賛成と反対が僅差であったことに配慮し、できるだけ広範な支持を集めるよう努力すべきだ」と建設的な形でコメントしている。
選挙監視を得意とする欧州安全保障協力機構(OSCE)は、憲法改正について「賛成と反対は平等に扱われなかった(The referendum took place on an “unlevel playing field” as the two sides did not have equal opportunities.)」と述べ、また、反対キャンペーンに対し警察などによる妨害があったとも指摘している。
一方、トルコでは、このようなEU側の姿勢にエルドアンを支持する勢力が不満を募らせた。国民投票に先立ってトルコ政府がEU諸国に滞在している自国民を集めて集会を開こうとしたが、これら諸国はトルコ政府に協力せず、集会を認めなかった国もあった。トルコではそのときから不満が出ていたが、投票結果についてのEUのコメントに一層激しく反発した。エルドアン大統領の経済顧問は、難民流入の抑制に関するEUとの合意撤回も辞さないとも言っている。
トルコとしては、EUが頭を抱えている難民問題についてEUに協力し、みずからの負担を増やしてまでしてEUを助けているのに、EUは自分たちの苦衷を理解せず、ただEUの基準を一方的に押し付けてくるという気持ちなのだろう。
トルコが新制度に移行するまでも、また、新制度が発足してからもさまざまな曲折がありそうだ。
トルコの憲法改正
4月16日、トルコで憲法改正の是非を問う国民投票が行われ、賛成票51・41%、反対票48・59%で賛成が僅差ながら多数を占めた。憲法改正により現行の議院内閣制は廃止され、大統領制になる。新制度によって大統領選挙が行われるのは2019年であり、首相職は廃止される。新大統領は、閣僚の任命や非常事態令の発令のほか、司法にも影響力を持つことになる。
エルドアン氏(現大統領)が新大統領となるのは間違いないと見られており、再選可能(これは現行制度と同じ)なので、最長で2029年まで権力を保持することが可能になる。
なぜ、トルコは大統領の権限を強めたのか。
エルドアン氏はテロ・難民対策の強化などのため必要だとしている。たしかに、トルコは長年テロ攻撃に悩まされてきた。トルコは世界でも有数の観光地だが、テロの危険がない時を選ばないと安心して行けない。
トルコは、また、中東・アフリカで発生した大量の難民が押し寄せ、欧州へ向かう通過地になっている。2016年3月には、EUと、欧州への難民流入をコントロールするために協力することで合意した。欧州で難民認定が受けられない難民を再度トルコが受け入れることも含まれている。EUはトルコに戻される難民について一定の経費負担をするが、それにしてもトルコにとって難民対策の負担は大変なものであろう。
しかし、憲法改正には複雑な背景がある。一つは「世俗主義」の国是とイスラムとのせめぎあいである。エルドアン氏は敬虔なイスラム教徒であり、かつて原理主義を扇動したとして実刑判決を受け服役したこともある。イスラム主義系の公正発展党(AKP)の立ち上げから一貫して指導者として(大統領になってからは党を離れているが実質的には変わらない)イスラムの復興を重視している。
しかし、トルコは建国以来ケマル・アタチュルクの指導の下で世俗主義を国是としてきた。イスラムの影響力が強い地域であるが、近代化のために政治面では脱イスラムが必要だという考えを取ったのだ。この傾向は今日まで変わらず、とくに軍と司法機関は世俗主義を維持するのに積極的な役割を演じてきた。親イスラムの政治勢力が台頭したので軍が介入したこともあった。
2016年7月に起こったクーデタも、エルドアン大統領がイスラム化を進めようとしていることに危機感を抱いた軍の一部勢力が都市部の知識階級やリベラル派の世俗主義者をバックに起こした事件であった。
エルドアンとしては、テロや難民問題に対処しなければならないが、軍や司法当局は足を引っ張るので憲法を改正し強い政府にする必要があるという考えなのだろう。
しかしながら、強い権限の大統領制にすることについては反対やためらいも強い。前述のクーデタを鎮圧させるとエルドアンの支持率は40%台から60%台に急上昇したが、今回の憲法改正国民投票では賛成と反対は前述したように僅差であった。つまり、エルドアンを支持している人たちの約6分の1は改正に賛成していないのだ。
独裁体制に対する警戒心も強い。エルドアンは、2003年に首相になって以来一貫して権力の座にあり、新制度になると合計26年間、トルコの最高指導者であり続けることになる。エルドアンは建国の父である偉大なケマル・アタチュルクに並ぶ地位を獲得するという見方もある。
事実、エルドアンはこれまで強硬な手段で反対勢力を抑圧してきた。2014年に大統領に就任して以降、大統領侮辱罪で1800件もの立件を行った。また、大統領の政策に反対する新聞社を閉鎖させ、政権を批判する学者やジャーナリストを摘発した。
2016年のクーデタ後、関与を疑われて拘束された者は10万人以上に上り、多数の軍人や公務員が職を追われた。メディアも100社以上が閉鎖を命じられ、200人以上の記者が逮捕された。締め付けは社会全体を萎縮させたと言われている。
国民投票キャンペーンにおいて、メディアが反対派のキャンペーンをほとんど取り上げなかったのは、反対の論陣を張るはずの文化人や知識人の多くが拘束され、批判的なメディアは閉鎖されていたからだと言われている。
新制度の大統領は戒厳令の発出権限を持つので、エルドアンがこれまで以上の専制を行う危険もあると見られている。
トルコとEUの関係は憲法改正の決定により一層複雑化した。
そもそもトルコは、アジアと欧州、東と西の接点に位置しており、世界の安全保障にとって極めて重要な地位にある。イスラム地域であり、かつ、欧州ではないがNATOに早くから加盟したのもそのような事情からであった。ちなみに、NATOの原加盟国でない国としてはギリシャとともに最も早く加盟し、ドイツやスペインよりも先であった。
EUとの関係では、トルコは1987年から加盟を申請し、2005年に加盟交渉の開始が決定された。しかし、人権問題、トルコ移民、さらにトルコは地理的にも歴史的にも欧州でなく、欧州にとって脅威であったなどという問題があり、今日まで結論が得られないでいる。
そして、前述した難民問題は欧州とトルコの協力関係を深めたが、今回の憲法改正についてEUは強く批判した。欧州議会のシュルツ議長は、エルドアン大統領の権力拡大を警戒するコメントを発表し、トルコは「欧州の価値観から大きく逸脱している。エルドアン大統領下でトルコは独裁的な国への道を進んでいる」などと批判した。
さらに、トルコの新制度では死刑が復活すると見られており、そうなるとEUとして加盟を認めることはますます困難になる。
ただし、EUは国民投票を全面的に否定しているのではなく、「賛成と反対が僅差であったことに配慮し、できるだけ広範な支持を集めるよう努力すべきだ」と建設的な形でコメントしている。
選挙監視を得意とする欧州安全保障協力機構(OSCE)は、憲法改正について「賛成と反対は平等に扱われなかった(The referendum took place on an “unlevel playing field” as the two sides did not have equal opportunities.)」と述べ、また、反対キャンペーンに対し警察などによる妨害があったとも指摘している。
一方、トルコでは、このようなEU側の姿勢にエルドアンを支持する勢力が不満を募らせた。国民投票に先立ってトルコ政府がEU諸国に滞在している自国民を集めて集会を開こうとしたが、これら諸国はトルコ政府に協力せず、集会を認めなかった国もあった。トルコではそのときから不満が出ていたが、投票結果についてのEUのコメントに一層激しく反発した。エルドアン大統領の経済顧問は、難民流入の抑制に関するEUとの合意撤回も辞さないとも言っている。
トルコとしては、EUが頭を抱えている難民問題についてEUに協力し、みずからの負担を増やしてまでしてEUを助けているのに、EUは自分たちの苦衷を理解せず、ただEUの基準を一方的に押し付けてくるという気持ちなのだろう。
トルコが新制度に移行するまでも、また、新制度が発足してからもさまざまな曲折がありそうだ。
2017.04.04
長年の軍人政権に代わってやっと実現した民主政権であるが、今、国民の間には失望が広がりつつあると言われている。アウン・サン・スー・チー氏自身、「国民の期待ほどには発展させられなかった」と認め、さらに、「私の努力が十分でなく、もっと完璧にこなせる人がいるというなら身を引く」とまで述べた。新政権が発足した時の熱気が冷めるのはある程度やむを得ないことかもしれないが、長年自由を拘束されても軍人政権と戦い続けてきた同女史の言葉としては、少々残念だ。
アウン・サン・スー・チー氏がこのようなことを口にしたのは、ミャンマーにおける民主化勢力、軍部、それに少数民族問題の鼎立状態があまりに根深く、さらなる民主化へ向かって進める自信がなくなってきたからではないかと思われる。
日本などでは少数民族といっても深刻な感じはないが、ミャンマーでは大問題だ。ミャンマーの政治は、以前から軍政とアウン・サン・スー・チーが率いるNLD(国民民主連盟)などが求める民主政治の2本柱で語られることが多かったが、実は、1948年に英国の植民地支配を脱して独立して以来、これに少数民族が加わる三つ巴状態であった。ただ、少数民族問題はあまり進展しなかったために、軍と民主勢力のせめぎあいだけに焦点が当たってきた。
実際には、少数民族問題はミャンマーの政治に強い影響を及ぼしていた。軍が政治を牛耳ってきたのは全人口の3割近い少数民族と政府が対立状態にあるからだ。彼らにとって政府はビルマ族であり、不信感は根強い。
一方、政府はなんとか武装闘争をやめさせようと努力してきたが、現実には「国軍」に頼らざるを得なかった。
しかし、民主化勢力にとって「国軍」は民主化を妨げる敵であった。その本質が露呈されたのが1990年の総選挙であり、NLDが大勝したが、時の軍事政権は選挙結果を完全に無視して政権の移譲を拒否した。それ以来、「国軍」は民主化に対する反対勢力となり、民主的に選ばれた政権への移行が実現した今でも、議会では4分の1の議席を憲法上確保している。国政に対して決定的な影響力を合法的に保持しているのだ。
2016年3月に新政権発足後、アウン・サン・スー・チー氏は6月にタイ、8月に中国、9月に米国、11月に日本を相次いで訪れ、各地で祝福を受け、また国家再建への協力を要望した。
国内では、新政権は少数民族との和解に力を注ぎ、スー・チー女史の父親であるアウン・サン将軍が約70年前に試みた諸民族の大同団結会議を再開した。新パンロン会議である。
しかし、今から思えば、アウン・サン・スー・チー氏はすでにそのころから少数民族の和解はなかなか進まないことを実感しつつあったようだ。新パンロン会議が当初予定されていた7月から延期され8月31日にずれ込んだこと自体はさほど深刻でないかもしれないが、最大の難問はカチン州の独立勢力、カチン独立機構(KIO)とその軍隊(KIA)であり、数年前からのミャンマー政府との武装闘争は完全に終わっていなかった。
アウン・サン・スー・チー氏が、そのような中8月17日から21日まで中国を訪問したのはちょっとした驚きだった。常識的には、新生ミャンマーの命運がかかっている会議の準備が数日後に迫っているのに5日間も外国を訪問することなどありえないので、その時は、カチンの問題を含めて準備は整ったのかとも思われたが、そうでなかったことはすぐに露呈され、KIAは激しい攻勢に出た。
なお、中国はカチン州と接しており、強い影響力を持っている。アウン・サン・スー・チー氏が、中国にカチンとの和解に力添えを依頼した可能性もあったが、5日間も中国に滞在した理由は説明がつかなかった。
新政権にとってさらに頭の痛い問題は、バングラデシュと国境を接するラカイン州のロヒンギャの扱いだ。2015年春に数千人のロヒンギャ難民がどの国からも拒否され海上をさまよった事件は世界的に有名になった。オバマ大統領はスー・チー氏に対し少数民族問題の解決を望んでいると表明するとともに、この問題をミャンマー政府が善処することを促した。
一方、ミャンマー政府はロヒンギャをミャンマー国内の少数民族と認めておらず、バングラデシュからの難民と位置付けており、国籍も付与せず、「(不法移民の)ベンガル人」という呼称を用い続けているので、スー・チー最高顧問は「ラカイン州の問題の解決を政府として重視している」と応じるにとどまった。
アウン・サン・スー・チー氏はそれしか言えなかったのだろう。最近もロヒンギャに対する暴行などが多発し、またそれに反発してロヒンギャ族による反撃事件も起こっている。
このような状況にあって有効な対策を打ち出せないミャンマー政府に対して、インドネシアやマレイシアなどイスラム人口の多い国からは失望と批判の声が上がっている。
以上のような状況を背景に今回の演説を聞くと、少数民族問題はアウン・サン・スー・チー氏にとってお手上げに近い状況なのかと思えてくる。
しかし、アウン・サン・スー・チー氏が本当にあきらめムードになってきたのであれば、それはそれで大問題だ。同氏が近日中に退くことになると、その後継者は簡単に見つからないだろう。有能な人物はいくらもいるだろうが、これまでの政治状況からしてミャンマーの指導者となれる人物は育っていないはずだ。ミャンマーが民主的な政権のもとで順調に発展していくのに障害となる問題は少なくないようだ。
ミャンマーの民主化は進んでいるか
ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問は3月30日、民主的な政権が生まれてからの1年を回顧してテレビ演説した。長年の軍人政権に代わってやっと実現した民主政権であるが、今、国民の間には失望が広がりつつあると言われている。アウン・サン・スー・チー氏自身、「国民の期待ほどには発展させられなかった」と認め、さらに、「私の努力が十分でなく、もっと完璧にこなせる人がいるというなら身を引く」とまで述べた。新政権が発足した時の熱気が冷めるのはある程度やむを得ないことかもしれないが、長年自由を拘束されても軍人政権と戦い続けてきた同女史の言葉としては、少々残念だ。
アウン・サン・スー・チー氏がこのようなことを口にしたのは、ミャンマーにおける民主化勢力、軍部、それに少数民族問題の鼎立状態があまりに根深く、さらなる民主化へ向かって進める自信がなくなってきたからではないかと思われる。
日本などでは少数民族といっても深刻な感じはないが、ミャンマーでは大問題だ。ミャンマーの政治は、以前から軍政とアウン・サン・スー・チーが率いるNLD(国民民主連盟)などが求める民主政治の2本柱で語られることが多かったが、実は、1948年に英国の植民地支配を脱して独立して以来、これに少数民族が加わる三つ巴状態であった。ただ、少数民族問題はあまり進展しなかったために、軍と民主勢力のせめぎあいだけに焦点が当たってきた。
実際には、少数民族問題はミャンマーの政治に強い影響を及ぼしていた。軍が政治を牛耳ってきたのは全人口の3割近い少数民族と政府が対立状態にあるからだ。彼らにとって政府はビルマ族であり、不信感は根強い。
一方、政府はなんとか武装闘争をやめさせようと努力してきたが、現実には「国軍」に頼らざるを得なかった。
しかし、民主化勢力にとって「国軍」は民主化を妨げる敵であった。その本質が露呈されたのが1990年の総選挙であり、NLDが大勝したが、時の軍事政権は選挙結果を完全に無視して政権の移譲を拒否した。それ以来、「国軍」は民主化に対する反対勢力となり、民主的に選ばれた政権への移行が実現した今でも、議会では4分の1の議席を憲法上確保している。国政に対して決定的な影響力を合法的に保持しているのだ。
2016年3月に新政権発足後、アウン・サン・スー・チー氏は6月にタイ、8月に中国、9月に米国、11月に日本を相次いで訪れ、各地で祝福を受け、また国家再建への協力を要望した。
国内では、新政権は少数民族との和解に力を注ぎ、スー・チー女史の父親であるアウン・サン将軍が約70年前に試みた諸民族の大同団結会議を再開した。新パンロン会議である。
しかし、今から思えば、アウン・サン・スー・チー氏はすでにそのころから少数民族の和解はなかなか進まないことを実感しつつあったようだ。新パンロン会議が当初予定されていた7月から延期され8月31日にずれ込んだこと自体はさほど深刻でないかもしれないが、最大の難問はカチン州の独立勢力、カチン独立機構(KIO)とその軍隊(KIA)であり、数年前からのミャンマー政府との武装闘争は完全に終わっていなかった。
アウン・サン・スー・チー氏が、そのような中8月17日から21日まで中国を訪問したのはちょっとした驚きだった。常識的には、新生ミャンマーの命運がかかっている会議の準備が数日後に迫っているのに5日間も外国を訪問することなどありえないので、その時は、カチンの問題を含めて準備は整ったのかとも思われたが、そうでなかったことはすぐに露呈され、KIAは激しい攻勢に出た。
なお、中国はカチン州と接しており、強い影響力を持っている。アウン・サン・スー・チー氏が、中国にカチンとの和解に力添えを依頼した可能性もあったが、5日間も中国に滞在した理由は説明がつかなかった。
新政権にとってさらに頭の痛い問題は、バングラデシュと国境を接するラカイン州のロヒンギャの扱いだ。2015年春に数千人のロヒンギャ難民がどの国からも拒否され海上をさまよった事件は世界的に有名になった。オバマ大統領はスー・チー氏に対し少数民族問題の解決を望んでいると表明するとともに、この問題をミャンマー政府が善処することを促した。
一方、ミャンマー政府はロヒンギャをミャンマー国内の少数民族と認めておらず、バングラデシュからの難民と位置付けており、国籍も付与せず、「(不法移民の)ベンガル人」という呼称を用い続けているので、スー・チー最高顧問は「ラカイン州の問題の解決を政府として重視している」と応じるにとどまった。
アウン・サン・スー・チー氏はそれしか言えなかったのだろう。最近もロヒンギャに対する暴行などが多発し、またそれに反発してロヒンギャ族による反撃事件も起こっている。
このような状況にあって有効な対策を打ち出せないミャンマー政府に対して、インドネシアやマレイシアなどイスラム人口の多い国からは失望と批判の声が上がっている。
以上のような状況を背景に今回の演説を聞くと、少数民族問題はアウン・サン・スー・チー氏にとってお手上げに近い状況なのかと思えてくる。
しかし、アウン・サン・スー・チー氏が本当にあきらめムードになってきたのであれば、それはそれで大問題だ。同氏が近日中に退くことになると、その後継者は簡単に見つからないだろう。有能な人物はいくらもいるだろうが、これまでの政治状況からしてミャンマーの指導者となれる人物は育っていないはずだ。ミャンマーが民主的な政権のもとで順調に発展していくのに障害となる問題は少なくないようだ。
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