平和外交研究所

オピニオン

2025.06.17

戦争の描写

 2025年5月3日、自民党の西田昌司参院議員は那覇市で開かれた憲法に関するシンポジウムにおいて、沖縄県糸満市にある「ひめゆりの塔」は「日本軍がどんどん入ってきて、ひめゆり隊が死ぬことになり、アメリカが入ってきて、沖縄が解放されたという文脈で慰霊文を書いていた。歴史を書き換えていた」との趣旨を発言した。

 ひめゆりの塔は、沖縄戦で亡くなった沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒や教師のための慰霊碑である。沖縄戦の翌年、両校で最も多くの犠牲者を出したガマ(鍾乳洞)の上に建てられた。

 西田議員の発言に対して、多くの人々から強い抗議の声が上がった。私も、西田議員の発言は事実関係の深刻な誤認を含んでいたと思うが、さらに、一点付け加えたい。多数の犠牲者を出した沖縄戦をあまりにも軽く扱っていたことである。

 西田議員が「ひめゆりの塔」を批判して述べたことは戦争をあまりにも単純化している。西田議員による批判と逆に、「米軍がどんどん入ってきてひめゆり隊が死んだ」ということであっても、戦争を単純化している。

 戦争を客観的に、公平に描写するのは簡単でない。勝者や敗者の論理が入り込む危険がある。また政治思想やイデオロギーによって影響される危険もある。戦争を描写するのであればそのような危険に陥らないよう細心の注意が必要である。西田議員は40字そこそこの短い文章で沖縄戦を描写した。その結果、命を賭して最善を尽くした人々の努力を無視あるいは軽視し、戦争の犠牲者を冒とくする結果になった。

 
 ちなみに、沖縄県の公式ホームページは1945年の沖縄戦について次の通り解説している( 更新日は2024年1月11日)。戦争の複雑さを踏まえて書かれている。

「1941(昭和16)年に始まった太平洋戦争が終わる1945(昭和20)年、日本軍とアメリカ軍だけでなく、住民すべてをまきこんだ戦いが、沖縄では3カ月以上続きました。この「沖縄戦」によってなくなった人は、沖縄の住民9万4,000人、沖縄出身者もふくむ日本軍約9万4,136人、アメリカ軍1万2,520人といわれます。

沖縄は、日本軍とアメリカ軍の直せつの戦いが地上で行われた場所であり、この「沖縄戦」によって、子どもやお年よりをふくめた大勢の人たちが、ぎせいとなった島なのです。

沖縄戦は、アメリカ軍が1945(昭和20)年3月26日、那覇市の西にある慶良間諸島(けらましょとう)に上陸して始まりました。アメリカ軍は、4月1日に沖縄本島中部、読谷村(よみたんそん)に上陸し、北と南に分かれて進みました。南に向かったアメリカ軍は、日本軍の本部があった首里城(しゅりじょう)をめざし、軍を進めました。

中部および首里で行われた日本軍とアメリカ軍との戦いは、40日以上続くはげしいものでした。

5月下旬、日本軍は南部へてったいしました。沖縄は住民をまきこんだはげしい戦場(せんじょう)となり、多くの人々がぎせいとなりました。

沖縄戦が終わったのは、日本軍の司令官(しれいかん)が自分で命をたった6月23日といわれていますが、その後も、いろいろな場所で日本兵の抵抗(ていこう)は続きました。そのため、日本軍がこうふく文書にサインしたのは9月7日のことでした。」

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