オピニオン
2018.05.31
同国には上院(国家院、元老院とも呼ばれる)もある。定数は70であり、約3分の2が国王の勅任、3分の1が国内13州の州議会で2人ずつ選出されるが、勅任議員は現在、政党の影響を強く受けるようになっている。そもそも上院の権限は小さく、首相の指名など重要政治問題は下院で決定される。マレーシアの議会と言えば下院を指すとも言われている。
マレーシアの政治は長期にわたって安定しており、60年以上も政権交代がなかった。この機会にマレーシアの政治状況を2回に分けてみておきたい。
ブミプトラ
マレーシアは、70%がマレー人と先住民族(ブミプトラ、いわゆる「土地の子」)、中国系は25%、インド系は数%という民族構成である。
ブミプトラはイスラムでなければならないと定められている。中国人がマレー人の妻との間で設けた子はイスラムでないためブミプトラとして認められない。
イスラムが公式宗教として位置づけられているが、他宗教の信仰の自由も認められている。
民族別に政党があり、マレー人がUMNO(統一マレー国民組織)、中国系がMCA (Malaysian Chinese Association)、 インド系がMIC (Malaysian Indian Congress)である。これらが、与党連合Barisan Nasional(国民戦線、英語ではNational Front。略してBN)を構成しているが、UMNOが圧倒的な力を持っており、歴代の首相はUMNOから選ばれている。
マレーシアの憲法をはじめ法令において、ブミプトラ優遇が定められている。
ブミプトラ優遇制は徹底しており、笑い話だが、異なる民族からなる盗賊のグループでもブミプトラの分け前は特別に多いそうだ。
民族差別をこれほど公然と行っている国は世界的にめずらしい。しかもマレーシアではマレー系が圧倒的に多く、優遇策は本来必要ないはずだ。しかし、実際には中国系やインド系は強い経済力があり、また、文化的な観点からも多数民族であるマレー系に優遇策が必要なのである。
特殊な制度であるが、国家の実情に応じた政治体制という意味では、中国における共産党の独裁と類似している面がある。
なお、1969年にマレー系と中国系との間で激しい民族衝突が起こり、国際的な関心を集めた。その後も中国系の不満が表面化することがあるが、先鋭な対立には至っていない。
偉大なマハティール
UMNOのチャンピオンであったのがマハティール(Mahathir bin Mohamad)であり、マレーシアの首相を22年(1981~2003年)の長きにわたって務めた。他にそのような例はない。マハティールはマレーシアの近代化と経済発展のために数々の業績をあげた。日本に倣おうとする「ルック・イースト(東方政策)」は有名である。
しかし、1990年代の後半にはさすがのマハティールも政治・経済両面で困難に遭遇した。
経済面では、1997年のアジア通貨危機でマレーシアもマイナス成長に陥ったが、他の東南アジア諸国よりも早く立ち直った。マハティールはこの点では評価された。
一方、アジア通貨危機とほぼ同時期にUMNO内部での権力闘争が激しくなった。マハティールがあまりにも長く首相の座にあったため、またその強権的な政治手法が原因で、マハティールに対する批判が強くなったのであった。
批判運動の中心がマハティール首相の下で副首相兼財務相を務め、一時期はマハティールの後継者と目されたこともあったアンワル(Anwar Ibrahim)であり、アンワルはマハティールの辞任を求める運動、reformasiを展開した。
反撃に出たマハティールは1998年9月、アンワルを解任し、治安維持法違反で逮捕し、政治闘争に終止符を打った。この時以来、アンワルは野党勢力のリーダーとなり、UMNOやマハティールと対立することになった。
1999年の選挙でもマハティールは政権を維持したが、UMNOは退潮し始めており、後継者探しが始まった。次回の選挙を目前にした2003年10月、マハティールは辞任し、後任首相にアブドラ・バダウィ(Abdullah bin Haji Ahmad Badawi)が就任した。
2004年3月の選挙で、アブドラが率いる与党BN(Barisan Nasional)は大勝し、獲得した議席数は90%を超えた。
アブドラ政権は、滑り出しは好調であったが、しだいに尻すぼみ状態になり、2008年3月の選挙では4年前と状況が一変していた。BNは勝つには勝ったが、獲得議席数は3分の2に届かず、アブドラは翌年4月、副首相のナジブ(Mohammad Najib bin Tun Haji Abdul Razak)に首相の座を譲った。
ナジブ首相と国際的スキャンダル
ナジブはマレーシアの第2代ラザク首相の長男であり、若いころから政治を志し、マハティール首相およびアブドラ首相の下で要職を歴任するという政界のサラブレッドであった。ナジブが首相になったとき、マレーシアはUMNOが退潮傾向にあり、経済は2008年の世界金融危機の影響を受けて停滞していた。新政権への期待は大きかった。
しかし、経済の立て直しは簡単でなかった。マレーシアは東南アジアの中でいち早く工業化を達成した国であり、労務コストの上昇から優位性を失いつつあった。「中進国の罠」に陥っているとも指摘されていた。
ナジブ政権が自由主義的な経済政策を取ったのは合理的な選択であり、各種補助金の削減、外国からの投資に関する制限を緩和し、また、ブミプトラの特権をカットするなどしたが、国内の不満はかえって増大した。
2013年の選挙では与党連合BNに対する支持率がさらに下がり、得票率は野党連合PHに及ばなかった。しかし、BNは過半数の議席を維持した。そうなった原因としてブミプトラの勢力が強い地方やボルネオ島では、人口に比べて多くの議席が割り当てられていることなどが指摘されていたが、ナジブの政権維持能力は高いと見られていた。
また、ナジブは対外関係において、とくに米国および中国との関係を進め、高い評価を得ていた。
そんな中、政府系ファンドである1MDBの資金流用疑惑が起こり、ナジブ首相の立場は著しく損なわれた。1MDBは、2009年にナジブが主導して創設した投資会社であり、自身が顧問会議のトップとして経営に関与し、マレーシアを先進国入りさせるプロジェクトの一環として期待されていた。
しかし、この投資会社は、14年までに多額の負債(約420億リンギット 国家予算の16%)を抱え込んでいたことが明るみに出た。不正経理の疑惑も指摘された。不透明な取引を通じて7億ドル近い資金がナジブ・ラザク首相に流れたともうわさされた。
米司法省は首相の個人口座に預け入れられた6億8100万ドル(現在の為替レートで約770億円)が1MDBから盗まれたものだと指摘した。この問題はスイス、シンガポールなど複数の国を巻き込むスキャンダルに発展した。問題発生から4年になるが、関係各国での捜査は現在も進行中であり、ナジブ元首相は訴追の危険にさらされている。
2018年の選挙で大方の予想を裏切ってBNが大敗したのは、ナジブの力に対する過大評価と、もともとはアンワルが率いていたが、マハティールが支持に回った野党連合PHへの過小評価に原因があったと思われる。
マレーシアの政治① その源流
5月9日に投票が行われたマレーシアの連邦下院選で、大方の予想を覆して野党連合が大勝した。このことは、マレーシア政治に詳しい人たちの間でも驚きだったらしい。下院の定数は222。うち、野党連合が113議席、ナジブ首相が率いる与党連合は79議席、その他の政党が計30議席を獲得した。同国には上院(国家院、元老院とも呼ばれる)もある。定数は70であり、約3分の2が国王の勅任、3分の1が国内13州の州議会で2人ずつ選出されるが、勅任議員は現在、政党の影響を強く受けるようになっている。そもそも上院の権限は小さく、首相の指名など重要政治問題は下院で決定される。マレーシアの議会と言えば下院を指すとも言われている。
マレーシアの政治は長期にわたって安定しており、60年以上も政権交代がなかった。この機会にマレーシアの政治状況を2回に分けてみておきたい。
ブミプトラ
マレーシアは、70%がマレー人と先住民族(ブミプトラ、いわゆる「土地の子」)、中国系は25%、インド系は数%という民族構成である。
ブミプトラはイスラムでなければならないと定められている。中国人がマレー人の妻との間で設けた子はイスラムでないためブミプトラとして認められない。
イスラムが公式宗教として位置づけられているが、他宗教の信仰の自由も認められている。
民族別に政党があり、マレー人がUMNO(統一マレー国民組織)、中国系がMCA (Malaysian Chinese Association)、 インド系がMIC (Malaysian Indian Congress)である。これらが、与党連合Barisan Nasional(国民戦線、英語ではNational Front。略してBN)を構成しているが、UMNOが圧倒的な力を持っており、歴代の首相はUMNOから選ばれている。
マレーシアの憲法をはじめ法令において、ブミプトラ優遇が定められている。
ブミプトラ優遇制は徹底しており、笑い話だが、異なる民族からなる盗賊のグループでもブミプトラの分け前は特別に多いそうだ。
民族差別をこれほど公然と行っている国は世界的にめずらしい。しかもマレーシアではマレー系が圧倒的に多く、優遇策は本来必要ないはずだ。しかし、実際には中国系やインド系は強い経済力があり、また、文化的な観点からも多数民族であるマレー系に優遇策が必要なのである。
特殊な制度であるが、国家の実情に応じた政治体制という意味では、中国における共産党の独裁と類似している面がある。
なお、1969年にマレー系と中国系との間で激しい民族衝突が起こり、国際的な関心を集めた。その後も中国系の不満が表面化することがあるが、先鋭な対立には至っていない。
偉大なマハティール
UMNOのチャンピオンであったのがマハティール(Mahathir bin Mohamad)であり、マレーシアの首相を22年(1981~2003年)の長きにわたって務めた。他にそのような例はない。マハティールはマレーシアの近代化と経済発展のために数々の業績をあげた。日本に倣おうとする「ルック・イースト(東方政策)」は有名である。
しかし、1990年代の後半にはさすがのマハティールも政治・経済両面で困難に遭遇した。
経済面では、1997年のアジア通貨危機でマレーシアもマイナス成長に陥ったが、他の東南アジア諸国よりも早く立ち直った。マハティールはこの点では評価された。
一方、アジア通貨危機とほぼ同時期にUMNO内部での権力闘争が激しくなった。マハティールがあまりにも長く首相の座にあったため、またその強権的な政治手法が原因で、マハティールに対する批判が強くなったのであった。
批判運動の中心がマハティール首相の下で副首相兼財務相を務め、一時期はマハティールの後継者と目されたこともあったアンワル(Anwar Ibrahim)であり、アンワルはマハティールの辞任を求める運動、reformasiを展開した。
反撃に出たマハティールは1998年9月、アンワルを解任し、治安維持法違反で逮捕し、政治闘争に終止符を打った。この時以来、アンワルは野党勢力のリーダーとなり、UMNOやマハティールと対立することになった。
1999年の選挙でもマハティールは政権を維持したが、UMNOは退潮し始めており、後継者探しが始まった。次回の選挙を目前にした2003年10月、マハティールは辞任し、後任首相にアブドラ・バダウィ(Abdullah bin Haji Ahmad Badawi)が就任した。
2004年3月の選挙で、アブドラが率いる与党BN(Barisan Nasional)は大勝し、獲得した議席数は90%を超えた。
アブドラ政権は、滑り出しは好調であったが、しだいに尻すぼみ状態になり、2008年3月の選挙では4年前と状況が一変していた。BNは勝つには勝ったが、獲得議席数は3分の2に届かず、アブドラは翌年4月、副首相のナジブ(Mohammad Najib bin Tun Haji Abdul Razak)に首相の座を譲った。
ナジブ首相と国際的スキャンダル
ナジブはマレーシアの第2代ラザク首相の長男であり、若いころから政治を志し、マハティール首相およびアブドラ首相の下で要職を歴任するという政界のサラブレッドであった。ナジブが首相になったとき、マレーシアはUMNOが退潮傾向にあり、経済は2008年の世界金融危機の影響を受けて停滞していた。新政権への期待は大きかった。
しかし、経済の立て直しは簡単でなかった。マレーシアは東南アジアの中でいち早く工業化を達成した国であり、労務コストの上昇から優位性を失いつつあった。「中進国の罠」に陥っているとも指摘されていた。
ナジブ政権が自由主義的な経済政策を取ったのは合理的な選択であり、各種補助金の削減、外国からの投資に関する制限を緩和し、また、ブミプトラの特権をカットするなどしたが、国内の不満はかえって増大した。
2013年の選挙では与党連合BNに対する支持率がさらに下がり、得票率は野党連合PHに及ばなかった。しかし、BNは過半数の議席を維持した。そうなった原因としてブミプトラの勢力が強い地方やボルネオ島では、人口に比べて多くの議席が割り当てられていることなどが指摘されていたが、ナジブの政権維持能力は高いと見られていた。
また、ナジブは対外関係において、とくに米国および中国との関係を進め、高い評価を得ていた。
そんな中、政府系ファンドである1MDBの資金流用疑惑が起こり、ナジブ首相の立場は著しく損なわれた。1MDBは、2009年にナジブが主導して創設した投資会社であり、自身が顧問会議のトップとして経営に関与し、マレーシアを先進国入りさせるプロジェクトの一環として期待されていた。
しかし、この投資会社は、14年までに多額の負債(約420億リンギット 国家予算の16%)を抱え込んでいたことが明るみに出た。不正経理の疑惑も指摘された。不透明な取引を通じて7億ドル近い資金がナジブ・ラザク首相に流れたともうわさされた。
米司法省は首相の個人口座に預け入れられた6億8100万ドル(現在の為替レートで約770億円)が1MDBから盗まれたものだと指摘した。この問題はスイス、シンガポールなど複数の国を巻き込むスキャンダルに発展した。問題発生から4年になるが、関係各国での捜査は現在も進行中であり、ナジブ元首相は訴追の危険にさらされている。
2018年の選挙で大方の予想を裏切ってBNが大敗したのは、ナジブの力に対する過大評価と、もともとはアンワルが率いていたが、マハティールが支持に回った野党連合PHへの過小評価に原因があったと思われる。
2018.05.25
翌日、北朝鮮の金桂寛第1外務次官は、「委任に従って」、つまり金委員長の指示によるとしつつ談話を発表した。
世界中の多くが実現を望んでいた米朝首脳会談の突然の取り消しは衝撃的であるが、米朝両国が北朝鮮の非核化に向け対話を進めるという大きな方向は今後も変わらないと思われる。そう考える理由は、双方ともお互いの立場にしっかりと配慮しあい、努力を認めあい、かつ今後対話が再開されることを希望しあっているからである。
いくつかの脚注を加えておきたい。
第1に、トランプ大統領が書簡で非難していることは、金委員長というよりむしろ北朝鮮である。そして、金委員長個人に配慮する言及をしている。
金次官の談話も、会談取り消しの決定は遺憾だとしつつ、トランプ大統領の努力をたたえ、評価している。
つまり、会談取り消しという事態になりながらも、トランプ氏と金氏はお互いにたたえ合っており、エールの交換とも見える言及をしているのである。
第2に、承認しあっていない二つの国家の指導者が考えを開陳するなかで、個人的にはお互いにたたえつつ、側近を非難するというのは奇妙なことである。世界のどこかに、かつてそのようなことがあったか、寡聞にして知らない。批判されたのは、北朝鮮では崔善姫外務次官と労働新聞、米国ではペンス副大統領やボルトン補佐官などである。
第3に、トランプ氏と金氏は、これまで個人的と言っても過言でない強いリーダーシップで対話に向かってきたが、問題発言をした側近に限らず、補佐をする人たち全体が指導者に追い付いていないのではないか。どちらの国内にも調整の必要が残っているのは何ら不思議でない。
第4に、トランプ氏は、今回の書簡に先立って、金委員長が第2回目の訪中後態度が変わったと不満を漏らしていたが、額面通りとることはできない。ポンペオ国務長官は金委員長が訪中から帰国した翌日に会見し、その結果に満足し、また、3人の米人の釈放に大喜びした。つまり、金・ポンペオ会談では、習近平主席がトランプ氏の気に入らないことを吹き込んでいた形跡はなかったのだ。ポンペオ氏と金氏との会談は首脳会談のために最も重要な準備の場であり、金氏の心変わりが現れるとすれば、この場からであるはずだ。
では、トランプ氏がなぜ中国のことに言及したかであるが、トランプ氏は、金氏との会談の準備を進めつつも、中国の問題、とくに貿易問題などが頭にあり、中国をけん制しようとしたのではないか。
第5に、文在寅大統領は、これまで巧みな外交を展開してきたが、今回はメンツをつぶされ、損な役回りになった。文氏がトランプ氏に会ったのはこの書簡のわずか2日前であったが、トランプ氏から事前に聞かされていなかったと思う。
ともかく、トランプ大統領は、書簡を締めくくるに際し、金委員長に「電話してほしい」と言わんばかりの言及をしている。
一方、金次官の談話は「我々は、いつでも、いかなる方式であれ対座して問題を解決する用意があることを米国側に改めて明らかにする」と述べ、米側が先に動くことを待つ姿勢である。両者の間には若干の距離があるが、次の展開が、いかなる形で起こるか注目される。
米朝首脳会談の取り消し
トランプ大統領は5月24日付で北朝鮮の金正恩委員長にあて書簡を送り、6月12日に予定されている米朝首脳会談を取り消す考えを示した。翌日、北朝鮮の金桂寛第1外務次官は、「委任に従って」、つまり金委員長の指示によるとしつつ談話を発表した。
世界中の多くが実現を望んでいた米朝首脳会談の突然の取り消しは衝撃的であるが、米朝両国が北朝鮮の非核化に向け対話を進めるという大きな方向は今後も変わらないと思われる。そう考える理由は、双方ともお互いの立場にしっかりと配慮しあい、努力を認めあい、かつ今後対話が再開されることを希望しあっているからである。
いくつかの脚注を加えておきたい。
第1に、トランプ大統領が書簡で非難していることは、金委員長というよりむしろ北朝鮮である。そして、金委員長個人に配慮する言及をしている。
金次官の談話も、会談取り消しの決定は遺憾だとしつつ、トランプ大統領の努力をたたえ、評価している。
つまり、会談取り消しという事態になりながらも、トランプ氏と金氏はお互いにたたえ合っており、エールの交換とも見える言及をしているのである。
第2に、承認しあっていない二つの国家の指導者が考えを開陳するなかで、個人的にはお互いにたたえつつ、側近を非難するというのは奇妙なことである。世界のどこかに、かつてそのようなことがあったか、寡聞にして知らない。批判されたのは、北朝鮮では崔善姫外務次官と労働新聞、米国ではペンス副大統領やボルトン補佐官などである。
第3に、トランプ氏と金氏は、これまで個人的と言っても過言でない強いリーダーシップで対話に向かってきたが、問題発言をした側近に限らず、補佐をする人たち全体が指導者に追い付いていないのではないか。どちらの国内にも調整の必要が残っているのは何ら不思議でない。
第4に、トランプ氏は、今回の書簡に先立って、金委員長が第2回目の訪中後態度が変わったと不満を漏らしていたが、額面通りとることはできない。ポンペオ国務長官は金委員長が訪中から帰国した翌日に会見し、その結果に満足し、また、3人の米人の釈放に大喜びした。つまり、金・ポンペオ会談では、習近平主席がトランプ氏の気に入らないことを吹き込んでいた形跡はなかったのだ。ポンペオ氏と金氏との会談は首脳会談のために最も重要な準備の場であり、金氏の心変わりが現れるとすれば、この場からであるはずだ。
では、トランプ氏がなぜ中国のことに言及したかであるが、トランプ氏は、金氏との会談の準備を進めつつも、中国の問題、とくに貿易問題などが頭にあり、中国をけん制しようとしたのではないか。
第5に、文在寅大統領は、これまで巧みな外交を展開してきたが、今回はメンツをつぶされ、損な役回りになった。文氏がトランプ氏に会ったのはこの書簡のわずか2日前であったが、トランプ氏から事前に聞かされていなかったと思う。
ともかく、トランプ大統領は、書簡を締めくくるに際し、金委員長に「電話してほしい」と言わんばかりの言及をしている。
一方、金次官の談話は「我々は、いつでも、いかなる方式であれ対座して問題を解決する用意があることを米国側に改めて明らかにする」と述べ、米側が先に動くことを待つ姿勢である。両者の間には若干の距離があるが、次の展開が、いかなる形で起こるか注目される。
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