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2018.06.23

沖縄で戦った人たちを評価すべきだ

 1945年6月23日は沖縄で「組織的戦闘が終了」した日。戦って命を落とされた方々を悼んで、1995年、読売新聞に以下の一文を寄稿した。

 「戦後五十年、戦争に関する議論が盛んであるが、戦死者に対する鎮魂の問題については、戦争と個人の関係をよく整理する必要がある。あくまでも個人的見解であるが、一考察してみたい。

 個人の行動を評価する場合には、「戦争の犠牲」とか[殉国]などのように、戦争や国家へ貢献したかどうか、あるいは戦争や国家が個人にどんな意義をもったか、などから評価されることが多い。しかし、そのような評価の仕方は、少々考えるべき点があるのではないだろうか。

 歴史的には、個人の行動に焦点を当てた評価もあった。例えば「敵ながらあっぱれ」という考えは、その戦争とは明確に区別して、個人の行動を評価している。
 では、太平洋戦争末期に十五万人の民間人死者が出た沖縄戦はどうか。中でも、悲運として広く知られるひめゆり学徒隊の行動は、自分たちを守るという強い精神力に支えられたもので、何らかの見返りを期待したのでもなく、条件つきでもなかった。従って「犠牲者」のイメージで連想される弱者には似つかわしくない。勇者と呼ぶにふさわしいと思う。また、[殉国]のイメージとも違う。[殉国]型の評価は、個人が国家のために一身を捧げたとみなされており、自らを守ることについて特に評価は与えられていないのだ。
 個人と国家は区別され、その個人の評価は国家に対する献身なり、貢献という角度から下されている。しかし、ひめゆり学徒隊の大部分は、自分自身も、家族も故郷も、祖国も、守るべき対象として一緒に観念していたのではないか。「犠牲者」とか[殉国者]と言うより、人間として極めて優れた行動をとったと評価されるべき場合だったと思う。

 これは軍人についても同じことで、「防御ならよいが攻撃は不可」とは考えない。軍人の、刻々の状況に応じた攻撃は、何ら恥ずべきことではない。もちろん罪でもなく、任務であり、当たり前のことである。

 他方、このことと戦争全体の性格、すなわち侵略的(攻撃的)か、防御的かは全く別問題である。戦争全体が侵略的であるかないかを問わず、個人の防御的な行動もあれば、攻撃的な行動もある。
 さらに、局部的な戦争と戦争全体との関係もやはり区別して評価すべきである。たとえば、沖縄戦はどの角度から見ても防御であった。まさか日本側が米軍に対して攻撃した戦争と思っている人はいないだろう。他方わが国は、太平洋戦争において、侵略を行なってしまったが、防御のために沖縄戦と、侵略を行なってしまったこととの間に何ら矛盾はない。

 したがって、軍人の行動を称賛すると、戦争を美化することになるといった考えは誤りであると言わざるを得ない。その行動が、敵に対する攻撃であっても同じことである。もちろん、攻撃すべてが積極的に評価できると言っているのではない。

 もう一つの問題は、軍人の行動を「祖国を守るために奮闘した」との趣旨で顕彰することである。この種の顕彰文には、自分自身を守るという自然な感情が、少なくとも隠れた形になっており、個人の行動を中心に評価が行われていない。
 顕彰文を例に出して、「軍人が祖国を防衛したことのみを強調するのは、あたかも戦争全体が防御的だったという印象を与え、戦争全体の侵略性を歪曲する」という趣旨の評論が一部にあるが、賛成できない。個人の行動の評価と戦争全体の評価を連動させているからである。

 戦争美化と逆であるが、わが国が行った戦争を侵略であったと言うと、戦死者は「犬死に」したことになるという考えがある。これも個人と戦争全体の評価を連動させている誤った考えである。個人の行動を中心に評価するとなれば、積極的に評価できない場合も当然出てくる。
一方、戦死者は平等に弔うべきだという考えがあるが、弔いだけならいい。当然死者は皆丁重に弔うべきだ。しかし、弔いの名分の下に、死者の生前の業績に対する顕彰の要素が混入してくれば問題である。

 もしそのように扱うことになれば、間違った個人の行動を客観的に評価することができなくなるのではないか。そうなれば、侵略という結果をもたらした戦争指導の誤りも、弔いとともに顕彰することになりはしないか。それでは、戦争への責任をウヤムヤにするという内外の批判に、到底耐え得ないだろう。

 個人の行動を中心に評価することは洋の東西を問わず認められている、と私は信じている。ある一つの戦争を戦う二つの国民が、ともに人間として立派に行動したということは十分ありうることである。片方が攻撃、他方が防御となることが多いだろうが、双方とも人間として高く評価しうる行動をとったということは何ら不思議でない。

 個人と戦争全体、国家との関係をこのように整理した上で、戦争という極限状況の中で、あくまで人間として、力の限り、立派に生きた人たちに、日本人、外国人の区別なく、崇高なる敬意を捧げたい。」


2018.06.15

トランプ・金会談は重要なことに合意した

 6月12日、シンガポールで行われた米朝首脳会談については、具体性に欠けるとか、金正恩委員長に譲歩しすぎだとの評価が多いが、それだけでは一面的な見方になる。共同声明から見て、次の4点は特に注目すべきである。

 第1に、米朝両国間の長く続いた激しい敵対状況を終わらせ、新しい関係を樹立していくために首脳同士が直接会談したことの意義は大きい。両者の間では一定の信頼関係も生まれたようだ。トランプ氏は、金正恩氏が「1万人に1人の優れた人物」とまで持ち上げた。

 第2に、米朝両国は、両国民の平和と繁栄への願望に沿って新しい関係を築いていくことに合意した(共同声明第1項)。「両国民の平和と繁栄への願望に沿って」という文言を入れたことは極めて重要だ。民主的に米朝関係を構築していくことを意味する文言だからだ。人権の問題なども含まれてくる。北朝鮮のこれまでの姿勢からして、文言だけでもこのようなことに合意するのは大きな決断であっただろう。

 第3に、朝鮮半島の統一は本来南北両朝鮮の問題だが、これに米国は協力することとなった(第2項)。極端な場合、かりに南北いずれかが武力で朝鮮半島の統一を試みる場合、米国が関与する根拠になりうる。
 この合意は米朝限りのもので、韓国はこの合意に入っていないが、そのことは問題にならないだろう。

 第4に、「非核化」については、共同声明の言及は確かに具体性に欠けるが、今後米朝両国の事務方で詰めていくことになっている。会談後の共同声明が60点だとすれば、今後の協議次第で90点にも、また30点にもなりうる。現在の時点では確定的に評価することはできない。

 共同声明に記載されていること以外にも注目すべき点がある。

 朝鮮半島の緊張はすでにおおはばに緩和された。この点についてはどこにも異論はないだろう。

 トランプ大統領が記者会見で、演習の中止や在韓米軍の撤退の可能性に言及したことは韓国や日本で強い関心を引き起こした。たしかに、トランプ氏の発言は時期尚早であったと思うが、トランプ氏は、米朝関係も南北関係も平和に向かって進み始めたからには現実の軍事情勢にも当然影響してくると考え、そのような発言になった可能性がある。
トランプ氏は取引にたけている、政治的効果を過度に考慮する、米国の財政負担軽減をあまりにも重視するなどの問題があるが、共同声明の第1及び第2項の重要性を見過ごすことはできない。
 
 「非核化」に関して北朝鮮の中央通信やポンペオ国務長官が、対外的に解説を加えているが、必ずしも正確でない。
 例えば、ポンペオ長官は、「米国はCVIDのない合意はしない」との趣旨を述べているが、CVIDは必要条件だが、十分条件ではない。必要なのはCVIDの具体的内容である。
 同長官は、また、「大規模な軍縮を2年半で達成できると希望する」とソウルで述べている。この言及は非核化の検討が進捗したことを物語っており、単に「完全な非核化」というより内容があるとみられる。ただし、2年半で十分か、もっと短くできるか、あるいは長くなるかは明確でない。その程度のことは斟酌しながら聞く必要がある。

 一方、北朝鮮からは、「段階的に核を廃棄することが合意された」との解説が聞こえてくる。しかし、このようなことは共同声明に盛り込まれていないし、トランプ大統領の説明にもなかった。真相はやぶの中だが、北朝鮮側の報道が正しいとも断定できない。最近、金委員長はじめ北朝鮮の指導者の行動や説明と北朝鮮の報道がずれることが起きている。なぜそのようになるのか興味をそそられる問題だが、今回の「段階」報道もはたして正確か慎重に見極める必要がある。

 首脳会談はトランプ大統領と金委員長のつよいリーダシップで実現しただけに、周囲がついていけていないこともありそうだ。

2018.06.13

米朝首脳会談

米朝首脳会談に関し、THE PAGEに一文を寄稿しました。
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