オピニオン
2018.11.05
昨年は安倍首相が訪印し(第1次政権時代を含め4回目)、モディ首相の出身地であるアーメダバードで9キロの長さの歓迎パレードがあったそうだ。
モディ氏の前任の首相の時からであったが、日本とインドの首相は2年ごとに交互に訪問し合っているので、首脳会談は毎年開かれているわけだ。こんな国はほかにない。
インドの重要性が注目されるようになったのは、1991年、インド経済が開放的になってからである。中国の改革開放と比べると、約10年遅れであったが、経済発展のポテンシャリティは中国に勝るとも劣らない。たとえば、人口は2011年に12億1千万人に達しており、2024年ころには中国を超えるといわれている。実際の開発状況は、開放的経済体制への転換が遅れただけでなく、民主主義であるため進展は遅々としており、中国よりはるかに遅れているが、それだけ伸びしろがあるわけだ。
日印首脳会談ではいつもインドへの投資が話題になる。今回もそうであった。2015年の安倍首相の訪印時には、新幹線建設が話し合われた。インドはその後日本の新幹線方式を採用することに決定し、インド西部のムンバイとアーメダバード間をつなぐ高速鉄道(MAHSR: Mumbai Ahmedabad High Speed Railway)を建設することとなった。日本の協力は日印政府間で合意されている。この鉄道の開通は2023年の予定だ。
しかし、インドについては、日本には一種の「距離感」がある。モディ首相の今回の訪日は成功であったが、その報道が控えめだったのは、そのような「距離感」があるからだろう。
「距離感」の原因の一つはインドの地政学的な事情にある。たとえば、日本の近隣諸国を含め、経済的、あるいは安全保障面で地域協力が語られる場合、南は東南アジアまでが対象となる。インドは入ってこないか、入っても境界線ギリギリのところで顔を出す程度だ。
日本政府は最近、「インド太平洋パートナーシップ」を重視し始めている。安全保障面では日本より先に米国がインドとの協力を進めていたが、そうであっても本稿の論旨は変わらないのでその点には深入りしない。
ともかく、「インド太平洋パートナーシップ」はよい構想だが、日本人の中ではまだ十分に定着していない。その理由の一つは、我々の頭では伝統的地政学的発想が強いからである。今後、日本とインドの協力が進めば、東南アジアまでを東アジアとみなす発想は変化し、インドまでを一つの地域とみなすようになることも考えられるが、実際そうなるとしてもかなり遠い将来のことであろう。
そのような状況になった場合でも「インド太平洋パートナーシップ」と呼ぶのがよいか。「インド」は明確だが、「太平洋」については、米国を含みうるというメリットはあろうが、中国も入るだろうし、あまりにも広すぎるので焦点がぼけてしまう恐れがある。
「距離感」は、インドの歴史的、文化的事情にもよる。歴史的には、日本はインドと中国ほど長く緊密でなかった。単純化しすぎるかも知れないが、中国に言及しないで日本の歴史を語ることはできないが、インドは日本の歴史にほとんど登場しない。
文化面の状況は複雑だが、まず主要な宗教が異なる。インドではヒンズー教徒が80%を超えている。次に多いのはイスラム教徒で13%。仏教徒は1%にも満たない数で、キリスト教徒より少ない。もともとは仏教国であったが、紀元前からヒンズー教徒が多くなったそうだ。
かりに仏教がインドの主要な宗教であれば、日本人に与える印象はまったく違ってくるだろうが、ヒンズー教は日本人にとってイメージがわかない。
ヒンズー教はインド社会の特徴であるカースト制度とも関係があるという。カースト制度もインドの「距離感」を感じさせる大きな要因だ。
モディ首相は経済発展を重視し、改革に取り組んでいるが、ヒンズー教を重視することでも知られている。
モディ氏の支持母体であるインド人民党には、建国の父である偉大なマハトマ・ガンジーや独立後のインドを率いて国際的にもっとも影響力のある国家にしたジャワハルラール・ネルーを批判する考えがあるという。その理由は、「ガンジーもネルーもイスラム教徒に弱腰でヒンドゥー教徒を苦しめた」からだ(朝日新聞2018年6月18日付)。
モディ氏自身はインドの首相なのでさすがに発言には気を付けているが、グジャラート州の首相であった時にはそのような考えを口にしていたそうだ。
インドの一部では公立学校の教科書からガンジーやネルーの記述が削除されつつあるともいう。
グジャラート州では最近、サルダル・パテルの巨大な像が完成した。高さ182メートルで世界一高い立像である。モディ首相はその完成式典に出席した。パテルはネルーと並んで独立運動の志士であったが、日本でも世界でもネルーのほうがはるかによく知られている。インドでもこれまではそのような認識であり、ネルーは首相となったが、パテルは副首相であった。
しかるに、モディ政権下でネルーへの批判が行われる一方、パテルに対する評価があげられるのであれば、インドの現代史はどうなるのだろうか。
歴史の書き換えは是認されることか我々にはわからないが、少なくともこのような宗教事情はインドの「距離感」をさらに強める原因になる。
インドの「距離感」は、独立以来の対外姿勢も原因だ。
第二次大戦後、独立したインドは、その地政学的環境および英国の殖民地統治から独立したという歴史的事情から東西いずれにも加担しない非同盟路線を選択した。
しかし、非同盟政策を堅持するだけでインドの平和を確保し続けることは困難であり、実施国境紛争をめぐって近隣諸国と衝突が起こった。中国とは1962年、武力衝突となり、大敗した。
パキスタンとは、カシミール地方をめぐって3回戦争が起こったと言われているが、今でも局部的な衝突が時折発生している。
1979年にアフガン戦争が発生すると、米国は反ソ勢力のタリバンを支援するためパキスタンに対する援助を強化したのでパキスタンは米国寄りになった。パキスタンは同年、非同盟運動に参加したのだが、それは一種の隠れ蓑だったのかもしれない。
ともかく、このような状況はインドとソ連の関係を緊密化させた。独立以来冷戦終結のころまでほぼ一貫して政権を担当した国民会議派は社会主義を信奉する傾向があり、インド経済は1991年に改革が開始されるまで計画経済であった。
米国はインドに関心がなかったわけではない。米国にはインドの将来性を高く評価し、インドとの関係を強化しようとする考えがあった。世界的に有名な経済学者でケネディ政権時代にインド大使を務めたジョン・ケネス・ガルブレイスなどはその例であったが、社会主義的傾向が強い国民会議派が牛耳り、外交の基本は非同盟だとするインドとの関係が緊密化するには限界があったのだ。インディラ・ガンジー首相はソ連派のインド共産党から支持を受けて政権を維持していたこともあった。
印ソ関係緊密化の象徴が、1971年の「印ソ平和友好協力条約」であった。これには「ソ連はインドの非同盟政策を尊重する」としつつ(第4条)、いずれかの国、すなわちインドあるいはソ連が「第三国から攻撃あるいはその脅威を受けた場合、その脅威を除去するために両国は協議する」と記載されていた(第9条 文言は読みやすくした)。この規定は軍事的な支援こそ謳っていなかったが、実質的には限りなく同盟に近いものであり、「同盟条約」であったと断言する向きもある。
ともかく、冷戦が終了した後、1993年にエリツィン・ロシア大統領が訪印した際に、この条約は軍事安全保障関係の条文が取り除かれ、単なる「友好協力条約」に改訂された。
中国やパキスタンなど厳しい国際環境にあるインドとして、その安全保障のためにこの条約を通してソ連に頼る、あるいは利用する考えが、一時的にはあったと思われる。
しかし、インドは自力で安全を確保しなければならないとも考えていた。その中心となっていたのが核兵器を開発・保有することであった。
1968年に成立し、70年に発効した核兵器拡散禁止条約(NPT)はインドが核保有国となる道を完全にシャッタアウトした。一方、インドのライバル、中国は核保有を認められた。インドの立場で言えば、中国に続いてインドも核兵器をもう少しで持てそうになったところで、その道はふさがれてしまったのだ。これはインドにとって耐え難いことだったのだろう。インドが同条約に参加することを拒否し、将来の核オプションを残しておくこととした。
しかし、インドが核兵器の開発を実際に決断するのは容易でなかった。それも当然だ。インドは核兵器を拡散させてはならないという世界の大義に逆らったのだ。しかも、インドは20年前まで帝国主義勢力の殖民地であった身であり、軍事力で国家目的を達成しようとすることには強い抵抗があり、いわゆる「平和愛好国家」はインドにとって重要な看板であった。「非同盟運動」に力を入れたのも、同様の歴史を持つ多数の国と連携し、軍事大国に対抗するためであった。つまり、インドは核を研究し、開発の一歩手前までは行けても、実際に核兵器を製造することは困難だったのだ。
核実験の決定を行ったのは、1996年の総選挙で国民会議派を破り政権を取ったインド人民党であり、同党は核保有をかねてから主張していた。もっとも、選挙後やっと成立した連立政権は不安定で13日間しか持たなかったが、アタル・ビハーリー・バジュパイ首相はその間に核実験を決定したと言われている。実際の核実験は1998年5月10日の総選挙で再び勝利を収めたバジュパイ氏が、連立政権工作中で、まだ首相に就任する前であったが、同月11日と13日に行った。核実験の断行は連立政権として交渉の対象にならないことを宣言したのだろう。
核実験の実行を断行したのは人民党政権であったが、核兵器の開発は決定してから数年かかる。その準備は国民会議派政権によって、冷戦の終了の前から始められていたのであり、またそのことは野党であった人民党にも知られていた。インドとして核実験を実行すること、またそれはいつにするかについては考えの違いがあったが、核兵器を開発し、実験の準備をしておかなければならないということについては与野党の考えには大きな違いはなかったのだと思われる。
インド国内だけでない。パキスタンもインドの核開発状況を探知しており、インドに遅れることわずか2週間で核実験を行った。パキスタンもずっと以前から核開発を進めていたのだ。
核実験は世界にとって衝撃であり、インドとパキスタンは制裁を受けた。日本にとってインドの核保有は「距離感」では表せない、もっと深刻な問題であった。
しかし、ライバルであり、インドにとって脅威となりうる中国は核保有を認められたのにインドは認められないのでは、インドの安全は確保できないという考えは、個人的には分からないでもない。
インドには、核実験について日本がインドを批判するのは解せない、日本の立場はよく分かるが、インドの核には日本の安全保障に資する面があることも認めてもらいたいという考えを口にする人もある。もちろん政府の公式見解ではないが、非公式には表明されることがある。
今年はインドの核実験からちょうど20年になる。この間、同時多発テロが発生し、アフガニスタンでの作戦の関係から米国はインド・パキスタン両国に対する制裁を解除し、各国もそれに倣った。また、インドはテロ対策や北朝鮮による中東へのミサイル輸送を防止するのに米国に協力し、実績を上げた。米国はインドの能力を高く評価するようになり、原子力協力にも踏み切った。日本もモディ首相が2016年11月に来日したときインドと原子力協力に関する協定を結んだ。
現在、日本とインドの間では、防衛面での協力も進んでいる。今般のモディ首相の訪日においても、海上自衛隊とインド海軍の間の協力強化や、政策レベルでも日印外務・防衛閣僚会合(いわゆる2+2)を立ち上げることで一致した。
インド洋は中東から日本への原油の輸送ルートであり、その安全は日本にとって死活的な問題である。日本は太平洋からインド洋へ続く海域の安全を重視し、さらに強化しようとしており、インドも最近、「アクト・イースト」、すなわち活動範囲をインド洋から太平洋に広げる動きを見せている。
日本とインドの間には「距離感」があるが、今後それは縮小されていくだろう。本稿では「距離感」に注目したあまり、インドの魅力については特に言及しなかったが、それを過小評価すべきでないことはもちろんである。
戦後、東京裁判で判事の一人であったインドの法学者、ラダ・ビノード・パール氏がいわゆる事後法で裁くことはできないとして被告全員について無罪を主張したことを日本人は忘れていない。
ただし、パール判事が日本びいきだからそのような主張をしたとみるのは同判事に失礼である。事実でもないだろう。パール氏は国際法についての信念からそのように行動したのではないか。
インド人は「理屈っぽい」ところがある。英語を自由に話すのでその傾向がいっそう強く出るのかもしれない。いずれにしてもこの傾向は、核保有のように、時に日本人にとっては煩わしいどころか、同調できないこともあるが、日本はインドといたずらに感情を交えることなく話し合える。そう考えれば、インド人の「理屈っぽさ」は日本にとってもメリットだ。パール氏の主張にもそのような面があったのではないか。
インドは民主主義を重視する。しかも村落レベルでも民主主義的プロセスを重視する。そのため開発の速度は落ちるだろう。ムンバイ・アーメダバード間鉄道の建設については反対の声が上がっているそうだが、民主主義を重視する伝統はそれを補うメリットがある。
インドの歴史において仏教をめぐる環境は変わってしまったが、日本人の心の中では、仏教とインドが固く結びついている。また、日本におけるガンジーのイメージはきわめてよい。日本とインドが協力関係を強めていく可能性は高い。
インドの「距離感」
インドのモディ首相が10月28~29日来日し、安倍首相から私的別荘へ招待された。日本の首相が私的別荘で外国の要人を接待するのは、1983年に中曽根首相がレーガン大統領を奥多摩の日の出山荘に招いて以来であった。昨年は安倍首相が訪印し(第1次政権時代を含め4回目)、モディ首相の出身地であるアーメダバードで9キロの長さの歓迎パレードがあったそうだ。
モディ氏の前任の首相の時からであったが、日本とインドの首相は2年ごとに交互に訪問し合っているので、首脳会談は毎年開かれているわけだ。こんな国はほかにない。
インドの重要性が注目されるようになったのは、1991年、インド経済が開放的になってからである。中国の改革開放と比べると、約10年遅れであったが、経済発展のポテンシャリティは中国に勝るとも劣らない。たとえば、人口は2011年に12億1千万人に達しており、2024年ころには中国を超えるといわれている。実際の開発状況は、開放的経済体制への転換が遅れただけでなく、民主主義であるため進展は遅々としており、中国よりはるかに遅れているが、それだけ伸びしろがあるわけだ。
日印首脳会談ではいつもインドへの投資が話題になる。今回もそうであった。2015年の安倍首相の訪印時には、新幹線建設が話し合われた。インドはその後日本の新幹線方式を採用することに決定し、インド西部のムンバイとアーメダバード間をつなぐ高速鉄道(MAHSR: Mumbai Ahmedabad High Speed Railway)を建設することとなった。日本の協力は日印政府間で合意されている。この鉄道の開通は2023年の予定だ。
しかし、インドについては、日本には一種の「距離感」がある。モディ首相の今回の訪日は成功であったが、その報道が控えめだったのは、そのような「距離感」があるからだろう。
「距離感」の原因の一つはインドの地政学的な事情にある。たとえば、日本の近隣諸国を含め、経済的、あるいは安全保障面で地域協力が語られる場合、南は東南アジアまでが対象となる。インドは入ってこないか、入っても境界線ギリギリのところで顔を出す程度だ。
日本政府は最近、「インド太平洋パートナーシップ」を重視し始めている。安全保障面では日本より先に米国がインドとの協力を進めていたが、そうであっても本稿の論旨は変わらないのでその点には深入りしない。
ともかく、「インド太平洋パートナーシップ」はよい構想だが、日本人の中ではまだ十分に定着していない。その理由の一つは、我々の頭では伝統的地政学的発想が強いからである。今後、日本とインドの協力が進めば、東南アジアまでを東アジアとみなす発想は変化し、インドまでを一つの地域とみなすようになることも考えられるが、実際そうなるとしてもかなり遠い将来のことであろう。
そのような状況になった場合でも「インド太平洋パートナーシップ」と呼ぶのがよいか。「インド」は明確だが、「太平洋」については、米国を含みうるというメリットはあろうが、中国も入るだろうし、あまりにも広すぎるので焦点がぼけてしまう恐れがある。
「距離感」は、インドの歴史的、文化的事情にもよる。歴史的には、日本はインドと中国ほど長く緊密でなかった。単純化しすぎるかも知れないが、中国に言及しないで日本の歴史を語ることはできないが、インドは日本の歴史にほとんど登場しない。
文化面の状況は複雑だが、まず主要な宗教が異なる。インドではヒンズー教徒が80%を超えている。次に多いのはイスラム教徒で13%。仏教徒は1%にも満たない数で、キリスト教徒より少ない。もともとは仏教国であったが、紀元前からヒンズー教徒が多くなったそうだ。
かりに仏教がインドの主要な宗教であれば、日本人に与える印象はまったく違ってくるだろうが、ヒンズー教は日本人にとってイメージがわかない。
ヒンズー教はインド社会の特徴であるカースト制度とも関係があるという。カースト制度もインドの「距離感」を感じさせる大きな要因だ。
モディ首相は経済発展を重視し、改革に取り組んでいるが、ヒンズー教を重視することでも知られている。
モディ氏の支持母体であるインド人民党には、建国の父である偉大なマハトマ・ガンジーや独立後のインドを率いて国際的にもっとも影響力のある国家にしたジャワハルラール・ネルーを批判する考えがあるという。その理由は、「ガンジーもネルーもイスラム教徒に弱腰でヒンドゥー教徒を苦しめた」からだ(朝日新聞2018年6月18日付)。
モディ氏自身はインドの首相なのでさすがに発言には気を付けているが、グジャラート州の首相であった時にはそのような考えを口にしていたそうだ。
インドの一部では公立学校の教科書からガンジーやネルーの記述が削除されつつあるともいう。
グジャラート州では最近、サルダル・パテルの巨大な像が完成した。高さ182メートルで世界一高い立像である。モディ首相はその完成式典に出席した。パテルはネルーと並んで独立運動の志士であったが、日本でも世界でもネルーのほうがはるかによく知られている。インドでもこれまではそのような認識であり、ネルーは首相となったが、パテルは副首相であった。
しかるに、モディ政権下でネルーへの批判が行われる一方、パテルに対する評価があげられるのであれば、インドの現代史はどうなるのだろうか。
歴史の書き換えは是認されることか我々にはわからないが、少なくともこのような宗教事情はインドの「距離感」をさらに強める原因になる。
インドの「距離感」は、独立以来の対外姿勢も原因だ。
第二次大戦後、独立したインドは、その地政学的環境および英国の殖民地統治から独立したという歴史的事情から東西いずれにも加担しない非同盟路線を選択した。
しかし、非同盟政策を堅持するだけでインドの平和を確保し続けることは困難であり、実施国境紛争をめぐって近隣諸国と衝突が起こった。中国とは1962年、武力衝突となり、大敗した。
パキスタンとは、カシミール地方をめぐって3回戦争が起こったと言われているが、今でも局部的な衝突が時折発生している。
1979年にアフガン戦争が発生すると、米国は反ソ勢力のタリバンを支援するためパキスタンに対する援助を強化したのでパキスタンは米国寄りになった。パキスタンは同年、非同盟運動に参加したのだが、それは一種の隠れ蓑だったのかもしれない。
ともかく、このような状況はインドとソ連の関係を緊密化させた。独立以来冷戦終結のころまでほぼ一貫して政権を担当した国民会議派は社会主義を信奉する傾向があり、インド経済は1991年に改革が開始されるまで計画経済であった。
米国はインドに関心がなかったわけではない。米国にはインドの将来性を高く評価し、インドとの関係を強化しようとする考えがあった。世界的に有名な経済学者でケネディ政権時代にインド大使を務めたジョン・ケネス・ガルブレイスなどはその例であったが、社会主義的傾向が強い国民会議派が牛耳り、外交の基本は非同盟だとするインドとの関係が緊密化するには限界があったのだ。インディラ・ガンジー首相はソ連派のインド共産党から支持を受けて政権を維持していたこともあった。
印ソ関係緊密化の象徴が、1971年の「印ソ平和友好協力条約」であった。これには「ソ連はインドの非同盟政策を尊重する」としつつ(第4条)、いずれかの国、すなわちインドあるいはソ連が「第三国から攻撃あるいはその脅威を受けた場合、その脅威を除去するために両国は協議する」と記載されていた(第9条 文言は読みやすくした)。この規定は軍事的な支援こそ謳っていなかったが、実質的には限りなく同盟に近いものであり、「同盟条約」であったと断言する向きもある。
ともかく、冷戦が終了した後、1993年にエリツィン・ロシア大統領が訪印した際に、この条約は軍事安全保障関係の条文が取り除かれ、単なる「友好協力条約」に改訂された。
中国やパキスタンなど厳しい国際環境にあるインドとして、その安全保障のためにこの条約を通してソ連に頼る、あるいは利用する考えが、一時的にはあったと思われる。
しかし、インドは自力で安全を確保しなければならないとも考えていた。その中心となっていたのが核兵器を開発・保有することであった。
1968年に成立し、70年に発効した核兵器拡散禁止条約(NPT)はインドが核保有国となる道を完全にシャッタアウトした。一方、インドのライバル、中国は核保有を認められた。インドの立場で言えば、中国に続いてインドも核兵器をもう少しで持てそうになったところで、その道はふさがれてしまったのだ。これはインドにとって耐え難いことだったのだろう。インドが同条約に参加することを拒否し、将来の核オプションを残しておくこととした。
しかし、インドが核兵器の開発を実際に決断するのは容易でなかった。それも当然だ。インドは核兵器を拡散させてはならないという世界の大義に逆らったのだ。しかも、インドは20年前まで帝国主義勢力の殖民地であった身であり、軍事力で国家目的を達成しようとすることには強い抵抗があり、いわゆる「平和愛好国家」はインドにとって重要な看板であった。「非同盟運動」に力を入れたのも、同様の歴史を持つ多数の国と連携し、軍事大国に対抗するためであった。つまり、インドは核を研究し、開発の一歩手前までは行けても、実際に核兵器を製造することは困難だったのだ。
核実験の決定を行ったのは、1996年の総選挙で国民会議派を破り政権を取ったインド人民党であり、同党は核保有をかねてから主張していた。もっとも、選挙後やっと成立した連立政権は不安定で13日間しか持たなかったが、アタル・ビハーリー・バジュパイ首相はその間に核実験を決定したと言われている。実際の核実験は1998年5月10日の総選挙で再び勝利を収めたバジュパイ氏が、連立政権工作中で、まだ首相に就任する前であったが、同月11日と13日に行った。核実験の断行は連立政権として交渉の対象にならないことを宣言したのだろう。
核実験の実行を断行したのは人民党政権であったが、核兵器の開発は決定してから数年かかる。その準備は国民会議派政権によって、冷戦の終了の前から始められていたのであり、またそのことは野党であった人民党にも知られていた。インドとして核実験を実行すること、またそれはいつにするかについては考えの違いがあったが、核兵器を開発し、実験の準備をしておかなければならないということについては与野党の考えには大きな違いはなかったのだと思われる。
インド国内だけでない。パキスタンもインドの核開発状況を探知しており、インドに遅れることわずか2週間で核実験を行った。パキスタンもずっと以前から核開発を進めていたのだ。
核実験は世界にとって衝撃であり、インドとパキスタンは制裁を受けた。日本にとってインドの核保有は「距離感」では表せない、もっと深刻な問題であった。
しかし、ライバルであり、インドにとって脅威となりうる中国は核保有を認められたのにインドは認められないのでは、インドの安全は確保できないという考えは、個人的には分からないでもない。
インドには、核実験について日本がインドを批判するのは解せない、日本の立場はよく分かるが、インドの核には日本の安全保障に資する面があることも認めてもらいたいという考えを口にする人もある。もちろん政府の公式見解ではないが、非公式には表明されることがある。
今年はインドの核実験からちょうど20年になる。この間、同時多発テロが発生し、アフガニスタンでの作戦の関係から米国はインド・パキスタン両国に対する制裁を解除し、各国もそれに倣った。また、インドはテロ対策や北朝鮮による中東へのミサイル輸送を防止するのに米国に協力し、実績を上げた。米国はインドの能力を高く評価するようになり、原子力協力にも踏み切った。日本もモディ首相が2016年11月に来日したときインドと原子力協力に関する協定を結んだ。
現在、日本とインドの間では、防衛面での協力も進んでいる。今般のモディ首相の訪日においても、海上自衛隊とインド海軍の間の協力強化や、政策レベルでも日印外務・防衛閣僚会合(いわゆる2+2)を立ち上げることで一致した。
インド洋は中東から日本への原油の輸送ルートであり、その安全は日本にとって死活的な問題である。日本は太平洋からインド洋へ続く海域の安全を重視し、さらに強化しようとしており、インドも最近、「アクト・イースト」、すなわち活動範囲をインド洋から太平洋に広げる動きを見せている。
日本とインドの間には「距離感」があるが、今後それは縮小されていくだろう。本稿では「距離感」に注目したあまり、インドの魅力については特に言及しなかったが、それを過小評価すべきでないことはもちろんである。
戦後、東京裁判で判事の一人であったインドの法学者、ラダ・ビノード・パール氏がいわゆる事後法で裁くことはできないとして被告全員について無罪を主張したことを日本人は忘れていない。
ただし、パール判事が日本びいきだからそのような主張をしたとみるのは同判事に失礼である。事実でもないだろう。パール氏は国際法についての信念からそのように行動したのではないか。
インド人は「理屈っぽい」ところがある。英語を自由に話すのでその傾向がいっそう強く出るのかもしれない。いずれにしてもこの傾向は、核保有のように、時に日本人にとっては煩わしいどころか、同調できないこともあるが、日本はインドといたずらに感情を交えることなく話し合える。そう考えれば、インド人の「理屈っぽさ」は日本にとってもメリットだ。パール氏の主張にもそのような面があったのではないか。
インドは民主主義を重視する。しかも村落レベルでも民主主義的プロセスを重視する。そのため開発の速度は落ちるだろう。ムンバイ・アーメダバード間鉄道の建設については反対の声が上がっているそうだが、民主主義を重視する伝統はそれを補うメリットがある。
インドの歴史において仏教をめぐる環境は変わってしまったが、日本人の心の中では、仏教とインドが固く結びついている。また、日本におけるガンジーのイメージはきわめてよい。日本とインドが協力関係を強めていく可能性は高い。
2018.10.31
日韓両国政府は1965年、基本条約と同時に請求権・経済協力協定を結び、財産・請求権の問題を「完全かつ最終的に」解決したので徴用工の問題も解決しているが、韓国大法院は、個人はこの条約に拘束されず、「個人の請求権」はあると判断したのだ。
日本では、安倍首相はじめ官民こぞってこの判決を不当とし、また、韓国政府の姿勢を非難した。また、日本政府は韓国政府に抗議した。いずれも当然だ。
韓国政府は、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領時代の2005年、日韓の請求権協定には徴用工問題も含まれ、賠償を含めた責任は韓国政府が持つべきだとの政府見解をまとめた経緯がある。文在寅氏は当時大統領首席秘書官としてその方針決定にかかわった。
その後、2012年5月、大法院は、「請求権協定で放棄された外交保護権と個人請求権は別」という判断を示し、そのころから韓国政府はそれまでの立場とは異なる姿勢を見せ始めた。そして、文在寅(ムンジェイン)大統領は、2017年8月15日の植民地解放の式典と2日後の記者会見で、この大法院判断に触れつつ、徴用工問題を慰安婦問題と並べて取りあげ、「日本指導者の勇気ある姿勢が必要」だと訴えた。
大法院の判断があったが、それは司法の問題だ。文在寅大統領が盧武鉉政権で決定したことを変更して、日本政府に韓国の世論が希望する解決のために行動するよう求めたのは、韓国政府として一貫性を欠く姿勢である。
しかし、この問題の扱いは注意が必要だ。韓国側の非を鳴らすのは簡単だが、それだけでは問題は解決しない。下手をすると国際的に不利な立場になる危険もある。必要なのは、世界に対して説得力のある説明をすることだ。
国際的に説得力がある説明をするには、主語・述語を明確にし、論理的に主張しなければならない。また、「一部の事実関係の誤りを指摘して相手の主張の信頼性、信憑性を崩す」という手法をとらないことだ。そんな方法は法廷では通用しても、人権擁護運動を重視する国際社会では逆に足を引っ張っていると批判されるおそれがある。
日本側では、「文在寅氏は確信犯だ」、「法の上に『国民情緒法』がある」などと言いたいのはよくわかる。しかし、キャッチフレーズは、国民受けするかもしれないが、誇大であり、危険だ。国際的にかえって反発を受ける危険もある。文氏や韓国の司法を全面的に批判すべきでないのは少し冷静に考えればすぐわかるであろう。
では、日本として、具体的にどう主張すべきか。
第1に、問題は「徴用工」に限られないという視点を堅持する必要がある。というのは、植民地支配のもとで苦しんだ人たちは徴用工に限らず、すべての朝鮮人であり、日本に対しては様々な要求があったのは当然だが、個人個人で解決できないので政府間で一挙に解決したのであり、「徴用工」だけを例外扱いできない。安易に「徴用工」問題を取り上げると、すべての韓国人が抱いていることをあらためて取り上げることになるからだ。
たとえば、日本の官憲から暴行を受けた人なども日本に対し要求をする可能性がある。
それどころか、いわゆる「創氏改名」、つまり朝鮮名を日本名に変えることについても賠償請求が行われるかもしれない。
これらの例については、日本として打ち捨てておいておいてよいというのではない。1965年の基本条約と請求権協定はそれらを一括して解決したのだ。
協定第2条1項は次のとおり規定している。
「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。」
つまり、「徴用工」に限らず、「財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題」を包括的に処理したのだ。
だから「徴用工」問題だけを例外扱いできないのであり、どうしても「徴用工」問題を取り上げるなら、その他の問題を含め、日韓関係は1945年の時点に戻ってしまうことになる。それはできない。
韓国大法院の判決の一部には、そのような問題が十分整理されていないと危惧される言及もあるが、そうでないことを期待したい。
第2に、日本政府は、韓国政府に対し、一貫した姿勢に戻り、かつ、「徴用工」の問題を国内で解決すべきであると要求し続けるべきである。これはすでに始まっている。
第3に、前述の国際的観点からも説得力のある説明をすべきである。具体的に重要なポイントは繰り返さないが、日本の主張はかならず理解されるなどと思い込まないことが肝要だ。国際社会はけっして甘くない。
徴用工問題に関する韓国大法院判決
戦時中、日本の統治下にあった朝鮮半島から「徴用」され、日本本土の工場で労働させられた韓国人4人が、新日鉄住金に対し損害賠償を求めた訴訟の上告審で、韓国大法院(最高裁判所)は10月30日、控訴審判決を支持したので、同社に1人あたり1億ウォン(約1千万円)を支払うよう命じた判決が確定した。日韓両国政府は1965年、基本条約と同時に請求権・経済協力協定を結び、財産・請求権の問題を「完全かつ最終的に」解決したので徴用工の問題も解決しているが、韓国大法院は、個人はこの条約に拘束されず、「個人の請求権」はあると判断したのだ。
日本では、安倍首相はじめ官民こぞってこの判決を不当とし、また、韓国政府の姿勢を非難した。また、日本政府は韓国政府に抗議した。いずれも当然だ。
韓国政府は、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領時代の2005年、日韓の請求権協定には徴用工問題も含まれ、賠償を含めた責任は韓国政府が持つべきだとの政府見解をまとめた経緯がある。文在寅氏は当時大統領首席秘書官としてその方針決定にかかわった。
その後、2012年5月、大法院は、「請求権協定で放棄された外交保護権と個人請求権は別」という判断を示し、そのころから韓国政府はそれまでの立場とは異なる姿勢を見せ始めた。そして、文在寅(ムンジェイン)大統領は、2017年8月15日の植民地解放の式典と2日後の記者会見で、この大法院判断に触れつつ、徴用工問題を慰安婦問題と並べて取りあげ、「日本指導者の勇気ある姿勢が必要」だと訴えた。
大法院の判断があったが、それは司法の問題だ。文在寅大統領が盧武鉉政権で決定したことを変更して、日本政府に韓国の世論が希望する解決のために行動するよう求めたのは、韓国政府として一貫性を欠く姿勢である。
しかし、この問題の扱いは注意が必要だ。韓国側の非を鳴らすのは簡単だが、それだけでは問題は解決しない。下手をすると国際的に不利な立場になる危険もある。必要なのは、世界に対して説得力のある説明をすることだ。
国際的に説得力がある説明をするには、主語・述語を明確にし、論理的に主張しなければならない。また、「一部の事実関係の誤りを指摘して相手の主張の信頼性、信憑性を崩す」という手法をとらないことだ。そんな方法は法廷では通用しても、人権擁護運動を重視する国際社会では逆に足を引っ張っていると批判されるおそれがある。
日本側では、「文在寅氏は確信犯だ」、「法の上に『国民情緒法』がある」などと言いたいのはよくわかる。しかし、キャッチフレーズは、国民受けするかもしれないが、誇大であり、危険だ。国際的にかえって反発を受ける危険もある。文氏や韓国の司法を全面的に批判すべきでないのは少し冷静に考えればすぐわかるであろう。
では、日本として、具体的にどう主張すべきか。
第1に、問題は「徴用工」に限られないという視点を堅持する必要がある。というのは、植民地支配のもとで苦しんだ人たちは徴用工に限らず、すべての朝鮮人であり、日本に対しては様々な要求があったのは当然だが、個人個人で解決できないので政府間で一挙に解決したのであり、「徴用工」だけを例外扱いできない。安易に「徴用工」問題を取り上げると、すべての韓国人が抱いていることをあらためて取り上げることになるからだ。
たとえば、日本の官憲から暴行を受けた人なども日本に対し要求をする可能性がある。
それどころか、いわゆる「創氏改名」、つまり朝鮮名を日本名に変えることについても賠償請求が行われるかもしれない。
これらの例については、日本として打ち捨てておいておいてよいというのではない。1965年の基本条約と請求権協定はそれらを一括して解決したのだ。
協定第2条1項は次のとおり規定している。
「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。」
つまり、「徴用工」に限らず、「財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題」を包括的に処理したのだ。
だから「徴用工」問題だけを例外扱いできないのであり、どうしても「徴用工」問題を取り上げるなら、その他の問題を含め、日韓関係は1945年の時点に戻ってしまうことになる。それはできない。
韓国大法院の判決の一部には、そのような問題が十分整理されていないと危惧される言及もあるが、そうでないことを期待したい。
第2に、日本政府は、韓国政府に対し、一貫した姿勢に戻り、かつ、「徴用工」の問題を国内で解決すべきであると要求し続けるべきである。これはすでに始まっている。
第3に、前述の国際的観点からも説得力のある説明をすべきである。具体的に重要なポイントは繰り返さないが、日本の主張はかならず理解されるなどと思い込まないことが肝要だ。国際社会はけっして甘くない。
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