平和外交研究所

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2014.07.25

兵庫県中部・北部で古代を想像する

兵庫県宍粟(シソウ)市一宮町(姫路市の西北)にある伊和神社は播磨の国一宮、すなわち姫路や加古川などを含む播磨でもっとも格式が高い神社である。大国主命を祭神としており、創設された時期は非常に古い。成務天皇または欽明天皇の御代と伝えられている。成務天皇はあまりに古過ぎて歴史以前であるが、欽明期であっても6世紀中葉である。『延喜式神名帳』には、「伊和坐大名持魂神社(いわにいますおおなもちみたまのかみやしろ)」(伊和に鎮座する大己貴神の社)と記載されている。大己貴神とは大国主命の別名である。
地元では、大国主命がこの地に来て、将来のための礎を築いたと言い伝えられている。もともとこの地にいた豪族を排除して善政を引いたのかもしれない。
北播磨のさらに北側に位置する但馬の国の一宮は出石(イズシ)神社である。この神社の祭神は天日槍命(アメノヒボコノミコト)であり、古事記や日本書紀には新羅の王子として記載されている。記紀にそう書かれているのでいつもそのように紹介されるが、アメノヒボコは新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公と関連している可能性があるとする説もある。このうち昔氏は但馬地方から新羅に渡り王となったとされており、アメノヒボコは出身地へ戻ってきた可能性もある。むしろそのほうがわかりやすい話である。ただし、昔氏のもともといた場所については但馬の他にその隣の丹波、さらには日本の東北地方等が上げられているそうである。よく調べている人がいる。
天日槍命は大国主命と争ったと播磨国風土記は伝えている。天日槍命、大国主命、新羅と時代の考証を始めると、話が合わなくなるが、それは記紀の時代にはままあること、気にしないことにする。ともかく、天日槍命は但馬に来て、製鉄の技術をもたらしたり、川(丸川という)の治水をしたりしたそうで、さきに勢力を張っていた大国主命、あるいは土着の勢力と争いになったということではないか。
天日槍命は出石神社のほかいくつかの神社で祭られている。それだけの存在として尊敬を受けていたのであろう。地元では、但馬地方を開いた人という人もいる。

2014.07.21

中国のイスラエル・パレスチナ政策

中国政府は特使をイスラエルとパレスチナに派遣した。「最近」だそうだ。双方の緊張緩和を探り、イスラエルがパレスチナ問題についてさらに積極的な役割を果たすよう働きかけることが目的だと台湾の新聞『旺報』7月19日付が論評している。
中国は非アラブ諸国の中で最初にパレスチナを承認し、北京の代表事務所に外交使節としての待遇を認めた。かつていわゆる第三世界に属していた時のことであり、今となっては昔話である。
中国はパレスチナとイスラエルの関係が緩和したことを背景に、1992年、イスラエルと外交関係を結び、それ以降、中国はイスラエルとパレスチナに対する姿勢を徐々に修正してきた。
中国とイスラエルの関係は着実に進展し、経済面では中国はイスラエルにとって主要な貿易相手国となっている。とくに、兵器の面では双方向の取引が増大している。中国は、米国や欧州諸国から入手できないハイテク武器をイスラエルから購入しているという疑惑がもたれている。かつて中国が早期警戒システムのファルコンをイスラエルから購入しようとして米国が待ったをかけたことがあった。
中国・イスラエル関係で最も顕著なのは軍事面での交流であり、閉鎖的な中国としてはめずらしくよく付き合っており、そのレベルと頻度はロシアとの関係を除けば随一ではないかと思われる。イスラエルは、以前台湾との関係が緊密であったが、最近は手控えている。
ただし、パレスチナ問題については、中国はイスラエルを非難する決議に賛成を続けており、ヨルダン川西岸へのイスラエルの入植を非難する決議にも賛成している。国連がパレスチナにオブザーバーの資格を認めた際には賛成した。
中国は、2014年の6月、パレスチナの統一国家を承認した。中国が特使を派遣したのはこの関係であろう。
米国にとってイスラエルとの関係は他の国には見られない特殊性があるが、パレスチナ問題については米国こそが和解に貢献できるというという自負は最近の状況にかんがみるとしぼみがちかもしれない。それでもほかの国が米国に代わって中東和平で双方の仲を取り持つようなことは考えられない。しかし、今のような状況を続くと中国がある日パレスチナ和平の仲介者として出てくるかもしれない。

2014.07.03

流転した故宮博物館の宝物

6月28日、NHKスペシャル は「流転の至宝」を放映した。故宮所蔵の宝物のことである。これがいかに素晴らしいものであるか、何回も聞いたことがあるが、今回はこれまでとは少し異なる角度から興味を覚えた。中国人がその優れた文化財を大切にし、また、それが中国のイメージを改善する力を持つことを認識していたことである。
1935年11月から100日間、ロンドンで中国芸術国際展覧会が開かれ、故宮の文化財735点が披露された。その2年前、日本軍は満州から山海関を越え華北に侵入し、国民党政府は日本軍と共産党軍に挟まれるようになっていた。1935年、日本政府はいわゆる廣田三原則を掲げ、国民党政府に共産党軍を掃討するよう圧力を強め、軍部はますます強気になり「北シナ政権を絶対服従に導く」と鼻息を荒くしていた。一方共産党軍は、抗日救国の8・1宣言を発し、いわゆる長征を敢行して長期戦に入った。
この大変な状況のなかで大量の文化財をロンドンに運ぶ余力がどこにあったのか不思議なくらいであるが、ともかく英国の軍艦「サフォーク号」が展示物を運んだ。英国はこれと相前後して、中華民国が幣制改革を行ない銀本位制・通貨管理制を導入するのを支援していた。
中国芸術国際展覧会を訪れたイギリス人は42万人にものぼり、英国では宋の時代の皇帝のファッションなどが流行したそうである。ロンドン大学のアントニー・ベスト博士は、この展覧会は日本と戦う中国政府の「文化的プロパガンダ」戦略があったと分析している。この展覧会は中国美術コレクターの呼びかけが始まりだったが、蒋介石たちは英国政府に両国主催の展覧会にすることを求め実現した経緯があった。
一方、日本は、満州事変を調査したリットン卿が展覧会に関わっていることを知って危機感を募らせたが、展覧会は予定通り開かれ、中国側の目論見は成果をあげ、日中戦争になった際には中国を支持する人が増えていた印象であるとベスト博士は見ている。
 時代はさかのぼるが、故宮博物院が正式に設立されたのは辛亥革命から13年後の1925年である。清朝末期には文化財が外国に流出しており、国民党政権は成立当初から危機感を抱いていた。日本軍が山海関を越え華北に侵入した翌年の1934年、国民党政府は故宮の文物を5つに分け、約2万箱を上海など南部に運んだ。その準備は1931年の満州事変後すでに開始していたと言う。
 1937年、盧溝橋事件が勃発すると上海から南京に移していた文物を、さらに南路、中路、北路の3つのルートで奥地へ避難させた。南路で運ばれた80箱の文物は、ほとんどが「中国芸術国際展覧会」に出展した逸品であり、武漢を経由して長沙、貴陽、安順の各地を経て四川省巴県に運んだ。中路で運んだ9,331箱は、漢口、宜昌、重慶、宜賓を経由し、最後に四川省の楽山安谷郷に安置した。北路経由の文物は7,287箱あり、津浦鉄道に沿って徐州まで北上し、隴海鉄道で宝鶏まで運んだ後、漢中と成都を経て、四川省の峨眉に運んだ。北京に残されていた文物も、後に南京経由で重慶からさらに奥地に運び、四川省南渓に安置した。
 1948年秋、内戦で国民党軍が劣勢に立つと、政府は文物を台湾へ移すことを決定し、同年末から3回に分け、約2千箱を移送した。量的には上海へ移したものの約2割であったと言う。これが台北の故宮博物院に展示された。
 故宮の文物が移送されるきっかけとなったのはいずれも国民党政権の命運を左右する大事件が起こったからであり、国民党政府は早め早めに手を打って移送したのであるが、保護し、輸送するのに必要な経費も人手も半端なものでなかったはずである。当時の国民党政権をめぐる政治状況にかんがみるとそれができたことは驚異である。これは少数の指導者が決定すればできることではない。中国人の間には自分たちで故宮の宝物を守らなければならないという強い思いがあったのでできたのであろう。
 故宮の宝物については国家体制の違いを越えた中国人らしさを感じる。大陸の中国人も台湾の中国人(とくにいわゆる外省人)も同じように優れた文化財を大切にする。宝物を珍重するだけでなく、それを他人に見せること、また、そうすることによって外国人の対中国イメージを改善できると考えている。そういう意味では、中国人はいわゆるソフト・パワーの力を昔から知っていたのかもしれない。

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