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2019.08.21
旧陸軍あるいは一部軍人が政府の考えに忠実に従わなくなり始めたのは、中国で1924年に起こった第二次奉直戦争からであったといわれている。
昭和天皇はその2年後に即位し、以後大事件の連続に見舞われた。昭和三年(以下、昭和の年号表記による)には張作霖爆殺事件、六年には関東軍による柳条湖爆破事件(満州事変)が起こり、翌七年にはリットン調査団、満州国独立、日本による満州国の承認(日満議定書)と事態が進み、各国との対立が抜き差しならなくなった日本は八年に国際連盟を脱退した。九年には主要国の主力艦保有を制限していたワシントン条約を廃棄、十年にはロンドン軍縮会議からも脱退して、艦艇の保有制限を取り払ってしまったので欧米との対立は決定的となった。まさにあれよあれよという間に日本は各国と対立していったのである。
国外での強硬路線と並行して、国内では軍部、あるいは一部軍人、あるいは右翼による凶行が相次いだ。五年に浜口雄幸首相の狙撃事件、六年にクーデタ未遂事件(三月事件と十月事件)、七年には井上準之助(浜口内閣の蔵相)や三井の総帥、団琢磨の暗殺(血盟団事件)、犬養毅首相の暗殺(五・一五事件)が起こった。
そして十一年二月二十六日に二・二六事件が発生し、さらに十二年七月七日の盧溝橋事件(日中戦争の開始)、十六年十二月八日の米英蘭に対する宣戦布告と拡大していったのである。
要するに、昭和天皇の即位から20年間、ほぼ毎年国家的大事件が起こったのであり、天皇の立場は想像もつかないほど困難だっただろう。今回公表された「拝謁記」によれば、昭和天皇は敗戦に至った道のりを何度も振り返ったそうだが、その心情は我々普通の国民としてもよく理解できる。
昭和天皇の発言内容については、大きく言って、二つの重要な点があった。その一つは昭和天皇が「反省」という言葉を使いたいと強くこだわり、「私はどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と語ったことである。「反省といふのは私にも沢山あるといへばある」「軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も今度のいふ事の内にうまく書いて欲しい」などと述べている。
しかし、田島長官から意見を求められた吉田首相は「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」、「今日(こんにち)は最早(もはや)戦争とか敗戦とかいふ事はいつて頂きたくない気がする」などといって「反省」に反対した。
昭和天皇は田島長官に繰り返し不満を述べたが、最後は憲法で定められた「象徴」らしく首相の意見に従った。昭和天皇は戦争への深い悔恨を国民に伝えたいと強く望んだが吉田首相の反対で盛り込まれなかったのである。
もう一つの重要点は、昭和天皇が自分の意思に反することが次々に起こったことに無念の気持ちを抱いていたことが、天皇自身の言葉で語られたことである。
戦前、天皇の意思が実現しなかったことは何回かあり、天皇が疑念や不満を表明していたことは歴史の研究で明らかになっていた。たとえば、天皇が張作霖爆殺事件に関して田中義一首相を叱責したこと、二・二六事件の際には「反乱軍を速やかに鎮圧するように」と指示したこと、太平洋戦争の開戦に当たっては戦争を避ける方策の探求を繰り返し求めたが、戦争に突入することになってしまい、強い無念の言葉を残したことなどである。
「拝謁記」においては、昭和天皇が個々のケースに限らず、軍に対する全体的な評価として、「下剋上」という、極度に強い言葉を用いていたことが判明した。天皇は、自らの指揮下にあるはずの軍が天皇に従わなかったとみていたのである。天皇は「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」、「軍部の勢は誰でも止め得られなかつた」、「東条内閣の時は既に病が進んで最早どうすることも出来ぬといふ事になつてた」、「私の届かぬ事であるが軍も政府も国民もすべて下剋上(げこくじょう)とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返(くりかえ)したくないものだ」などとも語っていた。
この発言はいわゆるシビリアンコントロールがいかに困難かを示している。旧憲法下で天皇は日本国の元首、統治権の総攬者であり、天皇大権と呼ばれる広範な権限を有し、軍の関係でも「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定されていた(第11条)。天皇は軍の最高指揮官だったのである。しかも、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とされていた(第3条)。天皇はこれだけの権利と権威をもちながら、軍の専横を止められなかったのである。
旧憲法は文民統制(シビリアンコントロール)の概念に欠けていたという説明もあるが、シビリアンコントロールの制度があっても、それだけでは政府と異なる意見を主張して引き下がらない軍を抑えることはできない。現憲法は、第66条2項で「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と規定することによりこの制度を定めていると解説されるが、この規定だけではシビリアンコントロールは機能しない。先般の南スーダンへ派遣された自衛隊の例を見ても、防衛大臣は自衛隊を統制できなかった。
シビリアンコントロールの本質は究極の強制手段を持つ軍を政府の方針に従わせることである。これを、すべての大権をもつ天皇でもできなかった。つまり旧憲法体制でもできなかったのである。新憲法で定めている「首相や防衛大臣による統制」ははるかに微弱である。
念のため付言しておくが、軍のすべてを否定しているのではない。旧軍はよく日本を守り、また、国威を発揚してくれた。立派な軍人ももちろん多数いた。しかし、愚かなこと、危険なこと、日本を危機にさらす結果になったこともした。それが軍の現実である。
憲法改正論において自衛隊の憲法への明記(軍として?)が論じられるが、今の自衛隊が普通の軍になる、あるいはそれに近づくのであれば、シビリアンコントロールについて徹底した検討が不可欠であり、真に機能するシビリアンコントロールのためにはどうすればよいか、何が必要かを究明する必要がある。それがいかに困難かを昭和天皇の言葉は雄弁に物語っているのではないか。
昭和天皇の反省とシビリアンコントロール
NHKは8月16日から3日間、田島道治初代宮内庁長官が昭和24年から5年近くにわたる昭和天皇との対話を詳細に書き残した「拝謁記」を報道した。昭和天皇が、サンフランシスコ平和条約発効後の昭和27年5月3日、日本の独立回復を祝う式典を控えて何を述べたいかを田島に語り、それに対する田島の意見を求め、さらに田島が吉田首相と必要な調整を行った結果を報告したことなどを、手帳やノート合わせて18冊に詳細に記したものである。昭和史についての第一級の資料だという。旧陸軍あるいは一部軍人が政府の考えに忠実に従わなくなり始めたのは、中国で1924年に起こった第二次奉直戦争からであったといわれている。
昭和天皇はその2年後に即位し、以後大事件の連続に見舞われた。昭和三年(以下、昭和の年号表記による)には張作霖爆殺事件、六年には関東軍による柳条湖爆破事件(満州事変)が起こり、翌七年にはリットン調査団、満州国独立、日本による満州国の承認(日満議定書)と事態が進み、各国との対立が抜き差しならなくなった日本は八年に国際連盟を脱退した。九年には主要国の主力艦保有を制限していたワシントン条約を廃棄、十年にはロンドン軍縮会議からも脱退して、艦艇の保有制限を取り払ってしまったので欧米との対立は決定的となった。まさにあれよあれよという間に日本は各国と対立していったのである。
国外での強硬路線と並行して、国内では軍部、あるいは一部軍人、あるいは右翼による凶行が相次いだ。五年に浜口雄幸首相の狙撃事件、六年にクーデタ未遂事件(三月事件と十月事件)、七年には井上準之助(浜口内閣の蔵相)や三井の総帥、団琢磨の暗殺(血盟団事件)、犬養毅首相の暗殺(五・一五事件)が起こった。
そして十一年二月二十六日に二・二六事件が発生し、さらに十二年七月七日の盧溝橋事件(日中戦争の開始)、十六年十二月八日の米英蘭に対する宣戦布告と拡大していったのである。
要するに、昭和天皇の即位から20年間、ほぼ毎年国家的大事件が起こったのであり、天皇の立場は想像もつかないほど困難だっただろう。今回公表された「拝謁記」によれば、昭和天皇は敗戦に至った道のりを何度も振り返ったそうだが、その心情は我々普通の国民としてもよく理解できる。
昭和天皇の発言内容については、大きく言って、二つの重要な点があった。その一つは昭和天皇が「反省」という言葉を使いたいと強くこだわり、「私はどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と語ったことである。「反省といふのは私にも沢山あるといへばある」「軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も今度のいふ事の内にうまく書いて欲しい」などと述べている。
しかし、田島長官から意見を求められた吉田首相は「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」、「今日(こんにち)は最早(もはや)戦争とか敗戦とかいふ事はいつて頂きたくない気がする」などといって「反省」に反対した。
昭和天皇は田島長官に繰り返し不満を述べたが、最後は憲法で定められた「象徴」らしく首相の意見に従った。昭和天皇は戦争への深い悔恨を国民に伝えたいと強く望んだが吉田首相の反対で盛り込まれなかったのである。
もう一つの重要点は、昭和天皇が自分の意思に反することが次々に起こったことに無念の気持ちを抱いていたことが、天皇自身の言葉で語られたことである。
戦前、天皇の意思が実現しなかったことは何回かあり、天皇が疑念や不満を表明していたことは歴史の研究で明らかになっていた。たとえば、天皇が張作霖爆殺事件に関して田中義一首相を叱責したこと、二・二六事件の際には「反乱軍を速やかに鎮圧するように」と指示したこと、太平洋戦争の開戦に当たっては戦争を避ける方策の探求を繰り返し求めたが、戦争に突入することになってしまい、強い無念の言葉を残したことなどである。
「拝謁記」においては、昭和天皇が個々のケースに限らず、軍に対する全体的な評価として、「下剋上」という、極度に強い言葉を用いていたことが判明した。天皇は、自らの指揮下にあるはずの軍が天皇に従わなかったとみていたのである。天皇は「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」、「軍部の勢は誰でも止め得られなかつた」、「東条内閣の時は既に病が進んで最早どうすることも出来ぬといふ事になつてた」、「私の届かぬ事であるが軍も政府も国民もすべて下剋上(げこくじょう)とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返(くりかえ)したくないものだ」などとも語っていた。
この発言はいわゆるシビリアンコントロールがいかに困難かを示している。旧憲法下で天皇は日本国の元首、統治権の総攬者であり、天皇大権と呼ばれる広範な権限を有し、軍の関係でも「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定されていた(第11条)。天皇は軍の最高指揮官だったのである。しかも、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とされていた(第3条)。天皇はこれだけの権利と権威をもちながら、軍の専横を止められなかったのである。
旧憲法は文民統制(シビリアンコントロール)の概念に欠けていたという説明もあるが、シビリアンコントロールの制度があっても、それだけでは政府と異なる意見を主張して引き下がらない軍を抑えることはできない。現憲法は、第66条2項で「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と規定することによりこの制度を定めていると解説されるが、この規定だけではシビリアンコントロールは機能しない。先般の南スーダンへ派遣された自衛隊の例を見ても、防衛大臣は自衛隊を統制できなかった。
シビリアンコントロールの本質は究極の強制手段を持つ軍を政府の方針に従わせることである。これを、すべての大権をもつ天皇でもできなかった。つまり旧憲法体制でもできなかったのである。新憲法で定めている「首相や防衛大臣による統制」ははるかに微弱である。
念のため付言しておくが、軍のすべてを否定しているのではない。旧軍はよく日本を守り、また、国威を発揚してくれた。立派な軍人ももちろん多数いた。しかし、愚かなこと、危険なこと、日本を危機にさらす結果になったこともした。それが軍の現実である。
憲法改正論において自衛隊の憲法への明記(軍として?)が論じられるが、今の自衛隊が普通の軍になる、あるいはそれに近づくのであれば、シビリアンコントロールについて徹底した検討が不可欠であり、真に機能するシビリアンコントロールのためにはどうすればよいか、何が必要かを究明する必要がある。それがいかに困難かを昭和天皇の言葉は雄弁に物語っているのではないか。
2019.08.17
文在寅大統領は日本が輸出規制強化措置を取った直後、「加害者である日本が、盗っ人たけだけしく、むしろ大きな声で騒ぐ状況は絶対に座視しない」とか、「日本の措置は両国関係における重大な挑戦だ。利己的な弊害をもたらす行為として国際社会からの指弾を免れることはできない」などと激しい言葉で日本を非難していた。
ところが、今次光復節の演説ではこれと対照的に、激烈な言葉を使わず建設的な表現を多用した。例年より日本批判が少なかったとも言われているが、明らかな日本批判はまったくなかった。
文氏は、日本政府が不満を募らせている慰安婦問題や徴用工問題には直接触れず、「韓国は日本と共に(植民地時代の)被害者の苦痛を実質的に治癒しようとしてきた」「今からでも日本が対話と協力の道に出れば、我々も喜んで手を握る」と述べた。この発言は激烈な韓国の運動家の主張とは一線を画するものであり、一方的に日本を非難することを差し控えたのみならず、日本政府のこれまでの努力を肯定的に評価する意味合いもある。こんな発言は初めてであったと思う。
日韓関係の悪化を招いている根本的な原因は、1965年の日韓基本条約と請求権協定を韓国が必ずしも肯定的に見ていないことにある。とくにポピュリスト的政権にはそのような傾向が強く、同条約は無効だという立場を取りがちである。
しかし、今次演説で、文氏は無効論の立場は見せず、国交正常化後「韓国は過去にとどまることなく、日本と安全保障や経済の協力を続けてきた」と述べた。1965年以降の日韓関係に肯定的評価を与えたのである。文氏の歴史問題についての立場はこの表明がすべてではなく、後述するように植民地支配から生じた問題は忘れないという姿勢も示しているので矛盾を含んでいるが、日本と建設的な関係があったことを明言することの意義は大きい。
総じて文大統領の演説には日本との関係を改善したいという気持ちが処々に表れていた。「日韓両国が協力してこそ、共に発展し、発展が持続可能になる」と強調したこと、来年の東京五輪は「共同繁栄の道に進む絶好のチャンス」だと述べたことなども見逃せない。
今年の10月22日は日本の新天皇の即位礼が行われる。この日までに日韓関係が改善する方向に向かっていることを期待したい。
かつて、韓国は天皇を「日王」と呼んでいたが、文在寅大統領は4月30日に退位する明仁天皇に謝意を表明する書簡を送った。李洛淵(イ・ナクヨン)総理も、SNSに日本の令和時代の開幕を祝うメッセージを投稿し、「天皇様」と呼んだという。「平成の最後の日、文在寅政権と韓国メディアは、日本へ「一歩だけ」寄り添い始めたのだ。だが、これらのせっかくの努力も、韓国国民が爆発させた反日感情によって台無しになりかけている」と李正宣氏は述べている(JP press 2019年5月1日)。
一方、文大統領は「日本の不当な輸出規制に立ち向かう」とも発言した。が、これは日本を非難するというよりも、韓国民を鼓舞しようとした言葉であったと思う。この言及以外にも、韓国はこれから発展し、日本に負けない国になるなどの趣旨も述べたが、同じ目的であったと思われる。
韓国では日本に負けない国になることを「克日」という。その代表例が日本から半導体事業を学び、今や日本のメーカーを追い越しているサムスン電子である。韓国国民を鼓舞しようとした文氏演説の韓国メディアによる報道ではこの2文字が躍った。
しかし、徴用工問題や慰安婦問題については今回の演説で解決への兆しが見えてきたとは言えない。韓国政府は光復節の前日の「日本軍慰安婦被害者をたたえる日」にあわせて元慰安婦らを招いた式典を開き、また、ソウル市も同日、新たな慰安婦像の除幕式を行った。8月14日は、1991年に旧日本軍の慰安婦だった故金学順(キムハクスン)さんが初めて実名で体験を公表した日であり、文大統領の主導で2017年に国の記念日に指定された。文大統領は昨年は式典に出席したが、今年は出席を見送り、所感の発表にとどめた。これはどういう意味だろうか。
また、文政権は、2015年の日韓慰安婦合意に基づき設立された「和解・癒やし財団」を解散し、元慰安婦らへの支援金支給が中断していた問題で、同財団の清算法人に受給を求める遺族側への支給手続きを再開させた。支給が遅れたことも謝罪したという。文政権が同財団に関する考えを変えたとまでは言えないが、同財団を解散したままで打ち捨てておくより現実的な対応であり、日本側から見ても注目してよいことの一つであった。
最後に、文大統領が日本との関係について積極的、肯定的な演説を行った背景には、米国からの働きかけ、要するに「仲良くしてもらわないと困る」といった趣旨の申し入れがあったことが考えられる。事実ならば、日本にとって好都合の働きかけであったようだが、トランプ大統領「日韓両国はいつも争っている」などとも言っているようである。日本としても韓国との関係を改善する責務があるのは当然だ。
文大統領は日本との関係改善を望んでいる
8月15日は韓国が日本の植民地支配から解放された「光復節」。韓国の歴代大統領がこの日に行う演説で日本との関係についてどのようなメッセージを発するか、いつも注目されてきた。今年は日本が韓国への輸出規制を強化した直後で両国間の雰囲気は悪化していたので、大統領の発言にはいっそう注目が集まっていた。文在寅大統領は日本が輸出規制強化措置を取った直後、「加害者である日本が、盗っ人たけだけしく、むしろ大きな声で騒ぐ状況は絶対に座視しない」とか、「日本の措置は両国関係における重大な挑戦だ。利己的な弊害をもたらす行為として国際社会からの指弾を免れることはできない」などと激しい言葉で日本を非難していた。
ところが、今次光復節の演説ではこれと対照的に、激烈な言葉を使わず建設的な表現を多用した。例年より日本批判が少なかったとも言われているが、明らかな日本批判はまったくなかった。
文氏は、日本政府が不満を募らせている慰安婦問題や徴用工問題には直接触れず、「韓国は日本と共に(植民地時代の)被害者の苦痛を実質的に治癒しようとしてきた」「今からでも日本が対話と協力の道に出れば、我々も喜んで手を握る」と述べた。この発言は激烈な韓国の運動家の主張とは一線を画するものであり、一方的に日本を非難することを差し控えたのみならず、日本政府のこれまでの努力を肯定的に評価する意味合いもある。こんな発言は初めてであったと思う。
日韓関係の悪化を招いている根本的な原因は、1965年の日韓基本条約と請求権協定を韓国が必ずしも肯定的に見ていないことにある。とくにポピュリスト的政権にはそのような傾向が強く、同条約は無効だという立場を取りがちである。
しかし、今次演説で、文氏は無効論の立場は見せず、国交正常化後「韓国は過去にとどまることなく、日本と安全保障や経済の協力を続けてきた」と述べた。1965年以降の日韓関係に肯定的評価を与えたのである。文氏の歴史問題についての立場はこの表明がすべてではなく、後述するように植民地支配から生じた問題は忘れないという姿勢も示しているので矛盾を含んでいるが、日本と建設的な関係があったことを明言することの意義は大きい。
総じて文大統領の演説には日本との関係を改善したいという気持ちが処々に表れていた。「日韓両国が協力してこそ、共に発展し、発展が持続可能になる」と強調したこと、来年の東京五輪は「共同繁栄の道に進む絶好のチャンス」だと述べたことなども見逃せない。
今年の10月22日は日本の新天皇の即位礼が行われる。この日までに日韓関係が改善する方向に向かっていることを期待したい。
かつて、韓国は天皇を「日王」と呼んでいたが、文在寅大統領は4月30日に退位する明仁天皇に謝意を表明する書簡を送った。李洛淵(イ・ナクヨン)総理も、SNSに日本の令和時代の開幕を祝うメッセージを投稿し、「天皇様」と呼んだという。「平成の最後の日、文在寅政権と韓国メディアは、日本へ「一歩だけ」寄り添い始めたのだ。だが、これらのせっかくの努力も、韓国国民が爆発させた反日感情によって台無しになりかけている」と李正宣氏は述べている(JP press 2019年5月1日)。
一方、文大統領は「日本の不当な輸出規制に立ち向かう」とも発言した。が、これは日本を非難するというよりも、韓国民を鼓舞しようとした言葉であったと思う。この言及以外にも、韓国はこれから発展し、日本に負けない国になるなどの趣旨も述べたが、同じ目的であったと思われる。
韓国では日本に負けない国になることを「克日」という。その代表例が日本から半導体事業を学び、今や日本のメーカーを追い越しているサムスン電子である。韓国国民を鼓舞しようとした文氏演説の韓国メディアによる報道ではこの2文字が躍った。
しかし、徴用工問題や慰安婦問題については今回の演説で解決への兆しが見えてきたとは言えない。韓国政府は光復節の前日の「日本軍慰安婦被害者をたたえる日」にあわせて元慰安婦らを招いた式典を開き、また、ソウル市も同日、新たな慰安婦像の除幕式を行った。8月14日は、1991年に旧日本軍の慰安婦だった故金学順(キムハクスン)さんが初めて実名で体験を公表した日であり、文大統領の主導で2017年に国の記念日に指定された。文大統領は昨年は式典に出席したが、今年は出席を見送り、所感の発表にとどめた。これはどういう意味だろうか。
また、文政権は、2015年の日韓慰安婦合意に基づき設立された「和解・癒やし財団」を解散し、元慰安婦らへの支援金支給が中断していた問題で、同財団の清算法人に受給を求める遺族側への支給手続きを再開させた。支給が遅れたことも謝罪したという。文政権が同財団に関する考えを変えたとまでは言えないが、同財団を解散したままで打ち捨てておくより現実的な対応であり、日本側から見ても注目してよいことの一つであった。
最後に、文大統領が日本との関係について積極的、肯定的な演説を行った背景には、米国からの働きかけ、要するに「仲良くしてもらわないと困る」といった趣旨の申し入れがあったことが考えられる。事実ならば、日本にとって好都合の働きかけであったようだが、トランプ大統領「日韓両国はいつも争っている」などとも言っているようである。日本としても韓国との関係を改善する責務があるのは当然だ。
2019.08.16
ご関心を持っていただいた方には、ネット上の「Over The Wall〜世界壁画プロジェクト〜」も見ていただければ幸いです。写真がたくさん掲載されています。
「壁を越えるアートの力
はじめまして、ミヤザキケンスケといいます。私はこれまで世界中で壁画を残す活動を行ってきました。その中で現地の人々と交流しながら制作する壁画制作に可能性を感じ、世界中の困難を抱えた地域や子供たちを絵で応援するプロジェクト、「Over The Wall〜世界壁画プロジェクト〜」を立ち上げました。このプロジェクトでは自主的に集まった仲間がチームとなり、一年に一度世界のどこかで現地の方々と協力しながら壁画制作をしています。
これまで2015年にケニアのスラム街の壁、2016年に独立間もない東ティモールの病院の壁、2017年に紛争があったウクライナ東部の学校の壁、2018年にエクアドルの女性刑務所の内壁にそれぞれ壁画を残してきました。今年は7月にハイチの首都ポルトープランスにある最大のスラム街の1つ、シテ・ソレイユにて国境なき医師団と協力して、同団体の病院に壁画を描きました。医療現場である病院に明るい壁画を描くことで患者の精神的ケアを図り、また患者自身が制作に参加することで能動的な意識を持ってもらいたいと、参加型で制作を行いました。患児も保護者も医師もスタッフも一緒に制作をすることで立場を超えた交流が生まれ、医療の現場にもよい効果をもたらせたのではないかと考えています。
同病院は主に火傷の治療をしていたのですが、連日多くの患者さんが筆を取り、熱心に絵を描いてくださいました。ある患者さんは全身に大やけどを負って入院していたのですが、毎日絵を描きに訪れ、毎日一つの植物を壁画に描き入れてくれました。それを見ていた付き添いの父親や兄もいつの間にか参加してくれるようになり、家族で取り組んでくれました。またある少年は火傷で利き腕の右手を失いふさぎ込んでいましたが、私たちの活動を見るうちに参加したくなり、左手で一生懸命絵を描いてくれるようになりました。患者さんだけでなく国境なき医師団のスタッフも仕事上がりに参加してくれるようになり、一枚の壁に向かいながら患者さんや医師やスタッフが楽しそうに談笑している姿はとても印象的でした。
彼らが描いてくれた花や木や動物の絵を整えながら、それを生かして一枚の絵にしていきます。今回の壁画はハイチの民話「魔法のオレンジの木」から構想を得て制作をしました。物語の舞台である森の中にいるかのように、壁一杯に森の動植物を描き、たわわに実ったオレンジの木を希望の象徴として描きました。そしてオレンジの木の隣には大きな太陽があります。これはこれまでOver the Wallがシンボルとして全ての国に残しているもので、世界中どこでも同じ太陽のもとに生きているというメッセージを込めています。
完成披露会には多くの人が集まり共に完成を祝うことができました。アートの共同制作は言語が通じなくてもできます。協力しあって一枚の絵を描くことで連帯感が生まれ、完成した絵はみんなの作品になります。共有した時間が形として残ることが壁画の一番の魅力だと思っています。私はこのOver the Wallの活動を通じて、絵を描くという、どこの国籍でも、どの年齢でも、どの宗教でも、どの文化でも、どの職業の人でも参加できる、純粋に誰もが楽しめる活動を広めていきたいと考えています。世界には様々な問題があり、そこには立ちはだかる壁が存在します。しかし人と人は協力し、共にその壁を乗り越えていくことができます。
来年はパキスタンで、女性を保護するシェルターにて壁画を制作する予定です。これまでとはまた違う問題に対し、自分なりに考え、現地の女性達と共に一つの作品を作り上げたいと考えています。いつか世界中の人と一つの大きな壁画を描けたら、少しだけ平和な世界の姿が見えてくるかもしれません。
Over the Wallアーティスト
ミヤザキ ケンスケ 」
Over The Wall〜世界壁画プロジェクト〜
ミヤザキケンスケ氏の壁画プロジェクトに関するご寄稿を以下に紹介いたします。草の根での大変有意義なプロジェクトであり、当研究所はできるだけサポートさせていただいています。ご関心を持っていただいた方には、ネット上の「Over The Wall〜世界壁画プロジェクト〜」も見ていただければ幸いです。写真がたくさん掲載されています。
「壁を越えるアートの力
はじめまして、ミヤザキケンスケといいます。私はこれまで世界中で壁画を残す活動を行ってきました。その中で現地の人々と交流しながら制作する壁画制作に可能性を感じ、世界中の困難を抱えた地域や子供たちを絵で応援するプロジェクト、「Over The Wall〜世界壁画プロジェクト〜」を立ち上げました。このプロジェクトでは自主的に集まった仲間がチームとなり、一年に一度世界のどこかで現地の方々と協力しながら壁画制作をしています。
これまで2015年にケニアのスラム街の壁、2016年に独立間もない東ティモールの病院の壁、2017年に紛争があったウクライナ東部の学校の壁、2018年にエクアドルの女性刑務所の内壁にそれぞれ壁画を残してきました。今年は7月にハイチの首都ポルトープランスにある最大のスラム街の1つ、シテ・ソレイユにて国境なき医師団と協力して、同団体の病院に壁画を描きました。医療現場である病院に明るい壁画を描くことで患者の精神的ケアを図り、また患者自身が制作に参加することで能動的な意識を持ってもらいたいと、参加型で制作を行いました。患児も保護者も医師もスタッフも一緒に制作をすることで立場を超えた交流が生まれ、医療の現場にもよい効果をもたらせたのではないかと考えています。
同病院は主に火傷の治療をしていたのですが、連日多くの患者さんが筆を取り、熱心に絵を描いてくださいました。ある患者さんは全身に大やけどを負って入院していたのですが、毎日絵を描きに訪れ、毎日一つの植物を壁画に描き入れてくれました。それを見ていた付き添いの父親や兄もいつの間にか参加してくれるようになり、家族で取り組んでくれました。またある少年は火傷で利き腕の右手を失いふさぎ込んでいましたが、私たちの活動を見るうちに参加したくなり、左手で一生懸命絵を描いてくれるようになりました。患者さんだけでなく国境なき医師団のスタッフも仕事上がりに参加してくれるようになり、一枚の壁に向かいながら患者さんや医師やスタッフが楽しそうに談笑している姿はとても印象的でした。
彼らが描いてくれた花や木や動物の絵を整えながら、それを生かして一枚の絵にしていきます。今回の壁画はハイチの民話「魔法のオレンジの木」から構想を得て制作をしました。物語の舞台である森の中にいるかのように、壁一杯に森の動植物を描き、たわわに実ったオレンジの木を希望の象徴として描きました。そしてオレンジの木の隣には大きな太陽があります。これはこれまでOver the Wallがシンボルとして全ての国に残しているもので、世界中どこでも同じ太陽のもとに生きているというメッセージを込めています。
完成披露会には多くの人が集まり共に完成を祝うことができました。アートの共同制作は言語が通じなくてもできます。協力しあって一枚の絵を描くことで連帯感が生まれ、完成した絵はみんなの作品になります。共有した時間が形として残ることが壁画の一番の魅力だと思っています。私はこのOver the Wallの活動を通じて、絵を描くという、どこの国籍でも、どの年齢でも、どの宗教でも、どの文化でも、どの職業の人でも参加できる、純粋に誰もが楽しめる活動を広めていきたいと考えています。世界には様々な問題があり、そこには立ちはだかる壁が存在します。しかし人と人は協力し、共にその壁を乗り越えていくことができます。
来年はパキスタンで、女性を保護するシェルターにて壁画を制作する予定です。これまでとはまた違う問題に対し、自分なりに考え、現地の女性達と共に一つの作品を作り上げたいと考えています。いつか世界中の人と一つの大きな壁画を描けたら、少しだけ平和な世界の姿が見えてくるかもしれません。
Over the Wallアーティスト
ミヤザキ ケンスケ 」
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