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2022.08.22
第二次大戦が終結する1945年まで日本は中国を含む連合国と戦争状態にあり、国交は断絶していた。戦争が終われば国交を正常な状態に戻すのが普通の習わしであるが、中国は「中国国民党(以下「国民党」)と「中国共産党」が対立する内戦状態にあり、そのため1951年になって日本はようやく連合国と平和条約を結び、戦争状態を終結させることが可能になった。だが中国は二つに分かれたままの状態だったのでそれに参加できず、日本は翌52年、あらためて台湾の「中華民国(以下「台湾」)」と平和条約を結び戦争状態を終結した。
米国は中国との関係で日本と同様の法的処理をする必要はなかった。大戦中から米国が「中華民国」と結んでいた外交関係は大戦終結後も変わらなかったからである。
その他の国も台湾との外交関係を維持した。ソ連など共産圏の国々だけが中国大陸を支配する共産党の「中華人民共和国(以下「中国」)」と外交関係を結んだ。この対立状況は東西冷戦の一部であった。
しかし、時間が経つとともに台湾と外交関係を持つ諸国においても、台湾の50倍以上もの人口を持つ中国と国交がないのは不都合であるという考えが強くなり、1971年10月、国連において、中国を代表するのは台湾の「中華民国」でなく「中華人民共和国」であるとする決議が成立した。
国際情勢が大きく変化する中で、米国は中国との関係改善に動き出し、国連で歴史的決議が成立する直前の1971年7月、キッシンジャー米大統領補佐官が極秘裏に北京に赴き周恩来首相と会談を行った。そして翌年2月、ニクソン大統領が中国を訪問した。国交を樹立したのは少し遅れて1979年1月であった。
日本は、やはり国連などでの情勢変化を背景に1972年9月25日、田中首相一行が訪中し、29日に「日中共同声明」に合意・署名した。「日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出された日に終了」した。この時まで日本と「中華人民共和国」の間に正式の関係がなかったのは「不正常な状態」と認識されたのであった。
台湾との関係を断ち、中国と国交を樹立することについては日本でも激しい反対論があった。中国課長として先頭に立って日中国交正常化交渉を指揮していた橋本恕は後に、自民党内の反対が激しく「乱闘寸前にまで行った」と回顧したという。今の政治の世界ではちょっと考えられないことである。
日本や米国と台湾の関係はすべてなくなったのではない。経済、貿易、文化などの面では密接な関係があり、また、台湾の発展は目覚ましく、一定分野で台湾の企業は世界の一流に成長しており、日台間、米台間の実務関係は発展している。
しかし、日本や米国と中国との外交関係が出来上がった後、中国と台湾の関係はどのようになるか大問題となった。
まず日本の場合、中国は「台湾が中国の領土の不可分の一部である」と表明し、そのことを日本が認めるよう求めた。これに対して日本が述べたことは、「中国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」であり、それ以上は言えなかった。
終戦直前に米国、英国および中国の3か国が行った同宣言では、「日本の領土は本州、北海道、九州、四国とこの3か国が決定する島嶼に限られる」とされ、日本はこの宣言を受け入れていた。平たく言えば、戦争に敗れた日本は領土を決定する権限を取り上げられたので、日本領であった台湾についても「中国の領土の一部」であると認めることはできなかったのである。俗語でいえば「どうぞご随に」という立場しか取れなかったのだ。しかし、ポツダム宣言に言及して法的な立場を示すだけでは、多大の損害を与えた中国に申し訳ないので、「日本は中国の立場を十分理解し、尊重する」という気持ちも表明したのであった。
米国は日本と立場が異なった。台湾の領有権について日本のような制約(「何も言えない」という制約)はなかった。1979年に中国と国交を結んだ際、「台湾は中国とは異なる領域であり、米国は今後も中華民国との外交関係を維持する」と主張することもできたはずだが、それでは中国は承服しなかったのだろう。米国としても外交関係を中国と結ぶなら、台湾との外交関係は犠牲にせざるを得なかったのだ。
ニクソン米大統領の訪中の結果、1972年2月28日に発表された米中共同声明(上海コミュニケ)では、米中間にあったほとんどすべての問題について合意が成立したが、台湾の地位だけは完全な合意が出来上がったか疑問であった。
中国は、「台湾問題は中国と米国との間の関係正常化を阻害しているかなめの問題であり、中華人民共和国政府は中国の唯一の合法政府であり、台湾は中国の一省であり、つとに祖国に返還されており、台湾解放は、他のいかなる国も干渉の権利を有しない中国の国内問題であり、米国の全ての軍隊及び軍事施設は台湾から撤退ないし撤去されなければならない」という立場であり、「一つの中国、一つの台湾」、「一つの中国、二つの政府」、「二つの中国」及び「台湾独立」を作り上げることを目的とし、あるいは「台湾の地位は未確定である」と唱えるいかなる活動にも断固として反対する」と表明した。
これに対し米国は次のように表明した。「米国は、台湾海峡の両側のすべての中国人が、中国はただ一つであり、台湾は中国の一部分であると主張していることを認識している。米国政府は、この立場に異論をとなえない。米国政府は、中国人自らによる台湾問題の平和的解決についての米国政府の関心を再確認する」と表明した。
さらに米中外交関係樹立に関する1979年1月1日共同声明では、「米国政府は,中国はただ一つであり,台湾は中国の一部であるとの中国の立場を認める」とした。「米国は一つの中国を認めた」と今でもよく言われるが、厳密には正しくないかもしれない。米中共同声明原文の英語版では「The Government of the United States of America acknowledges the Chinese position that there is but one China and Taiwan is part of China.」であった。
中国語版では、「美利坚合众国政府承认中国的立场,即只有一个中国,台湾是中国的一部分。」であった。
英語版と中国語版の意味は完全に一致しているか、議論となった。二つの疑問点があり、一つは英語の「acknowledge」と中国語の「承认(繁体字では「承認」)が完全に同じ意味かである。
もう一つは英語版でも中国語版でも米国はその立場を直接表明しておらず、「acknowledge」あるいは「承认」したのは台湾の地位についての中国の主張についてであった。
この言葉の意味及び関連の文章をどう解するか、本稿で論じる余裕はないが、米国がもしみずから「台湾は中国の一部」だという立場であれば、直接そう表明すればよかったはずである。
これは用語の問題に見えるかもしれないが、米中国交樹立の成否を左右する大問題であり、しかも、現在でも問い続けられている。かりに「中国は一つであり、台湾は中国の一部」の原則が国際的にも確立すれば、中国の立場は現在より強くなり、台湾の立場は逆に弱くなる。これでは台湾の23百万人の台湾人の権利と利益は十分に守られなくなると懸念されている。
米国は中国と国交を樹立する際、台湾との関係を犠牲にしたと前述したが、単純に無効化したのではなかった。中国と台湾が統一するか、それは中国人と台湾人が決めればよいが、台湾に対して中国が武力を使うことには反対し、中国もそのような米国の立場を認めた。上海コミュニケでは「米国政府は、中国人自らによる台湾問題の平和的解決についての米国政府の関心を再確認する」と表明した。これに対し、中国政府も米側の表明に異議を唱えなかった。積極的に賛成したのと異議を唱えなかったのは同じでないが、米国のこの立場を中国が認めなければ国交を樹立できなかっただろう。
日本と中国も「すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認」しあった(日中共同声明第6項)。台湾だけを取り出した声明ではなく、「すべての紛争」であったが、日中両国が国交を正常化する際に確認しあったことの意義は大きい。
台湾の地位は日中間でも米中間でも困難な問題であったが、なんとか合意が成立し、日中共同声明は9月29日に署名された。
後でわかったことであるが、当時中国内では危険な状況があり、中国を未曽有の混乱に陥れた「文化大革命(文革)」は終わっていなかった。文革はもともと毛沢東による権力奪還の闘争であったが、労働者、学生(若い学生は「紅衛兵」と呼ばれた)が参加し、既存秩序を破壊する一大革命となっていた。中国共産党も破壊の対象になっていた。死者は数百万とも2千万以上とも、被害者は1億人程度ともいわれた。日中国交正常化の際、武装闘争はほぼ終息していたが、文革の中心であったいわゆる四人組はなお健在であり、革命運動を継続していた。
しかし、中国政府はそんなことを日本側に全く感じさせず、日中国交正常化交渉は平穏無事に行われた。
田中首相一行は共同声明を発表した後、同日中に周恩来首相とともに上海へ向かった。田中首相は疲労困憊気味で上海へは寄りたくなかったと言われていたが、説得を受け入れ上海に降り立った。同市のナンバーワンは張春橋上海市革命委員会主任であり、四人組の一人であったが、田中首相一行を盛大に出迎えた。上海市南京西路1333号の宴会場で行われた歓迎宴では、田中首相を始め全員が酔っ払い気味になったが、大事業を成功させた喜びがあふれていた。
日中国交正常化を振り返る
今から50年前に日本と中国は国交を正常化した。両国それぞれにとって戦後最大の外交成果となったこの出来事を台湾との関係を中心に振り返ってみたい。第二次大戦が終結する1945年まで日本は中国を含む連合国と戦争状態にあり、国交は断絶していた。戦争が終われば国交を正常な状態に戻すのが普通の習わしであるが、中国は「中国国民党(以下「国民党」)と「中国共産党」が対立する内戦状態にあり、そのため1951年になって日本はようやく連合国と平和条約を結び、戦争状態を終結させることが可能になった。だが中国は二つに分かれたままの状態だったのでそれに参加できず、日本は翌52年、あらためて台湾の「中華民国(以下「台湾」)」と平和条約を結び戦争状態を終結した。
米国は中国との関係で日本と同様の法的処理をする必要はなかった。大戦中から米国が「中華民国」と結んでいた外交関係は大戦終結後も変わらなかったからである。
その他の国も台湾との外交関係を維持した。ソ連など共産圏の国々だけが中国大陸を支配する共産党の「中華人民共和国(以下「中国」)」と外交関係を結んだ。この対立状況は東西冷戦の一部であった。
しかし、時間が経つとともに台湾と外交関係を持つ諸国においても、台湾の50倍以上もの人口を持つ中国と国交がないのは不都合であるという考えが強くなり、1971年10月、国連において、中国を代表するのは台湾の「中華民国」でなく「中華人民共和国」であるとする決議が成立した。
国際情勢が大きく変化する中で、米国は中国との関係改善に動き出し、国連で歴史的決議が成立する直前の1971年7月、キッシンジャー米大統領補佐官が極秘裏に北京に赴き周恩来首相と会談を行った。そして翌年2月、ニクソン大統領が中国を訪問した。国交を樹立したのは少し遅れて1979年1月であった。
日本は、やはり国連などでの情勢変化を背景に1972年9月25日、田中首相一行が訪中し、29日に「日中共同声明」に合意・署名した。「日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出された日に終了」した。この時まで日本と「中華人民共和国」の間に正式の関係がなかったのは「不正常な状態」と認識されたのであった。
台湾との関係を断ち、中国と国交を樹立することについては日本でも激しい反対論があった。中国課長として先頭に立って日中国交正常化交渉を指揮していた橋本恕は後に、自民党内の反対が激しく「乱闘寸前にまで行った」と回顧したという。今の政治の世界ではちょっと考えられないことである。
日本や米国と台湾の関係はすべてなくなったのではない。経済、貿易、文化などの面では密接な関係があり、また、台湾の発展は目覚ましく、一定分野で台湾の企業は世界の一流に成長しており、日台間、米台間の実務関係は発展している。
しかし、日本や米国と中国との外交関係が出来上がった後、中国と台湾の関係はどのようになるか大問題となった。
まず日本の場合、中国は「台湾が中国の領土の不可分の一部である」と表明し、そのことを日本が認めるよう求めた。これに対して日本が述べたことは、「中国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」であり、それ以上は言えなかった。
終戦直前に米国、英国および中国の3か国が行った同宣言では、「日本の領土は本州、北海道、九州、四国とこの3か国が決定する島嶼に限られる」とされ、日本はこの宣言を受け入れていた。平たく言えば、戦争に敗れた日本は領土を決定する権限を取り上げられたので、日本領であった台湾についても「中国の領土の一部」であると認めることはできなかったのである。俗語でいえば「どうぞご随に」という立場しか取れなかったのだ。しかし、ポツダム宣言に言及して法的な立場を示すだけでは、多大の損害を与えた中国に申し訳ないので、「日本は中国の立場を十分理解し、尊重する」という気持ちも表明したのであった。
米国は日本と立場が異なった。台湾の領有権について日本のような制約(「何も言えない」という制約)はなかった。1979年に中国と国交を結んだ際、「台湾は中国とは異なる領域であり、米国は今後も中華民国との外交関係を維持する」と主張することもできたはずだが、それでは中国は承服しなかったのだろう。米国としても外交関係を中国と結ぶなら、台湾との外交関係は犠牲にせざるを得なかったのだ。
ニクソン米大統領の訪中の結果、1972年2月28日に発表された米中共同声明(上海コミュニケ)では、米中間にあったほとんどすべての問題について合意が成立したが、台湾の地位だけは完全な合意が出来上がったか疑問であった。
中国は、「台湾問題は中国と米国との間の関係正常化を阻害しているかなめの問題であり、中華人民共和国政府は中国の唯一の合法政府であり、台湾は中国の一省であり、つとに祖国に返還されており、台湾解放は、他のいかなる国も干渉の権利を有しない中国の国内問題であり、米国の全ての軍隊及び軍事施設は台湾から撤退ないし撤去されなければならない」という立場であり、「一つの中国、一つの台湾」、「一つの中国、二つの政府」、「二つの中国」及び「台湾独立」を作り上げることを目的とし、あるいは「台湾の地位は未確定である」と唱えるいかなる活動にも断固として反対する」と表明した。
これに対し米国は次のように表明した。「米国は、台湾海峡の両側のすべての中国人が、中国はただ一つであり、台湾は中国の一部分であると主張していることを認識している。米国政府は、この立場に異論をとなえない。米国政府は、中国人自らによる台湾問題の平和的解決についての米国政府の関心を再確認する」と表明した。
さらに米中外交関係樹立に関する1979年1月1日共同声明では、「米国政府は,中国はただ一つであり,台湾は中国の一部であるとの中国の立場を認める」とした。「米国は一つの中国を認めた」と今でもよく言われるが、厳密には正しくないかもしれない。米中共同声明原文の英語版では「The Government of the United States of America acknowledges the Chinese position that there is but one China and Taiwan is part of China.」であった。
中国語版では、「美利坚合众国政府承认中国的立场,即只有一个中国,台湾是中国的一部分。」であった。
英語版と中国語版の意味は完全に一致しているか、議論となった。二つの疑問点があり、一つは英語の「acknowledge」と中国語の「承认(繁体字では「承認」)が完全に同じ意味かである。
もう一つは英語版でも中国語版でも米国はその立場を直接表明しておらず、「acknowledge」あるいは「承认」したのは台湾の地位についての中国の主張についてであった。
この言葉の意味及び関連の文章をどう解するか、本稿で論じる余裕はないが、米国がもしみずから「台湾は中国の一部」だという立場であれば、直接そう表明すればよかったはずである。
これは用語の問題に見えるかもしれないが、米中国交樹立の成否を左右する大問題であり、しかも、現在でも問い続けられている。かりに「中国は一つであり、台湾は中国の一部」の原則が国際的にも確立すれば、中国の立場は現在より強くなり、台湾の立場は逆に弱くなる。これでは台湾の23百万人の台湾人の権利と利益は十分に守られなくなると懸念されている。
米国は中国と国交を樹立する際、台湾との関係を犠牲にしたと前述したが、単純に無効化したのではなかった。中国と台湾が統一するか、それは中国人と台湾人が決めればよいが、台湾に対して中国が武力を使うことには反対し、中国もそのような米国の立場を認めた。上海コミュニケでは「米国政府は、中国人自らによる台湾問題の平和的解決についての米国政府の関心を再確認する」と表明した。これに対し、中国政府も米側の表明に異議を唱えなかった。積極的に賛成したのと異議を唱えなかったのは同じでないが、米国のこの立場を中国が認めなければ国交を樹立できなかっただろう。
日本と中国も「すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認」しあった(日中共同声明第6項)。台湾だけを取り出した声明ではなく、「すべての紛争」であったが、日中両国が国交を正常化する際に確認しあったことの意義は大きい。
台湾の地位は日中間でも米中間でも困難な問題であったが、なんとか合意が成立し、日中共同声明は9月29日に署名された。
後でわかったことであるが、当時中国内では危険な状況があり、中国を未曽有の混乱に陥れた「文化大革命(文革)」は終わっていなかった。文革はもともと毛沢東による権力奪還の闘争であったが、労働者、学生(若い学生は「紅衛兵」と呼ばれた)が参加し、既存秩序を破壊する一大革命となっていた。中国共産党も破壊の対象になっていた。死者は数百万とも2千万以上とも、被害者は1億人程度ともいわれた。日中国交正常化の際、武装闘争はほぼ終息していたが、文革の中心であったいわゆる四人組はなお健在であり、革命運動を継続していた。
しかし、中国政府はそんなことを日本側に全く感じさせず、日中国交正常化交渉は平穏無事に行われた。
田中首相一行は共同声明を発表した後、同日中に周恩来首相とともに上海へ向かった。田中首相は疲労困憊気味で上海へは寄りたくなかったと言われていたが、説得を受け入れ上海に降り立った。同市のナンバーワンは張春橋上海市革命委員会主任であり、四人組の一人であったが、田中首相一行を盛大に出迎えた。上海市南京西路1333号の宴会場で行われた歓迎宴では、田中首相を始め全員が酔っ払い気味になったが、大事業を成功させた喜びがあふれていた。
2022.08.04
岸田氏は去る6月に開催された核兵器禁止条約には参加せず、NPTの再検討会議には出席するという形になった。この会議は5年に1回の大会議であるが、閣僚級の会議と一般にはみなされており、首相の出席には反対もあったが、首相は昨年10月の就任以来、出席の意向が強かったという。
岸田氏が核兵器禁止条約には出席せず、NPTに出席することとしたのは「核保有国と非保有国の両方が同じテーブルにつくのはNPTしかない。核保有国をいかにこっちに引っ張ってくるかだ」との考えだったからである。
岸田氏は広島選出でNPTに強い思い入れがあるのは周知であるが、核軍縮がいかに困難な問題であるか、幻想があるわけではない。外相を長年務めてきたこともあり、「核軍縮・不拡散の機運は冷え込んでいる」との認識もしっかりある。
岸田氏は、「やはり核保有国が動かないと何も変わらないと痛感しており、日本がやらないと他に誰もやらない」との考えであり、NPT再検討会議への出席により核保有国に直接核軍縮を説得するという目的はほぼ達成したのであろう。
しかし、岸田氏が演説で打ち出した「ヒロシマ・アクション・プラン」、11月23日に広島で開催する「国際賢人会議」および23年に広島で開催する主要7カ国首脳会議(G7サミット)で核軍縮を進められるか。
同プランには5つの項目が盛り込まれている。その中で「各国のリーダーたちに被爆地訪問の機会を与えるため日本が国連に1千万ドルを拠出して『ユース非核リーダー基金』を設置する」ことがおそらく唯一効果的な方策である。その他の項目が重要でないというのではないが、これまで何回も試みられてきたことの焼き直しに過ぎないのではないか。
原子力の平和的利用(原発)の促進と北朝鮮の核・ミサイル問題とイラン核合意など性質の異なる問題を同じ項目の中で論じているのは率直に言って不可解である。
最後になったが、日本としては核兵器禁止条約を改正し、核兵器国が条件付きであれば同条約を排除しない(そっぽを向かない)方策を提案してはいかがかと考える。岸田首相はそれが可能な日本の指導者である。
NPTは核の存族を容認し、核兵器禁止条約は禁止すると対立的に見られているが、NPTも条件付きで核の廃絶を目指すこととしている。この両条約の矛盾点をなくし(少なくし)、共通点を増やす努力こそが日本に求められる役割ではないか。
岸田首相の核廃絶政策
岸田文雄首相は、8月1日に米ニューヨークの国連本部で開かれた核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議に、日本の首相として初めて出席し、演説を行った。この会議の結論は約4週間後に出ることになっているが、意見の対立が激しくて結論が出ないこともあり得る。審議は始まったばかりであるが、岸田首相の演説についての印象を記しておきたい。岸田氏は去る6月に開催された核兵器禁止条約には参加せず、NPTの再検討会議には出席するという形になった。この会議は5年に1回の大会議であるが、閣僚級の会議と一般にはみなされており、首相の出席には反対もあったが、首相は昨年10月の就任以来、出席の意向が強かったという。
岸田氏が核兵器禁止条約には出席せず、NPTに出席することとしたのは「核保有国と非保有国の両方が同じテーブルにつくのはNPTしかない。核保有国をいかにこっちに引っ張ってくるかだ」との考えだったからである。
岸田氏は広島選出でNPTに強い思い入れがあるのは周知であるが、核軍縮がいかに困難な問題であるか、幻想があるわけではない。外相を長年務めてきたこともあり、「核軍縮・不拡散の機運は冷え込んでいる」との認識もしっかりある。
岸田氏は、「やはり核保有国が動かないと何も変わらないと痛感しており、日本がやらないと他に誰もやらない」との考えであり、NPT再検討会議への出席により核保有国に直接核軍縮を説得するという目的はほぼ達成したのであろう。
しかし、岸田氏が演説で打ち出した「ヒロシマ・アクション・プラン」、11月23日に広島で開催する「国際賢人会議」および23年に広島で開催する主要7カ国首脳会議(G7サミット)で核軍縮を進められるか。
同プランには5つの項目が盛り込まれている。その中で「各国のリーダーたちに被爆地訪問の機会を与えるため日本が国連に1千万ドルを拠出して『ユース非核リーダー基金』を設置する」ことがおそらく唯一効果的な方策である。その他の項目が重要でないというのではないが、これまで何回も試みられてきたことの焼き直しに過ぎないのではないか。
原子力の平和的利用(原発)の促進と北朝鮮の核・ミサイル問題とイラン核合意など性質の異なる問題を同じ項目の中で論じているのは率直に言って不可解である。
最後になったが、日本としては核兵器禁止条約を改正し、核兵器国が条件付きであれば同条約を排除しない(そっぽを向かない)方策を提案してはいかがかと考える。岸田首相はそれが可能な日本の指導者である。
NPTは核の存族を容認し、核兵器禁止条約は禁止すると対立的に見られているが、NPTも条件付きで核の廃絶を目指すこととしている。この両条約の矛盾点をなくし(少なくし)、共通点を増やす努力こそが日本に求められる役割ではないか。
2022.07.25
戦後、国葬が行われたのは吉田茂元総理大臣のみで、その他は内閣・自民党の合同葬がほとんどであった。
安倍元総理の葬儀を国葬とすることについて世論は賛成と反対に割れており、世論調査としては賛成が多数のものも、また一部には反対が多数のものもある。
私は、戦後最長の期間にわたって日本を導いてきた安倍元総理の葬儀を盛大かつ厳粛に行うべきだと考えるが、国葬には以下の理由で反対である。
第1に、安倍氏は統一教会(現在は「世界平和統一家庭連合」と改名しているが、通称による)と、その「友好団体」に昨年9月ビデオメッセージを送る関係であった。
統一教会が違法な活動により、多数の人の人権を蹂躙し、多額の献金を強要したことは日本の裁判所でも認定されている。また、教会活動により多くの家庭を破壊したことも明らかになっており、非常に危険な団体である。
政治家は統一教会活動に関与してはならず、政治家と統一教会の癒着あるいはその他の関係を徹底的に調査し、関係を断ち切らなければならない。国葬とすることはその妨げとなる。
第2に、安倍氏は先の戦争について保守的な考えを持っており、日本が近隣諸国に侵略したとは認めていなかった。いわゆる「A級戦犯」を合祀している靖国神社への参拝は総理の現役時代は控えていたが、合祀を否定したためでなく、中国や韓国から批判されるのを避けるという政治的理由のためであった。
靖国神社参拝問題は非常に複雑であり、これまた国論は割れている。質問の仕方いかんでは、総理などの参拝は問題ないとする意見が多数となる可能性もあるが、ここではこれ以上論じない。ただし、日本は近隣諸国を侵略したという認識を放棄すると、米国を含め多数の国から批判されるのは不可避である。これは政治思想に従って処理できる問題でなく日本の指導者は客観的な状況認識が必要である。
第3に、安倍首相は2015年、一連の安保法制を制定し、日本国憲法が従来認めていないと解されてきた集団的自衛権の行使を認めるという解釈変更を行った。これも国論を分かつ結果となった。
第4に、安倍氏は広島及び長崎における原爆犠牲者の追悼行事は認めつつ、一方で核兵器の使用を制限する恐れのあるイニシャチブについては反対の意向を示してきた。
そのことは米国でも知られており、2021年8月9日、米政府が核兵器の「先制不使用」や「唯一の目的」を宣言することに反対しないよう日本政府に求める書簡が、米国の元政府高官や科学者から菅義偉首相や日本の主要政党の党首あてに送られてきた。これは日本が「核軍縮」に実は反対であることを示唆する由々しきことであった。
第5に、安倍氏は北方4島を犠牲にしてプーチン大統領と合意しようとした。安倍氏は、自分が総理である間に北方領土問題を解決しなければならないという気持ちが強すぎた。
安倍氏は、北方領土問題の解決のため心血を注いできた先人の努力を無視、あるいは軽視した。1973年の田中総理とブレジネフ書記長との合意、1991年の海部総理とゴルバチョフ書記長の合意、1993年の細川総理とエリツィン大統領との東京宣言など極めて重要な合意を無視した。
北方領土問題は長年の間に、一貫しないもろもろの状況が加わってきたが、日本とロシアのどちらに理由と正義があるかという原則に従って解決を図るべきであった。
北方領土問題はいつまた交渉の機会が出てくるか不明であるが、日本の利益を軽く見てはならないのは当然である。
安倍元総理の国葬問題
政府は7月22日の閣議で、安倍晋三元首相の国葬を9月27日、日本武道館で行うと決定した。必要な経費約1億円は国の予算で賄うという。戦後、国葬が行われたのは吉田茂元総理大臣のみで、その他は内閣・自民党の合同葬がほとんどであった。
安倍元総理の葬儀を国葬とすることについて世論は賛成と反対に割れており、世論調査としては賛成が多数のものも、また一部には反対が多数のものもある。
私は、戦後最長の期間にわたって日本を導いてきた安倍元総理の葬儀を盛大かつ厳粛に行うべきだと考えるが、国葬には以下の理由で反対である。
第1に、安倍氏は統一教会(現在は「世界平和統一家庭連合」と改名しているが、通称による)と、その「友好団体」に昨年9月ビデオメッセージを送る関係であった。
統一教会が違法な活動により、多数の人の人権を蹂躙し、多額の献金を強要したことは日本の裁判所でも認定されている。また、教会活動により多くの家庭を破壊したことも明らかになっており、非常に危険な団体である。
政治家は統一教会活動に関与してはならず、政治家と統一教会の癒着あるいはその他の関係を徹底的に調査し、関係を断ち切らなければならない。国葬とすることはその妨げとなる。
第2に、安倍氏は先の戦争について保守的な考えを持っており、日本が近隣諸国に侵略したとは認めていなかった。いわゆる「A級戦犯」を合祀している靖国神社への参拝は総理の現役時代は控えていたが、合祀を否定したためでなく、中国や韓国から批判されるのを避けるという政治的理由のためであった。
靖国神社参拝問題は非常に複雑であり、これまた国論は割れている。質問の仕方いかんでは、総理などの参拝は問題ないとする意見が多数となる可能性もあるが、ここではこれ以上論じない。ただし、日本は近隣諸国を侵略したという認識を放棄すると、米国を含め多数の国から批判されるのは不可避である。これは政治思想に従って処理できる問題でなく日本の指導者は客観的な状況認識が必要である。
第3に、安倍首相は2015年、一連の安保法制を制定し、日本国憲法が従来認めていないと解されてきた集団的自衛権の行使を認めるという解釈変更を行った。これも国論を分かつ結果となった。
第4に、安倍氏は広島及び長崎における原爆犠牲者の追悼行事は認めつつ、一方で核兵器の使用を制限する恐れのあるイニシャチブについては反対の意向を示してきた。
そのことは米国でも知られており、2021年8月9日、米政府が核兵器の「先制不使用」や「唯一の目的」を宣言することに反対しないよう日本政府に求める書簡が、米国の元政府高官や科学者から菅義偉首相や日本の主要政党の党首あてに送られてきた。これは日本が「核軍縮」に実は反対であることを示唆する由々しきことであった。
第5に、安倍氏は北方4島を犠牲にしてプーチン大統領と合意しようとした。安倍氏は、自分が総理である間に北方領土問題を解決しなければならないという気持ちが強すぎた。
安倍氏は、北方領土問題の解決のため心血を注いできた先人の努力を無視、あるいは軽視した。1973年の田中総理とブレジネフ書記長との合意、1991年の海部総理とゴルバチョフ書記長の合意、1993年の細川総理とエリツィン大統領との東京宣言など極めて重要な合意を無視した。
北方領土問題は長年の間に、一貫しないもろもろの状況が加わってきたが、日本とロシアのどちらに理由と正義があるかという原則に従って解決を図るべきであった。
北方領土問題はいつまた交渉の機会が出てくるか不明であるが、日本の利益を軽く見てはならないのは当然である。
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