平和外交研究所

2019 - 平和外交研究所 - Page 29

2019.02.26

米朝首脳会談の展望

第2回米朝首脳会談の展望記事をザページに寄稿しました。

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2019.02.25

普天間飛行場の辺野古移設問題

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設のために名護市辺野古沿岸部を埋め立てることについて沖縄県民の是非を問う投票が2月24日、投開票され、「反対」が72・15%の43万4273票に達した。玉城デニー氏が昨年9月の知事選で得た過去最多の39万6632票をさらに上回った。投票率は52・48%であり、注目されていた50%を超えた。投票をした人が少なすぎるのであれば沖縄県民の意思表示にならないという問題はクリアされたと見られている。「埋め立て反対」の県民の強い民意が示されたのである。

 政府はあくまで辺野古での新飛行場建設の方針を変えないようだが、埋め立てを強行することは考え直すべきだ。

 第1の理由は、今回の投票によって圧倒的に多数の沖縄県民が反対していることが改めて示されたからである。

 第2に、橋本龍太郎首相の下で普天間基地を移設する検討が始まったのが1996年。翌97年には、名護市辺野古付近に移設する方針が固まった。それ以来20数年が経過するが、沖縄県民の反対はむしろ強くなっている。辺野古への移転が決定される経緯も、その後の経緯も、米側との話し合いも極めて複雑だが、これだけ長い期間にはさまざまな環境変化が起こっているはずであり、20数年前の決定は改めて見直すべきである。もちろん、日本が一方的に変更することは許されないが、米国とあらためて代替案を検討すべきである。

 第3に、米国は沖縄駐留の海兵隊をグアム島に移転する計画を進めており、日米両政府間でも2013年、一部海兵隊のグアム移転を20年代前半に開始することで合意している。これは全体の中の一コマに過ぎないが、中長期的には沖縄駐留の海兵隊は減少傾向にあり、辺野古に新飛行場を建設しなければならないとは言えないはずである。

 第4に、最善の策は、沖縄以外で米軍基地を受け入れることができる地方を探求することだ。政府と米国は辺野古移設しか解決の方法はないと言うが、他の場所を真剣に検討したのか、どうしても疑問が残る。全国どこにも米軍基地を受け入れるところがないとは思えない。
 民主党政権時代に沖縄県外への移設の試みが大失敗に終わったが、だからと言って、沖縄に辺野古移設を強要してよいことにならない。

 第5に、辺野古移設を強行するより、普天間住民の移転を政府が支援するほうがよいのではないか。普天間飛行場に隣接する場所には約1万2000世帯が居住している。その移転を強行することはできないが、移転を希望する住民に政府として支援することは可能である。
 住民移転案は以前にも出たことがあるが、あまり広がっていない。辺野古案と住民移転案の費用比較、沖縄への政府からの補助への影響、運動を推進している政党の考えなどさまざまな事情が絡んでいるのだろうが、細かい損得勘定はともかくとして、飛行場移設より住民移転のほうが痛みは少ない。政治的立場の違いを超えて合意を形成できる案だと考える。
 米国は日本政府と同様「辺野古しかない」という立場を表明しているが、普天間に残ることは受け入れ可能だと思う。

2019.02.21

韓国で親日派を批判する人たちが陥った矛盾

 以下は2月21日付の中央日報の論評です。同紙は必ずしも日本人にとって耳障りの良いことだけを記事にしているのではありませんが、この論評は非常に参考になります。

「 自由韓国党を「親日派後えいの巣窟」と非難する与党の共に民主党だが、そちらも親日から自由でない。ナンバー2の洪永杓(ホン・ヨンピョ)院内代表からして親日派の子孫だ。彼の祖父ホン・ジョンチョルは「日帝に仕えて爵位を受けた容疑」で親日人名辞典704人の名簿に載っている。洪永杓はこの事実を認めて遺憾の意を表したことがある。おもしろいのは進歩陣営の反応だ。「民主化運動などで先祖の罪を十分に反省したので全く問題として見ない」という雰囲気だ。もし韓国党院内代表が親日派の子孫だったらどう反応しただろうか。いくら立派な活動をして保守改革に率先しても、「親日派の子孫のくせに」という非難があふれたはずだ。

「自分の場合はかまわない」の典型である民主党の親日・抗日フレームは、党の最高の大物、金大中(キム・デジュン)元大統領の熱い「親日」前歴を見れば矛盾がすぐに表れる。わずか30年前の1989年1月9日。88歳で死去した裕仁天皇の焼香所が設けられたソウル中学洞の日本大使館を訪れ、深く頭を下げる政治家がいた。当時の最大野党、平和民主党の総裁だった金大中だった。裕仁天皇は日帝の朝鮮侵略の最大の元凶だ。多くの独立活動家を拷問して死亡させ、女性を慰安婦にさせた張本人だ。島山・安昌浩(アン・チャンホ)先生は臨終しながら「「裕仁、貴様が大きな罪を犯した」という遺言を残したほどだ。

その裕仁天皇の焼香所で金大中は頭を下げて深く哀悼の意を表した。その場面は京郷新聞の写真で報道された。民主党は洪準杓(ホン・ジュンピョ)代表など韓国党の政治家が安倍首相に会った時、頭を深く下げたとして「親日派DNAはどこに向かうのか」と皮肉った。頭を下げた角度で親日かどうかを測定するのなら金大中は断然「スーパー親日派」だ。それだけでない。大統領になった後に日王を「天皇」と呼ぼうと言った政治家も金大中だった。

金大中の「親日」には歴史がある。日本政府は1980年に全斗煥(チョン・ドゥファン)が率いる新軍部の下で金大中が死刑を言い渡されると、救命運動の先鋒に立った。日本政界の水面下の実力者、瀬島隆三は判決の不当性を指摘した櫻内義雄外相の手紙を持って全斗煥に会い、「金大中氏を死刑にしてはいけない。大きな国際問題になる」と圧力を加えた。日本外務省も全斗煥第5共和国政府に「非公開の死刑判決文を見せてほしい」と執拗に要求した。判決文の問題点を見つけて不当性を国際社会に知らせようという努力だった。

さらに日本外務省は81年8月10日、「全斗煥体制は軍事ファッショ政権であり、金大中事件が解決されない中で韓国を支援するのは、その国の民主化の流れに逆行する納得できない姿勢」という公文書まで作成した。また、北朝鮮の玄峻極(ヒョン・ジュングク)労働党中央委員を東京に招いて第5共和国を刺激し、全斗煥の念願である100億ドルの借款も「金大中救命」が先決条件であることを暗示した。結局、第5共和国は米国に続いて日本のこうした全面的な攻勢に屈した。金大中を無期懲役に減刑し、米国への亡命まで認めたのだ。「金大中先生を釈放すべき」と叫んできた日本の政治家と市民団体は歓声をあげた。青瓦台(チョンワデ、大統領府)の586世代(現在50代で、80年代に大学生で民主化学生運動に参加し、60年代生まれ)は信じられないだろうが、彼らの上の世代の金大中が第5共和国の死刑を免れて民主化の主役として華麗に再起したのには日本の役割が大きかった。

金大中は日本の存在感を正確に把握して彼らと友人になろうと努力した大物だった。彼は大統領になると、保守政府が「倭色」として禁止してきた日本映画・歌謡の国内公演を大幅に認めた。これで日本の心をつかんだ後「新韓日宣言」を引き出し、日本は金大中の太陽政策を支持する核心パートナーになった。太陽政策に疑いの視線を向ける米国の心を変えるには対日関係から固めるべきという戦略が的中したのだ。

韓国人の不倶戴天の敵である裕仁天皇の焼香所を訪れて頭を下げた行為もこうした観点で眺める必要がある。金大中は裕仁天皇個人でなく日本に向かって頭を下げた。それが我々の安保と国益につながるという確信のためだったはずだ。日本の首相に頭をどの角度で下げたか、日本大使館の行事に出席したかなどで親日かどうかを判断する民主党の後輩たちを見て、金大中元大統領が墓で舌打ちをする音が聞こえそうだ。

民主党と文在寅(ムン・ジェイン)政権は大韓民国を動かす船長だ。野党時代には保守政権の「親日妄動」を糾弾すればそれまでだったが、今は国益のために精巧な対日外交をする責任が大きい。しかし過去1年半に政府がしたことを見ると、日本の悪口ばかりで行動は何もしない「NATO」(No Action Talk Only)だ。日本を国内政治のために売り飛ばし、支持率維持の道具として使うのならそうすればよい。そうするほど民主党と政府は金大中が残した偉大な韓日関係の遺産をつぶしていくだけだ。対北朝鮮政策も経済も隣国の日本と関係が弱まればいつでも致命傷になることを忘れてはいけない。

カン・チャンホ/論説委員」

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