平和外交研究所

2017 - 平和外交研究所 - Page 10

2017.10.04

胡春華-政治局常務委員になれるか

 胡春華広東省書記(同省のナンバー1)は、5年前の第18回党大会で胡錦涛前主席の後押しを受け、40代の若さであったが中国共産党の政治局に入った。そのころは、次回の党大会(今次大会のこと)で政治局常務委員に昇格する、つまりトップ7になることが確実視され、しかも習近平主席の後継者として最有力候補だと目されていた。
 胡春華は胡耀邦元総書記、胡錦涛前主席、李克強現首相と同様、中国共産主義青年団(共青団)出身であり、このような人たちは「団派」と呼ばれる。共青団は中国共産党のトップ指導者を輩出してきたエリート養成機関なのである。胡春華は共青団で最高の地位である「中央書記処第一書記」に上り詰めたのち、2008年以降は河北省省長、内蒙古自治区書記などを経て現職の広東省書記に就任した。
 ここまでは順調だったが、習近平政権下で状況が変わってきた。習氏は共青団が「官僚主義、形式主義、享楽主義」に陥っていると批判するようになり、人事面でも予算面でも共青団に厳しい措置を取った。ある座談会で、「共青団は格好ばかりで実がない」などと面罵したこともあった。人民日報が報道しているのだからその通りなのだろう。その場には胡春華の2代後の共青団第一書記である秦宜智がいたのだが、同人は間もなく、「国家質量監督検験検疫総局の副局長」に左遷された。2段階くらいの降格人事であった。
 
 時間的には前後するが、さる7月中旬、重慶市の書記が孫政才から陳敏爾に交替した。孫政才書記は胡春華と並んで次世代のリーダーの一人と目されていたが、習氏に評価されず失脚した。名目は汚職と職務遂行がよくなかったことだが、真相は分からない。その夫人にも問題があったと言われている。
 孫政才は「団派」ではないが、この政変は胡春華にとって危険な信号であり、習氏の意図を察知(忖度?)して「後継者となる気持ちはない」という上申書を党中央に提出したという。自分には野望はないと表明して習近平を安心させようとしたという話だが、それで解決するような簡単なことでない。単なるうわさかもしれない。
 陳敏爾は、習近平が浙江省の書記であったときからの信頼する部下であり、今回、習氏は陳敏爾を総書記の後継者として選んだとも伝えられている。そうであれば、陳敏爾は今次党大会でナンバー3の地位に就くことになる。これは本人のこれまでの経歴からして大抜擢だが、はたして中国を引っ張っていけるか疑問なしとしない。
 実績の点では副首相の汪洋のほうが上である。汪洋は若いころ共青団で認められたので話が複雑になるが、胡春華などのように共青団のトップになったわけではない。そのため、汪洋は普通、「団派」とは言われない。

 今回の党大会で確定される新人事により、胡春華が一体どのような状況にあったのか、はっきりしてくるだろう。
2017.10.02

汪洋は中国のトップ7入りか

 汪洋は現在国務院副総理だが、来る第19回党大会では政治局常務委員(トップ7)になると見られている。香港の『明報』紙10月2日付の評論などを参照しつつ、同人のプロフィールを描いてみた。

〇汪洋は貧しい家庭に生まれ、しかも幼い時に父を失ったので、高等学校も卒業できず、故郷の安徽省宿県(現宿州市)の食品工場で働き始めた。そこから努力を積み重ね、副総理まで上った立志伝中の人物である。
 中国の指導者は今や高学歴であり、たとえば、現在の政治局常務委員(トップ7)は全員大学卒である。ただし、劉雲山だけは師範学校卒であるが、実質的には大卒と変わりない。劉は教師や新華社の記者を務めたこともある。
 汪洋は後に中国科学技術大学で工学修士号を取得したので、普通の履歴書では「大卒」となるかもしれないが、それにしても異例の経歴を持つ人物である。

〇汪洋は共産主義青年団(共青団)で認められ、共青団安徽省委員会の副書記にまで昇進した。
 1999年、中央に呼ばれ国家発展計画委員会の副主任になった。これは次官クラスである。このときは朱鎔基首相に認められたという。
 2005年、重慶市書記(ナンバー1)に就任。重慶は北京、上海、天津とともに中央の直轄市であり、そのナンバー1は部長級(大臣級)である。
 汪洋は重慶でも認められ、胡錦涛総書記により、2007年の第17回党大会後に広東省書記に配置換えされるとともに、政治局員(トップ25)に抜擢された。「二階級特進」だったと言われている。

〇このような経歴から王洋は共青団派だと見られている。習近平主席は共青団の官僚主義的傾向を批判し、その予算を削るなどしており、共青団派の人物には厳しい見方を示している。しかし、汪洋は改革に熱心な経済の実務家であり、官僚主義的なところがない。率直で分かりやすい発言で知られており、記者のインタビューにも積極的に応じている。
このようなことからか、習近平主席の覚えもよく、外遊にもしばしば同行している。2017年4月、習氏がトランプ大統領と初の首脳会談を行った際も汪洋は同行していた。

〇汪洋の後、重慶市の書記となったのは薄熙来である。薄熙来は、いわゆる「革命第二代」のなかでも大物であり、そこまで順調に昇進し、中央に戻る一歩手前まで行ったのだが、第18回党大会の直前に失脚した。汪洋は毛沢東思想を標榜し、革命的手法を重視する薄熙来とは馬が合わなかったという。

〇広東省書記として汪洋の後任となったのが、習近平の後継者と目されていた胡春華である。同人は、重慶市での人事のごたごたの影響を受けて微妙な立場になっているとも言われており、今次党大会で中央に戻るか注目される。

〇汪洋は日本との経済対話に中国代表として累次出席しており、日本にもよく知られている。中共中央における汪洋の立場は安定しており、今後も日本との関係で重要な役割を果たすだろう。

2017.09.27

日中国交正常化と程永華大使

 日中国交正常化45周年を迎えて、程永華中国大使が記者会見で感想を述べている。「ここ数年、中日関係は多くの混乱にぶつかり、領土問題、歴史問題、海洋問題などが相次いで生じた」と。

 程永華大使は2010年2月、駐日大使として着任した。それからわずか半年後に中国漁船が尖閣諸島海域に侵入し、海上保安庁の巡視船に突っ込むという事件がおこり、日本政府は東京と北京で中国政府に抗議した。東京で矢面に立ったのが程永華大使であった。それ以来、尖閣諸島に関して問題が生じるたびに程永華大使は呼び出され、抗議された。そういうことが何回も繰り返された。

 程永華氏は、日中国交正常化の翌年、中国政府派遣の第1期留学生として来日。日本の大学に通って日本語を習得した。その日本語は「習得した」という表現では尽くせないくらい見事である。私がはじめて程永華氏に会ったのは、同氏が通訳をしていたときであったが、最初は「中国語がこれほど上手な日本人がいたか」と思ったことを記憶している。中国外務省には現外相の王毅氏をはじめ日本語が達者な人は多数いるが、程永華氏はぴか一である。

 程永華氏の私生活は知らないが、人柄はよく、誰からも好かれるタイプのように見える。中国人にもさまざまなタイプがあるが、人格的にも程永華氏は極めて優れた人物だと思う。そのような程永華氏が着任以来相次ぐトラブルに見舞われたのは気の毒なことであった。日本政府の抗議を受けた回数は、先輩のどの大使よりはるかに多かっただろう。主たる原因は尖閣諸島の関係である。大使ご自身もそのような状況にあったことをさりげなくぼやいていたのを思い出す。冒頭で述べた程永華氏の「多くの混乱云々」の発言には重い実感がある。

 しかし、こと尖閣諸島の問題になると程永華大使も「昔から中国の領土だ」としか言わない。中国は南シナ海においても同様であり、この一言しか言わない。それに対し、国際仲裁裁判所が中国の主張に根拠なしとの判決を下したのは周知である。尖閣諸島について訴訟は提起されていないが、もし同裁判所へ持ち込まれると同じ結論になると思う。
国際仲裁裁判所はさておいても、尖閣諸島の地位に関する古文献は中国にも残っており、明や清の公式文書は尖閣諸島が中国領でなかったことを明記している。
 それでも中国政府は「昔から中国の領土だ」とだけ主張するのを方針としており、程永華大使もそれに従わざるを得ないのだろう。これは単なる推測でなく、確信である。
 日本と中国が協力できる分野、しなければならない分野は少なくない。安全保障についても両国の関係が友好的であることは極めて重要だが、中国が中国共産党によって統治されている限り日本との間で埋めがたい溝があるのも事実である。その前提で、最適の解を求めていくしかない。
 来月、中国共産党は第19回目の大会を開催する。習近平主席の独裁的地位はあらためて確認される。同党による一党独裁体制はますます強固になるが、中国の民衆はどうなるのか。一般の中国人の満足度は高まるか、あるいは不満が高じるか、5年後の第20回党大会のころには今より見通しが効くようになっているかもしれない。


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