2016 - 平和外交研究所 - Page 52
2016.03.02
朴槿恵大統領は就任直後の三一節(2013年)で「加害者と被害者という歴史的立場は千年の歴史が流れても変わらない」と述べるなど毎年厳しい対日認識を示していたが、今年はそのような激しい言及はせず、「歴史の過ちを忘れず、合意の趣旨と精神を完全に実践に移し、未来世代に教訓として記憶されるように努力しなければならない」と、歴史にも言及しつつ建設的な物言いに徹した。
朴槿恵大統領は昨年11月の安倍首相との会談以来、難問の慰安婦問題を含め日本を批判するのでなく、協力して解決していこうという姿勢になっていた(当研究所HP2月15日「韓国のリバランシング?」)。今回の三一節演説はそれを再確認する意味がある。朴槿恵大統領が未来志向的になったと片づけるのは言い過ぎだが、対日姿勢を転換させた努力は率直に認めてよい。
一方、北朝鮮に対して朴槿恵大統領は、「住民から搾取し、核開発だけに集中することで政権を維持することはできず、無意味だということを明確に悟らせなければならない」と厳しい言葉で批判した。北朝鮮の指導者のしていることがいかに愚かなことか、上からの目線で教えてやるという意味合いも感じさせる批判だ。このように言えば、北朝鮮は当然激烈に反発することを承知の上でこう言ったのだろう。今の朴槿恵大統領には、剣士が真っ向から相手に対して打ちかかることをほうふつさせるところがある。
ともあれ、慰安婦問題の日韓合意についてはまだ強い反対勢力が残っており、韓国政府は説得に努めている。日本政府としてもいたずらに各国を刺激しないよう注意が必要だ。日本の論理で一部表現の正誤などを声高に言揚げすることなど、問題の解決に役立たないどころか、国益に反する。国際社会が何を問題にしているかを見定めなければならない。
(短評)朴槿恵大統領の対日姿勢
朴槿恵大統領は「三一節(1919年3月1日に日本から独立を求める運動が起こったことを記念する日)」で恒例の演説を行った。歴代の大統領は毎年この日に重要演説を行なっており、日本に対する姿勢を示すバロメータのような意味がある。朴槿恵大統領は就任直後の三一節(2013年)で「加害者と被害者という歴史的立場は千年の歴史が流れても変わらない」と述べるなど毎年厳しい対日認識を示していたが、今年はそのような激しい言及はせず、「歴史の過ちを忘れず、合意の趣旨と精神を完全に実践に移し、未来世代に教訓として記憶されるように努力しなければならない」と、歴史にも言及しつつ建設的な物言いに徹した。
朴槿恵大統領は昨年11月の安倍首相との会談以来、難問の慰安婦問題を含め日本を批判するのでなく、協力して解決していこうという姿勢になっていた(当研究所HP2月15日「韓国のリバランシング?」)。今回の三一節演説はそれを再確認する意味がある。朴槿恵大統領が未来志向的になったと片づけるのは言い過ぎだが、対日姿勢を転換させた努力は率直に認めてよい。
一方、北朝鮮に対して朴槿恵大統領は、「住民から搾取し、核開発だけに集中することで政権を維持することはできず、無意味だということを明確に悟らせなければならない」と厳しい言葉で批判した。北朝鮮の指導者のしていることがいかに愚かなことか、上からの目線で教えてやるという意味合いも感じさせる批判だ。このように言えば、北朝鮮は当然激烈に反発することを承知の上でこう言ったのだろう。今の朴槿恵大統領には、剣士が真っ向から相手に対して打ちかかることをほうふつさせるところがある。
ともあれ、慰安婦問題の日韓合意についてはまだ強い反対勢力が残っており、韓国政府は説得に努めている。日本政府としてもいたずらに各国を刺激しないよう注意が必要だ。日本の論理で一部表現の正誤などを声高に言揚げすることなど、問題の解決に役立たないどころか、国益に反する。国際社会が何を問題にしているかを見定めなければならない。
2016.03.01
盧武鉉大統領の全般的特徴
人権派弁護士として学生とともに軍人政治に反対してきた経歴を持つ盧武鉉大統領は、金泳三・金大中両政権の民主化をさらに進めた。とくに歴史の清算にこだわり、日本統治時代の歴史を修正/是正しようとした他、朝鮮戦争時の韓国軍による民間人虐殺、軍事政権下での人権抑圧事件の真相究明にも努めた。
2004年3月、「日帝強制占領下親日反民族行為の真相糾明に関する特別法(通称親日反民族特別法)」を制定。2005年1月の改正で法律名から「親日」を外し、「日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」とした。また、この法律に基づき「真相糾明委員会」を設置した。
2005年5月、金泳三・金大中政権下で成立した過去の清算に関する特別法を含め、総括法として「真実・和解のための過去整理基本法」を制定。
同年12月、「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」を制定。
2006年には全斗煥元大統領らの叙勲を取り消した。
退任の翌年、自殺。政府補助金の不正使用に関係していたことが原因で逮捕は近いと見られていたさなかであった。しかし、この件で検事総長は、「前大統領を死に追いやった」として世論の強い批判を浴び、国民に謝罪した。
また、当時の世論調査では「前大統領に対する捜査は政治報復だ」と答えた人が62.5%あったそうだ。韓国では司法の独立が弱いと指摘されている。これはその一例だった。
日本との関係
2003年6月、初の訪日。日程が顕忠日という殉国者に敬意を払う日と重なり韓国内で批判もあったが、盧武鉉は「私たちはいつまでも過去の足かせに囚われているわけにはいかない」と構わず、訪日を実現した。小泉首相と未来志向的な関係を構築していくこと、シャトル首脳会談を推進することなどに合意した。大統領就任当初は日本に協力的だったのだ。
しかし、2005年2月、島根県議会で「竹島の日を定める条例」制定の動きがあり、3月に成立すると、韓国では強い反発が起こった。高野紀元大使が質問に答えて「竹島は日本領土と考えている」と発言したことから激しい反日デモが発生。
廬武鉉大統領は三一節(3月1日の独立記念日)の演説で、日本に植民地支配への明確な謝罪と反省、賠償を要求した。対日強硬方針への転換宣言だった。
この頃、韓国民にむけた談話のなかで、「外交戦争もあり得る」と述べたと報道された。
小泉首相の靖国神社参拝は2001年以後、退任する2006 年まで毎年1 回ずつ行われた。2004年までは、大きな問題とならなかったが、2005年以後は日韓関係が悪化していたことを背景に問題となり、そうなると関係がさらに悪化するという悪循環に陥った。
盧武鉉大統領は12月の訪日も中止した。
第三国へ訪問中も日本批判を行なった。2005年4月、ドイツで、ドイツの常任理事国入りは支持するが日本は支持しないと述べ、また日本の植民地統治をナチスのホロコーストにたとえた共同宣言を発出することを持ちかけたが、ドイツ側から厳しくたしなめられた(報道)。
2006年4月、盧武鉉大統領は特別談話で、「日本国民と指導者達に丁重に頼みます。我々はこれ以上新たな謝罪を要求はしません。既に累次行った謝罪と符合する行動を要求するだけです。誤った歴史を美化したり正当化したりする行為を韓国の主権と国民的自尊心を侮辱する行為を中止してくれということです。」と発言。
2006年10月、安倍首相が訪韓(就任の翌月)。日本外務省の発表は、「両首脳は胸襟を開いて日韓関係、北朝鮮問題等に関して意見交換した」として主要問題についての話し合いの概要を説明しただけだったが、一部の報道では、「北朝鮮による地下核実験があったにも関わらず、会談時間の半分近くを歴史認識問題に割いたために両国の溝は埋まらず、共同文書の発表に至らなかった」と言われた。
11月、ハノイのAPEC首脳会議の際、安倍首相およびブッシュ米大統領と3者で会談。
米国との関係
盧武鉉は大統領選挙の前から反米で知られていたが、在韓米軍による女子中学生死亡事件やブッシュ大統領の北朝鮮に対する強硬姿勢のために反米機運が高まっており、前歴は大統領選挙で不利にならず、盧武鉉は「反米だからどうだと言うのだ?」などと述べたこともあったと言われていた。
しかし、このような米国に対するツッパリは後に重圧となって跳ね返り、盧武鉉大統領の姿勢に影響を及ぼした。
就任3カ月後の2003年5月、訪米し、「もし53年前に米国が韓国を助けなかったら私は今ごろ政治犯収容所にいたかもしれない」と述べたのも自己の経歴を意識しての発言だったが、米国からの支持は得られず、また国民からも、自虐的かつ国家的自尊心を侮辱する発言だと思われ批判された。
盧武鉉大統領は実際に米国に協力もした。イラク戦争を支持して兵士3260人を派兵した。その理由について、あくまでも平和維持のためだと説き、北朝鮮の核危機を解決するにあたり、米国の支持を得るために派兵が必要なのだと主張したが、反対勢力は盧武鉉を米国の傀儡と非難した。
米国との自由貿易協定(FTA)についても盧武鉉は前向きで、2006年2月、交渉を開始した。これには国内の反対が強かったが、盧武鉉は韓国経済に好影響があると譲らず、締結した。批准は李明博政権下で行われた。
しかし、盧武鉉大統領は韓国内では左派と攻撃され、米国でも高く評価されなかった。
「周辺諸国と案件ごとに選択的協力関係を築く」という廬武鉉の方針も歓迎ざれず、同盟国としてふさわしくない発言と思われた。
また、北朝鮮に対する盧武鉉大統領の姿勢は米国の政策と調和しないとみなされた。
米国との関係は低調なままであった。盧武鉉大統領は3回訪米したが、米国はいずれの時も実務訪問という簡略な儀礼形式で受け入れた。
ニューヨーク・タイムズ紙は2006年9月、「米韓関係はここ数ヶ月で『日本海ほど広がった(as wide as the Sea of Japan)』」と評したこともあった。
韓国内で起こったダグラス・マッカーサー将軍の銅像撤去論争に言及して、「恩を忘れる者ほど悪いものはない。今週の『恩知らず大賞』は韓国が獲得した」と皮肉られたこともあった。韓国はアメリカの三番目の敵国と見なされたこともあった。
時間的には前後するが、2005年10月28日付の東亜日報(韓国の3大新聞の1つ)でさえ、「米ワシントンの知識人層の「反韓認識」に、新しい流れが感知されている。以前にはなかった嘲弄まじりの批判が表われ、共和党議員の間に主に見られた反韓感情が、民主党中心部に広がる兆しまで感知される。知韓派はこのような気流について、「そうではない」という声を出せないでいる。」 と報道した。
戦時作戦統制権の移譲問題もそのような文脈の中で見ていく必要がある。
朝鮮戦争以来米軍が連合軍の統制権を握っており、平時の統制権は1994年に韓国軍に移されていたが、戦時の統制権は依然として米軍にあり、盧武鉉は「自主国防」の観点から韓国軍への移譲を積極的に推進しようとした。米軍は当初懐疑的であったが、韓国側が強く要望するのであれば、移譲してもよいとの考えになり、2007年に12年4月の移譲でいったん合意が成立した。
しかし、移譲は韓国軍にとって両刃の剣であり、また、米軍を朝鮮半島につなぎとめるためにも反対が強く、李明博政権時代の2010年、移譲を15年12月に先送りすると決まったが、その後ヘーゲル米国防長官と韓国の韓民求国防相の間で移譲を再び延期することが合意された。韓国防相は、記者会見で「20年代半ば」がメドだと表明している。
北朝鮮との関係
金大中の太陽政策を引き継ぎ、「関与」と「包容」を重視した。北朝鮮を孤立させないよう積極的にかかわっていくという方針だ。
2004年11月にはロサンゼルスで、「核とミサイルが外部の脅威から自国を守るための抑制手段だという北朝鮮の主張には一理ある」と述べたこともあった。
北朝鮮に肥料や米などの物質的支援もした。太陽政策の象徴である開城工業団地は金大中大統領時代に合意されたが、工事の開始から生産の開始、鉄道輸送は盧武鉉政権下で実現した。
このような盧武鉉の友好的姿勢にも関わらず、北朝鮮は2006年7月、日本を超えて飛行するミサイルを発射した。盧武鉉の立場は苦しくなったはずだが、「果たしてわが国の安保上の危機だったか」「(政府対応が遅れたのは、国民を不安にしないために敢えて)ゆっくり対応した」「敢えて日本のように夜明けからばか騒ぎを起こさなければならない理由は無い」などと、国際社会の見方とは非常に隔たった政府見解を発表した。このような見解は当時の日本との関係を反映していた面もあった。
国連安保理での北朝鮮制裁の決議案については強い警戒感を示した。
ミサイル発射から数日後南北閣僚級会談(第19回)が決裂。しかも北は、「南は北の先軍政治の恩恵をこうむっている」という、恩を仇で返す言葉を浴びせた。
それでも8月15日の光復節では、「過去、北朝鮮が犯した戦争や拉致などで苦痛を受けた人々を思えば、北朝鮮に対して寛容と和解の手を差し伸べることは、決して容易なことではない」としながらも「胸の奥に残っている怒りと憎悪の感情を、もはや克服しなければならない。過去を許し、和解と協力の道に進まなければならない」と述べたため議論を惹起し、「北朝鮮が責任を認め謝罪をしていないうえ、社会的合意がない状態での発言であり、議論を呼ぶものとみられる」と論評された(2006年8月16日付東亜日報)。 後に、盧武鉉大統領はこの発言が原因で、「北朝鮮が過去に行った戦争や拉致を赦す」と言ったと言われるようになった。
しかし、北朝鮮は盧武鉉大統領の融和的姿勢にかまわず、10月に初の核実験を実施した。安保理は制裁決議を採択した。盧武鉉大統領もさすがに「一時は与野党代表や歴代の大統領経験者を集めて意見を聴くといったふらつきを見せたが、その後は従来の路線に立ち戻り、米国から求められた対北朝鮮への制裁拡大に同意しないなど、なおも宥和姿勢を継続する意思を明らかにしている」と評されている(ウィキペディア「盧武鉉」)。
盧武鉉元大統領の対外姿勢
今後の作業の便宜のために作成した李明博前大統領に続くノートである。盧武鉉大統領の全般的特徴
人権派弁護士として学生とともに軍人政治に反対してきた経歴を持つ盧武鉉大統領は、金泳三・金大中両政権の民主化をさらに進めた。とくに歴史の清算にこだわり、日本統治時代の歴史を修正/是正しようとした他、朝鮮戦争時の韓国軍による民間人虐殺、軍事政権下での人権抑圧事件の真相究明にも努めた。
2004年3月、「日帝強制占領下親日反民族行為の真相糾明に関する特別法(通称親日反民族特別法)」を制定。2005年1月の改正で法律名から「親日」を外し、「日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」とした。また、この法律に基づき「真相糾明委員会」を設置した。
2005年5月、金泳三・金大中政権下で成立した過去の清算に関する特別法を含め、総括法として「真実・和解のための過去整理基本法」を制定。
同年12月、「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」を制定。
2006年には全斗煥元大統領らの叙勲を取り消した。
退任の翌年、自殺。政府補助金の不正使用に関係していたことが原因で逮捕は近いと見られていたさなかであった。しかし、この件で検事総長は、「前大統領を死に追いやった」として世論の強い批判を浴び、国民に謝罪した。
また、当時の世論調査では「前大統領に対する捜査は政治報復だ」と答えた人が62.5%あったそうだ。韓国では司法の独立が弱いと指摘されている。これはその一例だった。
日本との関係
2003年6月、初の訪日。日程が顕忠日という殉国者に敬意を払う日と重なり韓国内で批判もあったが、盧武鉉は「私たちはいつまでも過去の足かせに囚われているわけにはいかない」と構わず、訪日を実現した。小泉首相と未来志向的な関係を構築していくこと、シャトル首脳会談を推進することなどに合意した。大統領就任当初は日本に協力的だったのだ。
しかし、2005年2月、島根県議会で「竹島の日を定める条例」制定の動きがあり、3月に成立すると、韓国では強い反発が起こった。高野紀元大使が質問に答えて「竹島は日本領土と考えている」と発言したことから激しい反日デモが発生。
廬武鉉大統領は三一節(3月1日の独立記念日)の演説で、日本に植民地支配への明確な謝罪と反省、賠償を要求した。対日強硬方針への転換宣言だった。
この頃、韓国民にむけた談話のなかで、「外交戦争もあり得る」と述べたと報道された。
小泉首相の靖国神社参拝は2001年以後、退任する2006 年まで毎年1 回ずつ行われた。2004年までは、大きな問題とならなかったが、2005年以後は日韓関係が悪化していたことを背景に問題となり、そうなると関係がさらに悪化するという悪循環に陥った。
盧武鉉大統領は12月の訪日も中止した。
第三国へ訪問中も日本批判を行なった。2005年4月、ドイツで、ドイツの常任理事国入りは支持するが日本は支持しないと述べ、また日本の植民地統治をナチスのホロコーストにたとえた共同宣言を発出することを持ちかけたが、ドイツ側から厳しくたしなめられた(報道)。
2006年4月、盧武鉉大統領は特別談話で、「日本国民と指導者達に丁重に頼みます。我々はこれ以上新たな謝罪を要求はしません。既に累次行った謝罪と符合する行動を要求するだけです。誤った歴史を美化したり正当化したりする行為を韓国の主権と国民的自尊心を侮辱する行為を中止してくれということです。」と発言。
2006年10月、安倍首相が訪韓(就任の翌月)。日本外務省の発表は、「両首脳は胸襟を開いて日韓関係、北朝鮮問題等に関して意見交換した」として主要問題についての話し合いの概要を説明しただけだったが、一部の報道では、「北朝鮮による地下核実験があったにも関わらず、会談時間の半分近くを歴史認識問題に割いたために両国の溝は埋まらず、共同文書の発表に至らなかった」と言われた。
11月、ハノイのAPEC首脳会議の際、安倍首相およびブッシュ米大統領と3者で会談。
米国との関係
盧武鉉は大統領選挙の前から反米で知られていたが、在韓米軍による女子中学生死亡事件やブッシュ大統領の北朝鮮に対する強硬姿勢のために反米機運が高まっており、前歴は大統領選挙で不利にならず、盧武鉉は「反米だからどうだと言うのだ?」などと述べたこともあったと言われていた。
しかし、このような米国に対するツッパリは後に重圧となって跳ね返り、盧武鉉大統領の姿勢に影響を及ぼした。
就任3カ月後の2003年5月、訪米し、「もし53年前に米国が韓国を助けなかったら私は今ごろ政治犯収容所にいたかもしれない」と述べたのも自己の経歴を意識しての発言だったが、米国からの支持は得られず、また国民からも、自虐的かつ国家的自尊心を侮辱する発言だと思われ批判された。
盧武鉉大統領は実際に米国に協力もした。イラク戦争を支持して兵士3260人を派兵した。その理由について、あくまでも平和維持のためだと説き、北朝鮮の核危機を解決するにあたり、米国の支持を得るために派兵が必要なのだと主張したが、反対勢力は盧武鉉を米国の傀儡と非難した。
米国との自由貿易協定(FTA)についても盧武鉉は前向きで、2006年2月、交渉を開始した。これには国内の反対が強かったが、盧武鉉は韓国経済に好影響があると譲らず、締結した。批准は李明博政権下で行われた。
しかし、盧武鉉大統領は韓国内では左派と攻撃され、米国でも高く評価されなかった。
「周辺諸国と案件ごとに選択的協力関係を築く」という廬武鉉の方針も歓迎ざれず、同盟国としてふさわしくない発言と思われた。
また、北朝鮮に対する盧武鉉大統領の姿勢は米国の政策と調和しないとみなされた。
米国との関係は低調なままであった。盧武鉉大統領は3回訪米したが、米国はいずれの時も実務訪問という簡略な儀礼形式で受け入れた。
ニューヨーク・タイムズ紙は2006年9月、「米韓関係はここ数ヶ月で『日本海ほど広がった(as wide as the Sea of Japan)』」と評したこともあった。
韓国内で起こったダグラス・マッカーサー将軍の銅像撤去論争に言及して、「恩を忘れる者ほど悪いものはない。今週の『恩知らず大賞』は韓国が獲得した」と皮肉られたこともあった。韓国はアメリカの三番目の敵国と見なされたこともあった。
時間的には前後するが、2005年10月28日付の東亜日報(韓国の3大新聞の1つ)でさえ、「米ワシントンの知識人層の「反韓認識」に、新しい流れが感知されている。以前にはなかった嘲弄まじりの批判が表われ、共和党議員の間に主に見られた反韓感情が、民主党中心部に広がる兆しまで感知される。知韓派はこのような気流について、「そうではない」という声を出せないでいる。」 と報道した。
戦時作戦統制権の移譲問題もそのような文脈の中で見ていく必要がある。
朝鮮戦争以来米軍が連合軍の統制権を握っており、平時の統制権は1994年に韓国軍に移されていたが、戦時の統制権は依然として米軍にあり、盧武鉉は「自主国防」の観点から韓国軍への移譲を積極的に推進しようとした。米軍は当初懐疑的であったが、韓国側が強く要望するのであれば、移譲してもよいとの考えになり、2007年に12年4月の移譲でいったん合意が成立した。
しかし、移譲は韓国軍にとって両刃の剣であり、また、米軍を朝鮮半島につなぎとめるためにも反対が強く、李明博政権時代の2010年、移譲を15年12月に先送りすると決まったが、その後ヘーゲル米国防長官と韓国の韓民求国防相の間で移譲を再び延期することが合意された。韓国防相は、記者会見で「20年代半ば」がメドだと表明している。
北朝鮮との関係
金大中の太陽政策を引き継ぎ、「関与」と「包容」を重視した。北朝鮮を孤立させないよう積極的にかかわっていくという方針だ。
2004年11月にはロサンゼルスで、「核とミサイルが外部の脅威から自国を守るための抑制手段だという北朝鮮の主張には一理ある」と述べたこともあった。
北朝鮮に肥料や米などの物質的支援もした。太陽政策の象徴である開城工業団地は金大中大統領時代に合意されたが、工事の開始から生産の開始、鉄道輸送は盧武鉉政権下で実現した。
このような盧武鉉の友好的姿勢にも関わらず、北朝鮮は2006年7月、日本を超えて飛行するミサイルを発射した。盧武鉉の立場は苦しくなったはずだが、「果たしてわが国の安保上の危機だったか」「(政府対応が遅れたのは、国民を不安にしないために敢えて)ゆっくり対応した」「敢えて日本のように夜明けからばか騒ぎを起こさなければならない理由は無い」などと、国際社会の見方とは非常に隔たった政府見解を発表した。このような見解は当時の日本との関係を反映していた面もあった。
国連安保理での北朝鮮制裁の決議案については強い警戒感を示した。
ミサイル発射から数日後南北閣僚級会談(第19回)が決裂。しかも北は、「南は北の先軍政治の恩恵をこうむっている」という、恩を仇で返す言葉を浴びせた。
それでも8月15日の光復節では、「過去、北朝鮮が犯した戦争や拉致などで苦痛を受けた人々を思えば、北朝鮮に対して寛容と和解の手を差し伸べることは、決して容易なことではない」としながらも「胸の奥に残っている怒りと憎悪の感情を、もはや克服しなければならない。過去を許し、和解と協力の道に進まなければならない」と述べたため議論を惹起し、「北朝鮮が責任を認め謝罪をしていないうえ、社会的合意がない状態での発言であり、議論を呼ぶものとみられる」と論評された(2006年8月16日付東亜日報)。 後に、盧武鉉大統領はこの発言が原因で、「北朝鮮が過去に行った戦争や拉致を赦す」と言ったと言われるようになった。
しかし、北朝鮮は盧武鉉大統領の融和的姿勢にかまわず、10月に初の核実験を実施した。安保理は制裁決議を採択した。盧武鉉大統領もさすがに「一時は与野党代表や歴代の大統領経験者を集めて意見を聴くといったふらつきを見せたが、その後は従来の路線に立ち戻り、米国から求められた対北朝鮮への制裁拡大に同意しないなど、なおも宥和姿勢を継続する意思を明らかにしている」と評されている(ウィキペディア「盧武鉉」)。
2016.02.26
その中で李明博前政権については簡単に触れただけだったが、あらためてその特色を振り返ってみた。今後の作業のためのノートである。
朴槿恵大統領は最近、親日、親米に外交方針を転換した。一方、李明博前大統領も盧武鉉前前大統領も政権の末期、姿勢が変わった。変わったという意味では朴槿恵大統領と似ているが、反日に変わったことは朴槿恵大統領と逆だった。
李明博大統領は2008年2月~2013年2月、その職にあった。政権についた当初は、日米中ロとの「4強外交」を標榜しつつ、それまでの10年間革新政権が続き、とくに盧武鉉前大統領の任期の終わり近くになって摩擦が高じてきた日本との関係を修復することに努めた。
李明博は日本生まれで、日本に強い親近感があるか不明だが、経済人として日本との関係は深かった。李明博大統領になる前の2006年に来日した際には、安倍首相に対して「韓国国民の3大懸案を未来志向的な解決に向け、積極的な努力をお願いしたい」と話していた。 歴史認識・靖国神社・竹島のことであり、間接的な表現にとどめたのは日本に配慮したからだった。
しかし、08年7月、日本で中学校の新学習指導要領に竹島に関する記述が盛り込まれることになったため韓国は反発し、権哲賢駐日大使を一時帰国させた。韓国政府は竹島の実効支配を強化する総合対策を発表する一方、9月に日本で行われる予定の日中韓首脳会談への大統領の出席を留保した。出席できないかもしれないという姿勢を示したのだ。その後李明博大統領は出席を決めたが、今度は福田首相が辞任し(9月24日)、3国首脳会談はいったん流れた。
これと前後するが、リーマンブラザーズ・ショックが9月15日に発生した。福田首相辞任の9日前だった。韓国が受けたダメージは日本よりはるかに大きく、李明博大統領はその対応に追われ、日本とは通貨スワップ枠の拡大について話し合った。
12月には延期されていた3国首脳会談が大宰府で行われた。日本は麻生新首相、中国は温家宝首相であった。
翌年1月には麻生首相が訪韓し、両首脳は竹島・歴史問題をさておいて、日韓経済連携協定(EPA)の交渉の加速などに合意し、「成熟したパートナーシップ」を進めると謳った。数カ月前の竹島問題についての騒動は尾を引かなかったのだ。李明博大統領としてはそれにかかずらわっている余裕はなかったと見るべきかもしれない。
李明博大統領の対日姿勢が変化したのは野田佳彦首相との会談が契機であった。野田首相は2011年9月に就任し、翌月韓国を訪問した。そのとき、李明博大統領は「歴代の韓国大統領は任期後半になれば反日を利用して支持率を上げたが、私はそのような事はしない」と話した(野田佳彦『時代の証言者』読売新聞に連載した)。ここまでは対日姿勢に変化はなかった。
そして、12月、京都で2人が再会した。その際、野田首相はソウルの日本大使館前の少女像の撤去を求め、李明博大統領は野田首相に対し、慰安婦問題を政治的決断で解決するよう求めた。会談時間のほとんどすべてが慰安婦問題だったとも言われている。
野田前首相は『時代の証言者』で、「李明博大統領は「最初の出会いの時には(李前大統領が)先輩指導者として心から尊敬を受けるだけのことはあると思っていた」「ところがその直後である12月の京都での首脳会談から、慰安婦問題でおかしくなった」と述べている。
日韓の請求権問題に関する日本政府の法的立場は固く、揺るがない。野田首相といえども法的な立場を変更できない。しかし、李明博大統領の日本に対する理解は十分でなく、野田首相が要請に応じなかったことに不満で、翌12年8月10日、突如竹島に上陸した。李明博大統領もそれまでの政権と同じことをするようになったのだ。これに対し、日本側は強く反発し武藤正敏駐韓大使を一時帰国させた。
13日、李明博大統領は青瓦台での昼食会で「国際社会における日本の影響力は以前のようではない」と発言。翌14日には韓国教員大学での懇談の場において、「 天皇が韓国を訪問したければ、独立運動をして亡くなった方々を尋ね、心から謝罪をするならばよいと考える。 痛惜の念のような言葉を言うだけなら、来る必要はない」と発言した。
日本政府は竹島問題を国際司法裁判所(ICJ)に共同付託することを韓国側に提案し、17日に李明博大統領宛の野田佳彦首相親書を送付した。これに対し韓国政府は、「そんな島(野田首相の親書に書かれている「竹島」)には行ったことがない」との大統領の一声で日本側に親書を送り返す措置を取った。日本語表記ではどの島の事か分からないということである。日本外務省は、「親書を受け取らないこと自体が外交慣例上有り得ない」と反発。親書を直接返しに来た在日韓国大使館職員の外務省敷地内立ち入りを認めなかった。結局親書は郵送されてきた。
日本との関係はこのような状態のまま、李明博大統領はこの数カ月後、任期満了で辞任した。
米国との関係では、李明博大統領は就任直後からBSE(牛海綿状脳症)問題で韓国内の激しい抗議への対応に追われた。また、2007年に締結された米国とのFTAについては追加交渉が行われたが、BSEとの関係などから韓国内の反対は強く、そのため、ブッシュ大統領の訪韓を一時延期せざるをえなくなった。
ブッシュ大統領の訪韓は08年8月に実現したが、その直後にリーマンブラザーズ・ショックが起こって韓国経済は混乱し、ウォンは下落傾向に陥った。
李明博大統領は最初の1年間、このような経済問題と米国および日本との関係に忙殺された。
この間、進展したのは中国との関係だった。韓国の輸出は長い間1位米国、2位日本であり、輸入は日本が1位であったが、盧武鉉大統領時代に高度成長を続ける中国経済との関係が急進展し、輸出は03年に、輸入は07年に中国が1位となっていた。
李明博大統領の時代にはその傾向がますます激しくなり、貿易相手国としての中国は2位以下を大きく引き離すようになった。
またロシアとの関係では、李明博大統領は08年7月洞爺湖サミットでメドベージェフ大統領と会談し、その直後に(9月)「資源外交」を掲げてロシアを訪問するなど熱のこもった外交を展開した。
1990年にはロシアと「戦略的協力関係」を結び、シベリア鉄道と南北朝鮮を結ぶ鉄道を連結する「鉄のシルクロード」構想を打ち出した。
北朝鮮との関係では、太陽政策的な南北関係促進と対北支援に積極的であった廬武鉉前大統領とは異なり、李明博大統領は、根からの経済人らしく支援の透明性を重視し、前政権の姿勢を修正することに努める一方、北朝鮮が核を放棄すれば大幅な経済援助を行うと持ち掛けた。「非核・開放・3000」(北朝鮮が非核化と改革・開放を実現するならば、1人当たりの年間所得を3000米ドルにするための経済支援を行う)政策である。
しかし、北朝鮮は、従来通り米国との関係が最重要だとし、韓国に対しては非協力的な姿勢を取っただけでなく、南北境界線付近で韓国側に砲撃を加えたりした。
09年4月にはテポドン2号を日本の上空を通過するルートで発射した。
南北間ではその後もさまざまな試みがあったが、関係改善にはつながらなかった。
李明博前政権の外交姿勢
朴槿恵大統領の外交姿勢の転換について、2月24日、東洋経済オンラインに「韓国が「親米」「親日」へとカジを切った事情」を寄稿した。その中で李明博前政権については簡単に触れただけだったが、あらためてその特色を振り返ってみた。今後の作業のためのノートである。
朴槿恵大統領は最近、親日、親米に外交方針を転換した。一方、李明博前大統領も盧武鉉前前大統領も政権の末期、姿勢が変わった。変わったという意味では朴槿恵大統領と似ているが、反日に変わったことは朴槿恵大統領と逆だった。
李明博大統領は2008年2月~2013年2月、その職にあった。政権についた当初は、日米中ロとの「4強外交」を標榜しつつ、それまでの10年間革新政権が続き、とくに盧武鉉前大統領の任期の終わり近くになって摩擦が高じてきた日本との関係を修復することに努めた。
李明博は日本生まれで、日本に強い親近感があるか不明だが、経済人として日本との関係は深かった。李明博大統領になる前の2006年に来日した際には、安倍首相に対して「韓国国民の3大懸案を未来志向的な解決に向け、積極的な努力をお願いしたい」と話していた。 歴史認識・靖国神社・竹島のことであり、間接的な表現にとどめたのは日本に配慮したからだった。
しかし、08年7月、日本で中学校の新学習指導要領に竹島に関する記述が盛り込まれることになったため韓国は反発し、権哲賢駐日大使を一時帰国させた。韓国政府は竹島の実効支配を強化する総合対策を発表する一方、9月に日本で行われる予定の日中韓首脳会談への大統領の出席を留保した。出席できないかもしれないという姿勢を示したのだ。その後李明博大統領は出席を決めたが、今度は福田首相が辞任し(9月24日)、3国首脳会談はいったん流れた。
これと前後するが、リーマンブラザーズ・ショックが9月15日に発生した。福田首相辞任の9日前だった。韓国が受けたダメージは日本よりはるかに大きく、李明博大統領はその対応に追われ、日本とは通貨スワップ枠の拡大について話し合った。
12月には延期されていた3国首脳会談が大宰府で行われた。日本は麻生新首相、中国は温家宝首相であった。
翌年1月には麻生首相が訪韓し、両首脳は竹島・歴史問題をさておいて、日韓経済連携協定(EPA)の交渉の加速などに合意し、「成熟したパートナーシップ」を進めると謳った。数カ月前の竹島問題についての騒動は尾を引かなかったのだ。李明博大統領としてはそれにかかずらわっている余裕はなかったと見るべきかもしれない。
李明博大統領の対日姿勢が変化したのは野田佳彦首相との会談が契機であった。野田首相は2011年9月に就任し、翌月韓国を訪問した。そのとき、李明博大統領は「歴代の韓国大統領は任期後半になれば反日を利用して支持率を上げたが、私はそのような事はしない」と話した(野田佳彦『時代の証言者』読売新聞に連載した)。ここまでは対日姿勢に変化はなかった。
そして、12月、京都で2人が再会した。その際、野田首相はソウルの日本大使館前の少女像の撤去を求め、李明博大統領は野田首相に対し、慰安婦問題を政治的決断で解決するよう求めた。会談時間のほとんどすべてが慰安婦問題だったとも言われている。
野田前首相は『時代の証言者』で、「李明博大統領は「最初の出会いの時には(李前大統領が)先輩指導者として心から尊敬を受けるだけのことはあると思っていた」「ところがその直後である12月の京都での首脳会談から、慰安婦問題でおかしくなった」と述べている。
日韓の請求権問題に関する日本政府の法的立場は固く、揺るがない。野田首相といえども法的な立場を変更できない。しかし、李明博大統領の日本に対する理解は十分でなく、野田首相が要請に応じなかったことに不満で、翌12年8月10日、突如竹島に上陸した。李明博大統領もそれまでの政権と同じことをするようになったのだ。これに対し、日本側は強く反発し武藤正敏駐韓大使を一時帰国させた。
13日、李明博大統領は青瓦台での昼食会で「国際社会における日本の影響力は以前のようではない」と発言。翌14日には韓国教員大学での懇談の場において、「 天皇が韓国を訪問したければ、独立運動をして亡くなった方々を尋ね、心から謝罪をするならばよいと考える。 痛惜の念のような言葉を言うだけなら、来る必要はない」と発言した。
日本政府は竹島問題を国際司法裁判所(ICJ)に共同付託することを韓国側に提案し、17日に李明博大統領宛の野田佳彦首相親書を送付した。これに対し韓国政府は、「そんな島(野田首相の親書に書かれている「竹島」)には行ったことがない」との大統領の一声で日本側に親書を送り返す措置を取った。日本語表記ではどの島の事か分からないということである。日本外務省は、「親書を受け取らないこと自体が外交慣例上有り得ない」と反発。親書を直接返しに来た在日韓国大使館職員の外務省敷地内立ち入りを認めなかった。結局親書は郵送されてきた。
日本との関係はこのような状態のまま、李明博大統領はこの数カ月後、任期満了で辞任した。
米国との関係では、李明博大統領は就任直後からBSE(牛海綿状脳症)問題で韓国内の激しい抗議への対応に追われた。また、2007年に締結された米国とのFTAについては追加交渉が行われたが、BSEとの関係などから韓国内の反対は強く、そのため、ブッシュ大統領の訪韓を一時延期せざるをえなくなった。
ブッシュ大統領の訪韓は08年8月に実現したが、その直後にリーマンブラザーズ・ショックが起こって韓国経済は混乱し、ウォンは下落傾向に陥った。
李明博大統領は最初の1年間、このような経済問題と米国および日本との関係に忙殺された。
この間、進展したのは中国との関係だった。韓国の輸出は長い間1位米国、2位日本であり、輸入は日本が1位であったが、盧武鉉大統領時代に高度成長を続ける中国経済との関係が急進展し、輸出は03年に、輸入は07年に中国が1位となっていた。
李明博大統領の時代にはその傾向がますます激しくなり、貿易相手国としての中国は2位以下を大きく引き離すようになった。
またロシアとの関係では、李明博大統領は08年7月洞爺湖サミットでメドベージェフ大統領と会談し、その直後に(9月)「資源外交」を掲げてロシアを訪問するなど熱のこもった外交を展開した。
1990年にはロシアと「戦略的協力関係」を結び、シベリア鉄道と南北朝鮮を結ぶ鉄道を連結する「鉄のシルクロード」構想を打ち出した。
北朝鮮との関係では、太陽政策的な南北関係促進と対北支援に積極的であった廬武鉉前大統領とは異なり、李明博大統領は、根からの経済人らしく支援の透明性を重視し、前政権の姿勢を修正することに努める一方、北朝鮮が核を放棄すれば大幅な経済援助を行うと持ち掛けた。「非核・開放・3000」(北朝鮮が非核化と改革・開放を実現するならば、1人当たりの年間所得を3000米ドルにするための経済支援を行う)政策である。
しかし、北朝鮮は、従来通り米国との関係が最重要だとし、韓国に対しては非協力的な姿勢を取っただけでなく、南北境界線付近で韓国側に砲撃を加えたりした。
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