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2016.07.26

(短文)トルコのクーデタと米国の核兵器

 7月15日、発生したクーデタを鎮圧するためトルコ政府が同国上空の飛行を禁止したため、トルコ南部のインジルリク空軍基地で航空機の発着が一時できなくなった。
 インジルリク空軍基地はシリアとの国境から約110キロの地点にあり、約50発の米軍の核弾頭が配備されており、この飛行禁止措置の結果、核兵器が一時的だがトルコ政府の管理下に置かれることとなった。同基地への電力供給も停止されたので、管理上問題が発生する危険もあったと見られている。
 クーデタを鎮圧するためやむをえない措置であったが、核の管理は安全保障上絶対に間違いがあってはならないことであり、今回の措置がきっかけとなって、核兵器を欧州に配備することの是非にまで懸念が広がった。米国の主要紙やフォーリン・ポリシーなどの雑誌はこの問題についての報道や論評を掲載している。その主要点は次のようなものだ。

○トルコでは軍人が自国の議会を爆撃しており、そのような場所に米国の核兵器を置いておくのは危険だ。そもそも米国はなぜトルコに核兵器を配備しているのか? トルコには、他のNATO諸国と違って核弾頭を運搬できる航空機がない。インジルリクの核弾頭は他の場所に移すべきだ。
○インジルリクは地理的に過激派組織ISから攻撃を受けやすい。
○米国はかつてギリシャに配備していた核弾頭を撤去したことがあり前例もある。
○多数の水爆を欧州各地に保管しておくことは安全保障上必要でなくなっている。冷戦下においてはソ連軍の侵攻を防ぐ抑止力だったが、今やそれは不要であり、危険性の方が高い。
2016.07.25

憲法改正の論点③-安全保障

自民党改正案第9条、第9条の2、第9条の3

疑問と問題点
 現在の憲法第9条は変更しないのがよい。それは日本国の歴史上最も重大な行為であった戦争の結果だからだ。戦争の結果とは敗戦だけでない。戦いに敗れたために現在の憲法が制定されたことも忘れてはならない結果である。その両方の結果を丸ごと尊重すべきであり、また将来にそのまま伝えるべきだからだ。
 いわゆる「平和主義」の立場から、あるいは「普通の国」であることを求める立場から、さらには右または左の思想からさまざまな議論が行われてきたが、9条の持つ歴史的意義に勝る意見はなかったと思う。

 以下は比較的細かいことだが、付言しておく。
 外国に言われて制定した憲法だから日本語らしく書き換えるべきだという議論もある。確かに、9条の第2項は、当時の占領軍が勝手に書いた「バタ臭い」文章であることは明らかだ。しかし、それは9条の意義に照らすと大した問題でない。また、その部分だけ書き換えるにしても9条全体を丸ごと尊重することに穴をあけることになる。9条2項だけを改正することによって得られる利益より、日本にとって最も重要な歴史事実を書き換えることにより失うものが多いと思う。
 文章として稚拙か否か、日本語らしいか否かなどは言い出せばいくらも出てくることであり、たとえば、自民党案第9条の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない」の「、、、の行使は、、、、用いない」は論理的におかしな文章だ。
 現憲法の「、、、行使は、、、放棄する」もよい文章か疑問だが、少なくても論理的には成り立つ表現だ。
 また、自民党案には「法律の定めるところにより」という表現が9条関係だけでも複数回出てくるが、しょせん細かいことだ。憲法に規定されていることについてはほとんどすべて法律で細則が定められる。皇室典範のような特殊なことは憲法に特記してもよいが、いちいち「法律で定める」と官僚的に言わないほうがよい。
 
一方、自民党案は「自衛権の発動を妨げるものではない」とのみ規定し、集団的自衛権の行使を認めるかは書いていない。自民党改正案第9条関係は重要なことは規定せず、官僚的、実務的なことを記載する結果に陥っているのではないか。
 なお、日本を自衛するために戦うこと、武器を使用することは9条の下で認められている。それは妥当な解釈だと思う。

2016.07.18

憲法改正の論点②

自民党改正案第3条(新設)
1 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
2 日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。

疑問と問題点
 国旗と国歌を憲法で規定することに反対の意見もあるが、規定してもよいと考える。国民に広く受け入れられているからだ。
 しかし、第2項を設けるのは反対だ。尊重しない日本国民がいるかもしれないが、そのような人がいることを憲法が想定するのは憲法の格調を落とすことになるからだ。これはこの条文だけの問題でなく、他のことでも同じことが言える。憲法はいちいち「尊重しなければならない」とは言っていない。
 また、「尊重」とは何かも問題で、恣意的な判断が押し付けられる恐れがある。たとえば、公の場で国歌を歌うことを義務的にすべきでない。それは個人の自由にゆだねるべきだ。

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