オピニオン
2019.08.31
韓国は李洛淵(イ・ナクヨン)首相が出席するらしいとソウル聯合ニュース(8月18日付)は伝えている。同首相は、昨年3月、ブラジリアで開かれた水フォーラムで徳仁皇太子(当時)と会い、「かなり深い話」をしたという。文在寅政権のなかで日本通として知られる人物であり、即位礼に出席されるのに最適の人物だと思われているかもしれないが、韓国の首相に新天皇の即位礼に出席させるのは官僚的な処理ではないか。
日韓関係が厳しい状況にあるなか、文在寅大統領が出席するのが最も望ましい。李洛淵首相の出席はまだ本決まりでないと承知している。かりに、決まっていても文大統領が出席することへの支障にはならない。大統領が、自ら出席すると言えばよいのである。
韓国側の事情ももちろん無視できない。韓国の世論は、輸出規制強化以来日本政府に強く反発している。国民感情の根底に植民地統治への強いわだかまりがある。
そんなことにも注意を払う必要があるが、文在寅大統領の即位礼出席が実現すれば日韓両国にとって大きな意義がある。
第1に、文在寅氏がみずから出席の意向を示せば、千年単位で日韓関係を考えていることを示すのに役立つ。日韓の友好関係は2千年近い歴史があり、天皇はその象徴でもある。天皇も上皇も韓国との関係を非常に重視している。韓国の大統領が即位礼に出席することはそのような日韓の長い友好関係を尊重する意味合いがある。
第2に、天皇は政治にはかかわらない日本国民の象徴であり、目前の日韓関係(の悪化)と切り離して考えることができる。
第3に、文在寅大統領が即位礼に出席することを日本国民は歓迎する。
第4に、皮肉なことかもしれないが、文在寅氏は日本に対して厳しいだけに、日本に来やすいのではないか。日本に融和的な人であればさらに日本に礼を尽くすことは危険であろうが、その点、文氏は心配ないだろうし、また、それだけに日本側の評価も高くなるだろう。
第5に、来年は東京オリンピックが開かれる。その際には、文氏が開会式に出席するか決断を迫られるだろう。安倍首相は平昌オリンピックに出席した。つまり、政治的なプレシャーが強く働くなかで日本を訪問するか決定を迫られるより、天皇の即位礼に出席するほうが、韓国内でも容易なのではないか。かりに、オリンピックに出ないとしても即位礼に出席しておけば大きな問題にならない。
それに番外だが、米国を安心させるのに役立つ。米国は韓国によるGSOMIAの破棄に強く不満である。形式的には日韓両国に注文を付けているが、実質的には韓国に対する不満が大きい。文大統領が即位礼に自ら出席することは米国の不満を和らげる意味合いもある。
なお、8月31日付の東京新聞に掲載されたインタビューでも以上の趣旨を語っています。ぜひそちらもご覧下さい。
天皇の即位礼への韓国大統領の出席
日韓関係がかつてないほど悪くなった中、10月22日の天皇の即位礼に韓国からだれが出席するか、注目される。韓国は李洛淵(イ・ナクヨン)首相が出席するらしいとソウル聯合ニュース(8月18日付)は伝えている。同首相は、昨年3月、ブラジリアで開かれた水フォーラムで徳仁皇太子(当時)と会い、「かなり深い話」をしたという。文在寅政権のなかで日本通として知られる人物であり、即位礼に出席されるのに最適の人物だと思われているかもしれないが、韓国の首相に新天皇の即位礼に出席させるのは官僚的な処理ではないか。
日韓関係が厳しい状況にあるなか、文在寅大統領が出席するのが最も望ましい。李洛淵首相の出席はまだ本決まりでないと承知している。かりに、決まっていても文大統領が出席することへの支障にはならない。大統領が、自ら出席すると言えばよいのである。
韓国側の事情ももちろん無視できない。韓国の世論は、輸出規制強化以来日本政府に強く反発している。国民感情の根底に植民地統治への強いわだかまりがある。
そんなことにも注意を払う必要があるが、文在寅大統領の即位礼出席が実現すれば日韓両国にとって大きな意義がある。
第1に、文在寅氏がみずから出席の意向を示せば、千年単位で日韓関係を考えていることを示すのに役立つ。日韓の友好関係は2千年近い歴史があり、天皇はその象徴でもある。天皇も上皇も韓国との関係を非常に重視している。韓国の大統領が即位礼に出席することはそのような日韓の長い友好関係を尊重する意味合いがある。
第2に、天皇は政治にはかかわらない日本国民の象徴であり、目前の日韓関係(の悪化)と切り離して考えることができる。
第3に、文在寅大統領が即位礼に出席することを日本国民は歓迎する。
第4に、皮肉なことかもしれないが、文在寅氏は日本に対して厳しいだけに、日本に来やすいのではないか。日本に融和的な人であればさらに日本に礼を尽くすことは危険であろうが、その点、文氏は心配ないだろうし、また、それだけに日本側の評価も高くなるだろう。
第5に、来年は東京オリンピックが開かれる。その際には、文氏が開会式に出席するか決断を迫られるだろう。安倍首相は平昌オリンピックに出席した。つまり、政治的なプレシャーが強く働くなかで日本を訪問するか決定を迫られるより、天皇の即位礼に出席するほうが、韓国内でも容易なのではないか。かりに、オリンピックに出ないとしても即位礼に出席しておけば大きな問題にならない。
それに番外だが、米国を安心させるのに役立つ。米国は韓国によるGSOMIAの破棄に強く不満である。形式的には日韓両国に注文を付けているが、実質的には韓国に対する不満が大きい。文大統領が即位礼に自ら出席することは米国の不満を和らげる意味合いもある。
なお、8月31日付の東京新聞に掲載されたインタビューでも以上の趣旨を語っています。ぜひそちらもご覧下さい。
2019.08.25
軍事面への影響よりも、日韓関係がさらに悪化することが懸念されます。
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韓国によるGSOMIAの破棄
ザページに「韓国のGSOMIA破棄は「3年前に戻る」だけなのか?」を寄稿しました。軍事面への影響よりも、日韓関係がさらに悪化することが懸念されます。
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2019.08.21
旧陸軍あるいは一部軍人が政府の考えに忠実に従わなくなり始めたのは、中国で1924年に起こった第二次奉直戦争からであったといわれている。
昭和天皇はその2年後に即位し、以後大事件の連続に見舞われた。昭和三年(以下、昭和の年号表記による)には張作霖爆殺事件、六年には関東軍による柳条湖爆破事件(満州事変)が起こり、翌七年にはリットン調査団、満州国独立、日本による満州国の承認(日満議定書)と事態が進み、各国との対立が抜き差しならなくなった日本は八年に国際連盟を脱退した。九年には主要国の主力艦保有を制限していたワシントン条約を廃棄、十年にはロンドン軍縮会議からも脱退して、艦艇の保有制限を取り払ってしまったので欧米との対立は決定的となった。まさにあれよあれよという間に日本は各国と対立していったのである。
国外での強硬路線と並行して、国内では軍部、あるいは一部軍人、あるいは右翼による凶行が相次いだ。五年に浜口雄幸首相の狙撃事件、六年にクーデタ未遂事件(三月事件と十月事件)、七年には井上準之助(浜口内閣の蔵相)や三井の総帥、団琢磨の暗殺(血盟団事件)、犬養毅首相の暗殺(五・一五事件)が起こった。
そして十一年二月二十六日に二・二六事件が発生し、さらに十二年七月七日の盧溝橋事件(日中戦争の開始)、十六年十二月八日の米英蘭に対する宣戦布告と拡大していったのである。
要するに、昭和天皇の即位から20年間、ほぼ毎年国家的大事件が起こったのであり、天皇の立場は想像もつかないほど困難だっただろう。今回公表された「拝謁記」によれば、昭和天皇は敗戦に至った道のりを何度も振り返ったそうだが、その心情は我々普通の国民としてもよく理解できる。
昭和天皇の発言内容については、大きく言って、二つの重要な点があった。その一つは昭和天皇が「反省」という言葉を使いたいと強くこだわり、「私はどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と語ったことである。「反省といふのは私にも沢山あるといへばある」「軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も今度のいふ事の内にうまく書いて欲しい」などと述べている。
しかし、田島長官から意見を求められた吉田首相は「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」、「今日(こんにち)は最早(もはや)戦争とか敗戦とかいふ事はいつて頂きたくない気がする」などといって「反省」に反対した。
昭和天皇は田島長官に繰り返し不満を述べたが、最後は憲法で定められた「象徴」らしく首相の意見に従った。昭和天皇は戦争への深い悔恨を国民に伝えたいと強く望んだが吉田首相の反対で盛り込まれなかったのである。
もう一つの重要点は、昭和天皇が自分の意思に反することが次々に起こったことに無念の気持ちを抱いていたことが、天皇自身の言葉で語られたことである。
戦前、天皇の意思が実現しなかったことは何回かあり、天皇が疑念や不満を表明していたことは歴史の研究で明らかになっていた。たとえば、天皇が張作霖爆殺事件に関して田中義一首相を叱責したこと、二・二六事件の際には「反乱軍を速やかに鎮圧するように」と指示したこと、太平洋戦争の開戦に当たっては戦争を避ける方策の探求を繰り返し求めたが、戦争に突入することになってしまい、強い無念の言葉を残したことなどである。
「拝謁記」においては、昭和天皇が個々のケースに限らず、軍に対する全体的な評価として、「下剋上」という、極度に強い言葉を用いていたことが判明した。天皇は、自らの指揮下にあるはずの軍が天皇に従わなかったとみていたのである。天皇は「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」、「軍部の勢は誰でも止め得られなかつた」、「東条内閣の時は既に病が進んで最早どうすることも出来ぬといふ事になつてた」、「私の届かぬ事であるが軍も政府も国民もすべて下剋上(げこくじょう)とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返(くりかえ)したくないものだ」などとも語っていた。
この発言はいわゆるシビリアンコントロールがいかに困難かを示している。旧憲法下で天皇は日本国の元首、統治権の総攬者であり、天皇大権と呼ばれる広範な権限を有し、軍の関係でも「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定されていた(第11条)。天皇は軍の最高指揮官だったのである。しかも、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とされていた(第3条)。天皇はこれだけの権利と権威をもちながら、軍の専横を止められなかったのである。
旧憲法は文民統制(シビリアンコントロール)の概念に欠けていたという説明もあるが、シビリアンコントロールの制度があっても、それだけでは政府と異なる意見を主張して引き下がらない軍を抑えることはできない。現憲法は、第66条2項で「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と規定することによりこの制度を定めていると解説されるが、この規定だけではシビリアンコントロールは機能しない。先般の南スーダンへ派遣された自衛隊の例を見ても、防衛大臣は自衛隊を統制できなかった。
シビリアンコントロールの本質は究極の強制手段を持つ軍を政府の方針に従わせることである。これを、すべての大権をもつ天皇でもできなかった。つまり旧憲法体制でもできなかったのである。新憲法で定めている「首相や防衛大臣による統制」ははるかに微弱である。
念のため付言しておくが、軍のすべてを否定しているのではない。旧軍はよく日本を守り、また、国威を発揚してくれた。立派な軍人ももちろん多数いた。しかし、愚かなこと、危険なこと、日本を危機にさらす結果になったこともした。それが軍の現実である。
憲法改正論において自衛隊の憲法への明記(軍として?)が論じられるが、今の自衛隊が普通の軍になる、あるいはそれに近づくのであれば、シビリアンコントロールについて徹底した検討が不可欠であり、真に機能するシビリアンコントロールのためにはどうすればよいか、何が必要かを究明する必要がある。それがいかに困難かを昭和天皇の言葉は雄弁に物語っているのではないか。
昭和天皇の反省とシビリアンコントロール
NHKは8月16日から3日間、田島道治初代宮内庁長官が昭和24年から5年近くにわたる昭和天皇との対話を詳細に書き残した「拝謁記」を報道した。昭和天皇が、サンフランシスコ平和条約発効後の昭和27年5月3日、日本の独立回復を祝う式典を控えて何を述べたいかを田島に語り、それに対する田島の意見を求め、さらに田島が吉田首相と必要な調整を行った結果を報告したことなどを、手帳やノート合わせて18冊に詳細に記したものである。昭和史についての第一級の資料だという。旧陸軍あるいは一部軍人が政府の考えに忠実に従わなくなり始めたのは、中国で1924年に起こった第二次奉直戦争からであったといわれている。
昭和天皇はその2年後に即位し、以後大事件の連続に見舞われた。昭和三年(以下、昭和の年号表記による)には張作霖爆殺事件、六年には関東軍による柳条湖爆破事件(満州事変)が起こり、翌七年にはリットン調査団、満州国独立、日本による満州国の承認(日満議定書)と事態が進み、各国との対立が抜き差しならなくなった日本は八年に国際連盟を脱退した。九年には主要国の主力艦保有を制限していたワシントン条約を廃棄、十年にはロンドン軍縮会議からも脱退して、艦艇の保有制限を取り払ってしまったので欧米との対立は決定的となった。まさにあれよあれよという間に日本は各国と対立していったのである。
国外での強硬路線と並行して、国内では軍部、あるいは一部軍人、あるいは右翼による凶行が相次いだ。五年に浜口雄幸首相の狙撃事件、六年にクーデタ未遂事件(三月事件と十月事件)、七年には井上準之助(浜口内閣の蔵相)や三井の総帥、団琢磨の暗殺(血盟団事件)、犬養毅首相の暗殺(五・一五事件)が起こった。
そして十一年二月二十六日に二・二六事件が発生し、さらに十二年七月七日の盧溝橋事件(日中戦争の開始)、十六年十二月八日の米英蘭に対する宣戦布告と拡大していったのである。
要するに、昭和天皇の即位から20年間、ほぼ毎年国家的大事件が起こったのであり、天皇の立場は想像もつかないほど困難だっただろう。今回公表された「拝謁記」によれば、昭和天皇は敗戦に至った道のりを何度も振り返ったそうだが、その心情は我々普通の国民としてもよく理解できる。
昭和天皇の発言内容については、大きく言って、二つの重要な点があった。その一つは昭和天皇が「反省」という言葉を使いたいと強くこだわり、「私はどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と語ったことである。「反省といふのは私にも沢山あるといへばある」「軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も今度のいふ事の内にうまく書いて欲しい」などと述べている。
しかし、田島長官から意見を求められた吉田首相は「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」、「今日(こんにち)は最早(もはや)戦争とか敗戦とかいふ事はいつて頂きたくない気がする」などといって「反省」に反対した。
昭和天皇は田島長官に繰り返し不満を述べたが、最後は憲法で定められた「象徴」らしく首相の意見に従った。昭和天皇は戦争への深い悔恨を国民に伝えたいと強く望んだが吉田首相の反対で盛り込まれなかったのである。
もう一つの重要点は、昭和天皇が自分の意思に反することが次々に起こったことに無念の気持ちを抱いていたことが、天皇自身の言葉で語られたことである。
戦前、天皇の意思が実現しなかったことは何回かあり、天皇が疑念や不満を表明していたことは歴史の研究で明らかになっていた。たとえば、天皇が張作霖爆殺事件に関して田中義一首相を叱責したこと、二・二六事件の際には「反乱軍を速やかに鎮圧するように」と指示したこと、太平洋戦争の開戦に当たっては戦争を避ける方策の探求を繰り返し求めたが、戦争に突入することになってしまい、強い無念の言葉を残したことなどである。
「拝謁記」においては、昭和天皇が個々のケースに限らず、軍に対する全体的な評価として、「下剋上」という、極度に強い言葉を用いていたことが判明した。天皇は、自らの指揮下にあるはずの軍が天皇に従わなかったとみていたのである。天皇は「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」、「軍部の勢は誰でも止め得られなかつた」、「東条内閣の時は既に病が進んで最早どうすることも出来ぬといふ事になつてた」、「私の届かぬ事であるが軍も政府も国民もすべて下剋上(げこくじょう)とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返(くりかえ)したくないものだ」などとも語っていた。
この発言はいわゆるシビリアンコントロールがいかに困難かを示している。旧憲法下で天皇は日本国の元首、統治権の総攬者であり、天皇大権と呼ばれる広範な権限を有し、軍の関係でも「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定されていた(第11条)。天皇は軍の最高指揮官だったのである。しかも、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とされていた(第3条)。天皇はこれだけの権利と権威をもちながら、軍の専横を止められなかったのである。
旧憲法は文民統制(シビリアンコントロール)の概念に欠けていたという説明もあるが、シビリアンコントロールの制度があっても、それだけでは政府と異なる意見を主張して引き下がらない軍を抑えることはできない。現憲法は、第66条2項で「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と規定することによりこの制度を定めていると解説されるが、この規定だけではシビリアンコントロールは機能しない。先般の南スーダンへ派遣された自衛隊の例を見ても、防衛大臣は自衛隊を統制できなかった。
シビリアンコントロールの本質は究極の強制手段を持つ軍を政府の方針に従わせることである。これを、すべての大権をもつ天皇でもできなかった。つまり旧憲法体制でもできなかったのである。新憲法で定めている「首相や防衛大臣による統制」ははるかに微弱である。
念のため付言しておくが、軍のすべてを否定しているのではない。旧軍はよく日本を守り、また、国威を発揚してくれた。立派な軍人ももちろん多数いた。しかし、愚かなこと、危険なこと、日本を危機にさらす結果になったこともした。それが軍の現実である。
憲法改正論において自衛隊の憲法への明記(軍として?)が論じられるが、今の自衛隊が普通の軍になる、あるいはそれに近づくのであれば、シビリアンコントロールについて徹底した検討が不可欠であり、真に機能するシビリアンコントロールのためにはどうすればよいか、何が必要かを究明する必要がある。それがいかに困難かを昭和天皇の言葉は雄弁に物語っているのではないか。
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