朝鮮半島
2021.04.15
カレントな問題としては、北朝鮮による新型戦術誘導ミサイルの実験とSLBM搭載の潜水艦の建造がある。朝鮮中央通信が3月26日に報道した、前日の新型戦術誘導ミサイルの発射実験である。発射されたのは2発で、日本海上に設定した600キロ先の目標を「正確に打撃した」という。ただし、金正恩総書記は発射実験に立ち会わなかった。
また、北朝鮮は弾道ミサイルを搭載できる新型潜水艦の建造を終えたと報道された。SLBM3発を搭載できる3千トン超の大きさだという。
4月15日の金日成主席の誕生日を祝賀するとともに、日米首脳会談に水をかける狙いも込められているようだ。
しかし、日米首脳会談ではミサイル発射と潜水艦問題は言及されても主要な問題にならない。バイデン大統領にとっても、菅首相にとってももっと根本的な問題がある。
米国としては、2018年4月、北朝鮮が行った核と大陸間弾道弾(ICBM)などの実験停止表明と同年6月12日のトランプ大統領と金正恩総書記との合意(共同声明)内容は、朝鮮半島の非核化問題を含め、今後も維持する必要があるはずである。しかし、バイデン大統領は、トランプ大統領が行ったような金正恩総書記との直接会談には批判的だと伝えられるなど、現状を動かそうとする政治的意図は見えてこない。
一方北朝鮮は、外務次官レベルだが、米国からの非公式の打診について「米国の時間稼ぎに応じる必要はなく、無視する」とそっけなく、かつ、シンガポール会談のような方式に否定的な態度を示している。
つまり、米朝いずれからも朝鮮半島の非核化交渉をいかに再開していくかが見えないのである。バイデン氏には、トランプ氏のような個人的な方法で金正恩総書記に働きかける意図がないのは分かるが、何らかの方法で政治的な意志を示さないと何事も動かない。非核化交渉を再開しようという事務的な働きかけだけでは、北朝鮮は乗ってこないだろう。
韓国の文在寅大統領は、平昌オリンピックの例に倣って東京オリンピックでも南北合同チームを結成し北朝鮮との関係改善のきっかけを作りたい考えである。菅首相に特使を派遣してその可能性を探ってきたこともあった。文大統領は今でもそのような願望を維持していると推測されるが、今の状況は2018年と大きく違っている。第1に、前述した、バイデン大統領には個人的に北朝鮮との関係を動かそうという意思がないこと、第2に、文大統領の国内での支持が著しく落ちており、新しい政策を打ち出す余裕がなくなっていることである。3年前にように、文大統領が米国と北朝鮮との間を取り持つ状況ではなくなっているのである。
文大統領は北朝鮮からすげなくされているどころか、あからさまな敵意を見せつけられている。韓国が米朝間で役割を果たす可能性はほとんどなくなっている。
日本は、本来、米朝関係の進展についても、また朝鮮半島の非核化についても果たすべき役割があるが、安倍政権においては北朝鮮の脅威をとなえ、かつ、拉致問題を解決しない北朝鮮を非難し、そうすることによってトランプ大統領との協力関係を作り上げてきた。しかし、客観状況が変化し、日本としても自ら行動することが必要になると、急きょ態度を修正し、「無条件で金総書記と会う用意がある」と表明した。
菅首相はこのような安倍元首相の路線を踏襲するのだろうか。バイデン大統領と安全保障上の見解を共有し、米国との親密な関係を再確認することは可能であるし、それほど難しくない。しかし、それだけでは日本の本当の役割を果たすことにならない。金総書記を本気にさせることもできない。
菅首相は、バイデン大統領に対し、拉致問題解決のため協力を求める考えである。しかし、物事は別の側面からも見る必要がある。金総書記は2014年に拉致問題を含め日本との関係を打開しようとしたが、その結果は金氏の期待通りにならなかったのではないか。この時に起こったことを無視しては拉致問題の解決もおぼつかない。
日米首脳会談2021
4月16日にワシントンDCで行われる日米首脳会談では、バイデン政権が現在検討中の北朝鮮政策の検討状況について説明が行われるであろう。この会談に関して、当研究所は4月9日付で米朝間の最大の課題である信頼関係の構築について論じたが、北朝鮮に関する主要なイッシューを補足的に見ておきたい。カレントな問題としては、北朝鮮による新型戦術誘導ミサイルの実験とSLBM搭載の潜水艦の建造がある。朝鮮中央通信が3月26日に報道した、前日の新型戦術誘導ミサイルの発射実験である。発射されたのは2発で、日本海上に設定した600キロ先の目標を「正確に打撃した」という。ただし、金正恩総書記は発射実験に立ち会わなかった。
また、北朝鮮は弾道ミサイルを搭載できる新型潜水艦の建造を終えたと報道された。SLBM3発を搭載できる3千トン超の大きさだという。
4月15日の金日成主席の誕生日を祝賀するとともに、日米首脳会談に水をかける狙いも込められているようだ。
しかし、日米首脳会談ではミサイル発射と潜水艦問題は言及されても主要な問題にならない。バイデン大統領にとっても、菅首相にとってももっと根本的な問題がある。
米国としては、2018年4月、北朝鮮が行った核と大陸間弾道弾(ICBM)などの実験停止表明と同年6月12日のトランプ大統領と金正恩総書記との合意(共同声明)内容は、朝鮮半島の非核化問題を含め、今後も維持する必要があるはずである。しかし、バイデン大統領は、トランプ大統領が行ったような金正恩総書記との直接会談には批判的だと伝えられるなど、現状を動かそうとする政治的意図は見えてこない。
一方北朝鮮は、外務次官レベルだが、米国からの非公式の打診について「米国の時間稼ぎに応じる必要はなく、無視する」とそっけなく、かつ、シンガポール会談のような方式に否定的な態度を示している。
つまり、米朝いずれからも朝鮮半島の非核化交渉をいかに再開していくかが見えないのである。バイデン氏には、トランプ氏のような個人的な方法で金正恩総書記に働きかける意図がないのは分かるが、何らかの方法で政治的な意志を示さないと何事も動かない。非核化交渉を再開しようという事務的な働きかけだけでは、北朝鮮は乗ってこないだろう。
韓国の文在寅大統領は、平昌オリンピックの例に倣って東京オリンピックでも南北合同チームを結成し北朝鮮との関係改善のきっかけを作りたい考えである。菅首相に特使を派遣してその可能性を探ってきたこともあった。文大統領は今でもそのような願望を維持していると推測されるが、今の状況は2018年と大きく違っている。第1に、前述した、バイデン大統領には個人的に北朝鮮との関係を動かそうという意思がないこと、第2に、文大統領の国内での支持が著しく落ちており、新しい政策を打ち出す余裕がなくなっていることである。3年前にように、文大統領が米国と北朝鮮との間を取り持つ状況ではなくなっているのである。
文大統領は北朝鮮からすげなくされているどころか、あからさまな敵意を見せつけられている。韓国が米朝間で役割を果たす可能性はほとんどなくなっている。
日本は、本来、米朝関係の進展についても、また朝鮮半島の非核化についても果たすべき役割があるが、安倍政権においては北朝鮮の脅威をとなえ、かつ、拉致問題を解決しない北朝鮮を非難し、そうすることによってトランプ大統領との協力関係を作り上げてきた。しかし、客観状況が変化し、日本としても自ら行動することが必要になると、急きょ態度を修正し、「無条件で金総書記と会う用意がある」と表明した。
菅首相はこのような安倍元首相の路線を踏襲するのだろうか。バイデン大統領と安全保障上の見解を共有し、米国との親密な関係を再確認することは可能であるし、それほど難しくない。しかし、それだけでは日本の本当の役割を果たすことにならない。金総書記を本気にさせることもできない。
菅首相は、バイデン大統領に対し、拉致問題解決のため協力を求める考えである。しかし、物事は別の側面からも見る必要がある。金総書記は2014年に拉致問題を含め日本との関係を打開しようとしたが、その結果は金氏の期待通りにならなかったのではないか。この時に起こったことを無視しては拉致問題の解決もおぼつかない。
2021.04.09
バイデン政権としての北朝鮮政策は現在検討中と聞くが、①北朝鮮による核とICBMの実験停止の継続、②北朝鮮に対する国連および米国による制裁の実行・維持、③非核化協議の再開、を中心に構成されると思われる。この3つの問題はお互いに関連しあっており、前進させるか否かは、バイデン大統領と金正恩総書記の政治的な意思にかかっている。前政権においてはトランプ前大統領の個人的な関心と働きかけが金総書記との3回の首脳会談を実現する原動力となった。
バイデン大統領にはトランプ氏のような北朝鮮に対する特別の関心はなさそうだ。そうであれば、北朝鮮についても、外交のプロの意見と手順を重視する実務的な姿勢が強く出る可能性があるが、いずれにしても米朝間にはどうしても乗り越えなければならない問題がある。
最大の問題は米朝双方が、おたがいに信頼していないことである。米国から見れば、米国を信頼しないのは北朝鮮の見方が間違っているからであり、信頼性の問題などありえないだろう。しかし北朝鮮から見れば、米国は危険な国であり、北朝鮮を敵視している。その証拠に米韓両軍は毎年北朝鮮を仮想敵国とする演習を行っている。制裁も科している。
非核化交渉においても、結局信頼性の欠如が足かせとなった。米国は、非核化を実行するにはいったんすべての核をテーブルに乗せる必要がある、と主張した。これに対し北朝鮮は段階的核廃棄を主張し、結局折り合いはつかなかった。北朝鮮としては、すべての核をさらけ出すと米国は攻撃してくる恐れがあると思ったのであり、米国がそんなことはあり得ないと言っても、北朝鮮は信用しない。1990年代の中葉、米国政府が北朝鮮を攻撃することの適否を検討したことがあったのは世界中に知られている。あながち北朝鮮だけの被害妄想ではないのである。
一方、米国としては、段階的非核化ではどのくらいの核を隠しているかわからない。廃棄したのは北朝鮮が痛痒を感じないものばかりかもしれない。段階的非核化は非核化を実行しない隠れ蓑になる、とみる。
トランプ氏の場合は、そのような両者対立の状態を動かす意欲とアイデアがあり、核ミサイルの実験停止という効果を上げることができた。外交面でトランプ氏は様々な問題を起こしたが、核ミサイルの実験停止は日本から見ても積極的に評価できることであった。
バイデン氏の場合は未知数であり、これまで知られていることから判断すると、北朝鮮について新機軸を考える必要はないということになるかもしれないが、核ミサイルは日米だけでなく世界の問題であり、バイデン政権においても非核化交渉を進めてもらいたいし、信頼性の壁を何とか乗り越える工夫を期待したい。それは不可能でないはずである。
北朝鮮と米国が乗り越えなければならないこと
4月16日にワシントンDCで行われる菅首相とバイデン大統領との会談では、北朝鮮が議題の一つになる。バイデン政権としての北朝鮮政策は現在検討中と聞くが、①北朝鮮による核とICBMの実験停止の継続、②北朝鮮に対する国連および米国による制裁の実行・維持、③非核化協議の再開、を中心に構成されると思われる。この3つの問題はお互いに関連しあっており、前進させるか否かは、バイデン大統領と金正恩総書記の政治的な意思にかかっている。前政権においてはトランプ前大統領の個人的な関心と働きかけが金総書記との3回の首脳会談を実現する原動力となった。
バイデン大統領にはトランプ氏のような北朝鮮に対する特別の関心はなさそうだ。そうであれば、北朝鮮についても、外交のプロの意見と手順を重視する実務的な姿勢が強く出る可能性があるが、いずれにしても米朝間にはどうしても乗り越えなければならない問題がある。
最大の問題は米朝双方が、おたがいに信頼していないことである。米国から見れば、米国を信頼しないのは北朝鮮の見方が間違っているからであり、信頼性の問題などありえないだろう。しかし北朝鮮から見れば、米国は危険な国であり、北朝鮮を敵視している。その証拠に米韓両軍は毎年北朝鮮を仮想敵国とする演習を行っている。制裁も科している。
非核化交渉においても、結局信頼性の欠如が足かせとなった。米国は、非核化を実行するにはいったんすべての核をテーブルに乗せる必要がある、と主張した。これに対し北朝鮮は段階的核廃棄を主張し、結局折り合いはつかなかった。北朝鮮としては、すべての核をさらけ出すと米国は攻撃してくる恐れがあると思ったのであり、米国がそんなことはあり得ないと言っても、北朝鮮は信用しない。1990年代の中葉、米国政府が北朝鮮を攻撃することの適否を検討したことがあったのは世界中に知られている。あながち北朝鮮だけの被害妄想ではないのである。
一方、米国としては、段階的非核化ではどのくらいの核を隠しているかわからない。廃棄したのは北朝鮮が痛痒を感じないものばかりかもしれない。段階的非核化は非核化を実行しない隠れ蓑になる、とみる。
トランプ氏の場合は、そのような両者対立の状態を動かす意欲とアイデアがあり、核ミサイルの実験停止という効果を上げることができた。外交面でトランプ氏は様々な問題を起こしたが、核ミサイルの実験停止は日本から見ても積極的に評価できることであった。
バイデン氏の場合は未知数であり、これまで知られていることから判断すると、北朝鮮について新機軸を考える必要はないということになるかもしれないが、核ミサイルは日米だけでなく世界の問題であり、バイデン政権においても非核化交渉を進めてもらいたいし、信頼性の壁を何とか乗り越える工夫を期待したい。それは不可能でないはずである。
2021.04.02
領土問題に関する日本の立場(要点)
2021/04/01
1 総論
〇歴史的な根拠の有無は重要な問題だが、「固有の領土」と主張するだけでは解決困難。
〇法的地位が決定的である。終戦に際し、日本は「戦後の日本の領土は連合国が決定する」という(とんでもない)ポツダム宣言を受諾した(せざるを得なかった)。そしてサンフランシスコ平和条約で日本は朝鮮や台湾などを放棄した。形式は日本の「放棄」だが、実質的にはポツダム宣言の実現であった。しかし、その解釈をめぐって領土問題が発生した。
〇国際司法裁判所や常設仲裁裁判所で解決できれば紛争を避けることができる。が、実際には困難。
2 尖閣諸島
〇歴史的経緯
(明清時代)
中国の領土については、明清時代の公文書である『大明一統志』などに中国大陸のみが領土だという趣旨が記載されていた。
中国は、明代の海防の範囲を定めた文書(籌海図編)に尖閣諸島が記載されていたことを挙げるが、海防の範囲は領有権の範囲でない。
また、中国は冊封使の記録に尖閣諸島が記載されていることを挙げるが、それは中国からの渡航経路の目印として出てくるものであり、実効支配していたことを示すものでない。
(日清戦争)
中国は、尖閣諸島は「戦争の結果、台湾の付属島嶼として日本に割譲した」と主張。
これに対し日本は、「1885年に調査を行い、95年1月に日本の領土として編入した。日清戦争が終了する95年4月の3か月前から日本の領土となっていた」との立場。ただし、この立場は弱いとする論者もいる。
(新中国成立後の立場)
中国は、1971年までは尖閣諸島が日本領であると認めていた。1953年1月8日『人民日報』などにも明記されていた。
(中国の海洋戦略)
中国は1992年、「領海法」を制定し、尖閣諸島、台湾、南シナ海の島嶼をすべて中国領と定めた。これが中国の海洋戦略の基礎となり、膨張的行動を行っている。
〇法的地位
日本はサンフランシスコ平和条約で台湾を放棄したが、尖閣諸島を放棄したとはどこにも書かれていなかった。尖閣諸島は沖縄と同様同条約3条により処理されたと解され、米国の信託統治下におかれた。そして1972年の沖縄返還協定で日本に返還された。
米国が統治した沖縄の範囲は米国民政府布告第27号(1953年12月25日付)で定義されており、尖閣諸島はその中に入っていた。
(ICJでの解決)
日本からも中国からもICJでの解決を求めたことはない。なお、玄葉光一郎外相は2012年11月20日付のNYT紙に、「日本は尖閣諸島を実効支配しており、中国がそれにチャレンジしようとしているので、なぜICJで解決しようとしないのかという質問は中国に向けられるべきである。日本はICJの強制的管轄を受諾している。いろいろと主張しているのは中国であり、中国はなぜICJの強制的管轄を受け入れて主張しないのか」という趣旨の投稿を行った。微妙な表現なので原文を掲げておく。
“Why does not Japan refer the issue to the International Court of Justice?
This is a question that is often wrongly directed toward Japan. It is Japan that has valid control over the Senkaku Islands under international law, and it is China that is seeking to challenge the status quo. The question should be posed to China.
Japan has accepted the jurisdiction of the I.C.J. as compulsory. Since China is undertaking various campaigns to promote their assertions in international forums, it seems to make sense for China to seek a solution based on international law. Why don’t they show any signs of accepting the jurisdiction of the I.C.J. as compulsory and taking their arguments to the I.C.J.?”
3 北方領土
〇歴史的経緯
1855年、日本とロシアの国境を定めた「日ロ通好条約」において、日本とロシアの国境は「択捉島と得撫(ウルップ)島の間」とされた。
1875年、「千島樺太交換条約」で千島列島はすべて日本領とし、樺太は全島ロシア領となった。
この二つの条約は戦争と関係なく、平和的な交渉の結果であった。
第二次大戦終結後、ロシア(当時はソ連)は北方領土を含む全千島列島を「占領」した。このことは連合国間で承認されたが、国境を定める法的な効果はなく、サンフランシスコ平和条約で千島列島の法的解決が得られるはずであった。ソ連は条約交渉に参加していたが、戦後の自由世界と共産主義国との対立が原因で、条約成立を待たずに脱退してしまった。そのため日本とソ連との間の戦争状態の法的処理は同条約の枠組みではできなくなり、領土問題も未解決のまま残された。
日ソ両国は1956年、平和条約交渉を行い、その結果、日ソ共同宣言で両国は外交関係を再開することとなった。しかし、領土問題と平和条約問題については合意が得られず、平和条約交渉を続けることとなり、その交渉が合意に達した後、ソ連は「歯舞群島および色丹島」を日本に「引き渡す」ことに合意した。
その後、東西の冷戦が激化し、日ソ間の交渉は進捗しないどころか後退することもあったが、1973年の田中首相とブレジネフ書記長、1991年の海部首相とゴルバチョフ書記長、1993年の細川首相とエリツィン大統領、橋本首相とエリツィン大統領などの会談において平和条約交渉を前進させる努力が続けられ、細川・エリツィン会談後発表された東京宣言では、「択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島の帰属に関する問題」を「歴史的・法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成された諸文書および法と正義の原則を基礎として解決することにより平和条約を早期に締結するよう交渉を継続し、もって両国間の関係を完全に正常化すべきことに合意する」と明記された。
1998年には橋本首相からエリツィン大統領に対し、領土問題解決のためのさらなる提案(川奈提案)を行ったが、後にロシアは受け入れできないと回答してきた。
しかるに、プーチン大統領は「1956年の日ソ共同宣言を基礎として平和条約交渉を進めよう」と突如言いだし、2018年11月、安倍首相はシンガポールにおいてこの提案に合意した。これは日本の歴代の首相がロシア側と懸命な努力を重ね、とくに日ソ共同宣言では記載されなかった「4島」を、具体的名称まで両国間の合意文書に書き込んだことを無視することだと批判された。
時間をさかのぼるが、米国の影響は日本とソ連との2国間交渉のころから及んでおり、日本は、「ソ連に不当な譲歩をするなら沖縄を返さない」と言われたこともあった(ダレスの恫喝)。
いまでも、米国との関係はロシアとの北方領土問題に影を落としている。北方領土が返還された場合、米軍基地を置かないという条件を明確に示さなければならないとプーチン大統領が要求していることである。プーチン氏は、そのことについて合意文書まで要求しているそうだが、それは日本の主権を無視する要求であった。プーチン氏は米国といかに対抗していくかが最重要問題であり、その枠の中で日本との関係をとらえているのでそのような要求をしてきたのであった。
あまり言われないことだが、筆者個人としては、日ロだけでなく、米国も加わって解決するのがよいと思っているが、米国がそれに応じるか分からない。
〇法的地位
日本はサンフランシスコ平和条約で「千島列島」を放棄したのは事実である。しかし、日本は「千島列島」をロシアの領土だと認めたのではない。もちろん米国領だとみなしたのでもない。つまり、日本が放棄した後の「千島列島」の帰属は未定なのである。
日本政府の交渉方針も一貫しておらず、4島返還でなく、2島であってもよいという考えがあったのも事実であった。しかし、そうだからと言って、ロシアの主張が正しくなる(ロシアの獲得する島の数が多くなる)わけではない。
ロシアは、「戦争の結果としてロシアが取得した」と主張しているが、ロシアの領土主張を裏付ける根拠は皆無である。戦争の結果ロシアは「千島列島」を獲得してよいとどの国も認めていない。第二次大戦後米国がソ連に認めたのは「千島列島」を「占領」することだけであった。
ロシアは心の中では法的問題が解決していないことを自認している。だからこそ、ロシアは日本に対し、千島列島に対するロシアの主権を認めるよう求めている。ロシアの平和条約案第5条が「日本国はいっさいの付属島嶼を含む樺太島南部および「千島列島」に対するソヴィエト社会主義共和国連邦の完全なる主権を承認」するよう求めていることがその証左である。
要するに、日本もロシアも領土問題を解決し、平和条約を締結することを必要としているのである。
〇ICJでの解決
1973年(昭和47年)10月23日にモスクワで行なわれた日ソ外相会談において、大平外相より「北方領土の領有権問題」をICJに付託することを提案した。しかし、ソ連のグロムイコ外相はこれを拒否した。
4 竹島
〇歴史的経緯
外務省のパンフレット『竹島問題を理解するための10のポイント』は要旨次の通り記載している。
「日本は古くから竹島の存在を認識していた。
韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はない。韓国があげる古文献には「于山島」の記載があるが、これが「竹島」であるとは言えない。これは鬱陵島のことだという見解もある。
我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには竹島の領有権を確立していた。
17世紀末、朝鮮との友好関係を尊重して、幕府は日本人の鬱陵島への渡航を禁止することを決定し、これを朝鮮側に伝えるよう対馬藩に命じた。この鬱陵島の帰属をめぐる交渉の経緯は、一般に「竹島一件」と称されている。つまり、幕府は鬱陵島への渡航は禁止したが、その一方で、竹島への渡航は禁止しなかったのである。このことからも、当時から、我が国が竹島を自国の領土だと考えていたことは明らかである。」
注1 このパンフレットは、重要な経緯の一つであった明治10年(1977年)の太政官決定が、「竹島外一島の儀は本邦と関係のない儀と心得べきこと」と述べていたことを記載していないという問題がある。幕府の姿勢には矛盾した点があるとも考えられるのである。
注2 1905年、日本政府は隠岐島民の願い出を受け、閣議決定によって同島を「隠
岐島司ノ所管」と定めるとともに、「竹島」と命名した。外務省パンフレットは「これにより、我が国は竹島を領有する意思を『再確認』した」と記述しているが、もし明治政府がその以前から竹島を領有していたと認識していたのであれば、閣議決定などしない。「再確認」はパンフレットの作成者の言葉に過ぎない。
第二次大戦が終結した後、竹島は米軍の演習地となった。
サンフランシスコ平和条約の発効が間近になった1951年、韓国は、条約案に竹島が言及されていないことに不満で、鬱陵島などと同様日本が放棄することを明記するよう求めたが、米国は応じなかった。
翌年1月、李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」を行い、いわゆる「李承晩ライン」を、竹島を含む形で一方的に設定した。しかし、当時は米軍が訓練に使用していたので手出しはできなかった。
1953年、竹島を在日米軍の訓練地から解除することが日米合同委員会で合意された。韓国は沿岸警備隊を竹島に派遣し始め、監視所、灯台、接岸施設、宿舎等を構築し、警備隊員を常駐させた。日本からICJでの解決を提案したが、韓国は応じなかった。
〇1965年に日韓基本条約・請求権協定が締結された際のやり取り
1962年、請求権問題について大筋合意がなされた際、日本側から国際司法裁判所で解決を図ることを提案したが、韓国側は拒否。
1965年6月17日(条約署名の5日前)、条約と共に署名されることとなっている「紛争解決に関する交換公文」において「両締約国間のすべての紛争は(略)竹島に対する主権に関する紛争を含み」との文言を記入することを日本側より提案したが、韓国側が反対したため、結局交換公文は「両国政府は、別段の合意がある場合を除くほか、両国間の紛争は、まず外交上の経路を通じて解決するものとし、これにより解決することができなかつた場合は、両国政府が合意する手続に従い、調停によつて解決を図るものとする。」となった。
日本政府は、「紛争の解決に関する交換公文にいう「両国間の紛争」には、竹島をめぐる問題も含まれている」「大韓民国による竹島の不法占拠は、我が国として受け入れられるものではない」との立場である(2007年4月3日、鈴木宗男衆議院議員の質問に対する外務省の回答)。
2012年8月、李明博大統領は韓国大統領として初めて竹島に上陸した。
〇法的地位
サンフランシスコ平和条約2条a項では、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島および鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原および請求権を放棄する」と記載され、竹島は日本が放棄することになっていない。
この草案内容を知った韓国は、前述したように交渉中の1951年7月、米国に対し、「第2条a項の日本の放棄に関する文言は『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換える」よう要望した。「独島」は「竹島」の韓国名であり、要するに、竹島も日本が放棄すると平和条約で明記してほしいと要請したのであった。
これに対し米国は、「竹島に関しては、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない」と返答し、条約案の修正要求に応じなかった(ラスク極東担当国務次官補から梁(ヤン)大使への書簡)。
この経緯から、日本は竹島を放棄していないことが明白である。
〇ICJでの解決
日本から1954年(李承晩ラインが宣言された年)、1962年(日韓間で請求権の扱いについて大筋合意された年)、2012年(李明博大統領が竹島に上陸した年)に国際司法裁判所への付託を提案したが、韓国側は拒否し続けた。韓国政府は、韓国の法的立場が弱いことを自認しているからであろう。
1954年当時、米国も韓国に対してICJでの解決を勧めていた。1954年に韓国を訪問したヴァン・フリート大使の帰国報告に「米国は、竹島は日本領であると考えているが、本件をICJに付託するのが適当であるとの立場であり、この提案を韓国に非公式に行った」との記録が残されていた。
領土問題に関する日本の立場(要点)
我が国の領土問題に関する立場である。日本政府の立場とは異なる部分が含まれているが、ご参考まで。領土問題に関する日本の立場(要点)
2021/04/01
1 総論
〇歴史的な根拠の有無は重要な問題だが、「固有の領土」と主張するだけでは解決困難。
〇法的地位が決定的である。終戦に際し、日本は「戦後の日本の領土は連合国が決定する」という(とんでもない)ポツダム宣言を受諾した(せざるを得なかった)。そしてサンフランシスコ平和条約で日本は朝鮮や台湾などを放棄した。形式は日本の「放棄」だが、実質的にはポツダム宣言の実現であった。しかし、その解釈をめぐって領土問題が発生した。
〇国際司法裁判所や常設仲裁裁判所で解決できれば紛争を避けることができる。が、実際には困難。
2 尖閣諸島
〇歴史的経緯
(明清時代)
中国の領土については、明清時代の公文書である『大明一統志』などに中国大陸のみが領土だという趣旨が記載されていた。
中国は、明代の海防の範囲を定めた文書(籌海図編)に尖閣諸島が記載されていたことを挙げるが、海防の範囲は領有権の範囲でない。
また、中国は冊封使の記録に尖閣諸島が記載されていることを挙げるが、それは中国からの渡航経路の目印として出てくるものであり、実効支配していたことを示すものでない。
(日清戦争)
中国は、尖閣諸島は「戦争の結果、台湾の付属島嶼として日本に割譲した」と主張。
これに対し日本は、「1885年に調査を行い、95年1月に日本の領土として編入した。日清戦争が終了する95年4月の3か月前から日本の領土となっていた」との立場。ただし、この立場は弱いとする論者もいる。
(新中国成立後の立場)
中国は、1971年までは尖閣諸島が日本領であると認めていた。1953年1月8日『人民日報』などにも明記されていた。
(中国の海洋戦略)
中国は1992年、「領海法」を制定し、尖閣諸島、台湾、南シナ海の島嶼をすべて中国領と定めた。これが中国の海洋戦略の基礎となり、膨張的行動を行っている。
〇法的地位
日本はサンフランシスコ平和条約で台湾を放棄したが、尖閣諸島を放棄したとはどこにも書かれていなかった。尖閣諸島は沖縄と同様同条約3条により処理されたと解され、米国の信託統治下におかれた。そして1972年の沖縄返還協定で日本に返還された。
米国が統治した沖縄の範囲は米国民政府布告第27号(1953年12月25日付)で定義されており、尖閣諸島はその中に入っていた。
(ICJでの解決)
日本からも中国からもICJでの解決を求めたことはない。なお、玄葉光一郎外相は2012年11月20日付のNYT紙に、「日本は尖閣諸島を実効支配しており、中国がそれにチャレンジしようとしているので、なぜICJで解決しようとしないのかという質問は中国に向けられるべきである。日本はICJの強制的管轄を受諾している。いろいろと主張しているのは中国であり、中国はなぜICJの強制的管轄を受け入れて主張しないのか」という趣旨の投稿を行った。微妙な表現なので原文を掲げておく。
“Why does not Japan refer the issue to the International Court of Justice?
This is a question that is often wrongly directed toward Japan. It is Japan that has valid control over the Senkaku Islands under international law, and it is China that is seeking to challenge the status quo. The question should be posed to China.
Japan has accepted the jurisdiction of the I.C.J. as compulsory. Since China is undertaking various campaigns to promote their assertions in international forums, it seems to make sense for China to seek a solution based on international law. Why don’t they show any signs of accepting the jurisdiction of the I.C.J. as compulsory and taking their arguments to the I.C.J.?”
3 北方領土
〇歴史的経緯
1855年、日本とロシアの国境を定めた「日ロ通好条約」において、日本とロシアの国境は「択捉島と得撫(ウルップ)島の間」とされた。
1875年、「千島樺太交換条約」で千島列島はすべて日本領とし、樺太は全島ロシア領となった。
この二つの条約は戦争と関係なく、平和的な交渉の結果であった。
第二次大戦終結後、ロシア(当時はソ連)は北方領土を含む全千島列島を「占領」した。このことは連合国間で承認されたが、国境を定める法的な効果はなく、サンフランシスコ平和条約で千島列島の法的解決が得られるはずであった。ソ連は条約交渉に参加していたが、戦後の自由世界と共産主義国との対立が原因で、条約成立を待たずに脱退してしまった。そのため日本とソ連との間の戦争状態の法的処理は同条約の枠組みではできなくなり、領土問題も未解決のまま残された。
日ソ両国は1956年、平和条約交渉を行い、その結果、日ソ共同宣言で両国は外交関係を再開することとなった。しかし、領土問題と平和条約問題については合意が得られず、平和条約交渉を続けることとなり、その交渉が合意に達した後、ソ連は「歯舞群島および色丹島」を日本に「引き渡す」ことに合意した。
その後、東西の冷戦が激化し、日ソ間の交渉は進捗しないどころか後退することもあったが、1973年の田中首相とブレジネフ書記長、1991年の海部首相とゴルバチョフ書記長、1993年の細川首相とエリツィン大統領、橋本首相とエリツィン大統領などの会談において平和条約交渉を前進させる努力が続けられ、細川・エリツィン会談後発表された東京宣言では、「択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島の帰属に関する問題」を「歴史的・法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成された諸文書および法と正義の原則を基礎として解決することにより平和条約を早期に締結するよう交渉を継続し、もって両国間の関係を完全に正常化すべきことに合意する」と明記された。
1998年には橋本首相からエリツィン大統領に対し、領土問題解決のためのさらなる提案(川奈提案)を行ったが、後にロシアは受け入れできないと回答してきた。
しかるに、プーチン大統領は「1956年の日ソ共同宣言を基礎として平和条約交渉を進めよう」と突如言いだし、2018年11月、安倍首相はシンガポールにおいてこの提案に合意した。これは日本の歴代の首相がロシア側と懸命な努力を重ね、とくに日ソ共同宣言では記載されなかった「4島」を、具体的名称まで両国間の合意文書に書き込んだことを無視することだと批判された。
時間をさかのぼるが、米国の影響は日本とソ連との2国間交渉のころから及んでおり、日本は、「ソ連に不当な譲歩をするなら沖縄を返さない」と言われたこともあった(ダレスの恫喝)。
いまでも、米国との関係はロシアとの北方領土問題に影を落としている。北方領土が返還された場合、米軍基地を置かないという条件を明確に示さなければならないとプーチン大統領が要求していることである。プーチン氏は、そのことについて合意文書まで要求しているそうだが、それは日本の主権を無視する要求であった。プーチン氏は米国といかに対抗していくかが最重要問題であり、その枠の中で日本との関係をとらえているのでそのような要求をしてきたのであった。
あまり言われないことだが、筆者個人としては、日ロだけでなく、米国も加わって解決するのがよいと思っているが、米国がそれに応じるか分からない。
〇法的地位
日本はサンフランシスコ平和条約で「千島列島」を放棄したのは事実である。しかし、日本は「千島列島」をロシアの領土だと認めたのではない。もちろん米国領だとみなしたのでもない。つまり、日本が放棄した後の「千島列島」の帰属は未定なのである。
日本政府の交渉方針も一貫しておらず、4島返還でなく、2島であってもよいという考えがあったのも事実であった。しかし、そうだからと言って、ロシアの主張が正しくなる(ロシアの獲得する島の数が多くなる)わけではない。
ロシアは、「戦争の結果としてロシアが取得した」と主張しているが、ロシアの領土主張を裏付ける根拠は皆無である。戦争の結果ロシアは「千島列島」を獲得してよいとどの国も認めていない。第二次大戦後米国がソ連に認めたのは「千島列島」を「占領」することだけであった。
ロシアは心の中では法的問題が解決していないことを自認している。だからこそ、ロシアは日本に対し、千島列島に対するロシアの主権を認めるよう求めている。ロシアの平和条約案第5条が「日本国はいっさいの付属島嶼を含む樺太島南部および「千島列島」に対するソヴィエト社会主義共和国連邦の完全なる主権を承認」するよう求めていることがその証左である。
要するに、日本もロシアも領土問題を解決し、平和条約を締結することを必要としているのである。
〇ICJでの解決
1973年(昭和47年)10月23日にモスクワで行なわれた日ソ外相会談において、大平外相より「北方領土の領有権問題」をICJに付託することを提案した。しかし、ソ連のグロムイコ外相はこれを拒否した。
4 竹島
〇歴史的経緯
外務省のパンフレット『竹島問題を理解するための10のポイント』は要旨次の通り記載している。
「日本は古くから竹島の存在を認識していた。
韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はない。韓国があげる古文献には「于山島」の記載があるが、これが「竹島」であるとは言えない。これは鬱陵島のことだという見解もある。
我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには竹島の領有権を確立していた。
17世紀末、朝鮮との友好関係を尊重して、幕府は日本人の鬱陵島への渡航を禁止することを決定し、これを朝鮮側に伝えるよう対馬藩に命じた。この鬱陵島の帰属をめぐる交渉の経緯は、一般に「竹島一件」と称されている。つまり、幕府は鬱陵島への渡航は禁止したが、その一方で、竹島への渡航は禁止しなかったのである。このことからも、当時から、我が国が竹島を自国の領土だと考えていたことは明らかである。」
注1 このパンフレットは、重要な経緯の一つであった明治10年(1977年)の太政官決定が、「竹島外一島の儀は本邦と関係のない儀と心得べきこと」と述べていたことを記載していないという問題がある。幕府の姿勢には矛盾した点があるとも考えられるのである。
注2 1905年、日本政府は隠岐島民の願い出を受け、閣議決定によって同島を「隠
岐島司ノ所管」と定めるとともに、「竹島」と命名した。外務省パンフレットは「これにより、我が国は竹島を領有する意思を『再確認』した」と記述しているが、もし明治政府がその以前から竹島を領有していたと認識していたのであれば、閣議決定などしない。「再確認」はパンフレットの作成者の言葉に過ぎない。
第二次大戦が終結した後、竹島は米軍の演習地となった。
サンフランシスコ平和条約の発効が間近になった1951年、韓国は、条約案に竹島が言及されていないことに不満で、鬱陵島などと同様日本が放棄することを明記するよう求めたが、米国は応じなかった。
翌年1月、李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」を行い、いわゆる「李承晩ライン」を、竹島を含む形で一方的に設定した。しかし、当時は米軍が訓練に使用していたので手出しはできなかった。
1953年、竹島を在日米軍の訓練地から解除することが日米合同委員会で合意された。韓国は沿岸警備隊を竹島に派遣し始め、監視所、灯台、接岸施設、宿舎等を構築し、警備隊員を常駐させた。日本からICJでの解決を提案したが、韓国は応じなかった。
〇1965年に日韓基本条約・請求権協定が締結された際のやり取り
1962年、請求権問題について大筋合意がなされた際、日本側から国際司法裁判所で解決を図ることを提案したが、韓国側は拒否。
1965年6月17日(条約署名の5日前)、条約と共に署名されることとなっている「紛争解決に関する交換公文」において「両締約国間のすべての紛争は(略)竹島に対する主権に関する紛争を含み」との文言を記入することを日本側より提案したが、韓国側が反対したため、結局交換公文は「両国政府は、別段の合意がある場合を除くほか、両国間の紛争は、まず外交上の経路を通じて解決するものとし、これにより解決することができなかつた場合は、両国政府が合意する手続に従い、調停によつて解決を図るものとする。」となった。
日本政府は、「紛争の解決に関する交換公文にいう「両国間の紛争」には、竹島をめぐる問題も含まれている」「大韓民国による竹島の不法占拠は、我が国として受け入れられるものではない」との立場である(2007年4月3日、鈴木宗男衆議院議員の質問に対する外務省の回答)。
2012年8月、李明博大統領は韓国大統領として初めて竹島に上陸した。
〇法的地位
サンフランシスコ平和条約2条a項では、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島および鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原および請求権を放棄する」と記載され、竹島は日本が放棄することになっていない。
この草案内容を知った韓国は、前述したように交渉中の1951年7月、米国に対し、「第2条a項の日本の放棄に関する文言は『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換える」よう要望した。「独島」は「竹島」の韓国名であり、要するに、竹島も日本が放棄すると平和条約で明記してほしいと要請したのであった。
これに対し米国は、「竹島に関しては、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない」と返答し、条約案の修正要求に応じなかった(ラスク極東担当国務次官補から梁(ヤン)大使への書簡)。
この経緯から、日本は竹島を放棄していないことが明白である。
〇ICJでの解決
日本から1954年(李承晩ラインが宣言された年)、1962年(日韓間で請求権の扱いについて大筋合意された年)、2012年(李明博大統領が竹島に上陸した年)に国際司法裁判所への付託を提案したが、韓国側は拒否し続けた。韓国政府は、韓国の法的立場が弱いことを自認しているからであろう。
1954年当時、米国も韓国に対してICJでの解決を勧めていた。1954年に韓国を訪問したヴァン・フリート大使の帰国報告に「米国は、竹島は日本領であると考えているが、本件をICJに付託するのが適当であるとの立場であり、この提案を韓国に非公式に行った」との記録が残されていた。
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