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2020.06.23

沖縄1945年6月23日

 1945年6月23日は沖縄で「組織的戦闘が終了」した日。当研究所は、戦って命を落とされた方々を悼んで、毎年以下の一文をアップしている。1995年の同日、読売新聞に寄稿したものである。

 「戦後五十年、戦争に関する議論が盛んであるが、戦死者に対する鎮魂の問題については、戦争と個人の関係をよく整理する必要がある。あくまでも個人的見解であるが、一考察してみたい。

 個人の行動を評価する場合には、「戦争の犠牲」とか[殉国]などのように、戦争や国家へ貢献したかどうか、あるいは戦争や国家が個人にどんな意義をもったか、などから評価されることが多い。しかし、そのような評価の仕方は、少々考えるべき点があるのではないだろうか。

 歴史的には、個人の行動に焦点を当てた評価もあった。例えば「敵ながらあっぱれ」という考えは、その戦争とは明確に区別して、個人の行動を評価している。
 では、太平洋戦争末期に十五万人の民間人死者が出た沖縄戦はどうか。中でも、悲運として広く知られるひめゆり学徒隊の行動は、自分たちを守るという強い精神力に支えられたもので、何らかの見返りを期待したのでもなく、条件つきでもなかった。従って「犠牲者」のイメージで連想される弱者には似つかわしくない。勇者と呼ぶにふさわしいと思う。また、[殉国]のイメージとも違う。[殉国]型の評価は、個人が国家のために一身を捧げたとみなされており、自らを守ることについて特に評価は与えられていないのだ。
 個人と国家は区別され、その個人の評価は国家に対する献身なり、貢献という角度から下されている。しかし、ひめゆり学徒隊の大部分は、自分自身も、家族も故郷も、祖国も、守るべき対象として一緒に観念していたのではないか。「犠牲者」とか[殉国者]と言うより、人間として極めて優れた行動をとったと評価されるべき場合だったと思う。

 これは軍人についても同じことで、「防御ならよいが攻撃は不可」とは考えない。軍人の、刻々の状況に応じた攻撃は、何ら恥ずべきことではない。もちろん罪でもなく、任務であり、当たり前のことである。

 他方、このことと戦争全体の性格、すなわち侵略的(攻撃的)か、防御的かは全く別問題である。戦争全体が侵略的であるかないかを問わず、個人の防御的な行動もあれば、攻撃的な行動もある。
 さらに、局部的な戦争と戦争全体との関係もやはり区別して評価すべきである。たとえば、沖縄戦はどの角度から見ても防御であった。まさか日本側が米軍に対して攻撃した戦争と思っている人はいないだろう。他方わが国は、太平洋戦争において、侵略を行なってしまったが、防御のために沖縄戦と、侵略を行なってしまったこととの間に何ら矛盾はない。

 したがって、軍人の行動を称賛すると、戦争を美化することになるといった考えは誤りであると言わざるを得ない。その行動が、敵に対する攻撃であっても同じことである。もちろん、攻撃すべてが積極的に評価できると言っているのではない。

 もう一つの問題は、軍人の行動を「祖国を守るために奮闘した」との趣旨で顕彰することである。この種の顕彰文には、自分自身を守るという自然な感情が、少なくとも隠れた形になっており、個人の行動を中心に評価が行われていない。
 顕彰文を例に出して、「軍人が祖国を防衛したことのみを強調するのは、あたかも戦争全体が防御的だったという印象を与え、戦争全体の侵略性を歪曲する」という趣旨の評論が一部にあるが、賛成できない。個人の行動の評価と戦争全体の評価を連動させているからである。

 戦争美化と逆であるが、わが国が行った戦争を侵略であったと言うと、戦死者は「犬死に」したことになるという考えがある。これも個人と戦争全体の評価を連動させている誤った考えである。個人の行動を中心に評価するとなれば、積極的に評価できない場合も当然出てくる。
 一方、戦死者は平等に弔うべきだという考えがあるが、弔いだけならいい。当然死者は皆丁重に弔うべきだ。しかし、弔いの名分の下に、死者の生前の業績に対する顕彰の要素が混入してくれば問題である。

 もしそのように扱うことになれば、間違った個人の行動を客観的に評価することができなくなるのではないか。そうなれば、侵略という結果をもたらした戦争指導の誤りも、弔いとともに顕彰することになりはしないか。それでは、戦争への責任をウヤムヤにするという内外の批判に、到底耐え得ないだろう。

 個人の行動を中心に評価することは洋の東西を問わず認められている、と私は信じている。ある一つの戦争を戦う二つの国民が、ともに人間として立派に行動したということは十分ありうることである。片方が攻撃、他方が防御となることが多いだろうが、双方とも人間として高く評価しうる行動をとったということは何ら不思議でない。

 個人と戦争全体、国家との関係をこのように整理した上で、戦争という極限状況の中で、あくまで人間として、力の限り、立派に生きた人たちに、日本人、外国人の区別なく、崇高なる敬意を捧げたい。」
2020.06.17

産業遺産情報センターの展示問題

 6月15日、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」に関する情報を提供する「産業遺産情報センター」が一般公開された。開所式は3月31日に行われたが、新型コロナウイルスによる感染問題のため、一般公開は延期されていたそうだ。

 センターの開設は喜ばしいことである。しかし、韓国外務省報道官は15日、「施設の展示に日本が約束した後続措置が全くなされていないことに強く抗議する。歴史的事実を完全に歪曲(わいきょく)した内容が含まれ、甚だしく遺憾である」との批判声明を発表し、また、我が国の富田浩司在韓国大使を呼び抗議した。

 韓国側は、センターの展示の中で「軍艦島」と呼ばれる端島炭坑(長崎市)などで戦時徴用された朝鮮半島出身者が働いていたことに関し、差別的対応はなかったとする在日韓国人2世の元島民の証言を紹介していることなどを問題視したのであろう。

 これに対し日本政府は、展示は適切であると韓国側に反論し、展示内容について追加などしない考えであることを岡田直樹官房副長官より表明した。
 
 しかし、在日韓国人2世の元島民の証言は展示から除去すべきであると考える。世界文化遺産に関する情報を提供するというセンターの高邁な精神に傷をつけるからである。

 相手は韓国だけでなく、世界であり、世界に通用する発信をしなければならない。

 在日韓国人2世の元島民の証言だけでなく、実際に労働に従事した人たちの証言をも含めて展示するならば事情は違ってくる。そのためには、韓国で元徴用工に、それも一人でなく多数、つまり客観性が担保できるくらい証言を集めることが必要となる。それくらいしないと、世界は納得しない。

 世界遺産登録に際し、日本政府は遺産の全体像を説明する施設の設置を表明しており、その約束にたがわぬ行動が必要である。在日韓国人2世の元島民の証言だけで約束を履行したとみなすのはあまりにも稚拙である。そんなことをすれば、センターは日本に都合の良いことだけを展示しているとみられてしまう。国家と国家の関係には、単純に処理できない複雑さがある。

2020.06.16

イージス・アショアの配備停止

 河野太郎防衛相は6月15日の記者会見で、陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の配備プロセスを停止すると表明した。

 もともと米国による武器購入圧力があって安倍政権が導入を進めてきたものであり、画期的な防衛施設であるが、2基で総額6千億円以上という高額の費用が妥当か、また配備の候補地とされた山口県や秋田県からは安全性についての疑問や、配備反対の声が上がっていた経緯がある。

 河野防衛相の発表は突然行われたので各方面に波紋や戸惑いが生じた。自民党の安全保障関係者の間では不満の声が上がったという。菅義偉官房長官は(16日午前の記者会見で)「本年5月下旬、これまでに米側から受領したデータの整理、確認を行ったところ、システム全体の大幅な改修がなされない限り、ブースターが演習場の外に落下することになると判明した」と説明したが、今回の配備停止の決定は国民には突然であった。

 河野防衛相は16日午前の衆院安全保障委員会で、ブースターを演習場内に落下させるために必要となるシステム改修には「2千億円、10年」がかかると説明した。当初の費用見積もりの3分の1の費用高騰であり、しかも10年もの期間が必要というのは素直に受け入れられることでない。10年もたつと我が国の安全保障環境は大きく変化しているだろう。そう考えると、現状でのシステム導入を停止することとしたのは合理的であったと思われる。同委員会で野党側も今回の停止判断を歓迎した。

 それにしても国会が6月17日に会期末となるわずか2日前に停止の決定を発表したのはどのような思惑であったのか。これだけ重要な問題を国会が閉幕した後に発表するのはよくないと判断した可能性もある。

 しかし、それだけの考慮であったとはとても思えない。ここにも新型コロナウイルスの影響が及んでいる可能性がある。国家財政の赤字が大きく膨らむのはすでに不可避になっており、しかも今後第二波の感染拡大への対策などでさらに巨額の追加支出が必要となることも考えられる折から、10年間も使えない高額のシステム導入など停止すれば、国民にも歓迎されるであろうという読みである。

 政府のそのような考えには賛意を表したい。今後の対応についてはさらに検討していくそうだが、その際には、将来の安全保障環境の中で何が必要か、そもそもイージス・アショアは不可欠かなども検討してもらいたい。

 米国から公式の反応は出ていないが、河野防衛相はソフトウェアの改修でブースターをコントロールできるか、日米間で協議してきたことを明らかにしている。また、茂木敏充外相は「今回の決定が米国との様々な協力に影響を与えるとは考えていない」と強調した。日米協議の具体的内容は不明だが、当初導入が予定されていたシステムはよほど欠陥があったのだろうと想像されてならない。

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