平和外交研究所

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2015.10.29

(短評)日韓首脳会談と南シナ海問題

 11月1日の日中韓三国首脳会談は久しぶりの開催だ。三国の立場はかなり異なっているだけにこの首脳会談開催は重要である。
 慰安婦問題など歴史問題については、中国と韓国が共通の立場に立って日本に注文を付ける形になっているが、安全保障の面では中国と韓国の利害は一致しておらず、日本と韓国が共通の立場に立っている。
 もっとも、韓国は必ずしもそう思っていないかもしれないが、南シナ海の問題を巡って韓国と中国は異なる立場に立っていることが、米国を介して明確になってきた。
 オバマ大統領は朴槿恵大統領に対し「中国が国際ルールにもとるような行動をとれば、韓国はきちんと意見すべきだ」と促した。
 オバマ大統領の発言を中国との友好関係を重視する朴槿恵大統領はどのように受け止めたのだろうか。会談内容の説明をした韓国の外相は、米韓間の矛盾が目立たないようかなり苦心したらしい。両大統領の会談では南シナ海の問題は話し合われなかったと苦し紛れに言ったので、かえって問題が大きくなったとも報道された。

 韓国の苦行は12カイリ内に米艦が立ち入った後も継続し、韓国外務省のノ・グァンイル(魯光鎰)報道官は、27日午後の記者会見で、事実関係を確認中だとしたうえで、「韓国政府は、南シナ海が海上の交通路としてわれわれの利害にも大きく関わることを考慮し、航行と飛行の自由の保障や、南シナ海の行動宣言の順守などが地域の平和と安定にとって重要だと、一貫して表明してきた」と述べるにとどまった。米中両国に配慮する必要があるのはわかるが、国際法の順守を重視するオバマ大統領の要請にはほとんどこたえず、むしろ焦点をはぐらかした形になった。
 このことは、直接的には米韓間の問題だとしても、日本にも大いに関係がある。南シナ海に限らないが、中国が国際法に悖る行動をした場合に、韓国も米国も日本も声を上げるべきであるのはオバマ大統領が言うとおりであり、今回の日韓首脳会談でも話題にすべきだ。韓国がそうすることに乗り気でなければ、日本は韓国に対し、米国の要請にもっと強く賛同すべきだと勧めるべきだ。
 もっとも、日本としてもあまり勇ましく米国の側に立つのは危険な面もあるので注意は必要だが、東アジアの平和と安定を維持するのに責任を持つ日韓両国として、南シナ海での問題について国際法の重視を唱える米国を支持することは必要である。
 そうすることにより、韓中間に存在している安全保障面での矛盾を直視することになる。韓国自身は南シナ海の問題について今中国と対立しているのではないが、黄海において将来同様の問題が起こる可能性もある。これは将来起こるかもしれない個別の問題だが、韓国は日本と同様東アジアの平和と安定に責任を有しているので、どの国に対しても国際法の順守を求めていく必要がある。

2015.10.27

米艦による人工島から12カイリ内への立ち入りとインドネシア、台湾の反応

 米国はかねてから予告していた通り、米国の艦船を中国が埋め立てて造った人工島から12カイリ内に立ち入らせたと報道されている。27日朝のことであり、立ち入ったのは横須賀基地に所属するミサイル駆逐艦「ラッセン」で、数日前からマレーシアで任務に就いていた。同艦は数時間で他の海域へ移動するそうだ。
 在米中国大使館の朱海権報道官は、「航行の自由(作戦)を、影響力の拡大や他国の領有権と安全を傷つけるための言い訳にすべきではない。米国が挑発的な言動を抑制し、地域の平和と安定を維持する責任を果たすことを促す」との声明を発表したが、米国としては想定内の反応だったのだろう。
 米国は、当然ながら慎重に検討した結果の行動であった(東洋経済オンライン10月26日「ついにアメリカが中国の増長を非難し始めた」)。米国は、軍事的に事を構えようとしているのではなく、米艦による12カイリ内への立ち入りは、米国としては「公海上の自由通航」であり、他方、中国の立場に立つと「無害通航」となる性質のものであるが、どちらであっても認められるはずであるという考えだ。

 おりしもオバマ米大統領はインドネシアのジョコ・ウィドド大統領と26日、ホワイトハウスで会談し、中国が南シナ海の南沙諸島で埋め立てや建設工事を進めていることについて「(中国の行動は)地域の緊張を高め、信頼を損ねている」「両大統領は国際的に認められた南シナ海の航行・飛行の自由の重要性を確認した」「(領有権問題が)国連海洋法条約など国際法に沿った平和解決を支持する」などと共同声明で表明した。米国の主張にインドネシアがほぼ全面的に同調した形だ。
 オバマ大統領は、先般朴槿恵大統領に対しても中国の国際法違反には声を上げるべきだと述べていた。米国は、従来より格段に強い姿勢で、中国に国際法順守を求めており、関係諸国に対しても米国と同じ立場に立つことを期待している。

 一方、台湾の国防部は27日、紛争の平和的解決を希望すると述べつつ、「歴史的、地理的および国際法的には南沙諸島、西沙諸島、中沙諸島、東沙諸島およびその周辺の海域は中華民国の固有の領土であり、中華民国は国際法上の権利を有する。いかなる国であれ、いかなる理由であれ、これら諸島や海域に対して主張や占拠することは認められない」とする声明を発表した。南シナ海に対する主張は基本的には中国と同じであり、そもそもその主張は第二次大戦直後から中華民国政府が行っていたものであるので新味はないが、この時点でこのような声明をするのが賢明か疑問だ。
 この声明では、米国には注文を付けているが、中国に対しては、同じことを主張することにより中国の埋め立て工事を間接的に認める形になるからだ。米国は南沙諸島に対して領有権を主張しようとしているのでなく、占拠しようとしているのでもない。国際法の順守に焦点があるのであり、台湾は米国の行動を支持する声明を行うべきでなかったか。
2015.10.20

プーチン大統領の訪日延期と大八車

 日ロ両国が予定していたプーチン大統領の訪日が延期されたのは、ウクライナ問題の影響で日ロ関係まで悪化してしまい、交渉を行なう状況でなくなってしまったためだ。

 日ロ関係は上り坂で大八車を押し上げるようなものだ。この大八車を「日ロ号」と名付けよう。日ロ双方で懸命に日ロ号を押し上げようとするが、途中でロシアの外、時には内から力が働いて支えられなくなり、日ロ号は坂下まで転げ落ちてしまう。このようなことを何回も繰り返してきた。交渉開始は坂の上にあるのでどうしても上げなければならない。
 
 日ロ両国が戦争状態を終了させ、領土問題の解決について中間的な合意を達成したのは1956年の日ソ共同宣言であった。ところがその後ソ連は領土問題について何も合意しなかったかのような態度を取るようになった。冷戦時代、ソ連側が問題にしたのは日米安保条約であった。
 ソ連側が勝手に日ロ号を坂下まで蹴落としたので、日本側は坂下からまた押し上げなければならなかった。
 1973年、田中首相がソ連を訪問し、ブレジネフ書記長から、両国間には未解決の諸問題があり、その中に北方四島の問題が入っていることの確認を引き出した。これは画期的な合意であり、日ロ号は日ソ共同宣言よりさらに少し高いところまで押し上げられた。
 この合意が実現した背景に2年前の沖縄返還があり、それが、日ソ関係を進める影の要因となっていた。
 しかし、冷戦が継続するなかでソ連の態度は元へ戻ってしまい、日ロ号はまた坂下まで落ちてしまった。

 ゴルバチョフ書記長のペレストロイカは日ソ関係にも好影響を及ぼし、1991年4月、同書記長の訪日が実現し、海部首相との間で「歯舞群島、色丹島、国後島および択捉島の帰属についての双方の立場を考慮しつつ領土画定の問題を含め」両国間の平和条約の話合いが行われたという内容の共同声明が発表された。
 文書で、しかも四島が実名で示され、解決すべき問題であることが確認されたのだ。日ロ号は一九五六年の共同宣言よりも、また、田中・ブレジネフ合意よりもさらに一歩高いところまで押し上げられた。
 しかし、海部・ゴルバチョフ会談からわずか4カ月後の8月、ソ連で政変が起こり、ゴルバチョフは書記長を辞任した。

 エリツィン大統領はゴルバチョフ書記長にもまして対日関係の改善に熱心だった。ソ連邦が解体して12の共和国に分かれるという激動のさなかの9月、エリツィン大統領は海部総理に宛てた親書を持たせてハズブラートフ・ロシア最高会議議長代行を日本へ派遣した。さらに、エリツィン大統領自身が訪日しようとしたが、その対日姿勢が政争の的になり、訪日開始予定期日のわずか4日前に宮澤総理に電話を寄こし、ロシア国内の事情により訪日を延期せざるをえないと伝えてきた。
 しかし、エリツィン大統領は93年10月に訪日を実現させ、細川総理と、「択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島の帰属に関する問題」を解決して両国間の関係を正常化することに合意した。このことは東京宣言として発表された。

 細川内閣は短命で、その後を羽田首相、さらにその後を村山首相が継ぐなど短時日の間に3人の首相交代があった。
 村山首相の後を継いだ橋本首相は1997年、クラスノヤルスクで「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」ことに合意し、さらにエリツィン大統領が98年4月に再度訪日したさいに、東京宣言に基づき四島の帰属問題を解決すべきことを再確認した。「川奈合意」である。その際、さらに突っ込んだ内容の話し合いが非公式に行われた。全体を通して、「日ロ号」号はかつてない高みにまで押し上げられた。
 しかし、橋本首相はその年の参議院選挙での自民党大敗の責任を取って辞任してしまった。11月、橋本総理の後を継いだ小渕総理はエリツィン大統領と「東京宣言、クラスノヤルスク合意および川奈合意に基づいて平和条約の締結に関する交渉を加速する」ことに合意した。両首脳は、また、「平和条約を2000年までに締結するよう全力を尽くすとの決意」も再確認した。日ロ号は川奈合意の高いところで支えられたのだ。
 
 ところが、今度はロシアの事情が変わった。ロシア国内の政治状況は厳しくなり、また、エリツィン大統領は健康状態が悪化して執務に困難をきたすようになり、99年の大晦日突然辞任した。

 プーチン大統領は、2000年9月、訪日し森首相と会談した。翌年3月、森首相が訪ロして会談を重ねた結果、「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くすとのクラスノヤルスク合意の実現のための努力を継続する」ことに合意した(イルクーツク声明)。この中に「川奈合意」は言及されなかった。プーチン大統領が拒否したためである。
 日ロ号は、少し引き下ろされたのだ。
 森首相の後を継いだ小泉首相は2003年1月に訪ロし、プーチン大統領と、1956年の共同宣言、東京宣言、イルクーツク声明を基礎として、四島の帰属など諸問題の早期解決のために交渉を加速することで合意した(日ロ行動計画)。
 日ロ号の高さはイルクーツク声明と同じであった。

 プーチン大統領は、2008年5月から2012年5月までメドヴェージェフに大統領を譲り、自らは首相になった。この間、サハリンで麻生首相とメドヴェージェフ大統領の会談もあったが、目立った進展はなく、参議院予算委員会における麻生首相の、「ロシアによる北方四島の不法占拠」発言や、2010年7月の択捉島での軍事演習、11月のメドヴェージェフ大統領の国後島訪問などで雰囲気が悪化し、ロシアの強硬な姿勢が目立つようになった。
 日ロ号は坂を下り始めた感があった。
 
 2012年5月に大統領に復帰したプーチンは、領土問題の解決に熱意を示し、1956年の共同宣言は重視していることを示しつつ、以前森首相と合意したイルクーツク声明については維持するのか否か不明の発言も行なった。
 日ロ号はイルクーツク声明より低いところまで引き下ろされる危険が出てきた。

 2013年4月29日、安倍首相が日本の首相として10年ぶりにロシアを公式訪問してプーチン大統領と発表した共同声明では、「両首脳は,平和条約締結交渉を,2003年の日露行動計画の採択に関する日本国総理大臣及びロシア連邦大統領の共同声明及び日露行動計画を含むこれまでに採択された全ての諸文書及び諸合意に基づいて進めることで合意した」と言及された。
 「全ての諸文書及び諸合意」には東京宣言やイルクーツク声明などの重要合意が含まれるのは当然であるが、それを具体的に列挙することにロシアは応じなかった。

 その状態で今回のプーチン訪日延期となったのだ。
 日ロ号が坂を引き下ろされたとは思いたくない。しかし、ロシアの対応は、冷戦時代をほうふつとさせるところがある。ウクライナ問題の関係で日本が西側の対ロシア制裁に加わっていることが不満で日本との関係を進めることには積極的になれないというのは、かつてのロシアの行動パターンではないか。

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