平和外交研究所

2018 - 平和外交研究所 - Page 5

2018.11.13

アウン・サン・スー・チー氏の窮状

 ミャンマーのアウン・サン・スー・チー最高顧問に対する国際社会の風当たりが強くなっている。ロヒンギャ問題に対する同顧問の取り組みが原因だ。国際人権団体アムネスティ・インターナショナル(Amnesty International 以下単にアムネスティ)は11月12日、スー・チー氏に授与していた同団体最高の賞を撤回したと発表した。その際、スー・チー氏はロヒンギャが残虐行為を受けていることについて「無関心だ」とも指摘したという。

 アムネスティはかねてからロヒンギャ問題解決のために活発に行動しており、人工衛星からとった現地の写真などを提供して対処を訴えている。その目で見ると、スー・チー氏は努力が足りないと映るのだろう。
 スー・チー氏はロヒンギャ問題について有効な手段をとれないだけでなく、それに取り組む意欲も弱いというのはアムネスティに限らず欧米諸国で広く共有されている見方である。スー・チー氏はノーベル平和賞を受賞しているが、それを返上すべきだという声も上がっている。
 
 スー・チー氏は何もしていないわけではない。2016年8月、元国連事務総長のコフィ・アナン氏を委員長とし、3人の外国人と6人のミャンマー人の専門家で構成する特別諮問委員会を設置した。この諮問委員会は2017年8月24日、ミャンマー政府に、「暴力は問題を解決しない」と指摘しつつ、国籍法を見直してロヒンギャに国籍を認めること、治安部隊の教育体制や指揮系統を見直し、検問所に監視カメラを設置して部隊への監視を強化すべきだなど、難問も含め計88項目を勧告した。スー・チー氏は「政府全体で勧告を推進する枠組みを作る」と答えたという。この諮問委員会はミャンマー政府に期待に応えて機能を果たしたのである。

 しかし、その翌日から現地ラカイン州ではロヒンギャ武装勢力と政府軍の衝突が発生し、ふたたび多数の難民が流出した。国際社会では危機感が高まり、ミャンマーのイメージは悪化した。グテーレス国連事務総長は、「これは民族浄化だと考えるか」と問われ、「ロヒンギャ人口の3分の1が国外に逃れている。これを形容するのにより適した表現がほかにあるだろうか」と答えたという。
 人権理事会は12月5日、ミャンマー政府によるロヒンギャへの対応を非難するとともに、ミャンマーに独立調査団へ協力するよう呼びかける内容の決議を賛成33、反対3、棄権9で採択した。反対は中国、フィリピン、ブルンジ。棄権は日本、インド、コンゴ、エクアドル、エチオピア、ケニア、モンゴル、南アフリカ、ベネズエラであった。
 また、国連総会でも12月24日、同趣旨の決議が採択された。
 これらの通じて、スー・チー氏はなすべきことをしていないという印象がますます強くなった。そして、約1年後、今回のアムネスティによる厳しい発表となったのだ。

 ロヒンギャ問題の解決が困難なのは、ミャンマーではロヒンギャに限らず、少数民族全体の国家への統合が不十分なことが根本的な原因だ。日本では、少数民族問題といってもピンとこないだろうが、ミャンマーの全人口の3分の1は少数民族である。ロヒンギャの多数はミャンマー国籍を持っておらず、「少数民獄中の少数民族」となっている。
 
 スー・チー氏は、2016年にミャンマーの民主化が実現すると少数民族の大同団結も可能になると考えていたらしい。しかし、実際には困難であり、ミャンマー政府としては軍に頼らざるを得ない状態が続くことになった。つまり、民主化により政府、軍、少数民族の三つ巴の状況は解消しなければならないのだが、それができなくなったのだ。

 ロヒンギャ問題はこのような政治構造の中で解決を図らなければならないのだが、さらに厄介な問題が加わった。ロヒンギャはイスラム教徒であり、ミャンマーの仏教徒と対立関係が高じ、仏教徒の中には過激な原理主義者も現れた。その指導者は、欧米ではテロリストとみなされている僧もいる。彼らからすれば、ロヒンギャだけでなく、国連も、ロヒンギャを擁護する発言をした法王も敵となり強く批判している。

 明らかに過激な言動だが、ミャンマーでは仏教徒の影響力は強い。スー・チー氏はこれを抑制するのも困難なのだ。つまり。同氏に従わない勢力として、もともと少数民族と軍があったのだが、仏教徒もそうなる危険が出てきたのだ。スー・チー氏としてはこれら三つの勢力の扱いを誤ると、国家が混乱に陥り、挙句の果ては軍政に戻ってしまう危険性さえあると考えているのだろう。だから欧米や、人権団体からは批判されても耐えていくしかないのである。

 そんななか、11日には、ミャンマー政府は、「難民が安全に帰り、生活する環境は整った。ミャンマー側が身元確認を終えた2251人が第1陣として入国する」と発表した。具体的な日程についてはバングラデシュ政府との協議が必要だそうだが、一歩前進である。

 アムネスティなど人権団体や国連理事会のように強硬な姿勢をとるのがよいか、ミャンマーの自主的努力を促すのを基本とするのがよいか、簡単には白黒をつけられない。日本政府は後者であり、スー・チー氏には「理解がある」と感謝されているが、事実関係の究明のためにはこれまで以上に強く主張するべきではないか。衛星写真の活用などいついてはアムネスティと協力できると思われる。
2018.11.12

南シナ海で中国が大胆な行動に出た理由―東沙群島をめぐる米中のズレ

 台湾紙『自由時報』(11月11日付)に掲載されたJohn J. Tkacik, Jr.(元国務省員。現在フーバー研究所。中国・台湾関係の論考が多い。)の寄稿である(要旨)。
 
 東沙群島は南沙諸島や西沙諸島に比べ話題になることは少ないが、台湾海峡と南シナ海を結ぶ重要な地点にある。台湾が実効支配している。

 中国が南シナ海の諸島を占領し、軍事基地を建設するようになったのは米国の意図を読み違えたからだったが、米側の態度にも問題があった。

 13年前の2005年2月、東沙群島に上陸し、恒久的施設を建てようとした中国漁民を台湾の巡視船が追い払った。すると、その報復として、中国は200隻を超える漁船を派遣して東沙群島の港を封鎖し、気象状況が悪い時など中国漁船は東沙群島に上陸し、設営して居住する権利があると主張した。

 台湾政府は、両岸関係の窓口を通じて問い合わせをしたが、何の回答も得られなかった。

 同年4月から5月にかけ、2隻の中国の「研究船」が漁船に守られながら東沙群島海域へ侵入してきたので、台湾の巡視船はそれを阻止した。その時中国船は反撃することなく引き上げたので大事に至らなかったが、時の陳水扁政権は緊張した。

 当然、米国在台湾協会(AIT)はこれら一連の出来事を詳細に知っていただろうが、6月4日に台湾の防衛担当相が米国に協力を依頼してくるまで無関心を装っていた。台湾側は、数日前に中国の潜水艦が東沙群島付近で奇妙な故障を起こしてとどまっていたので米側に協力を求めたのであった。
 しかし、AIT代表のDouglas Paalはこの事件にかかわりたくなく、台湾側の要請は、台湾内部の権力闘争から起こったものと見た。ワシントンへの報告でも大きな問題でないと伝えた。

 台湾側は、中国が非軍事的な手段であったが東沙群島を支配下におさめ、基地を建設しようとしていると分析していた。これは正しかった。東沙群島は台湾海峡とルソン海峡を結ぶ海上交通の要所であり、日本と東南アジアおよび中東間の貿易はここを経由して行われる。また、中国の軍事活動、特に潜水艦の活動にとっても重要な海域である。
 にもかかわらず、米国は台湾の協力要請を冷たくあしらったのだ。

 2009年3月、またしても事件が起こった。中国が、「米国の科学調査船「Langseth」号は東沙群島一帯の中国の排他的経済水域を侵犯している。すぐに同海域からたち去るべし」と北京の大使館に抗議してきたのである。その際、米大使館員は、「1999年、2000年および2001年の調査の時には中国当局の許可をえていたが、2009年の航行については許可がなかったので、米側は中国の排他的経済水域を避ける航路に修正した」と説明したそうだ。この説明は、中国の排他的経済水域とは何かを理解しないナイーブなものであった。中国が主張する排他的経済水域は東沙群島の問題にとどまらない。台湾を基線にしている可能性がある。
 その後、国務省は北京の大使館あて、米国国家科学財団は「Langseth」号に対して、「北京との摩擦を避ける」べしとの指示を出す予定だと伝えてきた。米国政府は、中国政府と事を構えることはしない方針だったのだ。それはとんでもないことだった。台湾海域を航行するにも中国の許可が必要になりかねないからだ。
 2009年2月に就任したオバマ大統領は4月1日、ロンドンで胡錦涛総書記と会談した。中国側は2005年以来の経緯を持ち出してきたが、これは中国の策略だった。就任したばかりで東沙群島のことなど何も知らないオバマ氏に、西太平洋での行動を控えるよう指示させる狙いだったのだ。

 中国はそのあとから南シナ海において大胆に行動するようになった。中国側は、米国がこれらの事件を通じて、中国の海洋に対する権利を黙認したと誤って解釈したのだろうが、そうさせた原因は米国政府が臆病だったことにあった。

 さる10月、米海軍の科学調査船「Thompson」号が高雄港に寄港したのはよいことであった。台湾は、また、スプラットリー諸島で台湾が支配している太平島を米国の艦船に開放することも検討している。
2018.11.09

マンチェスター・Uに所属するセルビア人MFマティッチ

 先般のサッカーワールドカップ・ロシア大会の際に、かつてユーゴで起こった悲劇を思い起させる出来事があったことを紹介したが、今度はイングランドのプレミアリーグの試合で、マンチェスター・Uに所属するセルビア人MFネマニャ・マティッチがとった行動に注目が集まった。

 英国では、11月11日の英霊記念日にポピーの花を洋服等につける習慣があり、今年もプレミアリーグの選手はユニフォームにポピーの花のマークを着けて試合に臨んだ。しかし、マティッチだけは着用しなかった。試合前に横一列に並んで記念撮影ではポピーをつけないマティッチが目立っていた。

おそらく、インターネットなどでそのことを指摘されたのだろう。マティッチは自身のインスタグラムでポピーの花を着けなかったのは「個人的な選択」としつつ、次のように語った。

「人々がポピーの花を着けている理由はわかってる。私は、全ての人の権利を尊重し、紛争により愛する人を失った方に同情します」。
「1999年、私が12歳のときに住んでいたヴレロは爆撃により荒廃していた。私にとって戦争の思い出はそのことだけです。その反動で、今はポピーの花をユニフォームに着けることが正しいとは思っていない」。
「英国の象徴であるポピーの花を傷つけたり、誰かを怒らせたいわけではない。我々はそれぞれの教育を受けてきた。このような理由に基づいた個人的な選択だ」
「この理由を理解してくれることを願っている。そうすれば、この後に控える試合でチームを助けることに集中できる」
(YAHOOニュース11月7日)。

 マティッチの行動には賛否両論があるだろう。きわどい問題なので注目されたのだが、結果的にはマティッチの説明は受け入れられたものと推測している。希望しているというべきかもしれない。

「ヴレロ」はセルビアの西部にある「ウヴ」市近郊の村だ。「ウヴ」市はマティッチの活躍を誇りとして、道路の一つをネマニャ・マティッチ通りにするそうだ。

1999年の爆撃とは、NATO諸国が、セルビア(当時は「旧ユーゴ」すなわち「ユーゴスラビア連邦共和国」)のミロシェビッチ大統領は「民族浄化」を進めているとしてそれを止めさせるためセルビア各地で行った爆撃のことであり、セルビアとコソボは無残に破壊され、多くの犠牲者が出た。
歴史の流れで言えば、「旧ユーゴ」が解体する過程において、コソボではセルビア人と、数では多数を占めるアルバニア人の対立が激化し、「民族浄化」と呼ばれる惨劇が起こって国際問題になったのである。
NATOでは、セルビア各地を爆撃することはやむをえなかったと見なされているが、爆撃を受けた住民はたまったものでなかった。12歳だったネマニャ少年にとってあまりにも悲惨な出来事だったのだろう。

 英国は爆撃を行った主要国であり、軍人の栄誉をたたえ記念する「英霊記念日」にマティッチが英国人と同じ気持ちになれず、ポピーを着用できなかったのも無理はない。

 戦争の記憶は簡単には消えない。東アジアでは70年以上たっても戦争の傷跡が残っている。セルビアでは爆撃からまだ30年足らずである。セルビアの首都、ベオグラード市内では、クネーザ・ミロシュ通りという幹線道路沿いに共和国政府、外務省、国防省・総参謀本部のコンプレックス、警察が並んでおり、その多くが爆撃され、半分近くが吹き飛んでしまった建物もあった。この光景は異様としか言えないものであり、日本から来た人は誰しも息をのんで凝視する。

 数週間前、セルビアから来た人に尋ねると、爆撃の跡はまだ手付かずのままだという。セルビアは今でも厳しい経済状況にあるのだ。

 このセルビア人は、「バルカン室内管弦楽団」の一員として来日した。この楽団は、今でも強く残っているバルカンにおける諸民族の対立をやわらげ、和解を促すために日本の指揮者、柳澤寿男氏が献身的な努力で立ち上げ、率いているものである。バルカンと日本の各地で演奏を行っており、その意義は高く評価されている。
 その費用はバルカン側では負担困難であり、日本側、実際には柳澤氏が中心になって金策に努めている。ご関心のある読者にも支援をいただければ幸いである。
 同楽団には同名のホームページ(http://www.marscompany-balkan.com/balkan/)がある。

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