オピニオン
2016.08.22
ミャンマーでは今月末に、ビルマ族、各少数民族、武装グループがすべて参加する大同団結会議(新パンロン会議)が開催される予定だ。8月31日開催とも言われている。
日本などでは少数民族といっても深刻な感じはないが、ミャンマーでは大問題だ。ミャンマーの政治はこれまで軍政とアウン・サン・スー・チーが率いるNLD(国民民主連盟)などが求める民主政治の2本柱で語られることが多かったが、実は、1948年に英国の植民地支配を脱して独立して以来これに少数民族が加わる三つ巴状態であった。ただ、少数民族問題はあまり進展しなかったために、軍と民主勢力のせめぎあいだけに焦点が当たってきた。
実際には、少数民族問題はミャンマーの政治に強い影響を及ぼしていた。軍が政治を牛耳ってきたのは全人口の3割近い少数民族と政府が対立状態にあるからだ。彼らにとって政府はビルマ族であり、不信感は根強い。
一方、政府はなんとか武装闘争をやめさせようと努力してきたが、現実には「国軍」に頼らざるを得なかった。
しかし、民主化勢力にとって「国軍」は民主化を妨げる敵であった。その本質が露呈されたのが1990年の総選挙であり、NLDが大勝したが、時の軍事政権は選挙結果を完全に無視して政権の移譲を拒否した。それ以来、「国軍」は民主化に対する反対勢力となっており、民主的に選ばれた政権への移行が実現した今でも、議会では4分の1の議席を憲法上確保しており、国政に対して決定的な影響力を保持している。
つまり、民主化勢力にとって、「国軍」は必要な友であると同時に敵でもある。また、「国軍」としては少数民族の武装闘争を鎮圧しなければならないが、過度の民主化には抵抗せざるを得ない。さらに少数民族としては、正当な要求を聞き入れてもらえずやむを得ず戦うが、敵は「国軍」だけでなくビルマ族主体の政府であり、NLDである。
さる3月に発足した、アウン・サン・スー・チー氏が率いる新政権は少数民族との和解に力を注いできた。それが実現しない限りは軍の影響力を排除できず、憲法を民主的な内容に改正することもできず、真の民主政治を実現できないからだ。
しかし、建国以来70年近い間解決しなかった少数民族問題であり、和解は簡単なことでない。新パンロン会議は当初7月の開催を目指していたが8月にずれ込んだ。ごく最近まで少数民族側には新政権に対しても不信感をあからさまに表明する指導者もおり、さらに一部地域では武装闘争が継続していた。はたして全少数民族が会議へ参加するか危ぶまれていたのだ。
このようななか、会議まであと2週間というタイミングでアウン・サン・スー・チー国家顧問が訪中した。しかも4日間も中国に滞在する。新政権の最高指導者として国務に忙殺されているはずであり、常識的にはありえない訪問だが、2つのことが読み取れる。1つは、会議の開催準備が整い、スー・チー国家顧問が1週間近く国を離れられるようになったことであり、もう1つは少数民族が同会議に協力するよう中国が協力したことである。
今回の会議成功のカギを握っているのはカチン州であり、カチン独立機構(KIO)とその軍隊(KIA)は数年前からミャンマー政府と武装闘争状態に陥っていた。この紛争で仲介役を務めてきたのが中国である。ミャンマーと中国との間には約1千キロの国境があり、ミャンマーの少数民族は中国との国境近くに居住しているため、かねてより中国との往来も、また、もめ事も多いが、カチンの問題について中国は不信感の強い政府とカチン族を雲南省の瑞麗(ruili)に招いて両者の協議を手助けするなどしてきた。
中国とカチン州の関係は深く、カチンからの難民数千名が中国領内に逃れてきており、中国としてはカチンの和平が実現し、難民が帰国することを望んでいる。
一方、ミャンマー側は、カチンの武装勢力に中国側から武器が提供されていること、ミャンマーの資源が中国に輸出され、環境破壊も起きていることなどへの懸念がある。なかでも36億ドルのプロジェクトであるミッソン・ダムは中国の資本によって建設されるがほとんどすべての発電は中国へ送られることになっていたところ、環境破壊のために反対が強くなり、建設は中止されている。
しかし、スー・チー最高顧問は中国との関係を進め、かつ、カチン州の問題を解決して新パンロン会議を成功させるめどが立ったものと思われる。訪中に先立って、会議に対する中国の関与を求める考えを側近に漏らしたとも報道されている。
一方、中国はかつてミャンマーの軍政を支持し、スー・チー氏から批判されていたが、新政権との関係を回復、増進させる方針に転換したようだ。王毅外相は新政権成立後各国要人に先立ってミャンマーを訪問し、関係改善への熱い気持ちを示し、そして今回、スー・チー最高顧問を最大限の歓待で迎えた。同顧問は9月に米国を訪問することになっており、また、日本からもスー・チー最高顧問の訪日を要請しているが、それに先立って実現したのだ。訪問の順序という点ではいろいろな考えがありうるが、ミャンマーとしては新政権の今後を左右する新パンロン会議を成功させるために必要だったのだろう。
もちろん中国は慈善事業でミャンマーに協力しているのではなく、注文があるのは当然だ。ミッソン・ダムの凍結解除を求めるのではないかという観測が出ているが、これもカチン州にあり、住民の反対はなお強い。ミャンマーの新政権と中国との間では、環境への影響がより少ない小型のダムを複数建設することなど代替案を模索する動きもあるそうだ。
また、中国はかねてからミャンマーの港湾利用のためミャンマー政府の協力を必要としている。ミャンマーの西海岸にあるチュオピュ港の建設とパイプラインで雲南とを結ぶ計画も進めている。
このようなプロジェクトの重要性もさることながら、中国としては軍政時代の反動で反中国的傾向が強くなったミャンマーを再び中国に引き寄せ、東南アジアでカンボジア、ラオスに次ぐ親中国国にするという戦略を重視していると思われる。
ミャンマー・中国関係‐アウン・サン・スー・チー国家顧問の訪中
ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問が8月17日から21日まで中国を訪問した。この訪問は両国にとって重要な意義があると思う。ミャンマーでは今月末に、ビルマ族、各少数民族、武装グループがすべて参加する大同団結会議(新パンロン会議)が開催される予定だ。8月31日開催とも言われている。
日本などでは少数民族といっても深刻な感じはないが、ミャンマーでは大問題だ。ミャンマーの政治はこれまで軍政とアウン・サン・スー・チーが率いるNLD(国民民主連盟)などが求める民主政治の2本柱で語られることが多かったが、実は、1948年に英国の植民地支配を脱して独立して以来これに少数民族が加わる三つ巴状態であった。ただ、少数民族問題はあまり進展しなかったために、軍と民主勢力のせめぎあいだけに焦点が当たってきた。
実際には、少数民族問題はミャンマーの政治に強い影響を及ぼしていた。軍が政治を牛耳ってきたのは全人口の3割近い少数民族と政府が対立状態にあるからだ。彼らにとって政府はビルマ族であり、不信感は根強い。
一方、政府はなんとか武装闘争をやめさせようと努力してきたが、現実には「国軍」に頼らざるを得なかった。
しかし、民主化勢力にとって「国軍」は民主化を妨げる敵であった。その本質が露呈されたのが1990年の総選挙であり、NLDが大勝したが、時の軍事政権は選挙結果を完全に無視して政権の移譲を拒否した。それ以来、「国軍」は民主化に対する反対勢力となっており、民主的に選ばれた政権への移行が実現した今でも、議会では4分の1の議席を憲法上確保しており、国政に対して決定的な影響力を保持している。
つまり、民主化勢力にとって、「国軍」は必要な友であると同時に敵でもある。また、「国軍」としては少数民族の武装闘争を鎮圧しなければならないが、過度の民主化には抵抗せざるを得ない。さらに少数民族としては、正当な要求を聞き入れてもらえずやむを得ず戦うが、敵は「国軍」だけでなくビルマ族主体の政府であり、NLDである。
さる3月に発足した、アウン・サン・スー・チー氏が率いる新政権は少数民族との和解に力を注いできた。それが実現しない限りは軍の影響力を排除できず、憲法を民主的な内容に改正することもできず、真の民主政治を実現できないからだ。
しかし、建国以来70年近い間解決しなかった少数民族問題であり、和解は簡単なことでない。新パンロン会議は当初7月の開催を目指していたが8月にずれ込んだ。ごく最近まで少数民族側には新政権に対しても不信感をあからさまに表明する指導者もおり、さらに一部地域では武装闘争が継続していた。はたして全少数民族が会議へ参加するか危ぶまれていたのだ。
このようななか、会議まであと2週間というタイミングでアウン・サン・スー・チー国家顧問が訪中した。しかも4日間も中国に滞在する。新政権の最高指導者として国務に忙殺されているはずであり、常識的にはありえない訪問だが、2つのことが読み取れる。1つは、会議の開催準備が整い、スー・チー国家顧問が1週間近く国を離れられるようになったことであり、もう1つは少数民族が同会議に協力するよう中国が協力したことである。
今回の会議成功のカギを握っているのはカチン州であり、カチン独立機構(KIO)とその軍隊(KIA)は数年前からミャンマー政府と武装闘争状態に陥っていた。この紛争で仲介役を務めてきたのが中国である。ミャンマーと中国との間には約1千キロの国境があり、ミャンマーの少数民族は中国との国境近くに居住しているため、かねてより中国との往来も、また、もめ事も多いが、カチンの問題について中国は不信感の強い政府とカチン族を雲南省の瑞麗(ruili)に招いて両者の協議を手助けするなどしてきた。
中国とカチン州の関係は深く、カチンからの難民数千名が中国領内に逃れてきており、中国としてはカチンの和平が実現し、難民が帰国することを望んでいる。
一方、ミャンマー側は、カチンの武装勢力に中国側から武器が提供されていること、ミャンマーの資源が中国に輸出され、環境破壊も起きていることなどへの懸念がある。なかでも36億ドルのプロジェクトであるミッソン・ダムは中国の資本によって建設されるがほとんどすべての発電は中国へ送られることになっていたところ、環境破壊のために反対が強くなり、建設は中止されている。
しかし、スー・チー最高顧問は中国との関係を進め、かつ、カチン州の問題を解決して新パンロン会議を成功させるめどが立ったものと思われる。訪中に先立って、会議に対する中国の関与を求める考えを側近に漏らしたとも報道されている。
一方、中国はかつてミャンマーの軍政を支持し、スー・チー氏から批判されていたが、新政権との関係を回復、増進させる方針に転換したようだ。王毅外相は新政権成立後各国要人に先立ってミャンマーを訪問し、関係改善への熱い気持ちを示し、そして今回、スー・チー最高顧問を最大限の歓待で迎えた。同顧問は9月に米国を訪問することになっており、また、日本からもスー・チー最高顧問の訪日を要請しているが、それに先立って実現したのだ。訪問の順序という点ではいろいろな考えがありうるが、ミャンマーとしては新政権の今後を左右する新パンロン会議を成功させるために必要だったのだろう。
もちろん中国は慈善事業でミャンマーに協力しているのではなく、注文があるのは当然だ。ミッソン・ダムの凍結解除を求めるのではないかという観測が出ているが、これもカチン州にあり、住民の反対はなお強い。ミャンマーの新政権と中国との間では、環境への影響がより少ない小型のダムを複数建設することなど代替案を模索する動きもあるそうだ。
また、中国はかねてからミャンマーの港湾利用のためミャンマー政府の協力を必要としている。ミャンマーの西海岸にあるチュオピュ港の建設とパイプラインで雲南とを結ぶ計画も進めている。
このようなプロジェクトの重要性もさることながら、中国としては軍政時代の反動で反中国的傾向が強くなったミャンマーを再び中国に引き寄せ、東南アジアでカンボジア、ラオスに次ぐ親中国国にするという戦略を重視していると思われる。
2016.08.19
日本が核の先制不使用宣言について、懸念であれ、反対であれ、表明するのは問題であり、国益を害する恐れさえあると思う。
形式的には、不使用宣言をすることによって従来と違った姿勢になる印象があるかもしれないが、実際には米国が核を使うかもしれないということが変わらない限り、抑止力に変化はないからだ。不使用宣言は姿勢だけのことである。
もっと深刻な問題は、日本が核を使うことをもっとも強く主張していると、米国から第三国に言われる恐れがあることだ。大統領や外交の責任者である国務長官がそのようなことを言うとは思えないが、副大統領くらいなら言うかもしれない。最も信頼する同盟国が日本を貶めようとしてそのようなことを言うのではない。米国には、日本などと同様感受性、ガードが低い人がいるからであり、そのようなことを考えないのはあまりにも甘いと言わざるを得ない。
日本はかつて、北朝鮮が生物兵器や化学兵器を使う可能性があるという議論に関連してそう言われたことがあったではないか。日本のイメージが損なわれたのではなかったか。
さらに問題なのは、このような重要なことが政府の高官から簡単に米国に伝えられ、それが日本国の考えとみなされてしまう恐れがあることだ。核は日本にとってどの国よりも国民的関心が高い問題であり、核についての発言は国民的合意の範囲から離れないように注意してもらいたい。
以上のことは国連核軍縮作業部会での対応にも当てはまる。
(短評)核の先制不使用宣言
最近(7月?)、米国のオバマ大統領が核兵器の先制不使用宣言を行うことを検討しているということが判明し、これに対し、日本政府は米国政府に対し、そのような宣言を行うことについての懸念を伝えたと報道されている。日本が核の先制不使用宣言について、懸念であれ、反対であれ、表明するのは問題であり、国益を害する恐れさえあると思う。
形式的には、不使用宣言をすることによって従来と違った姿勢になる印象があるかもしれないが、実際には米国が核を使うかもしれないということが変わらない限り、抑止力に変化はないからだ。不使用宣言は姿勢だけのことである。
もっと深刻な問題は、日本が核を使うことをもっとも強く主張していると、米国から第三国に言われる恐れがあることだ。大統領や外交の責任者である国務長官がそのようなことを言うとは思えないが、副大統領くらいなら言うかもしれない。最も信頼する同盟国が日本を貶めようとしてそのようなことを言うのではない。米国には、日本などと同様感受性、ガードが低い人がいるからであり、そのようなことを考えないのはあまりにも甘いと言わざるを得ない。
日本はかつて、北朝鮮が生物兵器や化学兵器を使う可能性があるという議論に関連してそう言われたことがあったではないか。日本のイメージが損なわれたのではなかったか。
さらに問題なのは、このような重要なことが政府の高官から簡単に米国に伝えられ、それが日本国の考えとみなされてしまう恐れがあることだ。核は日本にとってどの国よりも国民的関心が高い問題であり、核についての発言は国民的合意の範囲から離れないように注意してもらいたい。
以上のことは国連核軍縮作業部会での対応にも当てはまる。
2016.08.16
しかし、噂の類は別として、正確な情報を得るのは困難であり、数年たって初めて実情が分かってくることもある。たとえば、1987年早々に失脚した胡耀邦総書記の場合、突然問題が起こったのでなく、そこへ至るまでにさまざまな経緯があり、なかでも前年、北戴河で話し合われたことは大きな節目であった。しかし、当時、そのような事情はよく分からなかった。
今年はどうなるか。中国の指導者が北戴河で何を話し合うかなど外から推測できるわけはないが、話題になりそうなテーマとしては次のようなことが考えられる。」
これは昨年の今頃にアップした北戴河会議に関する一文の出だしであるが、今でもここに書いたことは変わっていないのでまず再掲しておく。
来年(2017年)は中国共産党第19回大会が開催される。5年に1回の大会であり、前回の2012年には習近平政権が誕生した。来年の会議ではトップ指導者の異動が最大関心事となる。
現在の政治局常務委員、つまりトップ7のうち、習近平と李克強の2名だけは来年64歳と62歳なので次期の5年も務められるが、この両名以外は定年の70歳以上となるので退任する。王岐山は来年69歳だが、68歳以上は再任されないことになっている。
政治局常務委員が7人になったのは2012年の第18回大会以来であり、そのうち5人が交代するのは大きな出来事だ。習近平が次期も安定的に政権を運営していけるか、新人事にかかっている。
政治局常務委員にはある程度担当の職務が決まっている。なかでも王岐山が規律検査委員会の長として反腐敗運動を担当しているのは有名だ。
2012年までは政治局常務委員は9人であったが、習近平は公安担当を廃止し、自ら公安関係の元締めとなっている。前期、公安関係を担当していた周永康は汚職の罪で摘発され、有罪が確定している。
習近平が腐敗取り締まりと言論統制を2本の鞭として中国を統治してきたことは本研究所のHPで何回か指摘してきた。反腐敗運動はすでに山を越したという見方もあるが、腐敗の摘発と政治改革は関連があり、この運動は今後も中央および地方で継続されるだろう。
王岐山は腐敗取り締まりの最高実務責任者として腕を振るってきたので、同人が引退するとなると次期政権ではその代わりに誰がつくのか大きな注目点となるが、具体的な候補は不明だ。
言論統制は、今後、従来以上に厳しく行われるだろう。言論の自由化ないし緩和を求める声は常に存在するし、何らかのきっかけで大問題になる危険性がある。習近平政権としては統制を緩めることは困難だ。
習近平は党の宣伝部の在り方に不満であり、その上に新しい機構を作って自ら責任者となった。現在の厳しい言論統制はこの新体制の下で進められているが、宣伝部関係者が一つの派閥となってかく乱要因、あるいは阻害要因になっているという指摘もある。
最近浮上してきた問題として、共産主義青年団(共青団)と毛沢東記念堂の地方移転がある。
「共青団改革計画」は8月2日、党中央弁公庁から発表された。共青団幹部の人数を減らすなど厳しい内容だ。共青団は共産党を支え、将来の幹部を養成する機関であるが、最近は官僚主義化し、本来の趣旨から離れて派閥を構成しているとみられていた。習近平は共青団の活動に不満であったらしい。
「共青団派」は「太子党」や「上海閥」とならぶ派閥であり、「太子党」は中央を牛耳り、「共青団派」は地方を支配した、などと言われることもあった。習近平は派閥を嫌い、このいずれも破壊しようとしていると言われている。
共青団の改革は計画通りに進むか。共青団は地方のみならず中央にも根を張っており、共青団から胡錦濤前主席、李克強総理、李源朝国家副主席、周強成最高検察院院長、汪洋副総理などが出ている。
毛沢東については様々な死後評価があるが、なかでも、毛沢東の「70%は正しく、30%は過ち」という鄧小平の評価は、当初厳しいものと受け止められたが、改革開放後の中国において一種有権的解釈のような重みがあり、今日に至るもその評価は基本的に維持されている。
しかるに、最近決定された毛沢東記念堂の地方移転は鄧小平による評価よりも厳しい意味合いがある。単純化して言えば、地方移転により、毛沢東思想は今後中国の指針でなくなり歴史的意味のみが残る、また、首都北京に同思想を想起させる記念堂を置く価値がないという位置づけになるからだ。
もちろん記念堂の移転だけで毛沢東の評価が決定されるのではない。共産党の歴史資料でどのように評価されるかも見る必要があるが、記念堂の移転決定は現在の中国を象徴しているように思われる。
習近平自身は地方を重視しており、権力を保持し、富を蓄えるのに余念がない「権貴階級」には批判的である。大衆を重視するあまり「左派」だと言われることさえある。しかし、毛沢東思想をあまり高く掲げると、権力闘争が起こる恐れがあり、これは危険だ。習近平としては政治のバランスを維持しなければならない。そのような微妙な情勢の中で今回の記念堂移転に踏み切ったのは、習近平としても経済成長の回復を重視せざるを得ない、その限りにおいては大衆の利益などにかまっておれない、だからまた毛沢東思想をあまり高く掲げることはできないという判断になったのかと思われる。
(短評)中国の指導者が思案していること‐北戴河などで
「北戴河は北京の東280キロにある海岸で避暑地として知られているが、ここで夏を過ごす中国の指導者は懸案について協議し、事実上の決定を下すこともある。正式でないのはもちろんであるが、非常に重要な話し合いも行われる。だから、中国に駐在の各国大使館、報道機関などは北戴河でどのような動きがあるか、懸命に情報収集を試みる。しかし、噂の類は別として、正確な情報を得るのは困難であり、数年たって初めて実情が分かってくることもある。たとえば、1987年早々に失脚した胡耀邦総書記の場合、突然問題が起こったのでなく、そこへ至るまでにさまざまな経緯があり、なかでも前年、北戴河で話し合われたことは大きな節目であった。しかし、当時、そのような事情はよく分からなかった。
今年はどうなるか。中国の指導者が北戴河で何を話し合うかなど外から推測できるわけはないが、話題になりそうなテーマとしては次のようなことが考えられる。」
これは昨年の今頃にアップした北戴河会議に関する一文の出だしであるが、今でもここに書いたことは変わっていないのでまず再掲しておく。
来年(2017年)は中国共産党第19回大会が開催される。5年に1回の大会であり、前回の2012年には習近平政権が誕生した。来年の会議ではトップ指導者の異動が最大関心事となる。
現在の政治局常務委員、つまりトップ7のうち、習近平と李克強の2名だけは来年64歳と62歳なので次期の5年も務められるが、この両名以外は定年の70歳以上となるので退任する。王岐山は来年69歳だが、68歳以上は再任されないことになっている。
政治局常務委員が7人になったのは2012年の第18回大会以来であり、そのうち5人が交代するのは大きな出来事だ。習近平が次期も安定的に政権を運営していけるか、新人事にかかっている。
政治局常務委員にはある程度担当の職務が決まっている。なかでも王岐山が規律検査委員会の長として反腐敗運動を担当しているのは有名だ。
2012年までは政治局常務委員は9人であったが、習近平は公安担当を廃止し、自ら公安関係の元締めとなっている。前期、公安関係を担当していた周永康は汚職の罪で摘発され、有罪が確定している。
習近平が腐敗取り締まりと言論統制を2本の鞭として中国を統治してきたことは本研究所のHPで何回か指摘してきた。反腐敗運動はすでに山を越したという見方もあるが、腐敗の摘発と政治改革は関連があり、この運動は今後も中央および地方で継続されるだろう。
王岐山は腐敗取り締まりの最高実務責任者として腕を振るってきたので、同人が引退するとなると次期政権ではその代わりに誰がつくのか大きな注目点となるが、具体的な候補は不明だ。
言論統制は、今後、従来以上に厳しく行われるだろう。言論の自由化ないし緩和を求める声は常に存在するし、何らかのきっかけで大問題になる危険性がある。習近平政権としては統制を緩めることは困難だ。
習近平は党の宣伝部の在り方に不満であり、その上に新しい機構を作って自ら責任者となった。現在の厳しい言論統制はこの新体制の下で進められているが、宣伝部関係者が一つの派閥となってかく乱要因、あるいは阻害要因になっているという指摘もある。
最近浮上してきた問題として、共産主義青年団(共青団)と毛沢東記念堂の地方移転がある。
「共青団改革計画」は8月2日、党中央弁公庁から発表された。共青団幹部の人数を減らすなど厳しい内容だ。共青団は共産党を支え、将来の幹部を養成する機関であるが、最近は官僚主義化し、本来の趣旨から離れて派閥を構成しているとみられていた。習近平は共青団の活動に不満であったらしい。
「共青団派」は「太子党」や「上海閥」とならぶ派閥であり、「太子党」は中央を牛耳り、「共青団派」は地方を支配した、などと言われることもあった。習近平は派閥を嫌い、このいずれも破壊しようとしていると言われている。
共青団の改革は計画通りに進むか。共青団は地方のみならず中央にも根を張っており、共青団から胡錦濤前主席、李克強総理、李源朝国家副主席、周強成最高検察院院長、汪洋副総理などが出ている。
毛沢東については様々な死後評価があるが、なかでも、毛沢東の「70%は正しく、30%は過ち」という鄧小平の評価は、当初厳しいものと受け止められたが、改革開放後の中国において一種有権的解釈のような重みがあり、今日に至るもその評価は基本的に維持されている。
しかるに、最近決定された毛沢東記念堂の地方移転は鄧小平による評価よりも厳しい意味合いがある。単純化して言えば、地方移転により、毛沢東思想は今後中国の指針でなくなり歴史的意味のみが残る、また、首都北京に同思想を想起させる記念堂を置く価値がないという位置づけになるからだ。
もちろん記念堂の移転だけで毛沢東の評価が決定されるのではない。共産党の歴史資料でどのように評価されるかも見る必要があるが、記念堂の移転決定は現在の中国を象徴しているように思われる。
習近平自身は地方を重視しており、権力を保持し、富を蓄えるのに余念がない「権貴階級」には批判的である。大衆を重視するあまり「左派」だと言われることさえある。しかし、毛沢東思想をあまり高く掲げると、権力闘争が起こる恐れがあり、これは危険だ。習近平としては政治のバランスを維持しなければならない。そのような微妙な情勢の中で今回の記念堂移転に踏み切ったのは、習近平としても経済成長の回復を重視せざるを得ない、その限りにおいては大衆の利益などにかまっておれない、だからまた毛沢東思想をあまり高く掲げることはできないという判断になったのかと思われる。
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