平和外交研究所

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2016.02.01

(短評)馬英九総統の太平島上陸

 馬英九総統が1月28日、南沙諸島の太平島に上陸した。同諸島で台湾が実効支配している唯一の島だ。
 米国はその行動を批判した。そのことについて台湾の国民党系新聞には、2008年に陳水扁総統が太平島に上陸した際米国はあまり強く反発しなかったのに、今回はどうしてそのような批判をするのかといぶかるとともに、米国は態度を変えたなどと論評しているものがある。

 この論評はおかしい。米国から見れば、中国が南沙諸島で埋め立てと建設工事を強行し、米国をはじめ各国と対立している状況の中で、馬英九の行動は中国に味方することになるので問題なのだ。米国は批判の中で「タイミングが悪い」と言っているではないか。
 台湾の与党系新聞は、馬英九総統の行動の持つ意味について、とくに国際的な環境の中でどのような意味を持つかよく考えるべきだ。単純に陳水扁の時と比較し、米国が変わったと批評するのはナンセンスだ。
、陳水扁の行動がよかったというのではない。陳水扁が太平島に上陸したのも人気取りのためであり、馬英九と同じことだった。違っていたのは、当時(2008年)はそうしても中国に味方することにならなかったことである。

 中国は馬英九の行動を歓迎した。中国政府の報道官は、「共にひとつの中国なので、共同で国家主権と領土の完全性を維持する責任がある」と述べている。
 この中国の反応を聞かなくても、米国がどう思うか分からなければならない。そのような国際的観点から物事を見られないのでは、国民党の前途は多難だ。
 国民党は米国との矛盾が大きくなっていることに気付かずにますます中国との同化/統合の方向に向かっているだろうか。
 国民党は台湾人の願望から離れてしまった。少なくとも今回の総統と立法院の選挙ではそのような結果となった。国民党が勢力を回復するには、台湾人からも、米国からも支持を得なければならない。台湾人の中には、総統による太平島上陸を称賛するナショナリステイックな面があるのは事実だが、台湾と米国との関係、ひいては台湾の安全保障にとって太平島上陸は役に立たないどころか妨げになることを台湾人も理解し始めるのではないか。



2016.01.29

(短評)核軍縮作業部会への参加

 昨年、国連で「核軍縮に関する作業部会」の設置が決まった際、日本は棄権したが、2月から始まるこの作業部会には参加する方針を固めたと報道されている。「棄権」は形式的には中立だが、全体の状況の中で見るとかなり否定的な感じである。
 「核軍縮」とは「核を廃絶すること」を意味しているが、いっぺんにそれを実現することはできないので「廃絶の方向に向かって前進すること」などプロセスも含まれる。
 
 5つの核兵器国はすべてこの作業部会の設置に反対した。その理由については、核兵器の使用禁止や違法性の確立などを目指すことを警戒したと説明されている。この説明の通りだろうが、核兵器国は、核兵器を削減するにしても自分たちのペースで進めたい、核兵器を持たない国からせっつかれるのは好まないというのが本心だろう。
 なかには中国のように、核兵器の削減は圧倒的に大量の核兵器を保有している米国とロシアが先に実行すべきであるという立場の国もある。つまり、そのようにならなければ中国は核軍縮を実行しないというわけだ。

 核兵器国の考えは、核軍縮に積極的でないとして批判される。しかし、核兵器国は、現在の国際情勢において核は抑止力として必要だと考えている。この立場の違いは核軍縮に関する議論において常に現れる問題であり、これから始まる作業部会においてもそのような立場の違いは出てくるだろう。
 核兵器国はいずれもこの作業部会に出てこないだろうが、積極的に核軍縮を進めるべきだという国としても核兵器国の立場を無視することはできないので、やはりこの違いは大きな問題となる。
 
 日本は作業部会でどんな貢献ができるか。この相反する2つの考えについて、いずれか一方のみを優先させることは困難だろうが、2つの考えがあることは前提にして議論すべきことがあると思う。具体的には、核兵器の非人道性についての認識を深めることである。かねてからわたくしが主張していることだが、核兵器と通常兵器は、放射能の問題は別として、質的な違いはないと思っている人が世界にはかなりいるのが現実だ。
 核兵器の非人道性についてはこの作業部会に先立って国際会議が数回開催されてきたが、まだまだ不十分だ。今年のG7外相会議は広島で開催されるそうだが、これは良い考えである。
 外相会議ではさらに、核兵器の非人道性を議題として取り上げ、率直に議論してほしい。非公式の場でもよい。フランスなど核兵器の非人道性を認めることに難色を示す可能性が高い国とどのような議論をして説得するべきか、よく検討して臨んでもらいたいものだ。
2016.01.26

(短文)15年前の1月26日、新大久保駅で

 15年前の今日、JRの新大久保駅で、ホームから転落した男性を助けようとして韓国人留学生の李秀賢(イスヒョン)さん(当時26)とカメラマンの関根史郎さん(当時47)が電車にはねられ亡くなった。
 翌02年から、国際交流基金は韓国の高校生を日本に招待して、日本人との交流を通じて日本に対する理解を深めてもらう事業を実施しており、今年は20名が来日した。今日、現場を訪れ献花するそうだ。
 
 韓国の高校生を招待するのは素晴らしいことだと思う。
 この事業の目的として、「李さんの遺志をついで日韓の懸け橋になってもらう」と説明されている。それもよいが、李さんの行動にはもっと普遍的な意義がある。李さんは、とっさに「助けなければならない」と思って危険を顧みずに線路に飛び降りたのではないか。難しく考えすぎかもしれないが、あえて言えば、「日韓のため」とみるのは、よくないとは言いたくないが、不十分な気がするのだ。

 2011年、『グローバル化・変革主体・NGO』という本を出版した。わたくしはその編者として、「序論」で次のように書いた。
 「NGO活動は伝統的に欧米で盛んであり、我が国のNGOは欧米にならって活動をはじめたのかもしれないが、日本で「他人のために」行動することが軽視されていたのではない。「他人のために集団で行動する」ことと、そもそも「他人のために行動する」ことは別問題であり、後者の問題に関しては、日本は、それに韓国や中国も欧米に決して引けを取らないのではないか。例はいくらもあろう。幕末に日本を訪れた西洋人も日本人は親切であると言っていた。具体的な表現は国民ごとに、あるいは民族ごとに違っている部分があるかもしれないが、「他人のために行動する」ことの大切さは人間として身につけてきた普遍的倫理である。JR大久保駅で韓国人留学生と日本人男性がプラットフォームから線路に落ちた人を助けようとして自らの命を犠牲にしたのはたんに「親切にする」という程度をはるかに超える高邁な人道的精神の発露であり、純粋な「他人のための行動」であった。」

 この本はNGOについての識者が市民社会を論じたものであり、「他人のために集団で行動する」とはNGOの特性として言及したことである。

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