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2015.01.17

外交文書公開で明らかになった非核三原則の裏事情

外務省が1月15日に公開した外交文書は1960年代から70年代のものが中心であるが、50年代の文書も含まれている。

内容は、小笠原および沖縄諸島の返還(それぞれ1968年、1972年)、核実験の停止・禁止(50年代からの経緯は複雑)、核兵器不拡散条約交渉(NPT 条約が成立したのは1968年)、日本の非核3原則(現在の形で表明されたのは1967年)、通常兵器の取引規制(日本は67年に多国間で取引を規制する提案を行なった)、日本の武器輸出三原則(佐藤首相の67年発言を経て三木首相が76年に表明した)など、戦後史のみならず現在の日本の対外政策の基本に関わる重要な記録である。

各新聞は公開された文書を大きく報道しており、とくに、沖縄返還に先立つ1965年、佐藤首相が同地を訪問した際に、演説原稿にはなかったことであるが、極東における沖縄の戦略的・軍事的重要性について言及することを米政府から強く求められ、結局応じることとなったことに各紙とも焦点を当てている。強い立場の米国が弱い立場の日本に注文を付けたという印象が強いのでそのような報道になったのは分からないではないが、沖縄が極東において重要な戦略的・軍事的な地位にあることは当然であり、そう考えると米政府の要請をそのような角度から、つまり強圧的であったのではないかという角度から取り上げるのは適切でないのではないかという気がする。ただし、沖縄返還がまだ実現していない当時は、戦略的・軍事的に重要だということは沖縄の将来に関わる強い政治的な意味合いがあったので日本政府が慎重に構え、深入りしたくなかったことも理解できる。

公開された文書には、日本が、一方では米国の核の抑止力に依存しなければならないが、他方では日本で核兵器が使用される可能性は排除したい、「非核」の立場を取りたいという矛盾した考慮があったことが如実に示されている。この矛盾は現在も存在しており、広く知られていることと言えるが、当時は日本の姿勢が試されていた。すなわち、中国は1964年に初の核実験を行なっており、日本としては米国の核の傘が絶対的に必要であった。1966年の国連総会では、日本政府は、NPTの交渉において、核兵器の持ち込みが禁止されることになるかもしれないと警戒し、そのような考えには日本として同調できないと国連総会への代表団宛の訓令で明確に指示していた。この時点ではNPTの交渉がたけなわであり、日本は「非核保有国」となることがほぼ確実視されていた。そうなると核兵器の持ち込みまで禁止されると困ったことになるのであった。

しかし、日本が表だって、核の持ち込みはNPTで禁止されるべきでないと主張すると2つの方面に問題があった。1つは、NPT自体の交渉に問題を投げかけることになるからであった。米国もソ連も、いざというときには核兵器を世界のどこでも使わざるをえなくなるという考えであったが、そのことを議論し始めるととくに非同盟諸国は強く反対するであろうからNPTの交渉が危うくなる。実際NPTは不平等条約として反対する勢力は強かった。だから米ソはそのようなことはおおっぴらに議論したくなかった。つまり、米国やソ連も、核兵器はどこでも使わなければならないが、NPTを成立させるには核兵器を非核保有国に広げることはできない、という矛盾した状況があったのである。

ともかく、日本政府は翌年には核兵器の持ち込みは必要という考えを口にしなくなったどころか、佐藤首相は非核三原則を掲げ、核兵器を「持ち込まない」、現在は「持ち込ませない」と言われる立場を明言していた。前年の国連総会の際の訓令とは正反対の立場であった。この立場はNPTを成立させるには好都合である。米国は核を持ち込まないという日本の立場表明を歓迎した。ただし、どうしても必要なときは持ち込むという「密約」付きで。

核兵器を持ち込まないというのはNPTとの関連以外に、小笠原諸島や沖縄諸島に核兵器を持ち込まない、つまり残さないという国内事情からも重要なことであった。日本としてはむしろこちらの方が深刻な政治問題であったかもしれない。だから、非核三原則で「核を持ち込まない」というのは2重の意味で必要な態度表明だったのである。しかし、核兵器の抑止力には引き続き依存せざるをえなかった。その間の事情が今回の外交文書公開によってかなり明確になったのである。

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