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2016.05.31

台湾の歴史と新政権-教科書問題

 蔡英文新政権は発足した翌日(21日)、土曜日であったが、2014年に国民党前政権が改訂した学習指導要領を元に戻すと発表した。
 5月25日、当研究所HPにアップした一文では、改訂内容についてはごく簡単にしか触れなかったが(一部誤りもあった)、新政権のとった措置は台湾と中国の間の歴史認識の違いにかかわっている。

 そもそも中国は、台湾が「中国の固有の領土」だという立場であるのに対し、台湾では、「中国を支配する政権が台湾に国家権力を及ぼすようになったのは清朝以降であり、しかも台湾の一部しか支配していなかった。古来台湾が中国の一部であったというのは歴史的事実に反する」という考えが強い。
 ただし、一言で台湾と言っても実際の状況は複雑だ。1945年10月25日、台北公会堂(現在の中山記念堂)において中華民国政府及び連合国代表の陳儀と、台湾総督兼第10方面軍(台湾軍の後身)司令官であった安藤利吉との間で降伏文書の調印が行われた。これは終戦処理に一環であり、蒋介石らの国民党はもっと後で台湾へ渡ってきたのだが、国民党はこの一連の行為を「光復」と呼び、10月25日を「光復節」と定めた。
 「光復」とは失われていた土地が祖国に復帰することを意味する。国民党としては、「国民党が台湾を日本の植民地支配から解放し、祖国への復帰を実現した」という認識だったのであり、台湾はもともと中国の領土であったという認識が前提になっている。
 しかし、前述したように、台湾は1683年以降清朝によって統治されていたにすぎず、それ以前は鄭成功が統治していた。これは22年という短期間であり、それ以前はオランダの支配下にあった。
 さらに清朝が統治していたのは台湾の西半分であり、東半分は最北端の一地方を除いて統治しておらず、清朝政府はこの統治外の地域の住民を「番」と呼び、漢人がその地域へ入ることを厳禁するなど、統治下の地域と外の地域を厳格に区別していた。
 このような歴史的経緯は台湾の教科書が明記していることであり、2014年の改訂の前も後も同じである。

 中国はそれにもかかわらず台湾を固有の領土とみなし、最近は、尖閣諸島、南シナ海、チベットなどとともに「核心的利益」と呼び、何が何でも権利を主張する姿勢である。
 国民党政権が台湾へ移動してきたことを「光復」と呼んだのはこのような中国の認識と同じだったからだ。
 しかし、国民党政府としても台湾の歴史を無視したり、歪曲したりすることはできないので、教科書に「光復」と書き込むことは強要しなかった。具体的には、教科書は、「国民党が台湾を接収した」と記述していたのだが、それには介入しなかった。
 ところが、2014年の教科書改訂で政府は方針を変更して国民党の歴史認識を教科書に反映することを求め、教科書は「国民党による台湾接収」という言葉は残しつつ、それは「光復」であったと位置づけた。
 国民党はなぜこのような改訂を要求したのか。推測に過ぎないが、2つの理由が考えられる。
 1つは、歴史事実に反してでも台湾は中国の一部であったという認識を台湾で確立したかったからだ。
 もう1つは、大陸に媚びようとしたからだ。

 そして蔡英文新政権はいの一番に教科書を元に戻したのだが、台湾独立に向かって動き出したのではない。改訂前の教科書には台湾の独立を求めたり、扇動したりする記述はない。その状態に戻るだけだからである。
 しかし、危険な種は残っている。たとえば、前述の「光復節」だ。歴史的事実を尊重するという立場からすれば、この名称も変更しようという意見が出てくるかもしれないが、台湾独立志向を強めるので危険である。このほか、台湾には「中山記念堂」「中山公園」など国民党のイデオロギーを象徴する事物は多数存在している。

 蔡英文総統はそのような事物を変更する考えではなく、国民党が作った統治の枠組みを受け入れる姿勢に見える。「中華民国」の憲法を尊重すると明言し、孫中山の遺影に敬意を表しているのは象徴的である。

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