平和外交研究所

6月, 2014 - 平和外交研究所 - Page 3

2014.06.22

河野談話の検討結果

従軍慰安婦問題。河野談話の作成過程に関する検討結果が、20日、衆議院予算委員会理事会に報告され、21日にはメディアで広く報道された。河野談話は、慰安婦となった人々に対しお詫びと反省を表明したものであったが、それは同時に日本が国際社会に対して日本の姿勢を説明し、理解を求めるものであり、重要な役割を果たした。私は、この問題に関する「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」の設立にも、国連人権委員会での各国との交渉にも直接かかわった一人として、河野談話がなかったならば日本は窮地に陥っていただろうと証言できる。
慰安婦問題について韓国の対日批判を不当とし、とくに河野談話をやり玉に挙げる一部の傾向を背景に、安倍政権の下で河野談話の作成過程が検討されることとなった。細かい点に関する表現の誤りを指摘するくらいのことはありえても、河野談話によって示された日本としての姿勢を誤りと批判できるはずはなく、また、日本がもし河野談話と違う考えを各国に示したならば、日本の立場は悪くなり、慰安婦以外の問題にも悪影響が及んだであろう。河野談話の作成過程を検討することは何の役に立ちうるのか、懸念していた。
しかし、発表された検討結果をみて安心した。この調査は、非常に客観的に、丹念に関連資料を検討している。日本がこれまで示してきたお詫びと反省の姿勢を変更する必要はないことを再確認している。
これまでいろんな議論が戦わされるなかで、この問題について公に語ることは少なかった河野洋平氏自身も「軍の施設に慰安所があったのは疑う余地がない。大勢の女性がいたのも否定できない」と指摘し、慰安婦の募集については「自分からやってきた人もいるかもしれない。連れてこられた、だまされ、甘言で来たかもしれない。色んな集まり方があった」と語った。その上で談話で認めた強制性について「施設に入れば、軍の命令で働かされた。『帰る』といっても帰れない。そういうことになれば、強制的なものとみるのは当然じゃないでしょうか」と述べたそうである。
一方日本政府は、今後も河野談話を継承していく考えを明らかにした。
今回の検討の一つの焦点は河野談話の作成に際して韓国政府との「すりあわせ」であったところ、今回の検討結果において両国政府は一種の協議をしたことが示された。韓国政府にはそのことについて不満があるようだ。しかし、このように外交的に機微な問題について日本政府が一定の行動を取る前に韓国政府と話し合うことは当然である。それを「すりあわせ」と呼ぶか否か、韓国政府の言うように、「意見を求められたので答えた」だけか、問題ではない。外交的に当然で、かつ必要なことが行われたのである。
ともかく、今回の検討結果は全体として韓国政府としても積極的に評価できるはずであり、日韓関係の改善に支障とならないことを期待したい。
米国政府も今回の検討結果を積極的に評価している。それも重要なことである。

2014.06.21

集団安全保障へ参加する?

政府・自民党は、集団的自衛の場合でなくいわゆる集団安全保障の場合でも、機雷の除去など限られた一定の範囲内では自衛隊が行なうことを認めることを閣議決定に盛り込みたい考えであり、公明党にその考えを示したそうである。集団的自衛権に関し報道されている政府・与党の検討状況は日替わりメニューのように激しく変化している。報道が過剰に行われている可能性は排除できないが、政府・自民党の考えが流動的であるのは間違いなさそうだ。そのことは前提にしつつ、集団的自衛と集団安全保障の違いを確認しておこう。

とくに武力行使が焦点となる。集団的自衛の場合、国連の大原則である武力行使禁止の例外として認められることが国連憲章第51条で示されている。詳しく言えば、その条文には百パーセントその通り表現されてはいないが、確立された解釈であると言ってよい。
国連憲章ではもう一つ武力行使が認められる例外として、いわゆる「国連軍」の設置が想定されていた。「国際の平和および安全の維持や回復に必要な空軍、海軍または陸軍の行動を取る」と定めた第42条が中心的規定である。しかし、これは国際社会の厳しい意見対立のため国連が成立して以来一度も実現したことがなく、今後も成立しそうにない。
一方、国連安全保障理事会は、「平和に対する脅威、平和の破壊、侵略」などが生じた場合に、当事国に自制を求め、和解を促し、停戦を求めつつ、国連加盟国がそのために行動することを認め、また、その場合に、武力の行使を認めることがある。国連自身が認めたことなのでこの場合も国連憲章違反にはならない。通常このような行動は複数の国が参加するので「多籍軍」と呼ばれている。その例はかなりあり、アフガニスタンで活動している部隊もこれである。国連憲章の本来の考えでは「国連軍」を派遣して停戦あるいは和平を実現するのであるが、これが実現していないため国連の全加盟国でなく有志国の行動であるが、安保理としてそれが必要と認定する場合に取られる措置である。
この「多国籍軍」といわゆる「平和維持活動(PKO)」は明確に区別される。PKOも複数の国の部隊から構成されているので外見上多国籍軍と見分けがつかないが、PKOは、すでに停戦あるいは和平がすでに実現している場合に「平和の維持」のため国連から派遣される。多国籍軍の場合は停戦も和平も実現しておらず、争いがまだ残っている。この点でPKOと決定的に異なっている。また、多国籍軍の司令官はいずれかの国の司令官が務めることになるが、PKOの最高指揮権は国連事務総長にある。PKOの場合と違って多国籍軍の場合は状況で行動する。
国連軍と多国籍軍の違いも大きい。国連軍は国連憲章が定めている、全加盟国が責任を負う軍隊である一方、多国籍軍は憲章に明示の規定は定めがなく解釈で認められる。多国籍軍は一部の国が参加するものであり、参加するか否かは各国が決定する。つまり、国連軍と多国籍軍は、国連全体と一部の国との区別、義務的と任意的との区別がある。
日本がもし集団安全保障に加盟するなら、ここで述べたことは明確に認識していなければならない。とくに問題になるのは「争いが残っている」ことであり、このため多国籍軍では日本国憲法が明確に禁じている「国際紛争を解決するために武力を行使する」ことになる。集団的自衛に参加するか否かは憲法の解釈いかんで認められる可能性があるが、集団安全保障への参加は明確な憲法の禁止規定への違反問題を惹起する。
ちなみに、仮定の話であるが、国連軍が成立した場合、それに参加するのは全加盟国の義務となるが、その場合でも、「国際紛争を解決するために武力を行使する」ことが憲法で明確に禁止されている日本として参加できるか問題になりうる。つまり、多国籍軍が認められるのは「国際紛争を解決するため」であり、これは憲法が明確に禁止してことだという問題があるのである。
蛇足であるが、PKOの場合、「国際紛争」はすでに収束しているので、憲法の規定上は武力を行使する余地がある。もちろんその場合の武力行使とは、争いがある場合の武力行使とは比較にならないくらい小規模であり、日本では「武器使用」と呼ばれる。ともかく、そのような小規模の武力行使/武器使用に歯止めをかける必要はないどころか、PKOの根拠となっている安保理決議により与えられた任務を実行するのに必要な武力行使/武器使用に制限をかけるべきでないと考える。
最後に、機雷除去に限り集団安全保障に参加すべきであるという意見について。ひとたびこの憲法規定に関わらず集団安全保障に参加すれば、以後、機雷除去に限るのが日本の方針だ、他のことには参加できない、それは国の方針だと説明しても説得力を持ちえなくなるであろう。国際社会に対しては国際的にも理屈にかなったことしか主張できない。国際社会においては、憲法の禁止規定は乗り越えたが、政府方針はあくまで変えられないなどと言えないはずである。

2014.06.20

シャングリラ対話ー第3話

6月19日付朝日新聞デジタル版の「特派員リポート」は先般のシンガポールで開かれたアジア安全保障会議の状況と、中国軍への取材の困難さと現場の雰囲気をよく伝えている。中国軍の世界における重要性が日増しに高まる一方、その実情を知ることはまだ容易でなく、取材の立場からの観察は参考になるので、次に引用しておく。なお朝日新聞は同会議の主要スポンサーの一人である。

「 「国防省を通してくれ」――。中国で軍関係者に取材を申し込むと、必ずといっていいほど返ってくるお決まりの返事。ようは「おことわり」ということなのだが、その国防省当局者にも取材するのは容易ではなく、月1回の定例会見ですら、まだ外国メディアに開放していない。
 正面取材が極めて限られている中で、中国の現役軍人に直接接触できる貴重な機会が最近あった。
 5月30日から3日間、シンガポールで開かれた「アジア安全保障会議(シャングリラ・ダイアローグ)」だ。英国の国際戦略研究所(IISS)が主催し、朝日新聞社も後援する国際会議で、アジア・太平洋地域の30を超える国の国防相や軍高官、シンクタンク研究員らが一堂に会し、安全保障政策の諸課題について意見を交わす。今年で13回目を迎える。
 安全保障の世界でこれほどの規模と出席者の知名度の高さ、しかもそれがオープンで行われる国際会議はほかに例がない。特に今回は、日本から初めて安倍晋三首相が出席するほか、南シナ海での中国の石油掘削活動をめぐる中国とベトナムとの対立が起きているさなかの開催となり、今まで以上にメディアの関心を集めた。
 朝日新聞の作業部屋は会議場のシャングリラ・ホテル(『シャングリラ・ダイアローグ』は、シャングリラ・ホテルで開かれる会議、という意味)の一室を借り上げた。
 当然、私の仕事は中国代表団を取材することなのだが、そもそも代表団の作業部屋がどこかわからない。なにせ、中国側は、王冠中・軍副総参謀長と傅瑩・全国人民代表大会外事委員会主任委員が代表団トップになるとようやく明らかにしたのも直前だったし、日程も前日か当日にやっとわかるという有り様。
 結局、現場で探して捕まえるしかない。安倍首相や王副総参謀長が演説した大会場の横は、中の様子を映したモニタースペースと喫茶を兼ねた待機部屋になっている。出席者はこの部屋にいることが多い。待ち伏せしていたら、来た、来た。でも、中国の代表団、特に軍人はたいてい2人組かそれ以上で行動している。1人ならまだ話しかけやすいのになあ……。
 思い切って、2人組に声をかけてみた。「こんにちは!日本の記者なんですが」。1人はさっと逃げてしまった。残った1人に名刺を渡して自己紹介すると、相手は少し離れたところにいる仲間の方をちらちら見ながら、顔がこわばっている。日本人記者と一緒にいる場面を仲間に見られたくない、というオーラを発散していた。もちろん、名刺なんてくれない。
 そんな彼らが、31日朝、一変した。その前日に安倍首相が演説したからだ。安倍首相は講演の中で、中国を名指しで批判しないまでも、中国を念頭に「法の支配」を繰り返し訴え、「一方的な行動をとらないという約束を交わすべきだ」と主張した。首相に続き、31日朝にはヘーゲル氏が演説し、「中国はこの数カ月、南シナ海情勢を不安定化させる一方的な行動をとっている」と中国を真っ向から批判した。
 中国政府は、首相が演説の中で中国を名指しで批判している部分があるかどうかに注目していた。首脳会談の判断材料にするためだが、首相の演説を聴いた代表団は早速、外交ルートで北京と連絡をとり、対応を協議したようだ。代表団関係者は「習近平国家主席にその日のうちに報告された」と話した。
 王副総参謀長は31日午前、急きょぶら下がり会見をした。「ヘーゲル氏の話はひどい」「ヘーゲル氏と安倍氏は互いに調子を合わせて中国を批判した」などと激しく非難した。
 廊下ですれ違った軍服姿の国防大教授も、演説の感想を聞くと立ち止まり、「首相は一国のトップのくせに国際会議で他国を批判した。政治家として最低な行為だ」。私が「習主席も訪問先のベルリンでの講演で、南京大虐殺で30万人殺したと日本を批判していた」と言うと、「それは事実だから問題ない」とまくし立てた。
 そして6月1日の王副総参謀長の基調講演。王氏は原稿を読んでいる途中で、「ここでいったん原稿から離れたい」と突然、顔を上げた。
 「今回だれが挑発したかみなさんはおわかりのはずだ。中国が先に事を起こしたことはない」――。10分余りにわたって延々と安倍首相とヘーゲル氏を糾弾。やはり、中国は日本批判となれば、「期待」を裏切らない。ただ、興味深かったのは「ヘーゲル氏の方がまだいい。率直に中国を批判したから」と言ったこと。首相がヘーゲル氏と同じように中国を名指しで批判したら、もっと激しく怒っただろう、と想像した。
 今回のハイライトは、実は王氏の話ではなく、王氏に向けられた会場からの質問だったと思う。「挑発行為を受け身で応じているだけというなら、南シナ海で中国が石油掘削をする前にベトナムはどんな挑発をしたのか」「(中国が南シナ海の管轄権の範囲とする)9段線は国際法に違反する。海は領土ではない。9段線の根拠をちゃんと明らかにするべきだ」など、疑問や批判が集中した。
 王氏は「7分しかない」と時間の短さを理由に、すべての質問に答えず、唯一答えた「9段線」の根拠も、「2千年以上前の漢の時代から……」と歴史の経緯を述べただけだった。
 同僚と手分けして会場の反応をとると、インドの軍関係者は「中国は言葉で平和的共存というが、行動を見れば覇権主義をより強めようとしているだけ」、日本人出席者は「聞いた人はみんな中国の論理が異様だと思っただろう」、インドネシアの出席者は「一国の軍人が他国の首相を国際会議の場で批判するのは異常なことだ」と口々に王氏の反論に疑問を投げかけた。
 今回の会議では、中国の主張や行動が、国際的にいかに「異質」に見られているかが鮮明になったと思う。最初から会議に参加している先輩記者は「今までで一番興味深かった」と話していた。
 王氏が、安倍首相への批判に比べ、ヘーゲル氏に対する批判を明らかに弱めたことで、米国に対してはまだ「韜光養晦(とうこうようかい)」(力の弱いうちは能力を隠す)戦略を維持していることが影響しているのかとも感じた。ある韓国側参加者は「日本を牽制(けんせい)するために意図的に差別していた」と同僚の取材に語った。
 問題は、シンガポールで中国に向けられた視線がちゃんと中国大陸に伝わっているかどうかだ。北京に戻ってから、中国国内の報道ぶりを調べてみた。
 国営新華社通信が30日の開幕と、1日の王氏の講演と質疑応答内容を伝えた程度で、国営中央テレビも同様だった。現場には多数の中国メディア記者も取材に来ていたが、北京の中国人助手は「どの記事も新華社の枠を外れたものはなく、印象に残らなかった」と話した。5月中旬に習主席が出席した上海での「アジア信頼醸成措置会議(CICA)」の大々的な報道ぶりとは大違いという。新華社の論評も、「西側の色彩が濃い」と会議の意義そのものを否定する内容だった。
 安全保障の専門家は「中国の最大の問題点は、自国を客観視できないことだ」と指摘する。せっかくの機会となった今回の会議だが、中国にいる人たちは、国際社会からいまの中国が客観的にどう見られているか、それはなぜか、を知ることはできなかったのではないかと残念に思った。」

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