平和外交研究所

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2013.06.23

戦死者評価は個人基準に

1945年6月23日は沖縄で「組織的戦闘が終了」した日。戦って命を落とされた方々を悼んで、18年前、読売新聞に以下の一文を寄稿した。

「戦後五十年、戦争に関する議論が盛んであるが、戦死者に対する鎮魂の問題については、戦争と個人の関係をよく整理する必要がある。あくまでも個人的見解であるが、一考察してみたい。
個人の行動を評価する場合には、「戦争の犠牲」とか[殉国]などのように、戦争や国家へ貢献したかどうか、あるいは戦争や国家が個人にどんな意義をもったか、などから評価されることが多い。しかし、そのような評価の仕方は、少々考えるべき点があるのではないだろうか。
歴史的には、個人の行動に焦点を当てた評価もあった。例えば「敵ながらあっぱれ」という考えは、その戦争とは明確に区別して、個人の行動を評価している。
では、太平洋戦争末期に十五万人の民間人死者が出た沖縄戦はどうか。中でも、悲運として広く知られるひめゆり学徒隊の行動は、自分たちを守るという強い精神力に支えられたもので、何らかの見返りを期待したのでもなく、条件つきでもなかった。従って「犠牲者」のイメージで連想される弱者には似つかわしくない。勇者と呼ぶにふさわしいと思う。また、[殉国]のイメージとも違う。[殉国]型の評価は、個人が国家のために一身を捧げたとみなされており、自らを守ることについて特に評価は与えられていないのだ。
個人と国家は区別され、その個人の評価は国家に対する献身なり、貢献という角度から下されている。しかし、ひめゆり学徒隊の大部分は、自分自身も、家族も故郷も、祖国も、守るべき対象として一緒に観念していたのではないか。「犠牲者」とか[殉国者]と言うより、人間として極めて優れた行動をとったと評価されるべき場合だったと思う。
これは軍人についても同じことで、「防御ならよいが攻撃は不可」とは考えない。軍人の、刻々の状況に応じた攻撃は、何ら恥ずべきことではない。もちろん罪でもなく、任務であり、当たり前のことである。
他方、このことと戦争全体の性格、すなわち侵略的(攻撃的)か、防御的かは全く別問題である。戦争全体が侵略的であるかないかを問わず、個人の防御的な行動もあれば、攻撃的な行動もある。
さらに、局部的な戦争と戦争全体との関係もやはり区別して評価すべきである。たとえば、沖縄戦はどの角度から見ても防御であった。まさか日本側が米軍に対して攻撃した戦争と思っている人はいないだろう。他方わが国は、太平洋戦争において、侵略を行なってしまったが、防御のために沖縄戦と、侵略を行なってしまったこととの間に何ら矛盾はない。
したがって、軍人の行動を称賛すると、戦争を美化することになるといった考えは誤りであると言わざるを得ない。その行動が、敵に対する攻撃であっても同じことである。もちろん、攻撃すべてが積極的に評価できると言っているのではない。
もう一つの問題は、軍人の行動を「祖国を守るために奮闘した」との趣旨で顕彰することである。この種の顕彰文には、自分自身を守るという自然な感情が、少なくとも隠れた形になっており、個人の行動を中心に評価が行われていない。
顕彰文を例に出して、「軍人が祖国を防衛したことのみを強調するのは、あたかも戦争全体が防御的だったという印象を与え、戦争全体の侵略性を歪曲する」という趣旨の評論が一部にあるが、賛成できない。個人の行動の評価と戦争全体の評価を連動させているからである。
戦争美化と逆であるが、わが国が行った戦争を侵略であったと言うと、戦死者は「犬死に」したことになるという考えがある。これも個人と戦争全体の評価を連動させている誤った考えである。個人の行動を中心に評価するとなれば、積極的に評価できない場合も当然出てくる。
一方、戦死者は平等に弔うべきだという考えがあるが、弔いだけならいい。当然死者は皆丁重に弔うべきだ。しかし、弔いの名分の下に、死者の生前の業績に対する顕彰の要素が混入してくれば問題である。
もしそのように扱うことになれば、間違った個人の行動を客観的に評価することができなくなるのではないか。そうなれば、侵略という結果をもたらした戦争指導の誤りも、弔いとともに顕彰することになりはしないか。それでは、戦争への責任をウヤムヤにするという内外の批判に、到底耐え得ないだろう。
個人の行動を中心に評価することは洋の東西を問わず認められている、と私は信じている。ある一つの戦争を戦う二つの国民が、ともに人間として立派に行動したということは十分ありうることである。片方が攻撃、他方が防御となることが多いだろうが、双方とも人間として高く評価しうる行動をとったということは何ら不思議でない。
個人と戦争全体、国家との関係をこのように整理した上で、戦争という極限状況の中で、あくまで人間として、力の限り、立派に生きた人たちに、日本人、外国人の区別なく、崇高なる敬意を捧げたい。」

2013.06.21

米国の新核運用指針

米国防総省は6月19日、核のない世界を達成するという長期的目標のため、「いま具体的措置を取ることが不可欠」などの文言を含む核兵器の新運用指針(nuclear employment strategy)を公表し、また、オバマ大統領は同日ベルリンで、戦略核弾頭をロシアと合意している数(米ロとも1550)からさらに3分の1削減する提案を行うと表明した。両方を通じて見て、オバマ政権の核軍縮を進める積極的姿勢が表れていると評価できる。
しかし、個別の論点についてはどの程度新味があるのか、どの程度核軍縮として評価すべきか、検討の余地がある。なかでも、「米国は(核攻撃で)民間人や民間施設を意図的に標的にしないThe United States will not intentionally target civilian population or civilian objects.」という一文をどのように解するべきか、問題である。
これについて、「広島や長崎への原爆投下のようなことはしないという方針を示した」という趣旨の解説が見られるが、では、この新しい方針が出る以前は、米国は意図的に民間人を核攻撃する方針であったか。広島および長崎への原爆投下の理由や目的についてはいくつかの説明が行われたが、建前として、民間人を攻撃したという説明はなかったと理解している。国防省は今日に至るまで、核兵器で民間人を意図的に攻撃することを米国の戦略として認めたことはないはずである。
このように考えれば、この一文は新しい方針を表明したのではなく、これまでの方針を再確認したとみなすべきではないか。

2013.06.18

慰安婦に関する橋本発言

橋本大阪市長の慰安婦に関する発言は現在も収束していない。国連の拷問禁止委員会はあらためて問題視する報告を行なった。橋本市長に限ったことでないが、日本の政治家のなかから時折出てくる発言は、慰安婦であった人たちを傷つけ、各国に不快感を抱かせ、日本の国益を損ねている。
とくに、「慰安婦を日本が国家の意思として拉致し、人身売買したのかどうか」という点に焦点を当て、それはなかったという主張を行なうことが問題である。橋本市長は、「日本政府が強制連行を認めた証拠となる閣議決定はないとの立場を譲らない」とも報道されている。
橋本市長とこの問題を懸念する人々との間には大きな認識の相違があり、国際社会の大多数が問題にしているのは、日本政府が慰安婦の置かれていた状況に同情し、その人権侵害についてしかるべき反省をすることである。日本政府を攻撃することが各国の目的ではない。多くの国で、歴史的に、さまざまな形で女性の人権が侵害されてきたからであり、そのような過去を清算することがいかに困難で、また、注意深く対処しなければならず、日本はそのような問題を適切に処理してほしいと願うからである。このことが分からないと、まったく見当はずれの反応をすることになる。
日本政府自身は強制的に拉致しなかったと言い張るのは、そのことに関して言えば、正しいかもしれないが、では、絶望的な状況に置かれていた慰安婦が帰国について自らの意思を自由に表明できるように日本政府は配慮したか、仲介業者が行ったことを調査して不適切な行動があった場合は慰安婦を本国へ送還したか、慰安所を運営管理するなかに、慰安婦に対する有形あるいは無形の人権侵害行為はなかったと言えるか。そこまで日本政府の潔白を証明できないであろう。このようなことをさておいて日本政府が拉致を認める閣議決定したことはないと言い張るのは、一連の人権侵害行為の中で一部のことについて日本政府の責任がないことに焦点を当てることによって、全体の問題性を隠そうとすることであると映る。だからこそ各国は不快視するのである。
さらに言えば、橋本発言は命がけの日々を送っている兵士の境遇には理解があるが、悲惨な状況にあった慰安婦に対する配慮は対照的に欠いている。発言が批判された後に、言葉で「慰安婦の方々には配慮しなければならない」と言っても、全体のトーン、その背後の姿勢はごまかせない。

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