オピニオン
2016.03.01
盧武鉉大統領の全般的特徴
人権派弁護士として学生とともに軍人政治に反対してきた経歴を持つ盧武鉉大統領は、金泳三・金大中両政権の民主化をさらに進めた。とくに歴史の清算にこだわり、日本統治時代の歴史を修正/是正しようとした他、朝鮮戦争時の韓国軍による民間人虐殺、軍事政権下での人権抑圧事件の真相究明にも努めた。
2004年3月、「日帝強制占領下親日反民族行為の真相糾明に関する特別法(通称親日反民族特別法)」を制定。2005年1月の改正で法律名から「親日」を外し、「日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」とした。また、この法律に基づき「真相糾明委員会」を設置した。
2005年5月、金泳三・金大中政権下で成立した過去の清算に関する特別法を含め、総括法として「真実・和解のための過去整理基本法」を制定。
同年12月、「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」を制定。
2006年には全斗煥元大統領らの叙勲を取り消した。
退任の翌年、自殺。政府補助金の不正使用に関係していたことが原因で逮捕は近いと見られていたさなかであった。しかし、この件で検事総長は、「前大統領を死に追いやった」として世論の強い批判を浴び、国民に謝罪した。
また、当時の世論調査では「前大統領に対する捜査は政治報復だ」と答えた人が62.5%あったそうだ。韓国では司法の独立が弱いと指摘されている。これはその一例だった。
日本との関係
2003年6月、初の訪日。日程が顕忠日という殉国者に敬意を払う日と重なり韓国内で批判もあったが、盧武鉉は「私たちはいつまでも過去の足かせに囚われているわけにはいかない」と構わず、訪日を実現した。小泉首相と未来志向的な関係を構築していくこと、シャトル首脳会談を推進することなどに合意した。大統領就任当初は日本に協力的だったのだ。
しかし、2005年2月、島根県議会で「竹島の日を定める条例」制定の動きがあり、3月に成立すると、韓国では強い反発が起こった。高野紀元大使が質問に答えて「竹島は日本領土と考えている」と発言したことから激しい反日デモが発生。
廬武鉉大統領は三一節(3月1日の独立記念日)の演説で、日本に植民地支配への明確な謝罪と反省、賠償を要求した。対日強硬方針への転換宣言だった。
この頃、韓国民にむけた談話のなかで、「外交戦争もあり得る」と述べたと報道された。
小泉首相の靖国神社参拝は2001年以後、退任する2006 年まで毎年1 回ずつ行われた。2004年までは、大きな問題とならなかったが、2005年以後は日韓関係が悪化していたことを背景に問題となり、そうなると関係がさらに悪化するという悪循環に陥った。
盧武鉉大統領は12月の訪日も中止した。
第三国へ訪問中も日本批判を行なった。2005年4月、ドイツで、ドイツの常任理事国入りは支持するが日本は支持しないと述べ、また日本の植民地統治をナチスのホロコーストにたとえた共同宣言を発出することを持ちかけたが、ドイツ側から厳しくたしなめられた(報道)。
2006年4月、盧武鉉大統領は特別談話で、「日本国民と指導者達に丁重に頼みます。我々はこれ以上新たな謝罪を要求はしません。既に累次行った謝罪と符合する行動を要求するだけです。誤った歴史を美化したり正当化したりする行為を韓国の主権と国民的自尊心を侮辱する行為を中止してくれということです。」と発言。
2006年10月、安倍首相が訪韓(就任の翌月)。日本外務省の発表は、「両首脳は胸襟を開いて日韓関係、北朝鮮問題等に関して意見交換した」として主要問題についての話し合いの概要を説明しただけだったが、一部の報道では、「北朝鮮による地下核実験があったにも関わらず、会談時間の半分近くを歴史認識問題に割いたために両国の溝は埋まらず、共同文書の発表に至らなかった」と言われた。
11月、ハノイのAPEC首脳会議の際、安倍首相およびブッシュ米大統領と3者で会談。
米国との関係
盧武鉉は大統領選挙の前から反米で知られていたが、在韓米軍による女子中学生死亡事件やブッシュ大統領の北朝鮮に対する強硬姿勢のために反米機運が高まっており、前歴は大統領選挙で不利にならず、盧武鉉は「反米だからどうだと言うのだ?」などと述べたこともあったと言われていた。
しかし、このような米国に対するツッパリは後に重圧となって跳ね返り、盧武鉉大統領の姿勢に影響を及ぼした。
就任3カ月後の2003年5月、訪米し、「もし53年前に米国が韓国を助けなかったら私は今ごろ政治犯収容所にいたかもしれない」と述べたのも自己の経歴を意識しての発言だったが、米国からの支持は得られず、また国民からも、自虐的かつ国家的自尊心を侮辱する発言だと思われ批判された。
盧武鉉大統領は実際に米国に協力もした。イラク戦争を支持して兵士3260人を派兵した。その理由について、あくまでも平和維持のためだと説き、北朝鮮の核危機を解決するにあたり、米国の支持を得るために派兵が必要なのだと主張したが、反対勢力は盧武鉉を米国の傀儡と非難した。
米国との自由貿易協定(FTA)についても盧武鉉は前向きで、2006年2月、交渉を開始した。これには国内の反対が強かったが、盧武鉉は韓国経済に好影響があると譲らず、締結した。批准は李明博政権下で行われた。
しかし、盧武鉉大統領は韓国内では左派と攻撃され、米国でも高く評価されなかった。
「周辺諸国と案件ごとに選択的協力関係を築く」という廬武鉉の方針も歓迎ざれず、同盟国としてふさわしくない発言と思われた。
また、北朝鮮に対する盧武鉉大統領の姿勢は米国の政策と調和しないとみなされた。
米国との関係は低調なままであった。盧武鉉大統領は3回訪米したが、米国はいずれの時も実務訪問という簡略な儀礼形式で受け入れた。
ニューヨーク・タイムズ紙は2006年9月、「米韓関係はここ数ヶ月で『日本海ほど広がった(as wide as the Sea of Japan)』」と評したこともあった。
韓国内で起こったダグラス・マッカーサー将軍の銅像撤去論争に言及して、「恩を忘れる者ほど悪いものはない。今週の『恩知らず大賞』は韓国が獲得した」と皮肉られたこともあった。韓国はアメリカの三番目の敵国と見なされたこともあった。
時間的には前後するが、2005年10月28日付の東亜日報(韓国の3大新聞の1つ)でさえ、「米ワシントンの知識人層の「反韓認識」に、新しい流れが感知されている。以前にはなかった嘲弄まじりの批判が表われ、共和党議員の間に主に見られた反韓感情が、民主党中心部に広がる兆しまで感知される。知韓派はこのような気流について、「そうではない」という声を出せないでいる。」 と報道した。
戦時作戦統制権の移譲問題もそのような文脈の中で見ていく必要がある。
朝鮮戦争以来米軍が連合軍の統制権を握っており、平時の統制権は1994年に韓国軍に移されていたが、戦時の統制権は依然として米軍にあり、盧武鉉は「自主国防」の観点から韓国軍への移譲を積極的に推進しようとした。米軍は当初懐疑的であったが、韓国側が強く要望するのであれば、移譲してもよいとの考えになり、2007年に12年4月の移譲でいったん合意が成立した。
しかし、移譲は韓国軍にとって両刃の剣であり、また、米軍を朝鮮半島につなぎとめるためにも反対が強く、李明博政権時代の2010年、移譲を15年12月に先送りすると決まったが、その後ヘーゲル米国防長官と韓国の韓民求国防相の間で移譲を再び延期することが合意された。韓国防相は、記者会見で「20年代半ば」がメドだと表明している。
北朝鮮との関係
金大中の太陽政策を引き継ぎ、「関与」と「包容」を重視した。北朝鮮を孤立させないよう積極的にかかわっていくという方針だ。
2004年11月にはロサンゼルスで、「核とミサイルが外部の脅威から自国を守るための抑制手段だという北朝鮮の主張には一理ある」と述べたこともあった。
北朝鮮に肥料や米などの物質的支援もした。太陽政策の象徴である開城工業団地は金大中大統領時代に合意されたが、工事の開始から生産の開始、鉄道輸送は盧武鉉政権下で実現した。
このような盧武鉉の友好的姿勢にも関わらず、北朝鮮は2006年7月、日本を超えて飛行するミサイルを発射した。盧武鉉の立場は苦しくなったはずだが、「果たしてわが国の安保上の危機だったか」「(政府対応が遅れたのは、国民を不安にしないために敢えて)ゆっくり対応した」「敢えて日本のように夜明けからばか騒ぎを起こさなければならない理由は無い」などと、国際社会の見方とは非常に隔たった政府見解を発表した。このような見解は当時の日本との関係を反映していた面もあった。
国連安保理での北朝鮮制裁の決議案については強い警戒感を示した。
ミサイル発射から数日後南北閣僚級会談(第19回)が決裂。しかも北は、「南は北の先軍政治の恩恵をこうむっている」という、恩を仇で返す言葉を浴びせた。
それでも8月15日の光復節では、「過去、北朝鮮が犯した戦争や拉致などで苦痛を受けた人々を思えば、北朝鮮に対して寛容と和解の手を差し伸べることは、決して容易なことではない」としながらも「胸の奥に残っている怒りと憎悪の感情を、もはや克服しなければならない。過去を許し、和解と協力の道に進まなければならない」と述べたため議論を惹起し、「北朝鮮が責任を認め謝罪をしていないうえ、社会的合意がない状態での発言であり、議論を呼ぶものとみられる」と論評された(2006年8月16日付東亜日報)。 後に、盧武鉉大統領はこの発言が原因で、「北朝鮮が過去に行った戦争や拉致を赦す」と言ったと言われるようになった。
しかし、北朝鮮は盧武鉉大統領の融和的姿勢にかまわず、10月に初の核実験を実施した。安保理は制裁決議を採択した。盧武鉉大統領もさすがに「一時は与野党代表や歴代の大統領経験者を集めて意見を聴くといったふらつきを見せたが、その後は従来の路線に立ち戻り、米国から求められた対北朝鮮への制裁拡大に同意しないなど、なおも宥和姿勢を継続する意思を明らかにしている」と評されている(ウィキペディア「盧武鉉」)。
盧武鉉元大統領の対外姿勢
今後の作業の便宜のために作成した李明博前大統領に続くノートである。盧武鉉大統領の全般的特徴
人権派弁護士として学生とともに軍人政治に反対してきた経歴を持つ盧武鉉大統領は、金泳三・金大中両政権の民主化をさらに進めた。とくに歴史の清算にこだわり、日本統治時代の歴史を修正/是正しようとした他、朝鮮戦争時の韓国軍による民間人虐殺、軍事政権下での人権抑圧事件の真相究明にも努めた。
2004年3月、「日帝強制占領下親日反民族行為の真相糾明に関する特別法(通称親日反民族特別法)」を制定。2005年1月の改正で法律名から「親日」を外し、「日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」とした。また、この法律に基づき「真相糾明委員会」を設置した。
2005年5月、金泳三・金大中政権下で成立した過去の清算に関する特別法を含め、総括法として「真実・和解のための過去整理基本法」を制定。
同年12月、「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」を制定。
2006年には全斗煥元大統領らの叙勲を取り消した。
退任の翌年、自殺。政府補助金の不正使用に関係していたことが原因で逮捕は近いと見られていたさなかであった。しかし、この件で検事総長は、「前大統領を死に追いやった」として世論の強い批判を浴び、国民に謝罪した。
また、当時の世論調査では「前大統領に対する捜査は政治報復だ」と答えた人が62.5%あったそうだ。韓国では司法の独立が弱いと指摘されている。これはその一例だった。
日本との関係
2003年6月、初の訪日。日程が顕忠日という殉国者に敬意を払う日と重なり韓国内で批判もあったが、盧武鉉は「私たちはいつまでも過去の足かせに囚われているわけにはいかない」と構わず、訪日を実現した。小泉首相と未来志向的な関係を構築していくこと、シャトル首脳会談を推進することなどに合意した。大統領就任当初は日本に協力的だったのだ。
しかし、2005年2月、島根県議会で「竹島の日を定める条例」制定の動きがあり、3月に成立すると、韓国では強い反発が起こった。高野紀元大使が質問に答えて「竹島は日本領土と考えている」と発言したことから激しい反日デモが発生。
廬武鉉大統領は三一節(3月1日の独立記念日)の演説で、日本に植民地支配への明確な謝罪と反省、賠償を要求した。対日強硬方針への転換宣言だった。
この頃、韓国民にむけた談話のなかで、「外交戦争もあり得る」と述べたと報道された。
小泉首相の靖国神社参拝は2001年以後、退任する2006 年まで毎年1 回ずつ行われた。2004年までは、大きな問題とならなかったが、2005年以後は日韓関係が悪化していたことを背景に問題となり、そうなると関係がさらに悪化するという悪循環に陥った。
盧武鉉大統領は12月の訪日も中止した。
第三国へ訪問中も日本批判を行なった。2005年4月、ドイツで、ドイツの常任理事国入りは支持するが日本は支持しないと述べ、また日本の植民地統治をナチスのホロコーストにたとえた共同宣言を発出することを持ちかけたが、ドイツ側から厳しくたしなめられた(報道)。
2006年4月、盧武鉉大統領は特別談話で、「日本国民と指導者達に丁重に頼みます。我々はこれ以上新たな謝罪を要求はしません。既に累次行った謝罪と符合する行動を要求するだけです。誤った歴史を美化したり正当化したりする行為を韓国の主権と国民的自尊心を侮辱する行為を中止してくれということです。」と発言。
2006年10月、安倍首相が訪韓(就任の翌月)。日本外務省の発表は、「両首脳は胸襟を開いて日韓関係、北朝鮮問題等に関して意見交換した」として主要問題についての話し合いの概要を説明しただけだったが、一部の報道では、「北朝鮮による地下核実験があったにも関わらず、会談時間の半分近くを歴史認識問題に割いたために両国の溝は埋まらず、共同文書の発表に至らなかった」と言われた。
11月、ハノイのAPEC首脳会議の際、安倍首相およびブッシュ米大統領と3者で会談。
米国との関係
盧武鉉は大統領選挙の前から反米で知られていたが、在韓米軍による女子中学生死亡事件やブッシュ大統領の北朝鮮に対する強硬姿勢のために反米機運が高まっており、前歴は大統領選挙で不利にならず、盧武鉉は「反米だからどうだと言うのだ?」などと述べたこともあったと言われていた。
しかし、このような米国に対するツッパリは後に重圧となって跳ね返り、盧武鉉大統領の姿勢に影響を及ぼした。
就任3カ月後の2003年5月、訪米し、「もし53年前に米国が韓国を助けなかったら私は今ごろ政治犯収容所にいたかもしれない」と述べたのも自己の経歴を意識しての発言だったが、米国からの支持は得られず、また国民からも、自虐的かつ国家的自尊心を侮辱する発言だと思われ批判された。
盧武鉉大統領は実際に米国に協力もした。イラク戦争を支持して兵士3260人を派兵した。その理由について、あくまでも平和維持のためだと説き、北朝鮮の核危機を解決するにあたり、米国の支持を得るために派兵が必要なのだと主張したが、反対勢力は盧武鉉を米国の傀儡と非難した。
米国との自由貿易協定(FTA)についても盧武鉉は前向きで、2006年2月、交渉を開始した。これには国内の反対が強かったが、盧武鉉は韓国経済に好影響があると譲らず、締結した。批准は李明博政権下で行われた。
しかし、盧武鉉大統領は韓国内では左派と攻撃され、米国でも高く評価されなかった。
「周辺諸国と案件ごとに選択的協力関係を築く」という廬武鉉の方針も歓迎ざれず、同盟国としてふさわしくない発言と思われた。
また、北朝鮮に対する盧武鉉大統領の姿勢は米国の政策と調和しないとみなされた。
米国との関係は低調なままであった。盧武鉉大統領は3回訪米したが、米国はいずれの時も実務訪問という簡略な儀礼形式で受け入れた。
ニューヨーク・タイムズ紙は2006年9月、「米韓関係はここ数ヶ月で『日本海ほど広がった(as wide as the Sea of Japan)』」と評したこともあった。
韓国内で起こったダグラス・マッカーサー将軍の銅像撤去論争に言及して、「恩を忘れる者ほど悪いものはない。今週の『恩知らず大賞』は韓国が獲得した」と皮肉られたこともあった。韓国はアメリカの三番目の敵国と見なされたこともあった。
時間的には前後するが、2005年10月28日付の東亜日報(韓国の3大新聞の1つ)でさえ、「米ワシントンの知識人層の「反韓認識」に、新しい流れが感知されている。以前にはなかった嘲弄まじりの批判が表われ、共和党議員の間に主に見られた反韓感情が、民主党中心部に広がる兆しまで感知される。知韓派はこのような気流について、「そうではない」という声を出せないでいる。」 と報道した。
戦時作戦統制権の移譲問題もそのような文脈の中で見ていく必要がある。
朝鮮戦争以来米軍が連合軍の統制権を握っており、平時の統制権は1994年に韓国軍に移されていたが、戦時の統制権は依然として米軍にあり、盧武鉉は「自主国防」の観点から韓国軍への移譲を積極的に推進しようとした。米軍は当初懐疑的であったが、韓国側が強く要望するのであれば、移譲してもよいとの考えになり、2007年に12年4月の移譲でいったん合意が成立した。
しかし、移譲は韓国軍にとって両刃の剣であり、また、米軍を朝鮮半島につなぎとめるためにも反対が強く、李明博政権時代の2010年、移譲を15年12月に先送りすると決まったが、その後ヘーゲル米国防長官と韓国の韓民求国防相の間で移譲を再び延期することが合意された。韓国防相は、記者会見で「20年代半ば」がメドだと表明している。
北朝鮮との関係
金大中の太陽政策を引き継ぎ、「関与」と「包容」を重視した。北朝鮮を孤立させないよう積極的にかかわっていくという方針だ。
2004年11月にはロサンゼルスで、「核とミサイルが外部の脅威から自国を守るための抑制手段だという北朝鮮の主張には一理ある」と述べたこともあった。
北朝鮮に肥料や米などの物質的支援もした。太陽政策の象徴である開城工業団地は金大中大統領時代に合意されたが、工事の開始から生産の開始、鉄道輸送は盧武鉉政権下で実現した。
このような盧武鉉の友好的姿勢にも関わらず、北朝鮮は2006年7月、日本を超えて飛行するミサイルを発射した。盧武鉉の立場は苦しくなったはずだが、「果たしてわが国の安保上の危機だったか」「(政府対応が遅れたのは、国民を不安にしないために敢えて)ゆっくり対応した」「敢えて日本のように夜明けからばか騒ぎを起こさなければならない理由は無い」などと、国際社会の見方とは非常に隔たった政府見解を発表した。このような見解は当時の日本との関係を反映していた面もあった。
国連安保理での北朝鮮制裁の決議案については強い警戒感を示した。
ミサイル発射から数日後南北閣僚級会談(第19回)が決裂。しかも北は、「南は北の先軍政治の恩恵をこうむっている」という、恩を仇で返す言葉を浴びせた。
それでも8月15日の光復節では、「過去、北朝鮮が犯した戦争や拉致などで苦痛を受けた人々を思えば、北朝鮮に対して寛容と和解の手を差し伸べることは、決して容易なことではない」としながらも「胸の奥に残っている怒りと憎悪の感情を、もはや克服しなければならない。過去を許し、和解と協力の道に進まなければならない」と述べたため議論を惹起し、「北朝鮮が責任を認め謝罪をしていないうえ、社会的合意がない状態での発言であり、議論を呼ぶものとみられる」と論評された(2006年8月16日付東亜日報)。 後に、盧武鉉大統領はこの発言が原因で、「北朝鮮が過去に行った戦争や拉致を赦す」と言ったと言われるようになった。
しかし、北朝鮮は盧武鉉大統領の融和的姿勢にかまわず、10月に初の核実験を実施した。安保理は制裁決議を採択した。盧武鉉大統領もさすがに「一時は与野党代表や歴代の大統領経験者を集めて意見を聴くといったふらつきを見せたが、その後は従来の路線に立ち戻り、米国から求められた対北朝鮮への制裁拡大に同意しないなど、なおも宥和姿勢を継続する意思を明らかにしている」と評されている(ウィキペディア「盧武鉉」)。
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