平和外交研究所

12月, 2016 - 平和外交研究所 - Page 5

2016.12.07

(短評)トランプ氏の対中関係-蔡英文総統との電話

 トランプ次期米大統領が12月2日、台湾の蔡英文総統と電話で会談したことについて、中国外交部は米国に抗議しつつもあまり大げさに騒ぎ立てない考えのようだ。王毅外相は台湾をあからさまに批判したが、米国に対しては直接文句を言わなかった。
 一方、トランプ氏は、「蔡英文総統からの祝福の電話だった」とツイッターで述べるなど取り合わない姿勢である。
 各国の論評などは、トランプ氏はこれまでの米国の対中姿勢と比べて、「総統(president)」と呼んだことなどいくつかの問題点があったと指摘しているが、今回の電話会談はあまり大ごとにならずに収まる気配である。
 しかし、今回の出来事を通じてトランプ氏が台湾を重視していることがはっきりしてきた。これは台湾にとって大いに喜ばしいことだが、危険もある。
 蔡英文総統は就任以来、中国から「一つの中国」に関する考えを明確にするよう執拗に迫られているが、中国の考えには同調せず、中台関係の現状を維持しようとしている。しかし、蔡英文総統としては中国との関係に消極的な姿勢を見せるとまた批判されるので、中台関係の発展を望む姿勢を取っている。つまり、積極的な姿勢で現状維持を図っているのだが、これは非常にデリケートなことで、ちょっと隙を見せると中国からも、また、台湾内部からも付け込まれる。
 これは蔡英文だからできる離れ業だ。これに対してトランプ新政権が台湾重視の姿勢を不用意に示そうものなら中国から反発を受けることは必至であり、しかもその反発はまず蔡英文に向かうだろう。今回の電話会談についてもきびしく責められたのは蔡英文総統であった。つまり、米国として台湾を重視するあまりかえって台湾を窮地に追い込む危険があるのだ。

 おりしも中国は、蔡英文総統が来年1月グアテマラを訪問する途中米国に滞在(実際には「立ち寄り」だ)することを認めないよう米政府に求めた(6日)。世界保健機構(WHO)や国際民間航空機関(ICAO)での総会に台湾代表が出席するのを拒否したのと軌を一にすることであり、台湾が国際社会で行動することを力づくで差し止めようとしているのだが、蔡英文氏が米国でトランプ氏と会談することなどを警戒しているのだろう。
 今、中国は猛烈な勢いで台湾問題を中国に有利なように打開しようとしている。これに対し、蔡英文総統は台湾内部の親中派を警戒しつつ、中国の攻勢に対処している。このような状況にあって、米国があまりに単純に台湾の肩を持つと、台湾では歓迎されても中国と台湾の関係はもちろん、米中関係にも悪影響が出る恐れがあるので、新政権には慎重なかじ取りが求められる。

2016.12.06

日朝のかすがい、対馬の印象

 11月29日~12月1日、対馬を訪れた。長い間希望していたがなかなか実現しなかった訪問だった。
 対馬は江戸時代、日本外交の最前線であったが、そのことはあまり知られていない。江戸時代の対外関係と言えば、長崎におけるオランダおよび清国との接触しか頭に浮かばない人が多いだろうが、実は、江戸幕府は対馬藩を通じて李朝朝鮮とさまざまな関係を結んでおり、それは外交と呼ぶのにふさわしいものだった。たとえば、国交の回復、貿易の再開、何千人もの朝鮮人捕虜の解放・帰国などである。
 明治になってからも対馬は注目されなかった。わずかに対馬沖の海戦だけが有名だが、日本の安全保障の最前線だったこともある。
 対馬の現状と一般の認識とはかなりのギャップがあるのだ。そんな対馬の現状を自分の目で確かめるのが旅の目的だった。
なお、対馬のこと、とくに外交を語るには、今日の外交にも立派に通用する国際感覚と熱意の持ち主であった雨森芳洲を忘れるわけにいかないが、本稿では特に言及しないことにした。
 
 対馬で出会った旅行者はすべて韓国人だった。これほど韓国人旅行者の比率が高いところは世界中を見渡してもほかにないだろう。
 韓国人旅行者の行動については、日本人から見て眉をひそめるようなことも少しあったが、礼儀正しい人にも出会った。こちらはちょっとしただけだったが、丁寧に「カムサハムニダ(ありがとうございます)」と言われたこともあった。振る舞いに気を付け、礼儀正しくしようと努めている印象だった。
 
 韓国人は土地を買い占めているとも言われている。特にそのことについて調べたわけではないが、対馬は平地が少ないのでそういうことであれば目立つし、反発も起こるだろう。
 対馬の人口は減少傾向にあり、最も多かった1960年の6万9千人と比べると、今はすでにその半分以下になっている。そのような状況では、韓国人が土地を購入する、もっと正確に言えば不動産の売買に韓国人が混じるのはむしろ自然なことである。
 司馬遼太郎の『壱岐・対馬の道』に出てくる永留久恵氏は対馬の事情に詳しく、何冊も本を書いている。『対馬国誌 第三巻 戦争と平和と国際交流』では対馬の振興、韓国との交流などについて論じているが、「土地の買い占め」のようなことは何も書いていない。そのことだけで、また、市役所に尋ねもしないで「買占めなどない」と断定できないのはもちろんだが、大きな問題になっていないのではないかという印象だった。

 対馬は長らく日本防衛の最前線だった。その名残は対馬の処々に残っている。歴史を追ってみていくと、まず、663年、百済を救援するため出兵した日本軍が白村江の戦で新羅・唐の連合軍に敗れたことから始まる。当時、日本では新羅・唐軍が戦勝の勢いで日本に攻めてくるのではないかと恐れ、西日本各地で防衛体制を整備した。その最前線が対馬であり、現在「城山」と呼ばれる半島に「金田城」を築いた。
 大和朝廷は各地から「防人」を対馬へ派遣した。防人は人間味あふれる人たちであり、遠く離れた地で家族を思う心情を歌に詠んだ。防人が高い文学的素養も備えていたこと、そしてまた防人の歌を歌集(万葉集)に採録したことも驚嘆に値する。

 防人は金田城だけでなく対馬の各地に送られた。その一つが、金田城と同じく浅茅湾に面している「竹敷」だった。万葉集には「竹敷」から始まる歌だけでも数首ある。対馬には、防人が詠った場所としてスポットされた場所が数か所あり、その地で詠まれた歌が記念碑に刻まれている。

 それから約6百年後の1274年、日本に侵攻した蒙古(元)軍3万3千のうち約千の軍勢が対馬に来寇し、島の西南部の小茂田浜に上陸した。これを迎え撃ったのは宗助国以下の60騎。衆寡敵せず全滅した。死者を祭った小茂田神社、宗助国の首塚、胴塚などが残っている。
 蒙古軍は金田城にも向かった可能性がある。浅茅湾に入ったばかりのところに「尾崎」という小村があり、蒙古の船団はそこを拠点とした。船が集まるのに適した地形である。現在はマグロの養殖がおこなわれており、多数の筏が見えている。

 次に歴史に登場したのは「倭寇」であった。李氏朝鮮も明も倭寇に荒らされ、対応に苦慮した。日本人ばかりでなく、朝鮮人も中国人も交じっていたと言われているが、その活動の一拠点が浅茅湾内にあったそうだ。
 浅茅湾とは対馬の中央部を西側から割って入る形になっている内水であり、リアス式の複雑な海岸に囲まれて多数の小島が浮かんでいる。隠れるところがいっぱいあったのだろう。今は壱岐対馬国定公園として指定され、風光明媚な地としてPRされている。

 秀吉の始めた朝鮮出兵(文禄慶長の役)においても対馬は前進基地となった。これはあまり語られないことだが、対馬の中心都市、厳原の八幡宮の背後にある清水山は肥前の名護屋(秀吉が築いた朝鮮侵略の拠点)から壱岐を経由して送られてくる物資の中継地であった。
 実証されたことでないのであえて順を追って記さなかったが、神功皇后の「三韓征伐」の際にも「対馬国に御着船あり」、また半島から帰国に際しては「清水山に行幸あり」と八幡宮神社の案内に記載されている。同社の縁起にそう書いてあるのだろう。神功皇后のことは神話に過ぎず歴史とは言えないというのが通説だが、このように実感のある説明を聞くと、はたして神話と片付けてよいかという疑問もわいてきた。

 さらに時代を下って日清、日露戦争時には対馬各地に砲台が築かれた。その数は30にも上ったので対馬全島が要塞化したと言われたそうだ。現在でも多数残っており、観光スポットになっていると観光案内に書いてあるが、ちょっと準備していかなければ難儀するだろう。
 城山には金田城跡以外に、日露戦争に備えて建設された砲台や軍道があり、今は「城山トレッキング」のコースになっている。今回の旅ではそこへ入ることはできなかったが、再度対馬へ行く機会があればぜひ行ってみたいところだ。
対馬沖海戦は対馬の東側で行われ、島からよく見えたそうだ。島民は、船が撃沈され島に上陸したロシアの軍兵を親切に救助したと伝えられている。

 歴史上の激戦地はいくつもあるが、このように4回も日本の歴史に登場するところは対馬以外にない。対馬は朝鮮半島から50キロ弱の距離にあり、晴れておれば北端の韓国展望台から肉眼で釜山の町の灯を見ることができる。また、釜山からの距離は対馬のほうが済州島よりはるかに近い。対馬が日本防衛の最前線となったのはこのような地理的関係にあるからだが、対馬に住む人たちにとっては大変なことだったはずだ。
 江戸時代の日朝外交では対馬藩による国書の偽造が有名だが、対馬藩だけの責めに帰せられるべきことでない。朝鮮との貿易を継続したい江戸幕府が日本のナンバーワンでないのに李王朝を対等の相手とし、かつ相手方の事情を無視して要求を通そうとしたことから生じた問題であり、それを解決しないまま結果を出すこと、つまり円滑な通交を対馬藩は求められた。強制されたに等しかった。厳原の資料館には国書偽造のため使用した10センチ四方の印鑑が展示されている。

 現在の対馬は一見過疎化に悩む山間地のような印象だ。複雑な歴史の跡を見るにはいささかの努力が必要だが、十分値する。
2016.12.05

(短評)朴槿恵大統領の辞任表明


 朴槿恵大統領は11月29日、任期途中で辞任するとともに、その時期は国会の意思にゆだねる意向を表明した。任期途中での辞任表明はもちろん初めてであり、そうせざるをえなくなったのは、連日のデモが収まらず、あまりに多数の国民が退陣を要求するようになったからであり、また、国会の状況も厳しくなり、与党のセヌリ党の中からも朴槿恵大統領と距離を置いている、いわゆる「非朴槿恵」派が野党の求める弾劾案に賛成する可能性が大きくなったからであろう。
 しかし、朴槿恵大統領に即時辞任を要求してきた野党3党はあくまで弾劾の手続きを開始し、12月3日弾劾訴追案を国会に提出し、9日に採決することを目指している。これが今週(5日から始まる)初めの状況だ。
 朴大統領は弾劾という不名誉なことを何としても避けたかったのだろうが、それだけでなく、あまりにも多数の国民が退陣を求めることに衝撃を受け辞任表明をせざるをえなかったものと思われる。政治の経験は豊かで、これまでさまざまな試練を乗り越えてきた朴大統領だが、国民を見るのに一種の誤算があったのかもしれない。

 もちろん、韓国の政情や朴槿恵大統領の思惑などについて本当のことは部外者にはわからない。我々としては韓国民以上に慎重に今後の展開を見守るべきだが、今後の韓国政治は我々にも関係がある。とくに次の諸点が気になる。
 第1に、訴追されているチェ・スンシルとの関係など朴大統領に一定の非があったことは大統領自身認めているが、デモに参加している人たちの不満はその問題に限らず、経済状況、格差、教育など多岐にわたっている。大統領としてすべての国政に責任があるのは当然だが、それらの不満は弾劾に値するようなことか。つまり、国民を見ても国会を見ても大統領が支持を失っていることは分かるが、弾劾しなければならない問題であるのかよく分からない。
 第2に、特別検察官による調査との関係も問題だ。そもそも調査が必要なのは、事態が、朴大統領の犯した問題を含めて明確になっていないからだ。しかしながら、そのような状況であるにもかかわらず、大統領に対して辞任を要求し、弾劾もするとはどういうことか。調査の結果、もし朴大統領の責任は軽微であることが判明したならば、弾劾などすべきでなかったということになるのではないか。つまり、弾劾の断行と特別調査は矛盾しているのではないか。今回の辞任表明でこの矛盾は一層深まった気がする。
 また、チェ・スンシルなどの裁判はこれから始まり、そのなかでいくつかのことが明確にされるだろう。そのことと大統領辞任の間にも一種ちぐはぐな状況がある。
 第3に、外交面においても類似の状況が発生する恐れがある。つまり、韓国民が政府の外交施策に猛烈に反対するデモを起こした場合、その理由が明確でなくても韓国政府はデモの要求に応じるのか。たとえば、野党は慰安婦問題に関する日韓の合意に反対し、再交渉を求める考えであることを表明しており、もし政権を握った場合、現実の問題となる恐れがある。
 第4に、韓国には東アジアの平和と安定にとって重要な役割があるが、韓国自身が不安定化すれば地域全体にも負の影響が及ぶのではないか。さしあたっては北朝鮮との関係でも影響がありうる。

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