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2018.08.14
スイスとセルビアの試合において、スイスの選手がセルビアにとって侮辱的ととられる恐れのある行動をしました。そのスイスの選手はセルビアが認めないコソボからスイスに移住した人だったからです。THE PAGEに寄稿しました。
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W杯ゴールパフォーマンスが波紋 「コソボ紛争」を振り返る
昨日に続いてサッカーWC関係です。スイスとセルビアの試合において、スイスの選手がセルビアにとって侮辱的ととられる恐れのある行動をしました。そのスイスの選手はセルビアが認めないコソボからスイスに移住した人だったからです。THE PAGEに寄稿しました。
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2018.08.13
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W杯でモドリッチが活躍 旧「ユーゴ連邦」紛争の歴史と現在
サッカーのWCロシア大会で活躍したモドリッチの母国はクロアチアです。この国や隣国のセルビア、ボスニアがある西バルカンは日本との縁が薄く、わかりにくい地域です。サッカーWCを機会に歴史的背景を紹介する一文をTHE PAGEに寄稿しました。、こちらをクリック
2018.07.24
東欧と南欧の地図を見ながら説明すると、ハンガリーの南側はバルカン半島と呼ばれる地域であり、その東側半分はルーマニアとブルガリアで、比較的安定しているが、西側半分(西バルカン)は様々な事情により政治状況は非常に複雑である。
日本人にとっては、この複雑さと日本との関係の少なさのため、この地域の特徴はつかみにくい。
そして、バルカンをさらに南へ下るとトルコとなり、日本人の目にもイメージははっきりしてくる。
クロアチアは西バルカンの一国であり、人口的には2番目だ。最も人口が多いのはセルビアで、3番目がボスニアヘルツェゴビナである。本稿の表題はこの人口順に並べて表示した。
どの国もサッカーが盛んであり、セルビアも今大会に出場したが、16強に残れなかった。ボスニアも後で述べるように優秀なサッカー選手を輩出している。
西バルカンにはこの3国のほか、スロヴェニア、モンテネグロ、コソボ、マケドニア、アルバニアなどの国がある。
民族的には、西バルカンの諸民族は、すべてロシアと同じスラブ民族である。その使用言語は方言程度の違いはあるが、基本的には同じである。各国とも独自の言語を使用しているように言っており、たとえばクロアチアでは「クロアチア語」を話すと説明しているが、それはナショナリズムのせいであり、実際にはセルビア語とクロアチア語は日本の関東弁と関西弁ほどの違いもない。
しかし、国境線は同じ言葉を話す人たちを分断する形で引かれている。最大の理由は、歴史的にバルカン半島が北のオーストリア・ハンガリー帝国と南のオスマン帝国の勢力分岐点であったためであり、第一次世界大戦に至るまでの数百年間、クロアチアだけはオーストリア・ハンガリーによって、その他はオスマン帝国によって支配されていた。
この状況は宗教面にも反映している。クロアチア人の大多数はローマ・カトリックであるが、ボスニアはイスラムである。セルビアはセルビア人勢力が強かったので正教(ギリシャ正教やロシア正教と同系統であり、セルビア正教と呼ぶ場合もある)が主流である。宗教以外では、イスラムの影響は至る所に残っている。セルビアの田舎を旅行すると、いかにもトルコ風というか、イスラム風の音楽が聞こえてくる。
西バルカンには、かねてからこの地域を一つの国にしようとする「大セルビア主義」構想があり、第二次大戦後にユーゴスラビアとなって実現した。セルビア、クロアチア、ボスニア、さらにその他の西バルカン諸国は、アルバニアを除き、すべてユーゴスラビアに組み込まれた。
ユーゴスラビアになっても日本にとってはなじみが薄かったが、第一次世界大戦がボスニアの首都サラエボから起こったことは例外的に有名である。
個人で日本に知られているのは、ユーゴスラビアを建国したヨシップ・ブロズ・チトー(単にチトーと呼ばれることが多い。クロアチア生まれ)である。大戦中ナチスと戦い、戦後にユーゴを建設した立役者であり、国際的にも非同盟運動の指導者としてインドのネルーなどと並び称せられた人物であった。
ニコラ・テスラ(クロアチア生まれ)は世界で初めて交流電流を実用化した。エジソンと同時代であり、エジソンはマルチ発明王として有名だが、テスラは知られていない。テスラ自動車会社が同人の名を受け継いだことも知る人は少ない。しかし、電流の実用化の面ではエジソンは直流であり、後の工業化に貢献した度合いではテスラのほうがはるかに上であった。
スポーツにおいては日本でもよく知られている選手が何人かいる。サッカーではモドリッチ(クロアチア)のほか、ストイコビッチ(セルビア)、ハリルホジッチ(ボスニア)、オシム(ボスニア)も有名である。テニスでは、ジョコビッチ(セルビア)がいる。
チトーは1980年に死去。それから10年余りたつと、ユーゴスラビアは解体し小国割拠状態になり始めた。ユーゴの内戦である。主要な戦闘は数年で終わったが、解体の過程は現在に至るも完全には終わっていない。
バルカンでは、内戦以前から、最大の民族であるセルビア人がセルビア以外の地にも多数居住していた。それで何も問題はなく、セルビア人もクロアチア人もその他の民族も仲良く暮らしていたが、各国が独立を求めセルビアと戦うに至り、民族間の衝突が生じてしまった。
セルビアはクロアチアなどの独立を阻止するため、また、自国民を保護するため兵を出したのだが、その行動は過激になり、多数の民間人が犠牲になり、また、難民となった。モドリッチの祖父は殺害されたクロアチア人の一人であった。
ボスニアの首都サラエボでは大きな公園を墓場にして多数の死者を弔った。急激に多数の人が犠牲となったのでそうするよりほかに方法がなかったのである。
ユーゴの内戦に対し、EU、国連、米国などが関与して和平の実現に努めた。この和平に至る過程も複雑であり、国際社会のリード役はEUと国連から米国になった。内戦が終結し、現在の国境が確定したのは1995年の末であった。
セルビア・クロアチア・ボスニア
今回のサッカーワールドカップ・ロシア大会決勝でクロアチアはフランスに敗れ準優勝で終わったが、その活躍ぶりには世界が目を見張った。同国のエース、モドリッチは今大会の最優秀選手に選ばれ、プーチン大統領からゴールデンボールのトロフィーを受け取った。しかし、クロアチアがどのような国なのか、知っている日本人は極めて少数だろう。東欧と南欧の地図を見ながら説明すると、ハンガリーの南側はバルカン半島と呼ばれる地域であり、その東側半分はルーマニアとブルガリアで、比較的安定しているが、西側半分(西バルカン)は様々な事情により政治状況は非常に複雑である。
日本人にとっては、この複雑さと日本との関係の少なさのため、この地域の特徴はつかみにくい。
そして、バルカンをさらに南へ下るとトルコとなり、日本人の目にもイメージははっきりしてくる。
クロアチアは西バルカンの一国であり、人口的には2番目だ。最も人口が多いのはセルビアで、3番目がボスニアヘルツェゴビナである。本稿の表題はこの人口順に並べて表示した。
どの国もサッカーが盛んであり、セルビアも今大会に出場したが、16強に残れなかった。ボスニアも後で述べるように優秀なサッカー選手を輩出している。
西バルカンにはこの3国のほか、スロヴェニア、モンテネグロ、コソボ、マケドニア、アルバニアなどの国がある。
民族的には、西バルカンの諸民族は、すべてロシアと同じスラブ民族である。その使用言語は方言程度の違いはあるが、基本的には同じである。各国とも独自の言語を使用しているように言っており、たとえばクロアチアでは「クロアチア語」を話すと説明しているが、それはナショナリズムのせいであり、実際にはセルビア語とクロアチア語は日本の関東弁と関西弁ほどの違いもない。
しかし、国境線は同じ言葉を話す人たちを分断する形で引かれている。最大の理由は、歴史的にバルカン半島が北のオーストリア・ハンガリー帝国と南のオスマン帝国の勢力分岐点であったためであり、第一次世界大戦に至るまでの数百年間、クロアチアだけはオーストリア・ハンガリーによって、その他はオスマン帝国によって支配されていた。
この状況は宗教面にも反映している。クロアチア人の大多数はローマ・カトリックであるが、ボスニアはイスラムである。セルビアはセルビア人勢力が強かったので正教(ギリシャ正教やロシア正教と同系統であり、セルビア正教と呼ぶ場合もある)が主流である。宗教以外では、イスラムの影響は至る所に残っている。セルビアの田舎を旅行すると、いかにもトルコ風というか、イスラム風の音楽が聞こえてくる。
西バルカンには、かねてからこの地域を一つの国にしようとする「大セルビア主義」構想があり、第二次大戦後にユーゴスラビアとなって実現した。セルビア、クロアチア、ボスニア、さらにその他の西バルカン諸国は、アルバニアを除き、すべてユーゴスラビアに組み込まれた。
ユーゴスラビアになっても日本にとってはなじみが薄かったが、第一次世界大戦がボスニアの首都サラエボから起こったことは例外的に有名である。
個人で日本に知られているのは、ユーゴスラビアを建国したヨシップ・ブロズ・チトー(単にチトーと呼ばれることが多い。クロアチア生まれ)である。大戦中ナチスと戦い、戦後にユーゴを建設した立役者であり、国際的にも非同盟運動の指導者としてインドのネルーなどと並び称せられた人物であった。
ニコラ・テスラ(クロアチア生まれ)は世界で初めて交流電流を実用化した。エジソンと同時代であり、エジソンはマルチ発明王として有名だが、テスラは知られていない。テスラ自動車会社が同人の名を受け継いだことも知る人は少ない。しかし、電流の実用化の面ではエジソンは直流であり、後の工業化に貢献した度合いではテスラのほうがはるかに上であった。
スポーツにおいては日本でもよく知られている選手が何人かいる。サッカーではモドリッチ(クロアチア)のほか、ストイコビッチ(セルビア)、ハリルホジッチ(ボスニア)、オシム(ボスニア)も有名である。テニスでは、ジョコビッチ(セルビア)がいる。
チトーは1980年に死去。それから10年余りたつと、ユーゴスラビアは解体し小国割拠状態になり始めた。ユーゴの内戦である。主要な戦闘は数年で終わったが、解体の過程は現在に至るも完全には終わっていない。
バルカンでは、内戦以前から、最大の民族であるセルビア人がセルビア以外の地にも多数居住していた。それで何も問題はなく、セルビア人もクロアチア人もその他の民族も仲良く暮らしていたが、各国が独立を求めセルビアと戦うに至り、民族間の衝突が生じてしまった。
セルビアはクロアチアなどの独立を阻止するため、また、自国民を保護するため兵を出したのだが、その行動は過激になり、多数の民間人が犠牲になり、また、難民となった。モドリッチの祖父は殺害されたクロアチア人の一人であった。
ボスニアの首都サラエボでは大きな公園を墓場にして多数の死者を弔った。急激に多数の人が犠牲となったのでそうするよりほかに方法がなかったのである。
ユーゴの内戦に対し、EU、国連、米国などが関与して和平の実現に努めた。この和平に至る過程も複雑であり、国際社会のリード役はEUと国連から米国になった。内戦が終結し、現在の国境が確定したのは1995年の末であった。
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