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2015.01.22
ミンスク合意は、停戦および捕虜の釈放の他、ドネツクおよびルガンスク両地方の自治権を拡大する法律をウクライナが制定すること、ウクライナとロシアの国境に安全地帯を設け、停戦違反が起こらないようOSCEが監視をすること、紛争当事者を交えウクライナ政府および各地方が対話を継続すること、ドネツクおよびルガンスク地方の地位に関する法律に従い選挙を行なうこと、不法な武装グループ、兵器、兵士をウクライナから排除することなどを決めた。
しかし、ミンスク合意直後から違反が相次ぎ、9月19日ミンスク議定書を補完する新しい覚書が作られ、安全地帯の幅は国境からそれぞれ15キロとし、重火器の持ち込み禁止、挑発的行為の禁止、安全地帯上空の飛行禁止、紛争地域からすべての外国兵の撤退などが決められた。
地位に関する法律はまだ成立していないが、両地方は11月2日、選挙を敢行し、それぞれ共和国となったと宣言した。これをウクライナのポロシェンコ大統領は認めないと表明したのは当然である。OSCEの議長はこの選挙はミンスク合意に違反しており、事態を複雑化させると批判した。
この他、NATOのJens Stoltenberg事務総長は11月末、百台以上のトラックがウクライナの許可なしにロシアから越境し、停戦協定に違反して先端兵器を大量に親ロシア派に運び込んでいる、と非難した。
これに対し、ロシア側は、兵士は自発的に休暇に出かけている、エストニアの病院にサイバー攻撃をかけたときに政府は一部愛国者がサイバー攻撃するのを完全には止められないなどと言い訳しているそうである。西側はこのようなのらりくらりの対応に手を焼いているそうである。
一方、ロシアのラブロフ外相は、11月に行なわれた選挙はミンスク合意の範囲内である、ウクライナは10月のウクライナ議会選挙の後恩赦に関する法律を制定した後にOSCEは監視活動を開始できる、この法律はまだ制定されていない、などと主張した(12月5日)。
14日には、ロケット弾の流れ弾がウクライナのバスに当たって12人が死亡する事件が発生し、Poroshenko大統領は、ロケット弾は反政府軍が発射したものだと非難し、ロシア外務省はウクライナの策略だと非難の応酬となった。
情勢悪化はついに、ウクライナによる非同盟政策の放棄にまで発展してしまった。非同盟路線は2010年からウクライナの法律で規定されており、ウクライナがNATOに傾くことを防ぐ役割を果たしてきた。しかるに、ウクライナ東部情勢の悪化はウクライナをNATOに押しやる結果となり、ウクライナの最高会議(議会)は12月23日、「ウクライナによる非同盟政策放棄に関する複数のウクライナ法への修正に関する」法を賛成多数で採択した。同法は、ウクライナがNATOへの加盟に必要とされる基準に到達することを目的としてNATOとの協力を深化することも謳っている。ポロシェンコ大統領は今後、NATO加盟の可否について国民投票を実施する方針だと伝えられている。
ウクライナがNATOに加盟することは、ロシアにとってEU加盟よりはるかに深刻な問題であり、もしそのような動きを見せればロシアは開き直って軍事介入するかもしれないと言われるほど大きな問題であった。
ウクライナはついにNATOに傾くか
ロシア系住民が多いウクライナ東部の情勢はますます悪化しているようだ。昨年の9月5日にベラルーシの首都ミンスクでOSCE(欧州安全保障協力機構)の立会いの下でウクライナ、ロシア、ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国(最後の2つはウクライナ東部の地域)の間で停戦がようやく成立し、ミンスク議定書が署名されて以降の主要な出来事を簡単にまとめてみた。ミンスク合意は、停戦および捕虜の釈放の他、ドネツクおよびルガンスク両地方の自治権を拡大する法律をウクライナが制定すること、ウクライナとロシアの国境に安全地帯を設け、停戦違反が起こらないようOSCEが監視をすること、紛争当事者を交えウクライナ政府および各地方が対話を継続すること、ドネツクおよびルガンスク地方の地位に関する法律に従い選挙を行なうこと、不法な武装グループ、兵器、兵士をウクライナから排除することなどを決めた。
しかし、ミンスク合意直後から違反が相次ぎ、9月19日ミンスク議定書を補完する新しい覚書が作られ、安全地帯の幅は国境からそれぞれ15キロとし、重火器の持ち込み禁止、挑発的行為の禁止、安全地帯上空の飛行禁止、紛争地域からすべての外国兵の撤退などが決められた。
地位に関する法律はまだ成立していないが、両地方は11月2日、選挙を敢行し、それぞれ共和国となったと宣言した。これをウクライナのポロシェンコ大統領は認めないと表明したのは当然である。OSCEの議長はこの選挙はミンスク合意に違反しており、事態を複雑化させると批判した。
この他、NATOのJens Stoltenberg事務総長は11月末、百台以上のトラックがウクライナの許可なしにロシアから越境し、停戦協定に違反して先端兵器を大量に親ロシア派に運び込んでいる、と非難した。
これに対し、ロシア側は、兵士は自発的に休暇に出かけている、エストニアの病院にサイバー攻撃をかけたときに政府は一部愛国者がサイバー攻撃するのを完全には止められないなどと言い訳しているそうである。西側はこのようなのらりくらりの対応に手を焼いているそうである。
一方、ロシアのラブロフ外相は、11月に行なわれた選挙はミンスク合意の範囲内である、ウクライナは10月のウクライナ議会選挙の後恩赦に関する法律を制定した後にOSCEは監視活動を開始できる、この法律はまだ制定されていない、などと主張した(12月5日)。
14日には、ロケット弾の流れ弾がウクライナのバスに当たって12人が死亡する事件が発生し、Poroshenko大統領は、ロケット弾は反政府軍が発射したものだと非難し、ロシア外務省はウクライナの策略だと非難の応酬となった。
情勢悪化はついに、ウクライナによる非同盟政策の放棄にまで発展してしまった。非同盟路線は2010年からウクライナの法律で規定されており、ウクライナがNATOに傾くことを防ぐ役割を果たしてきた。しかるに、ウクライナ東部情勢の悪化はウクライナをNATOに押しやる結果となり、ウクライナの最高会議(議会)は12月23日、「ウクライナによる非同盟政策放棄に関する複数のウクライナ法への修正に関する」法を賛成多数で採択した。同法は、ウクライナがNATOへの加盟に必要とされる基準に到達することを目的としてNATOとの協力を深化することも謳っている。ポロシェンコ大統領は今後、NATO加盟の可否について国民投票を実施する方針だと伝えられている。
ウクライナがNATOに加盟することは、ロシアにとってEU加盟よりはるかに深刻な問題であり、もしそのような動きを見せればロシアは開き直って軍事介入するかもしれないと言われるほど大きな問題であった。
2015.01.20
○今次会議は従来の政治局常務委員会議の方式を打破した。全国人民代表大会(注 日本の国会に当たる)、国務院(注 政府)、全国政治協商会議(注 共産党以外の党派、団体、各界を糾合する組織。「統一戦線」組織とも言われる)、最高法院および最高検察院の党組織は共産党中央の象徴である習近平に対して報告を行なった。これは、「集団指導体制」より個人に権力が集中していることを意味しており、習近平を最高権力者とする新しい集団体制である。
○今次会議は「集中統一指導」の考えを打ち出した。これは根本的な政治規範である。従来は鄧小平の指導下の「民主集中制」が根本的な指導原理・指導制度であった。民主集中制の下では権力のチェック・アンド・バランスが図られており、独裁者は出現しにくい。「集中統一制」の下では「民主集中制」を基礎として集中統一指導が行われる。
○今次会議では、軍事委員会から報告が行われなかったが、そうなったのは習近平がすでに中央軍事委員会のトップになっているからである。習近平は民主集中制の下で各領域に分散されていた権力を統一する。
○中共は全国人民代表大会、国務院、全国政治協商会議、最高法院、最高検察院を指導し、これら5つの組織は中共中央の指導を受ける。李国強ら5つの組織の責任者は習近平主席とは同僚でなく、上下関係になる。
中国共産党は従来から実質的には一党独裁であり、すべてを指導してきた。しかし、そのナンバーワンであってもなんでも思いのままになったわけではなく、一定程度は抑制する力が働いていた。中国共産党の歴史上もっとも独裁的な権力を握っていたのは毛沢東であるが、それでも権力を失いかけたことがあった。最高決定機関である政治局常務委員会議は合議制であり、総書記といえども反対意見が多ければ自分の考えを押し通すことはできなかった。もちろんそうならないよう、会議の前に根回しが行われるが、そのようなことが必要なのは合議制だからであった。要するに、総書記は「同輩の中の首席」的な性格が強かったのである。革命戦争の経験を持たない江沢民や胡錦濤はまさにそのような存在であった。
習近平も当然この2人のような総書記になるはずであるが、今次会議は習近平主席と他の政治局常務委員は「上下関係にある」としたので、今後は習近平の鶴の一声で物事を決めることが可能になる。習近平主席は就任以来2年余りの間に、権力を自らに集中させてきたが、今次会議ではそれが制度的に裏付けられたのであり、その独裁体制は一歩も二歩も進んだとみられる。
習近平総書記の独裁体制を認めた政治局常務委員会議
1月16日、中国共産党中央政治局常務委員会議が開催された。中国のトップ7が集まる会議であり、今回はとくに重要な決定が行われた。注目されるのは以下の4点であると多維新聞(米国に本拠がある中国語新。中国内政にはよく通じている)は解説している。○今次会議は従来の政治局常務委員会議の方式を打破した。全国人民代表大会(注 日本の国会に当たる)、国務院(注 政府)、全国政治協商会議(注 共産党以外の党派、団体、各界を糾合する組織。「統一戦線」組織とも言われる)、最高法院および最高検察院の党組織は共産党中央の象徴である習近平に対して報告を行なった。これは、「集団指導体制」より個人に権力が集中していることを意味しており、習近平を最高権力者とする新しい集団体制である。
○今次会議は「集中統一指導」の考えを打ち出した。これは根本的な政治規範である。従来は鄧小平の指導下の「民主集中制」が根本的な指導原理・指導制度であった。民主集中制の下では権力のチェック・アンド・バランスが図られており、独裁者は出現しにくい。「集中統一制」の下では「民主集中制」を基礎として集中統一指導が行われる。
○今次会議では、軍事委員会から報告が行われなかったが、そうなったのは習近平がすでに中央軍事委員会のトップになっているからである。習近平は民主集中制の下で各領域に分散されていた権力を統一する。
○中共は全国人民代表大会、国務院、全国政治協商会議、最高法院、最高検察院を指導し、これら5つの組織は中共中央の指導を受ける。李国強ら5つの組織の責任者は習近平主席とは同僚でなく、上下関係になる。
中国共産党は従来から実質的には一党独裁であり、すべてを指導してきた。しかし、そのナンバーワンであってもなんでも思いのままになったわけではなく、一定程度は抑制する力が働いていた。中国共産党の歴史上もっとも独裁的な権力を握っていたのは毛沢東であるが、それでも権力を失いかけたことがあった。最高決定機関である政治局常務委員会議は合議制であり、総書記といえども反対意見が多ければ自分の考えを押し通すことはできなかった。もちろんそうならないよう、会議の前に根回しが行われるが、そのようなことが必要なのは合議制だからであった。要するに、総書記は「同輩の中の首席」的な性格が強かったのである。革命戦争の経験を持たない江沢民や胡錦濤はまさにそのような存在であった。
習近平も当然この2人のような総書記になるはずであるが、今次会議は習近平主席と他の政治局常務委員は「上下関係にある」としたので、今後は習近平の鶴の一声で物事を決めることが可能になる。習近平主席は就任以来2年余りの間に、権力を自らに集中させてきたが、今次会議ではそれが制度的に裏付けられたのであり、その独裁体制は一歩も二歩も進んだとみられる。
2015.01.17
内容は、小笠原および沖縄諸島の返還(それぞれ1968年、1972年)、核実験の停止・禁止(50年代からの経緯は複雑)、核兵器不拡散条約交渉(NPT 条約が成立したのは1968年)、日本の非核3原則(現在の形で表明されたのは1967年)、通常兵器の取引規制(日本は67年に多国間で取引を規制する提案を行なった)、日本の武器輸出三原則(佐藤首相の67年発言を経て三木首相が76年に表明した)など、戦後史のみならず現在の日本の対外政策の基本に関わる重要な記録である。
各新聞は公開された文書を大きく報道しており、とくに、沖縄返還に先立つ1965年、佐藤首相が同地を訪問した際に、演説原稿にはなかったことであるが、極東における沖縄の戦略的・軍事的重要性について言及することを米政府から強く求められ、結局応じることとなったことに各紙とも焦点を当てている。強い立場の米国が弱い立場の日本に注文を付けたという印象が強いのでそのような報道になったのは分からないではないが、沖縄が極東において重要な戦略的・軍事的な地位にあることは当然であり、そう考えると米政府の要請をそのような角度から、つまり強圧的であったのではないかという角度から取り上げるのは適切でないのではないかという気がする。ただし、沖縄返還がまだ実現していない当時は、戦略的・軍事的に重要だということは沖縄の将来に関わる強い政治的な意味合いがあったので日本政府が慎重に構え、深入りしたくなかったことも理解できる。
公開された文書には、日本が、一方では米国の核の抑止力に依存しなければならないが、他方では日本で核兵器が使用される可能性は排除したい、「非核」の立場を取りたいという矛盾した考慮があったことが如実に示されている。この矛盾は現在も存在しており、広く知られていることと言えるが、当時は日本の姿勢が試されていた。すなわち、中国は1964年に初の核実験を行なっており、日本としては米国の核の傘が絶対的に必要であった。1966年の国連総会では、日本政府は、NPTの交渉において、核兵器の持ち込みが禁止されることになるかもしれないと警戒し、そのような考えには日本として同調できないと国連総会への代表団宛の訓令で明確に指示していた。この時点ではNPTの交渉がたけなわであり、日本は「非核保有国」となることがほぼ確実視されていた。そうなると核兵器の持ち込みまで禁止されると困ったことになるのであった。
しかし、日本が表だって、核の持ち込みはNPTで禁止されるべきでないと主張すると2つの方面に問題があった。1つは、NPT自体の交渉に問題を投げかけることになるからであった。米国もソ連も、いざというときには核兵器を世界のどこでも使わざるをえなくなるという考えであったが、そのことを議論し始めるととくに非同盟諸国は強く反対するであろうからNPTの交渉が危うくなる。実際NPTは不平等条約として反対する勢力は強かった。だから米ソはそのようなことはおおっぴらに議論したくなかった。つまり、米国やソ連も、核兵器はどこでも使わなければならないが、NPTを成立させるには核兵器を非核保有国に広げることはできない、という矛盾した状況があったのである。
ともかく、日本政府は翌年には核兵器の持ち込みは必要という考えを口にしなくなったどころか、佐藤首相は非核三原則を掲げ、核兵器を「持ち込まない」、現在は「持ち込ませない」と言われる立場を明言していた。前年の国連総会の際の訓令とは正反対の立場であった。この立場はNPTを成立させるには好都合である。米国は核を持ち込まないという日本の立場表明を歓迎した。ただし、どうしても必要なときは持ち込むという「密約」付きで。
核兵器を持ち込まないというのはNPTとの関連以外に、小笠原諸島や沖縄諸島に核兵器を持ち込まない、つまり残さないという国内事情からも重要なことであった。日本としてはむしろこちらの方が深刻な政治問題であったかもしれない。だから、非核三原則で「核を持ち込まない」というのは2重の意味で必要な態度表明だったのである。しかし、核兵器の抑止力には引き続き依存せざるをえなかった。その間の事情が今回の外交文書公開によってかなり明確になったのである。
外交文書公開で明らかになった非核三原則の裏事情
外務省が1月15日に公開した外交文書は1960年代から70年代のものが中心であるが、50年代の文書も含まれている。内容は、小笠原および沖縄諸島の返還(それぞれ1968年、1972年)、核実験の停止・禁止(50年代からの経緯は複雑)、核兵器不拡散条約交渉(NPT 条約が成立したのは1968年)、日本の非核3原則(現在の形で表明されたのは1967年)、通常兵器の取引規制(日本は67年に多国間で取引を規制する提案を行なった)、日本の武器輸出三原則(佐藤首相の67年発言を経て三木首相が76年に表明した)など、戦後史のみならず現在の日本の対外政策の基本に関わる重要な記録である。
各新聞は公開された文書を大きく報道しており、とくに、沖縄返還に先立つ1965年、佐藤首相が同地を訪問した際に、演説原稿にはなかったことであるが、極東における沖縄の戦略的・軍事的重要性について言及することを米政府から強く求められ、結局応じることとなったことに各紙とも焦点を当てている。強い立場の米国が弱い立場の日本に注文を付けたという印象が強いのでそのような報道になったのは分からないではないが、沖縄が極東において重要な戦略的・軍事的な地位にあることは当然であり、そう考えると米政府の要請をそのような角度から、つまり強圧的であったのではないかという角度から取り上げるのは適切でないのではないかという気がする。ただし、沖縄返還がまだ実現していない当時は、戦略的・軍事的に重要だということは沖縄の将来に関わる強い政治的な意味合いがあったので日本政府が慎重に構え、深入りしたくなかったことも理解できる。
公開された文書には、日本が、一方では米国の核の抑止力に依存しなければならないが、他方では日本で核兵器が使用される可能性は排除したい、「非核」の立場を取りたいという矛盾した考慮があったことが如実に示されている。この矛盾は現在も存在しており、広く知られていることと言えるが、当時は日本の姿勢が試されていた。すなわち、中国は1964年に初の核実験を行なっており、日本としては米国の核の傘が絶対的に必要であった。1966年の国連総会では、日本政府は、NPTの交渉において、核兵器の持ち込みが禁止されることになるかもしれないと警戒し、そのような考えには日本として同調できないと国連総会への代表団宛の訓令で明確に指示していた。この時点ではNPTの交渉がたけなわであり、日本は「非核保有国」となることがほぼ確実視されていた。そうなると核兵器の持ち込みまで禁止されると困ったことになるのであった。
しかし、日本が表だって、核の持ち込みはNPTで禁止されるべきでないと主張すると2つの方面に問題があった。1つは、NPT自体の交渉に問題を投げかけることになるからであった。米国もソ連も、いざというときには核兵器を世界のどこでも使わざるをえなくなるという考えであったが、そのことを議論し始めるととくに非同盟諸国は強く反対するであろうからNPTの交渉が危うくなる。実際NPTは不平等条約として反対する勢力は強かった。だから米ソはそのようなことはおおっぴらに議論したくなかった。つまり、米国やソ連も、核兵器はどこでも使わなければならないが、NPTを成立させるには核兵器を非核保有国に広げることはできない、という矛盾した状況があったのである。
ともかく、日本政府は翌年には核兵器の持ち込みは必要という考えを口にしなくなったどころか、佐藤首相は非核三原則を掲げ、核兵器を「持ち込まない」、現在は「持ち込ませない」と言われる立場を明言していた。前年の国連総会の際の訓令とは正反対の立場であった。この立場はNPTを成立させるには好都合である。米国は核を持ち込まないという日本の立場表明を歓迎した。ただし、どうしても必要なときは持ち込むという「密約」付きで。
核兵器を持ち込まないというのはNPTとの関連以外に、小笠原諸島や沖縄諸島に核兵器を持ち込まない、つまり残さないという国内事情からも重要なことであった。日本としてはむしろこちらの方が深刻な政治問題であったかもしれない。だから、非核三原則で「核を持ち込まない」というのは2重の意味で必要な態度表明だったのである。しかし、核兵器の抑止力には引き続き依存せざるをえなかった。その間の事情が今回の外交文書公開によってかなり明確になったのである。
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