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中国

2014.08.17

中国雑記 8月16日まで

○NYT紙のネットサイトは8月14日、習近平はすでに反腐敗闘争の目標を江沢民に定めているという内容の記事を流している。作者は狄雨霏(Didi Kirsten Tatlow)。その根拠として、301医院に掲げられていた江沢民の字が撤去されていたことを示す写真もつけている。ただし、その字は14日には元の場所に戻されていた。
○追及の手は中央電視台にもおよび大ボスの郭振玺に続いて、10人が連行された。14日にはCCTV-8の副总监黄海涛も連行された(多維新聞8月15日)
○8月15~18日、寧波あるいは上海沖で実弾の発射訓練を行うので一定範囲の海域が立ち入り禁止となった。我が国の終戦記念日と関係しているかもしれない。
○鄧小平の評価に関わる言論が増えている。8月22日が生誕110周年に当たるので同人関係の評論などが増えているのは明らかであり、鄧小平の業績の再評価とみなすことはできないが、最近の言論は鄧小平礼賛一辺倒でなく、ある程度批判的である。
8月16日付の『多維新聞』は、1978年12月21日に掲載された同紙「特约评论员」の「人民万岁」と題する一文を引用し、鄧小平、華国鋒、葉剣英、胡耀邦らの間で意見が違っていたことを紹介している。1978年から翌年にかけて北京の西单に民主化を求める壁新聞が多数張り出された時のことで、当時は一方で、改革開放路線が決定され動き出す時であった。それだけにかじ取りは困難であり、民主化に過度に流れると危険であると鄧小平は思っていたのであろう。魏京生はまさにそのことを象徴しており、「民主か、新しい独裁か」と題して鄧小平を名指しで批判して捕えられ、15年の刑を科された。短命に終わった「北京の春」である。一方、保守派の華国鋒もその後まもなく引きずりおろされ、葉剣英は高齢で(当時約80歳)影響力はなく、胡耀邦は鄧小平に忠実で、鄧小平の地位がますます強固になっていった。
鄧小平は1989年の天安門事件とその後の南巡講話まで左右の対立の中で改革開放路線を進めていき(拙著「習近平政権の基本方針‐鄧小平の示唆」『習近平政権の言論統制』蒼蒼社 2014年を参照されたい)、そのことにチャレンジすることは中国ではまず不可能であり、今日に至るまで基本的にはそのような雰囲気が支配的であった。
そのような経緯を背景に考えると、今回『多維新聞』がどういう意図でそのようなことを書いたのか気になることである。
なお、『多維新聞』がその時点でそのようなことを書けたのは、米国に拠点があるからであろう。


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