オピニオン
2023.02.04
軍政府は2年前のクーデタの際にも総選挙は2023年8月まで延期することを示唆していたので、今回の発表は必ずしも約束違反ではないが、国軍の弾圧は甚大な被害を生んでおり、2年間に2940人の市民が犠牲になったという(人権団体による)。内外のメディアも厳しく弾圧され、日本人では映像ジャーナリストの久保田徹氏が2022年7月から4か月間拘束された。
各国は軍政府による非常事態宣言の延長を批判し、米政府は1月31日、国軍と関係のある6個人と3団体に制裁を科すと発表し、英国、カナダ、オーストラリアなども制裁を強化した。
日本とミャンマーの関係は深い。日本から進出している企業はクーデタ前430社以上に上っていた。日本はミャンマーに対する最大の援助供与国である。日本としては、ミャンマーが国際的に孤立すれば、中国への接近を招くとの懸念もある。日本は独自の制裁には慎重な姿勢で臨んだ。だが、クーデタ後もミャンマー政府への経済支援を行えば、軍事政権を認めることになるのでODAの新規案件は進めないことにしたが、既存の援助案件は完了までに数年かかるものが多く、クーデタ後も軍政権(国軍系企業MECなど)に日本からの資金が流れた。そのためヒューマンライツウオッチ(HRW)など国際的に活動している団体からは厳しい目を向けられた。ミャンマーに関する国連特別報告者のトーマス・アンドリュース氏は今回の非常事態延長に伴い、日本に対し、国軍関係者らに対する経済制裁網への参加を提言。ODAなどの経済支援の見直しや、防衛省が国軍から受け入れている留学生の送還などを促した。
非常事態の延長は日本の立場をいっそう困難にするだろう。これまで日本が欧米諸国とは異なり、対話を通して国軍に暴力行為をやめるよう働きかけてきたのは、説得によってミャンマーの民主化の実現を扶けるのが最善だという考えだったからである。しかし、今回の非常事態延長はそのような外交重視方針に冷水を浴びせかけた。
非常事態を終わらせる総選挙が半年延期されたことは、冒頭で述べたように全くの驚きではないにしても、軍事政権が政権を明け渡す可能性が遠のき、下手をすると軍事政権が半年どころでなく長期にわたって続くことになる危険が増大したからである。
今後の展開を左右する一つのカギは民主派勢力が樹立した「統一政府(NUG)」と国軍との関係がどうなるかである。国軍は相変わらず強権的だが、かなり手を焼いているのも事実であり、民間人への被害が及ぶのにもかまわず空爆を行ったり、一部地域では村を焼き払ったりするなどかなり強引に民主派勢力を鎮圧しようとしている。
一方、民主派側も自分たちの力で政権を取るには程遠く、彼らが統治していると主張する地域は一部の農村部だけである。都市部は、基本的に軍が支配している。
また、国民の3分の1近くを占める少数民族は必ずしも政府に従っておらず、武装闘争も継続している。そのため政府としても軍に依存することとなる。つまり、民主派勢力、国軍、少数民族のあいだの微妙なバランスは依然として続いている。
国軍を支える外部勢力は中国とロシアである。中国はミャンマーと隣接している関係で以前から少数民族地域への影響力は大きい。そのために従来から国軍や政府とも一定の友好関係があり、クーデタ後もミャンマーの安定を望み、軍事政権とは距離を置き、国家の安定性について懸念を表明していた。王毅外相がクーデタ後初めてミャンマーを訪問したのは翌2022年の7月であった。
ロシアは違っており、東南アジアにおいて中国のように広範囲に及ぶプレゼンスはなく、国軍が発言権を持つミャンマーとの関係だけが突出している。特に武器輸出は中国の次である。NLD(国民民主連盟、アウンサンスーチーが党首)政権下の18年にはスホイ30戦闘機の供給契約を結んだ。クーデタ直前の2021年1月にはショイグ国防相がミャンマーを訪問し、地対空防衛システムや偵察用無人機などの契約を結んだ。そしてクーデタ以降、ロシアは中立的立場をとった中国と異なり、ミャンマーとの軍事関係を一層強化した。3月、ミャンマーであった「国軍記念日」の行事に日本や欧米諸国が出席を見送るなかロシアから国防次官が出席した。6月にはミンアウンフライン最高司令官がモスクワで開かれた「国際安全保障モスクワ会議」に出席し、パトルシェフ国家安全保障会議書記、ショイグ国防相と会談した。ロシア側の厚遇が目立ったという。
翌22年7月、ロシア軍によるウクライナ侵攻の5か月後であったが、ミンアウンフライン司令官が再度ロシアを訪問した。モスクワで会った人物にはロシア国営宇宙開発企業ロスコスモスのロゴジン社長が含まれていた。両者は何を話し合ったのか。ミャンマーは宇宙分野にも関心があるのだろうか。ロシア国防省は12日声明において「戦略的なパートナーシップの精神に基づき、軍事面や技術協力を深めていくことを再確認した」と発表した。
ロシアは武器取引を通じてミャンマーとの関係を緊密化し、軍事政権の数少ない支持国になった。これはミャンマーにとって大きな意味があり、ロシアの友好国であることをアピールしてロシアに報いた。世界の嫌われ者同士が手を結んだというのは言い過ぎかもしれないが、ミャンマーの軍事政権はロシアが支えてくれるかぎり支配を継続できると考えている可能性がある。
日本が対話を通して民主化の実現に寄与するという方針は、軍事政権としてもいつまでも強権的、暴力的に民主派勢力を抑圧することはできないだろうという見通しの上に立っている。しかし、ロシアのウクライナ侵攻がどのように展開するかにもよるが、この前提は崩れるかもしれない。そうなると対話を通して効果を生み出すことは困難になる。日本政府の意図でないが、軍事政権を甘やかしているという風当たりが国際的に強くなる危険もある。日本外交にとって容易ならざる事態となることが懸念される。
ミャンマーとロシアは日本外交を困難にする
ミャンマーで実権を握る国軍は2月1日、憲法で定められている2年の期限が到来した非常事態宣言を半年間延長すると発表した。軍事政権がそれだけ継続するのだが、延長が半年で終わるか情勢は不透明である。軍政府は2年前のクーデタの際にも総選挙は2023年8月まで延期することを示唆していたので、今回の発表は必ずしも約束違反ではないが、国軍の弾圧は甚大な被害を生んでおり、2年間に2940人の市民が犠牲になったという(人権団体による)。内外のメディアも厳しく弾圧され、日本人では映像ジャーナリストの久保田徹氏が2022年7月から4か月間拘束された。
各国は軍政府による非常事態宣言の延長を批判し、米政府は1月31日、国軍と関係のある6個人と3団体に制裁を科すと発表し、英国、カナダ、オーストラリアなども制裁を強化した。
日本とミャンマーの関係は深い。日本から進出している企業はクーデタ前430社以上に上っていた。日本はミャンマーに対する最大の援助供与国である。日本としては、ミャンマーが国際的に孤立すれば、中国への接近を招くとの懸念もある。日本は独自の制裁には慎重な姿勢で臨んだ。だが、クーデタ後もミャンマー政府への経済支援を行えば、軍事政権を認めることになるのでODAの新規案件は進めないことにしたが、既存の援助案件は完了までに数年かかるものが多く、クーデタ後も軍政権(国軍系企業MECなど)に日本からの資金が流れた。そのためヒューマンライツウオッチ(HRW)など国際的に活動している団体からは厳しい目を向けられた。ミャンマーに関する国連特別報告者のトーマス・アンドリュース氏は今回の非常事態延長に伴い、日本に対し、国軍関係者らに対する経済制裁網への参加を提言。ODAなどの経済支援の見直しや、防衛省が国軍から受け入れている留学生の送還などを促した。
非常事態の延長は日本の立場をいっそう困難にするだろう。これまで日本が欧米諸国とは異なり、対話を通して国軍に暴力行為をやめるよう働きかけてきたのは、説得によってミャンマーの民主化の実現を扶けるのが最善だという考えだったからである。しかし、今回の非常事態延長はそのような外交重視方針に冷水を浴びせかけた。
非常事態を終わらせる総選挙が半年延期されたことは、冒頭で述べたように全くの驚きではないにしても、軍事政権が政権を明け渡す可能性が遠のき、下手をすると軍事政権が半年どころでなく長期にわたって続くことになる危険が増大したからである。
今後の展開を左右する一つのカギは民主派勢力が樹立した「統一政府(NUG)」と国軍との関係がどうなるかである。国軍は相変わらず強権的だが、かなり手を焼いているのも事実であり、民間人への被害が及ぶのにもかまわず空爆を行ったり、一部地域では村を焼き払ったりするなどかなり強引に民主派勢力を鎮圧しようとしている。
一方、民主派側も自分たちの力で政権を取るには程遠く、彼らが統治していると主張する地域は一部の農村部だけである。都市部は、基本的に軍が支配している。
また、国民の3分の1近くを占める少数民族は必ずしも政府に従っておらず、武装闘争も継続している。そのため政府としても軍に依存することとなる。つまり、民主派勢力、国軍、少数民族のあいだの微妙なバランスは依然として続いている。
国軍を支える外部勢力は中国とロシアである。中国はミャンマーと隣接している関係で以前から少数民族地域への影響力は大きい。そのために従来から国軍や政府とも一定の友好関係があり、クーデタ後もミャンマーの安定を望み、軍事政権とは距離を置き、国家の安定性について懸念を表明していた。王毅外相がクーデタ後初めてミャンマーを訪問したのは翌2022年の7月であった。
ロシアは違っており、東南アジアにおいて中国のように広範囲に及ぶプレゼンスはなく、国軍が発言権を持つミャンマーとの関係だけが突出している。特に武器輸出は中国の次である。NLD(国民民主連盟、アウンサンスーチーが党首)政権下の18年にはスホイ30戦闘機の供給契約を結んだ。クーデタ直前の2021年1月にはショイグ国防相がミャンマーを訪問し、地対空防衛システムや偵察用無人機などの契約を結んだ。そしてクーデタ以降、ロシアは中立的立場をとった中国と異なり、ミャンマーとの軍事関係を一層強化した。3月、ミャンマーであった「国軍記念日」の行事に日本や欧米諸国が出席を見送るなかロシアから国防次官が出席した。6月にはミンアウンフライン最高司令官がモスクワで開かれた「国際安全保障モスクワ会議」に出席し、パトルシェフ国家安全保障会議書記、ショイグ国防相と会談した。ロシア側の厚遇が目立ったという。
翌22年7月、ロシア軍によるウクライナ侵攻の5か月後であったが、ミンアウンフライン司令官が再度ロシアを訪問した。モスクワで会った人物にはロシア国営宇宙開発企業ロスコスモスのロゴジン社長が含まれていた。両者は何を話し合ったのか。ミャンマーは宇宙分野にも関心があるのだろうか。ロシア国防省は12日声明において「戦略的なパートナーシップの精神に基づき、軍事面や技術協力を深めていくことを再確認した」と発表した。
ロシアは武器取引を通じてミャンマーとの関係を緊密化し、軍事政権の数少ない支持国になった。これはミャンマーにとって大きな意味があり、ロシアの友好国であることをアピールしてロシアに報いた。世界の嫌われ者同士が手を結んだというのは言い過ぎかもしれないが、ミャンマーの軍事政権はロシアが支えてくれるかぎり支配を継続できると考えている可能性がある。
日本が対話を通して民主化の実現に寄与するという方針は、軍事政権としてもいつまでも強権的、暴力的に民主派勢力を抑圧することはできないだろうという見通しの上に立っている。しかし、ロシアのウクライナ侵攻がどのように展開するかにもよるが、この前提は崩れるかもしれない。そうなると対話を通して効果を生み出すことは困難になる。日本政府の意図でないが、軍事政権を甘やかしているという風当たりが国際的に強くなる危険もある。日本外交にとって容易ならざる事態となることが懸念される。
2022.10.17
そんな中、NATOのある高官は10月12日、ロシアによる核兵器の使用は「前例のない結果をもたらす。ほぼ確実に、多くの同盟国から、そして潜在的にはNATO自体から物理的な対応を引き出すだろう」と語ったと報道された。この高官は明言していないが、「もしロシアが核を使用すれば、NATOは一丸となって通常兵力でロシアに反撃し、せん滅する」という意味だと解されている。
核の抑止力の根本は「相互確証破壊」、つまり、一方が核を使えば他方も核を使うのでお互いに確実に破壊しあうという考えであり、実際にそうなれば世界は破滅するので核は使えない。だから核には相手の攻撃を抑止する力があると思われてきた。
しかしプーチンは、ロシアは必要であれば核の使用をいとわないと言い出した。ロシアの安全保障戦略にも盛り込んだ。ロシアにとっても世界の破滅は怖いはずだが、そんなことを言い出したのは、ロシアの軍事力は西側に対抗できないが、核だけは別で、核の使用につながることはさせないという考えからであったと推測される。
プーチンは、西側は核の使用が世界の破滅に発展することが怖いので、ロシアが核を使っても、とくに小型の核、いわゆる戦術核ならば、西側は核を使えないと見たのである。
たしかに西側は世界の破滅が怖いのでやはり核は使えない。核でなければロシアの核攻撃を防げないが、それでも核は使えないという考えが強かった。プーチンの見立て通りだったのである。
ウクライナでロシアが劣勢になるにともない、プーチンは核の使用をほのめかすどころかほぼ公言するようになり、西側は頭を痛めた。プーチンが発言するのは止められないが、NATOとしては口が裂けても言えないことだからである。
しかし、NATOの高官は、ロシアの核使用があっても、西側は核で対抗することしかできないのでなく、通常兵器で反撃し、ロシアをせん滅できるといいだしたのであり、これは画期的な考えである。アルマゲドン(世界を破滅させる戦争)は回避できる。ロシアは戦術核を、NATOは通常兵器を使うだけでも甚大な被害が生じるが、アルマゲドンにはならず、人類は生き残れる。
今回のNATO高官の発言の背景には、「NATOと同盟国が力を合わせれば、ロシアをせん滅できる」という自信ができているようだ。もちろんこの新戦略は簡単でなく、まだ正式にNATOの戦略になっているわけではない。だが、ロシアが核を使えばそれに対抗する手段は世界の破滅を賭するしかないという思考の行き詰まりから抜け出す道筋を示している。
また、NATO内では、核戦争であればどうしても反対する国が出てくるだろう。通常兵力でも困難だが、核戦争とは大違いで、合意ははるかに得られやすい、という事情もありそうだ。
NATOがアルマゲドンの呪縛から解放されれば核の脅しはきかなくなる。ロシアにとっても核を使いやすくなるという面もあろうが、NATOから壊滅的な反撃を受けるのであれば、核はやはり使えない。核は(半分)なくても相互確証破壊になるわけである。
このようなシナリオ通りに事が運ぶか楽観的になるのは禁物だが、ウクライナ戦争の中で新しい可能性が生まれ、NATOは「核には核で対抗するしかない」という究極の制約から抜け出しつつあるように見える。
核の呪縛から抜け出せるか
ウクライナへ侵攻しているロシア軍はますます劣勢になっている。プーチン大統領は困難な状況に陥り、欧米の報道には八方ふさがりになっているとするものもある。クリミア半島とロシア領を結ぶクリミア大橋での爆破事件と、それに報復してロシアが行ったウクライナ全土へのミサイル攻撃は、その中には首都キーウも含まれるが、素人が考えてもロシアの劣勢を挽回するとは見えず、ロシアの非人道性のみを目立たせる結果になっている。だが、このままロシアが負け続ければプーチン氏は窮余の一策として核兵器使用に踏み切るのではないかという懸念が高まっている。そんな中、NATOのある高官は10月12日、ロシアによる核兵器の使用は「前例のない結果をもたらす。ほぼ確実に、多くの同盟国から、そして潜在的にはNATO自体から物理的な対応を引き出すだろう」と語ったと報道された。この高官は明言していないが、「もしロシアが核を使用すれば、NATOは一丸となって通常兵力でロシアに反撃し、せん滅する」という意味だと解されている。
核の抑止力の根本は「相互確証破壊」、つまり、一方が核を使えば他方も核を使うのでお互いに確実に破壊しあうという考えであり、実際にそうなれば世界は破滅するので核は使えない。だから核には相手の攻撃を抑止する力があると思われてきた。
しかしプーチンは、ロシアは必要であれば核の使用をいとわないと言い出した。ロシアの安全保障戦略にも盛り込んだ。ロシアにとっても世界の破滅は怖いはずだが、そんなことを言い出したのは、ロシアの軍事力は西側に対抗できないが、核だけは別で、核の使用につながることはさせないという考えからであったと推測される。
プーチンは、西側は核の使用が世界の破滅に発展することが怖いので、ロシアが核を使っても、とくに小型の核、いわゆる戦術核ならば、西側は核を使えないと見たのである。
たしかに西側は世界の破滅が怖いのでやはり核は使えない。核でなければロシアの核攻撃を防げないが、それでも核は使えないという考えが強かった。プーチンの見立て通りだったのである。
ウクライナでロシアが劣勢になるにともない、プーチンは核の使用をほのめかすどころかほぼ公言するようになり、西側は頭を痛めた。プーチンが発言するのは止められないが、NATOとしては口が裂けても言えないことだからである。
しかし、NATOの高官は、ロシアの核使用があっても、西側は核で対抗することしかできないのでなく、通常兵器で反撃し、ロシアをせん滅できるといいだしたのであり、これは画期的な考えである。アルマゲドン(世界を破滅させる戦争)は回避できる。ロシアは戦術核を、NATOは通常兵器を使うだけでも甚大な被害が生じるが、アルマゲドンにはならず、人類は生き残れる。
今回のNATO高官の発言の背景には、「NATOと同盟国が力を合わせれば、ロシアをせん滅できる」という自信ができているようだ。もちろんこの新戦略は簡単でなく、まだ正式にNATOの戦略になっているわけではない。だが、ロシアが核を使えばそれに対抗する手段は世界の破滅を賭するしかないという思考の行き詰まりから抜け出す道筋を示している。
また、NATO内では、核戦争であればどうしても反対する国が出てくるだろう。通常兵力でも困難だが、核戦争とは大違いで、合意ははるかに得られやすい、という事情もありそうだ。
NATOがアルマゲドンの呪縛から解放されれば核の脅しはきかなくなる。ロシアにとっても核を使いやすくなるという面もあろうが、NATOから壊滅的な反撃を受けるのであれば、核はやはり使えない。核は(半分)なくても相互確証破壊になるわけである。
このようなシナリオ通りに事が運ぶか楽観的になるのは禁物だが、ウクライナ戦争の中で新しい可能性が生まれ、NATOは「核には核で対抗するしかない」という究極の制約から抜け出しつつあるように見える。
2022.08.22
第二次大戦が終結する1945年まで日本は中国を含む連合国と戦争状態にあり、国交は断絶していた。戦争が終われば国交を正常な状態に戻すのが普通の習わしであるが、中国は「中国国民党(以下「国民党」)と「中国共産党」が対立する内戦状態にあり、そのため1951年になって日本はようやく連合国と平和条約を結び、戦争状態を終結させることが可能になった。だが中国は二つに分かれたままの状態だったのでそれに参加できず、日本は翌52年、あらためて台湾の「中華民国(以下「台湾」)」と平和条約を結び戦争状態を終結した。
米国は中国との関係で日本と同様の法的処理をする必要はなかった。大戦中から米国が「中華民国」と結んでいた外交関係は大戦終結後も変わらなかったからである。
その他の国も台湾との外交関係を維持した。ソ連など共産圏の国々だけが中国大陸を支配する共産党の「中華人民共和国(以下「中国」)」と外交関係を結んだ。この対立状況は東西冷戦の一部であった。
しかし、時間が経つとともに台湾と外交関係を持つ諸国においても、台湾の50倍以上もの人口を持つ中国と国交がないのは不都合であるという考えが強くなり、1971年10月、国連において、中国を代表するのは台湾の「中華民国」でなく「中華人民共和国」であるとする決議が成立した。
国際情勢が大きく変化する中で、米国は中国との関係改善に動き出し、国連で歴史的決議が成立する直前の1971年7月、キッシンジャー米大統領補佐官が極秘裏に北京に赴き周恩来首相と会談を行った。そして翌年2月、ニクソン大統領が中国を訪問した。国交を樹立したのは少し遅れて1979年1月であった。
日本は、やはり国連などでの情勢変化を背景に1972年9月25日、田中首相一行が訪中し、29日に「日中共同声明」に合意・署名した。「日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出された日に終了」した。この時まで日本と「中華人民共和国」の間に正式の関係がなかったのは「不正常な状態」と認識されたのであった。
台湾との関係を断ち、中国と国交を樹立することについては日本でも激しい反対論があった。中国課長として先頭に立って日中国交正常化交渉を指揮していた橋本恕は後に、自民党内の反対が激しく「乱闘寸前にまで行った」と回顧したという。今の政治の世界ではちょっと考えられないことである。
日本や米国と台湾の関係はすべてなくなったのではない。経済、貿易、文化などの面では密接な関係があり、また、台湾の発展は目覚ましく、一定分野で台湾の企業は世界の一流に成長しており、日台間、米台間の実務関係は発展している。
しかし、日本や米国と中国との外交関係が出来上がった後、中国と台湾の関係はどのようになるか大問題となった。
まず日本の場合、中国は「台湾が中国の領土の不可分の一部である」と表明し、そのことを日本が認めるよう求めた。これに対して日本が述べたことは、「中国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」であり、それ以上は言えなかった。
終戦直前に米国、英国および中国の3か国が行った同宣言では、「日本の領土は本州、北海道、九州、四国とこの3か国が決定する島嶼に限られる」とされ、日本はこの宣言を受け入れていた。平たく言えば、戦争に敗れた日本は領土を決定する権限を取り上げられたので、日本領であった台湾についても「中国の領土の一部」であると認めることはできなかったのである。俗語でいえば「どうぞご随に」という立場しか取れなかったのだ。しかし、ポツダム宣言に言及して法的な立場を示すだけでは、多大の損害を与えた中国に申し訳ないので、「日本は中国の立場を十分理解し、尊重する」という気持ちも表明したのであった。
米国は日本と立場が異なった。台湾の領有権について日本のような制約(「何も言えない」という制約)はなかった。1979年に中国と国交を結んだ際、「台湾は中国とは異なる領域であり、米国は今後も中華民国との外交関係を維持する」と主張することもできたはずだが、それでは中国は承服しなかったのだろう。米国としても外交関係を中国と結ぶなら、台湾との外交関係は犠牲にせざるを得なかったのだ。
ニクソン米大統領の訪中の結果、1972年2月28日に発表された米中共同声明(上海コミュニケ)では、米中間にあったほとんどすべての問題について合意が成立したが、台湾の地位だけは完全な合意が出来上がったか疑問であった。
中国は、「台湾問題は中国と米国との間の関係正常化を阻害しているかなめの問題であり、中華人民共和国政府は中国の唯一の合法政府であり、台湾は中国の一省であり、つとに祖国に返還されており、台湾解放は、他のいかなる国も干渉の権利を有しない中国の国内問題であり、米国の全ての軍隊及び軍事施設は台湾から撤退ないし撤去されなければならない」という立場であり、「一つの中国、一つの台湾」、「一つの中国、二つの政府」、「二つの中国」及び「台湾独立」を作り上げることを目的とし、あるいは「台湾の地位は未確定である」と唱えるいかなる活動にも断固として反対する」と表明した。
これに対し米国は次のように表明した。「米国は、台湾海峡の両側のすべての中国人が、中国はただ一つであり、台湾は中国の一部分であると主張していることを認識している。米国政府は、この立場に異論をとなえない。米国政府は、中国人自らによる台湾問題の平和的解決についての米国政府の関心を再確認する」と表明した。
さらに米中外交関係樹立に関する1979年1月1日共同声明では、「米国政府は,中国はただ一つであり,台湾は中国の一部であるとの中国の立場を認める」とした。「米国は一つの中国を認めた」と今でもよく言われるが、厳密には正しくないかもしれない。米中共同声明原文の英語版では「The Government of the United States of America acknowledges the Chinese position that there is but one China and Taiwan is part of China.」であった。
中国語版では、「美利坚合众国政府承认中国的立场,即只有一个中国,台湾是中国的一部分。」であった。
英語版と中国語版の意味は完全に一致しているか、議論となった。二つの疑問点があり、一つは英語の「acknowledge」と中国語の「承认(繁体字では「承認」)が完全に同じ意味かである。
もう一つは英語版でも中国語版でも米国はその立場を直接表明しておらず、「acknowledge」あるいは「承认」したのは台湾の地位についての中国の主張についてであった。
この言葉の意味及び関連の文章をどう解するか、本稿で論じる余裕はないが、米国がもしみずから「台湾は中国の一部」だという立場であれば、直接そう表明すればよかったはずである。
これは用語の問題に見えるかもしれないが、米中国交樹立の成否を左右する大問題であり、しかも、現在でも問い続けられている。かりに「中国は一つであり、台湾は中国の一部」の原則が国際的にも確立すれば、中国の立場は現在より強くなり、台湾の立場は逆に弱くなる。これでは台湾の23百万人の台湾人の権利と利益は十分に守られなくなると懸念されている。
米国は中国と国交を樹立する際、台湾との関係を犠牲にしたと前述したが、単純に無効化したのではなかった。中国と台湾が統一するか、それは中国人と台湾人が決めればよいが、台湾に対して中国が武力を使うことには反対し、中国もそのような米国の立場を認めた。上海コミュニケでは「米国政府は、中国人自らによる台湾問題の平和的解決についての米国政府の関心を再確認する」と表明した。これに対し、中国政府も米側の表明に異議を唱えなかった。積極的に賛成したのと異議を唱えなかったのは同じでないが、米国のこの立場を中国が認めなければ国交を樹立できなかっただろう。
日本と中国も「すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認」しあった(日中共同声明第6項)。台湾だけを取り出した声明ではなく、「すべての紛争」であったが、日中両国が国交を正常化する際に確認しあったことの意義は大きい。
台湾の地位は日中間でも米中間でも困難な問題であったが、なんとか合意が成立し、日中共同声明は9月29日に署名された。
後でわかったことであるが、当時中国内では危険な状況があり、中国を未曽有の混乱に陥れた「文化大革命(文革)」は終わっていなかった。文革はもともと毛沢東による権力奪還の闘争であったが、労働者、学生(若い学生は「紅衛兵」と呼ばれた)が参加し、既存秩序を破壊する一大革命となっていた。中国共産党も破壊の対象になっていた。死者は数百万とも2千万以上とも、被害者は1億人程度ともいわれた。日中国交正常化の際、武装闘争はほぼ終息していたが、文革の中心であったいわゆる四人組はなお健在であり、革命運動を継続していた。
しかし、中国政府はそんなことを日本側に全く感じさせず、日中国交正常化交渉は平穏無事に行われた。
田中首相一行は共同声明を発表した後、同日中に周恩来首相とともに上海へ向かった。田中首相は疲労困憊気味で上海へは寄りたくなかったと言われていたが、説得を受け入れ上海に降り立った。同市のナンバーワンは張春橋上海市革命委員会主任であり、四人組の一人であったが、田中首相一行を盛大に出迎えた。上海市南京西路1333号の宴会場で行われた歓迎宴では、田中首相を始め全員が酔っ払い気味になったが、大事業を成功させた喜びがあふれていた。
日中国交正常化を振り返る
今から50年前に日本と中国は国交を正常化した。両国それぞれにとって戦後最大の外交成果となったこの出来事を台湾との関係を中心に振り返ってみたい。第二次大戦が終結する1945年まで日本は中国を含む連合国と戦争状態にあり、国交は断絶していた。戦争が終われば国交を正常な状態に戻すのが普通の習わしであるが、中国は「中国国民党(以下「国民党」)と「中国共産党」が対立する内戦状態にあり、そのため1951年になって日本はようやく連合国と平和条約を結び、戦争状態を終結させることが可能になった。だが中国は二つに分かれたままの状態だったのでそれに参加できず、日本は翌52年、あらためて台湾の「中華民国(以下「台湾」)」と平和条約を結び戦争状態を終結した。
米国は中国との関係で日本と同様の法的処理をする必要はなかった。大戦中から米国が「中華民国」と結んでいた外交関係は大戦終結後も変わらなかったからである。
その他の国も台湾との外交関係を維持した。ソ連など共産圏の国々だけが中国大陸を支配する共産党の「中華人民共和国(以下「中国」)」と外交関係を結んだ。この対立状況は東西冷戦の一部であった。
しかし、時間が経つとともに台湾と外交関係を持つ諸国においても、台湾の50倍以上もの人口を持つ中国と国交がないのは不都合であるという考えが強くなり、1971年10月、国連において、中国を代表するのは台湾の「中華民国」でなく「中華人民共和国」であるとする決議が成立した。
国際情勢が大きく変化する中で、米国は中国との関係改善に動き出し、国連で歴史的決議が成立する直前の1971年7月、キッシンジャー米大統領補佐官が極秘裏に北京に赴き周恩来首相と会談を行った。そして翌年2月、ニクソン大統領が中国を訪問した。国交を樹立したのは少し遅れて1979年1月であった。
日本は、やはり国連などでの情勢変化を背景に1972年9月25日、田中首相一行が訪中し、29日に「日中共同声明」に合意・署名した。「日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出された日に終了」した。この時まで日本と「中華人民共和国」の間に正式の関係がなかったのは「不正常な状態」と認識されたのであった。
台湾との関係を断ち、中国と国交を樹立することについては日本でも激しい反対論があった。中国課長として先頭に立って日中国交正常化交渉を指揮していた橋本恕は後に、自民党内の反対が激しく「乱闘寸前にまで行った」と回顧したという。今の政治の世界ではちょっと考えられないことである。
日本や米国と台湾の関係はすべてなくなったのではない。経済、貿易、文化などの面では密接な関係があり、また、台湾の発展は目覚ましく、一定分野で台湾の企業は世界の一流に成長しており、日台間、米台間の実務関係は発展している。
しかし、日本や米国と中国との外交関係が出来上がった後、中国と台湾の関係はどのようになるか大問題となった。
まず日本の場合、中国は「台湾が中国の領土の不可分の一部である」と表明し、そのことを日本が認めるよう求めた。これに対して日本が述べたことは、「中国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」であり、それ以上は言えなかった。
終戦直前に米国、英国および中国の3か国が行った同宣言では、「日本の領土は本州、北海道、九州、四国とこの3か国が決定する島嶼に限られる」とされ、日本はこの宣言を受け入れていた。平たく言えば、戦争に敗れた日本は領土を決定する権限を取り上げられたので、日本領であった台湾についても「中国の領土の一部」であると認めることはできなかったのである。俗語でいえば「どうぞご随に」という立場しか取れなかったのだ。しかし、ポツダム宣言に言及して法的な立場を示すだけでは、多大の損害を与えた中国に申し訳ないので、「日本は中国の立場を十分理解し、尊重する」という気持ちも表明したのであった。
米国は日本と立場が異なった。台湾の領有権について日本のような制約(「何も言えない」という制約)はなかった。1979年に中国と国交を結んだ際、「台湾は中国とは異なる領域であり、米国は今後も中華民国との外交関係を維持する」と主張することもできたはずだが、それでは中国は承服しなかったのだろう。米国としても外交関係を中国と結ぶなら、台湾との外交関係は犠牲にせざるを得なかったのだ。
ニクソン米大統領の訪中の結果、1972年2月28日に発表された米中共同声明(上海コミュニケ)では、米中間にあったほとんどすべての問題について合意が成立したが、台湾の地位だけは完全な合意が出来上がったか疑問であった。
中国は、「台湾問題は中国と米国との間の関係正常化を阻害しているかなめの問題であり、中華人民共和国政府は中国の唯一の合法政府であり、台湾は中国の一省であり、つとに祖国に返還されており、台湾解放は、他のいかなる国も干渉の権利を有しない中国の国内問題であり、米国の全ての軍隊及び軍事施設は台湾から撤退ないし撤去されなければならない」という立場であり、「一つの中国、一つの台湾」、「一つの中国、二つの政府」、「二つの中国」及び「台湾独立」を作り上げることを目的とし、あるいは「台湾の地位は未確定である」と唱えるいかなる活動にも断固として反対する」と表明した。
これに対し米国は次のように表明した。「米国は、台湾海峡の両側のすべての中国人が、中国はただ一つであり、台湾は中国の一部分であると主張していることを認識している。米国政府は、この立場に異論をとなえない。米国政府は、中国人自らによる台湾問題の平和的解決についての米国政府の関心を再確認する」と表明した。
さらに米中外交関係樹立に関する1979年1月1日共同声明では、「米国政府は,中国はただ一つであり,台湾は中国の一部であるとの中国の立場を認める」とした。「米国は一つの中国を認めた」と今でもよく言われるが、厳密には正しくないかもしれない。米中共同声明原文の英語版では「The Government of the United States of America acknowledges the Chinese position that there is but one China and Taiwan is part of China.」であった。
中国語版では、「美利坚合众国政府承认中国的立场,即只有一个中国,台湾是中国的一部分。」であった。
英語版と中国語版の意味は完全に一致しているか、議論となった。二つの疑問点があり、一つは英語の「acknowledge」と中国語の「承认(繁体字では「承認」)が完全に同じ意味かである。
もう一つは英語版でも中国語版でも米国はその立場を直接表明しておらず、「acknowledge」あるいは「承认」したのは台湾の地位についての中国の主張についてであった。
この言葉の意味及び関連の文章をどう解するか、本稿で論じる余裕はないが、米国がもしみずから「台湾は中国の一部」だという立場であれば、直接そう表明すればよかったはずである。
これは用語の問題に見えるかもしれないが、米中国交樹立の成否を左右する大問題であり、しかも、現在でも問い続けられている。かりに「中国は一つであり、台湾は中国の一部」の原則が国際的にも確立すれば、中国の立場は現在より強くなり、台湾の立場は逆に弱くなる。これでは台湾の23百万人の台湾人の権利と利益は十分に守られなくなると懸念されている。
米国は中国と国交を樹立する際、台湾との関係を犠牲にしたと前述したが、単純に無効化したのではなかった。中国と台湾が統一するか、それは中国人と台湾人が決めればよいが、台湾に対して中国が武力を使うことには反対し、中国もそのような米国の立場を認めた。上海コミュニケでは「米国政府は、中国人自らによる台湾問題の平和的解決についての米国政府の関心を再確認する」と表明した。これに対し、中国政府も米側の表明に異議を唱えなかった。積極的に賛成したのと異議を唱えなかったのは同じでないが、米国のこの立場を中国が認めなければ国交を樹立できなかっただろう。
日本と中国も「すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認」しあった(日中共同声明第6項)。台湾だけを取り出した声明ではなく、「すべての紛争」であったが、日中両国が国交を正常化する際に確認しあったことの意義は大きい。
台湾の地位は日中間でも米中間でも困難な問題であったが、なんとか合意が成立し、日中共同声明は9月29日に署名された。
後でわかったことであるが、当時中国内では危険な状況があり、中国を未曽有の混乱に陥れた「文化大革命(文革)」は終わっていなかった。文革はもともと毛沢東による権力奪還の闘争であったが、労働者、学生(若い学生は「紅衛兵」と呼ばれた)が参加し、既存秩序を破壊する一大革命となっていた。中国共産党も破壊の対象になっていた。死者は数百万とも2千万以上とも、被害者は1億人程度ともいわれた。日中国交正常化の際、武装闘争はほぼ終息していたが、文革の中心であったいわゆる四人組はなお健在であり、革命運動を継続していた。
しかし、中国政府はそんなことを日本側に全く感じさせず、日中国交正常化交渉は平穏無事に行われた。
田中首相一行は共同声明を発表した後、同日中に周恩来首相とともに上海へ向かった。田中首相は疲労困憊気味で上海へは寄りたくなかったと言われていたが、説得を受け入れ上海に降り立った。同市のナンバーワンは張春橋上海市革命委員会主任であり、四人組の一人であったが、田中首相一行を盛大に出迎えた。上海市南京西路1333号の宴会場で行われた歓迎宴では、田中首相を始め全員が酔っ払い気味になったが、大事業を成功させた喜びがあふれていた。
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