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2018.07.24

セルビア・クロアチア・ボスニア

 今回のサッカーワールドカップ・ロシア大会決勝でクロアチアはフランスに敗れ準優勝で終わったが、その活躍ぶりには世界が目を見張った。同国のエース、モドリッチは今大会の最優秀選手に選ばれ、プーチン大統領からゴールデンボールのトロフィーを受け取った。しかし、クロアチアがどのような国なのか、知っている日本人は極めて少数だろう。

 東欧と南欧の地図を見ながら説明すると、ハンガリーの南側はバルカン半島と呼ばれる地域であり、その東側半分はルーマニアとブルガリアで、比較的安定しているが、西側半分(西バルカン)は様々な事情により政治状況は非常に複雑である。
 日本人にとっては、この複雑さと日本との関係の少なさのため、この地域の特徴はつかみにくい。
そして、バルカンをさらに南へ下るとトルコとなり、日本人の目にもイメージははっきりしてくる。
 
 クロアチアは西バルカンの一国であり、人口的には2番目だ。最も人口が多いのはセルビアで、3番目がボスニアヘルツェゴビナである。本稿の表題はこの人口順に並べて表示した。
 どの国もサッカーが盛んであり、セルビアも今大会に出場したが、16強に残れなかった。ボスニアも後で述べるように優秀なサッカー選手を輩出している。

 西バルカンにはこの3国のほか、スロヴェニア、モンテネグロ、コソボ、マケドニア、アルバニアなどの国がある。

 民族的には、西バルカンの諸民族は、すべてロシアと同じスラブ民族である。その使用言語は方言程度の違いはあるが、基本的には同じである。各国とも独自の言語を使用しているように言っており、たとえばクロアチアでは「クロアチア語」を話すと説明しているが、それはナショナリズムのせいであり、実際にはセルビア語とクロアチア語は日本の関東弁と関西弁ほどの違いもない。

 しかし、国境線は同じ言葉を話す人たちを分断する形で引かれている。最大の理由は、歴史的にバルカン半島が北のオーストリア・ハンガリー帝国と南のオスマン帝国の勢力分岐点であったためであり、第一次世界大戦に至るまでの数百年間、クロアチアだけはオーストリア・ハンガリーによって、その他はオスマン帝国によって支配されていた。
 この状況は宗教面にも反映している。クロアチア人の大多数はローマ・カトリックであるが、ボスニアはイスラムである。セルビアはセルビア人勢力が強かったので正教(ギリシャ正教やロシア正教と同系統であり、セルビア正教と呼ぶ場合もある)が主流である。宗教以外では、イスラムの影響は至る所に残っている。セルビアの田舎を旅行すると、いかにもトルコ風というか、イスラム風の音楽が聞こえてくる。

 西バルカンには、かねてからこの地域を一つの国にしようとする「大セルビア主義」構想があり、第二次大戦後にユーゴスラビアとなって実現した。セルビア、クロアチア、ボスニア、さらにその他の西バルカン諸国は、アルバニアを除き、すべてユーゴスラビアに組み込まれた。

 ユーゴスラビアになっても日本にとってはなじみが薄かったが、第一次世界大戦がボスニアの首都サラエボから起こったことは例外的に有名である。
 
 個人で日本に知られているのは、ユーゴスラビアを建国したヨシップ・ブロズ・チトー(単にチトーと呼ばれることが多い。クロアチア生まれ)である。大戦中ナチスと戦い、戦後にユーゴを建設した立役者であり、国際的にも非同盟運動の指導者としてインドのネルーなどと並び称せられた人物であった。
 ニコラ・テスラ(クロアチア生まれ)は世界で初めて交流電流を実用化した。エジソンと同時代であり、エジソンはマルチ発明王として有名だが、テスラは知られていない。テスラ自動車会社が同人の名を受け継いだことも知る人は少ない。しかし、電流の実用化の面ではエジソンは直流であり、後の工業化に貢献した度合いではテスラのほうがはるかに上であった。

 スポーツにおいては日本でもよく知られている選手が何人かいる。サッカーではモドリッチ(クロアチア)のほか、ストイコビッチ(セルビア)、ハリルホジッチ(ボスニア)、オシム(ボスニア)も有名である。テニスでは、ジョコビッチ(セルビア)がいる。

 チトーは1980年に死去。それから10年余りたつと、ユーゴスラビアは解体し小国割拠状態になり始めた。ユーゴの内戦である。主要な戦闘は数年で終わったが、解体の過程は現在に至るも完全には終わっていない。

 バルカンでは、内戦以前から、最大の民族であるセルビア人がセルビア以外の地にも多数居住していた。それで何も問題はなく、セルビア人もクロアチア人もその他の民族も仲良く暮らしていたが、各国が独立を求めセルビアと戦うに至り、民族間の衝突が生じてしまった。
 セルビアはクロアチアなどの独立を阻止するため、また、自国民を保護するため兵を出したのだが、その行動は過激になり、多数の民間人が犠牲になり、また、難民となった。モドリッチの祖父は殺害されたクロアチア人の一人であった。
 ボスニアの首都サラエボでは大きな公園を墓場にして多数の死者を弔った。急激に多数の人が犠牲となったのでそうするよりほかに方法がなかったのである。
 
 ユーゴの内戦に対し、EU、国連、米国などが関与して和平の実現に努めた。この和平に至る過程も複雑であり、国際社会のリード役はEUと国連から米国になった。内戦が終結し、現在の国境が確定したのは1995年の末であった。
 
2018.07.18

カンボジア情勢と日本の立場

 7月 29 日に投開票されるカンボジア下院議会選挙に向けて、カンボジア国内は選挙運動が活発化している。フン・セン首相が率いるカンボジア人民党(与党)は、首都プノンペンに約 6 万人の支持者を集結させ、気勢を挙げた。
 一方、複数の野党も集会を開いたが勢いがなかった。最大野党だったカンボジア救国党はすでに解党されており、今回の選挙ではまちがいなく人民党の勝利が予想されている。

 前回 2 013 年下院選では、定数 125 のうち、人民党が 68 議席、救国党が 55 議席を獲得し、野党の救国党はもう少しで人民党に追いつく勢いであった。しかし、救国党は昨年 6月にケム・ソカー党首が国家反逆罪容疑で逮捕され、11 月に党ぐるみで国家反逆を企てたとして最高裁判所により解党させられた。救国党の指導者 118 人は今後 5年間政治活動を禁じられている。 最高裁は、フン・セン首相による、救国党が「政府転覆計画に関与した」とする訴えを認めたのであった。

 2013 年総選挙では、複数の罪に問われ国外に逃亡していたサム・レンシー党首(当時)に対し、投票日直前であったが国王が恩赦を出したので同党首が帰国し、救国党が勢いづくきっかけになった。救国党のメンバーは、今回の下院選においても前回と同様、国王の仲介を求めているが、実現の見通しは立っていない。

 この解党劇については、国内外から批判が高まっており、欧米は国家選挙管理委員会への支援を既に引き揚げ、特に人権尊重を重視する EU は、カンボジアを開発途上国優遇の特恵関税の対象から外すことを検討中である。

 しかし、当のフン・セン首相はどこ吹く風で、全く意に介していないようである。フン・セン首相は、中国からの経済支援を後ろ盾に独裁色を強めているため、「何があっても中国人は友人」などと発言している。南シナ海問題でも明確に中国を支持しており、欧米離れを進めている。

 カンボジアと中国の関係は他の東南アジア諸国よりも複雑である。中国は、ポル・ポトが率 いるクメール・ルージュの武装蜂起を支援し、その結果としてクメール・ルージュによる共産政権が誕生した。そのクメール・ルージュは 1970 年代、カンボジアに「階級が消滅した完全な共産主義社会の建設」を目指し、反乱を起こす可能性があるとの理由で知識階級に対して大量殺戮を繰り広げた。その数については様々な説があるが、100 万人は下らないと言われている。

 この記憶は歴史的には消えていないが、現在は中国からの経済援助により目立たなくなっている 。2010 年から中国は日本を抜いてカンボジアに対する最大の援助国となり、また、シアヌ ークビル港をはじめ、各地で民間投資を含めて大型プロジェクトを実施している。カンボジア全対外債務残高のうち中国の割合は半分を占めるに近づいており、カンボジア政府にとって中国からの経済支援は、アジア屈指の GDP成長率 7%を維持するため、必要不可欠となっているのだ。

 一方で、カンボジアと日本や欧米諸国の関係も依然として密接である。20 年に亘る内戦を経た後の 1990 年代以降、復興を支えてきたのは日本や欧米からの支援であった。同国経済は事実上、『ドル化』しており、約 9割の流通通貨は米ドルである。また、全輸出の 8 割を占める縫製品と履物の主な輸出先は欧米と日本である。

 日本は、中国に追い越されたとはいえ、カンボジアヘの大口援助国であることに変わりない。政治面ではフン・セン寄りで、健全な民主主義を実現するのに協力的ではないと欧米諸国からみられているが、必ずしも同じ立場で臨むのが良いとは限らない。

 中国寄り一辺倒の弊害が顕在化した際には、カンボジア人があらためて中国との関係を考えなおすこともありうる。現に中国企業はカンボジア政府との間で関税逃れ等の癒着が多く、他国の企業は対等な貿易取引ができないという問題が起きている。

 そのような中にあって、日本は独自の方法でカンボジアの発展に貢献する道を求めていかなければならない。そうすることは可能だと思う。
2018.07.18

北朝鮮の非核化と検証とは

北朝鮮の「非核化」にはどのようなプロセスが必要か、「検証」の困難さなどを論じた一文を東洋経済オンラインに寄稿しました。

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