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2025.07.21

中国の政情 2025年夏

 中国ではまもなく熱い政治の季節を迎える。北京市に近い渤海沿岸の避暑地・保養地である北戴河で約1か月間にわたって開かれる非公式の会議であり、すでに一部開催しているかもしれない。非公式であるだけに機微な問題が扱われる。かつて中国共産党の書記長の失脚が事実上決定されたこともあった。

 今年はどうなるだろうか。中国の政治について軽々に論じたくないが、看過できない問題があると思われてならない。

 特に不可解なのは習近平主席と軍の関係であり、2022年の第20回党大会で確認された軍の指導体制がはげしく動揺している。

 中国には中央軍事委員会という最高の軍事指導機関があり、最近では7人がその委員となっていた。このうち習近平主席は中央軍事委員会の主席を兼ねており、別格であるが、あとの6人の委員のうち、1人を除く全員が失脚ないし、降格となった。

 副主席の何衛東は、2022年に中央軍事委員会の副主席に就任した。党の幹部ではなかったにもかかわらず、いきなり軍のナンバー3(習近平氏は別格とすればナンバー2)にのぼりつめたのである。当時、大抜擢とも評された。
 しかし、2025年3月頃から何衛東は問題があるとメディアなどで報道されるようになり、7月現在はすでに失脚しているとみられている。

 李尚福は2023年3月に国防相に任命されたが、わずか半年後から動静が伝えられなくなり、2024年6月、重大な汚職などがあったとして党籍を剝奪されたと公表された。

 失脚させられたのは習氏とのつながりが深い人物であったが、習氏はこの人事を承認した、あるいはせざるをえなかったらしい。軍のトップクラスの人事が習近平氏の了承なしに行われることはあり得ない。

 軍事委員会の中では1人だけ地位が上昇した。副主席の張又侠(チャン・ヨウシア)であり、張又俠は根からの軍人であり、軍内部で習近平よりも強い人脈を築いているといわれる。張の父と習の父は共に陝西省出身で、1945年の爺台山反撃戦で共産党の紅軍に参加し、国民党軍と戦った人物である。
習は以前張の力を借りたこともあったというが、両人は現在、対立しているとみられている。もっともこれらの観測にはある程度推測が混じっている可能性があるが、中央軍事委員会の主要人事が短期間に大変動を起こしていることは明らかな事実である。

 人事異動がすべてでない。「独裁体制」という言葉を使わなくなっていることも注目される。2024年10月30日、中央軍事委員会弁公庁が公布した「強軍文化繁栄発展のための実施綱領」では、「習近平」という名前すらいっさい出てこず、「党の指導」が繰り返し強調された。

 軍以外で注目される問題が、2022年まで国務院総理を務めた李克強の処遇である。李については論じられることが少なくないが、本稿では3点だけ見ていこう。

 中国共産党の機関紙である『人民日報』は2025年7月3日、突然、2023年に68歳で急死した李克強前首相の功績をたたえる記事を掲載した。李は習近平主席と同年であるが、習近平と異なり、2022年に引退し、それ以来李克強は共産党内で疎んぜられていた。だが、この度党の正式機関によってはじめて称賛されたのである。

 中国では国家指導者の生誕記念に一文を掲載する習わしがある。その意味では『人民日報』の記事は特別のものでないかもしれないが、この記事による李の称賛ぶりは多数の人の注目を集めた。

 『人民日報』の記事は、李克強の共青団(中国共産主義青年団)活動への尽力を称賛した。習近平政権下において共青団は繰り返し批判され、李克強前総理、胡錦涛前主席、さらには次期共産党総書記の呼び声もかかっていた胡春華などの共青団出身者は白い目で見られていた。しかるに今回の『人民日報』記事は李克強とともに共青団を称賛したのである。そのため、共青団出身者は復権しつつあるという見方が出てきた。

 さらに、この記事は、李克強が「共産党の集団指導」を堅持したことを称賛した。本稿では簡単に述べておくが、「共産党の集団指導」という言葉は最近まで中国共産党の内部でタブーであった。軍内で「独裁体制」という言葉がタブーであることはは前述したが、人民日報の記事もタブーを恐れず書いたのである。

 軍の動揺については重要な事実がすでに公表されている。一方、李克強や「集団指導」についてはかなり推測が混じる言説が多く、丁寧な観察と分析が必要であるが、本稿では概要を示すにとどめることとしたい。

 北戴河会議が終わると、4中全会に注目が集まるだろう。4中全会とは中国共産党中央委員会全体会議のことであり、重要事項はここで正式に決定される。今年の場合、8月末頃に開催されるとのうわさもある。本稿で指摘した諸問題は見逃せない注目点である。

2025.07.12

インドネシア外交の変化か

 2025年7月6-7日、ブラジルで開催されたBRICS首脳会議にインドネシアからプラボウォ大統領が初めて参加した。BRICSは2023年まで、ロシア、ブラジル、中国、インドおよび南アフリカ5か国のグループであったが、24年からは参加国が増え、25年の首脳会議にはインドネシアを含め10か国が参加した。

 BRICSは成長力が大きい新興経済国のグループであり、将来的に先進国に匹敵するポテンシャルを持っているとみられている。 
 また最近は単なる高成長国の集まりではなく、国際秩序に影響を与える“政治的連合”としての側面も強めており、G7への対抗軸として「BRICS首脳会議」を定期的に開催している。 

 BRICS拡大とほぼ同時期に、インドネシアではジョコ前大統領に代わってプラボウォ氏が新大統領に就任し、外交が転換する可能性が出てきた。

 インドネシアは1945年の独立以来非同盟主義を掲げてきた。近年はASEAN(東南アジア諸国連合)の盟主的存在となり、さらに最近は、「グローバルサウスの代表」という言葉も使われるようになっている。ジョコ前大統領はインドネシアの経済発展に力を注ぐ一方、BRICS加盟には終始慎重な姿勢を取り、BRICS側から誘いを受けてもなかなか首を縦に振らなかった。建国以来の基本方針である非同盟主義を貫いてきたのである。

 ロシアによるウクライナ侵略が勃発したなかで開催された20カ国・地域(G20)は、インドネシアが有力な新興勢力であることを誇示するとともに、伝統的な外交方針を再確認する格好の機会となった。インドネシアはG20の議長国として、その成功のために奔走した。西側諸国によるロシア排除の要求は拒否した。ただし、ロシアの肩を持ったのではない。軍事侵攻に対しては交渉による平和的解決を呼び掛けつつ、G20は経済協力を話し合う場であって対立を持ち込むべきではないとの立場を貫いた。

 ジョコ氏は、ウクライナの首都キーウを訪問してゼレンスキー大統領と会談した。またその足でモスクワに飛んでロシアのプーチン大統領とも会談し、両首脳にG20サミットへの出席を求めた。インドネシアの外交努力は成功し、11月、G20首脳会議はバリ島で無事開催された。西側諸国は、ロシア側(外相)の出席を理由にボイコットすることはしなかった。ゼレンスキー大統領はオンラインで参加して、演説を行った。また、実現は難しいと思われていた首脳宣言の採択にもこぎ着け、各国はインドネシアの努力を賞賛した。サミット終了後、レトノ外相は、「インドネシアは常に架け橋となってきた。その結果として各国から信頼を得ている」と胸を張った。

 2023年になってもジョコ氏は活発な外交努力を続け、ケニア、タンザニア、モザンビーク、南アフリカを歴訪した。各国首脳との会談でジョコ氏は、「バンドン精神こそ私がアフリカ訪問に携えてきたものである」と強調した。1955年、インドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議以来の非同盟運動がインドネシア外交の屋台骨であることを再確認したのである。

 歴訪の最後に訪れた南アフリカでは、ジョコ氏はBRICS首脳会議に出席した。しかし、この首脳会議で主要な議題となっていたBRICS加盟国の拡大にジョコ氏は応じなかった。会議の前には、インドネシアは加盟に興味を示している国のひとつだとみなされていたが、実際には、ジョコ大統領は時期尚早として加盟申請を行わなかったのである。

 一方、ジョコ氏はその任期中、建国100年の2045年までに先進国の仲間入りを果たすという目標を掲げ、先進国クラブとも称される経済協力開発機構(OECD)への加盟に熱心に取り組んだ。
インドネシアは2007年からOECDの主要パートナーとなっており、マクロ経済政策や税制、投資環境などに関して政策協議を行ってきた。最近それに勢いが加わり、2023年、インドネシアは「OECD加盟の方針」を発表し、OECD事務総長に加盟の希望を伝えた。関係閣僚はOECD加盟国を回って加盟申請への支援を要請した。

 2024年2月、OECDはインドネシアとの加盟協議開始を正式に決定した。現在アジアからの加盟国は日本と韓国のみで、仮にインドネシアが加盟すれば、アジアでは3番目、東南アジアからは初となる。

 OECDに加盟することはインドネシアの中立外交、橋渡し外交の原則と一致する。先進国クラブに足場を築くことができれば、グローバルサウスの利害を国際経済秩序に反映させるというインドネシアの狙いも実現することができる。それによって、国際社会におけるインドネシアの発言力は大きくなるし、グローバルサウスのなかにおけるインドネシアの立ち位置もますます高まることになる。ジョコ前大統領の下でインドネシア外交にはこのような展望が開けたのである。

 残るはBRICSとの関係強化である。2024年10月20日に就任したプラボウォ新大統領は、翌年7月6-7日、ブラジルで開催されたBRICS首脳会議についに参加した。これはインドネシア外交の180度転換と言われた。また、プラボウォ氏は初の外遊先に最大の貿易相手国の中国を選んだ。

 しかし、インドネシアは南シナ海において中国と対立している。領土問題に関してインドネシアは、フィリピン、ベトナム、マレーシアなどと同様、中国の一方的な拡張行動の危険にさらされている。

 2024年、インドネシアは米国と共催の形で多国間軍事演習「スーパー・ガルーダシールド」を開催し、これには日本の陸上自衛隊も参加した。ガルーダシールドは、2007年にインドネシア軍と米軍の二国間演習として始まったものであり、 2022年には多国間のイベントに発展し、この地域最大級の演習のひとつとなった。 スーパー・ガルーダシールドという名称は、複数のイベントと多国籍という特徴を反映している。

 日本との関係ではプラボゥオ氏が大統領として日本を訪問するのは中国より後となる。しかし、プラボゥオ氏は日本との友好関係を重視していることをさまざまな機会に示している。2024年4月、当時のプラボゥオ国防大臣は来日して岸田文雄首相と会談し、安全保障分野などで協力を強化していくことを確認した。

 今後のプラボゥオ政権について注目すべきは安定性であろう。

 プラボゥオ氏は1951年生まれでジョコ氏より10歳年上である。健康不安も指摘されている。

 過去の2度の大統領選(2014年と2019年)で、ジョコ氏と激しい選挙戦を展開しながら敗北した。ジョコ氏の強さを知っているプラボウォ氏は今回の選挙でジョコ氏の支持層をそっくり取り込むことに努めた。

 また、プラボゥオ氏はジョコ政権の政策を継承することを前面に押し出した。ジョコ氏の長男であるギブランを副大統領候補に据えた。そんなこともあって、ジョコ氏は、次第にプラボウォを支援する姿勢を強めたという。

 BRICSとの関係ではジョコ前大統領の慎重姿勢を転換することとなったが、先進国クラブのOECDから反西側のBRICSに乗り換えたのではなく、インドネシアの仲間を広げたとみるべきであろう。インドネシア政府関係者は「世界秩序が変化する中、特定の勢力だけに近づき、それ以外を遠ざけるのは得策とは言えない」といっている。

2025.06.23

個人の行動を重視すべきである

 本日(6月23日)は沖縄で「組織的戦闘が終了」した日であり、本研究所では毎年以下の一文(1995年6月23日、読売新聞に寄稿したもの)をHPに掲載している。

「沖縄で戦った人たちを評価すべきだ
 1945年6月23日は沖縄で「組織的戦闘が終了」した日。戦って命を落とされた方々を悼んで。

 「戦後五十年、戦争に関する議論が盛んであるが、戦死者に対する鎮魂の問題については、戦争と個人の関係をよく整理する必要がある。あくまでも個人的見解であるが、一考察してみたい。

 個人の行動を評価する場合には、「戦争の犠牲」とか[殉国]などのように、戦争や国家へ貢献したかどうか、あるいは戦争や国家が個人にどんな意義をもったか、などから評価されることが多い。しかし、そのような評価の仕方は、少々考えるべき点があるのではないだろうか。

 歴史的には、個人の行動に焦点を当てた評価もあった。例えば「敵ながらあっぱれ」という考えは、その戦争とは明確に区別して、個人の行動を評価している。
 では、太平洋戦争末期に十五万人の民間人死者が出た沖縄戦はどうか。中でも、悲運として広く知られるひめゆり学徒隊の行動は、自分たちを守るという強い精神力に支えられたもので、何らかの見返りを期待したのでもなく、条件つきでもなかった。従って「犠牲者」のイメージで連想される弱者には似つかわしくない。勇者と呼ぶにふさわしいと思う。また、[殉国]のイメージとも違う。[殉国]型の評価は、個人が国家のために一身を捧げたとみなされており、自らを守ることについて特に評価は与えられていない。
 個人と国家は区別され、その個人の評価は国家に対する献身なり、貢献という角度から下されている。しかし、ひめゆり学徒隊の大部分は、自分自身も、家族も故郷も、祖国も、守るべき対象として一緒に観念していたのではないか。「犠牲者」とか[殉国者]と言うより、人間として極めて優れた行動をとったと評価されるべき場合だった。

 これは軍人についても同じことで、「防御ならよいが攻撃は不可」とは考えない。軍人の、刻々の状況に応じた攻撃は、何ら恥ずべきことではない。もちろん罪でもなく、任務であり、当たり前のことである。

 他方、このことと戦争全体の性格、すなわち侵略的(攻撃的)か、防御的かは全く別問題である。戦争全体が侵略的であるかないかを問わず、個人の防御的な行動もあれば、攻撃的な行動もある。
 さらに、局部的な戦争と戦争全体との関係もやはり区別して評価すべきである。たとえば、沖縄戦はどの角度から見ても防御であった。まさか日本側が米軍に対して攻撃した戦争と思っている人はいないだろう。他方わが国は、太平洋戦争において、侵略を行なってしまったが、防御のために沖縄戦と、侵略を行なってしまったこととの間に何ら矛盾はない。

 したがって、軍人の行動を称賛すると、戦争を美化することになるといった考えは誤りであると言わざるを得ない。その行動が、敵に対する攻撃であっても同じことである。もちろん、攻撃すべてが積極的に評価できると言っているのではない。

 もう一つの問題は、軍人の行動を「祖国を守るために奮闘した」との趣旨で顕彰することである。この種の顕彰文には、自分自身を守るという自然な感情が、少なくとも隠れた形になっており、個人の行動を中心に評価が行われていない。
 顕彰文を例に出して、「軍人が祖国を防衛したことのみを強調するのは、あたかも戦争全体が防御的だったという印象を与え、戦争全体の侵略性を歪曲する」という趣旨の評論が一部にあるが、賛成できない。個人の行動の評価と戦争全体の評価を連動させているからである。

 戦争美化と逆であるが、わが国が行った戦争を侵略であったと言うと、戦死者は「犬死に」したことになるという考えがある。これも個人と戦争全体の評価を連動させている誤った考えである。個人の行動を中心に評価するとなれば、積極的に評価できない場合も当然出てくる。
一方、戦死者は平等に弔うべきだという考えがあるが、弔いだけならいい。当然死者は皆丁重に弔うべきだ。しかし、弔いの名分の下に、死者の生前の業績に対する顕彰の要素が混入してくれば問題である。

 もしそのように扱うことになれば、間違った個人の行動を客観的に評価することができなくなるのではないか。そうなれば、侵略という結果をもたらした戦争指導の誤りも、弔いとともに顕彰することになりはしないか。それでは、戦争への責任をウヤムヤにするという内外の批判に、到底耐え得ないだろう。

 個人の行動を中心に評価することは洋の東西を問わず認められている、と私は信じている。ある一つの戦争を戦う二つの国民が、ともに人間として立派に行動したということは十分ありうることである。片方が攻撃、他方が防御となることが多いだろうが、双方とも人間として高く評価しうる行動をとったということは何ら不思議でない。

 個人と戦争全体、国家との関係をこのように整理した上で、戦争という極限状況の中で、あくまで人間として、力の限り、立派に生きた人たちに、日本人、外国人の区別なく、崇高なる敬意を捧げたい。」

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