2017 - 平和外交研究所 - Page 16
2017.08.10
問題は、派遣部隊が作成していた日報の開示が求められたのに対し、防衛省は調査の結果として、すでに破棄したと答えたことからはじまった。しかし、さらにある自民党議員によって再調査が求められた結果、日報が統合幕僚監部に残っていることが判明した(12月末)。このことが稲田防衛相に報告されたのは、翌年の1月末であった。
さらにその後、日報は派遣部隊の親元である陸上自衛隊にも残っていたことが判明した。そうなると、防衛省の最初の「破棄した」との説明と矛盾してくる、虚偽の回答をしたと追及される恐れもあった。発見された日報の取り扱いに苦慮した防衛省では、2月15日、稲田防衛相、岡部陸上幕僚長、事務方トップの黒江事務次官らが出席して対応を協議し、「不公表」とすることに決定した。しかし、後日、その経緯も外部に漏出した。
この間、稲田防衛相は国会で答弁の矛盾、事実関係の説明の不明確さ、防衛省内の把握の不十分さを指摘された。これに対し稲田氏は、自身が指示して徹底的に調査し、日報を公表させたとし、「シビリアン・コントロールは効いていた」と強調した(3月17日の記者会見)が、国民の納得を得ることはできなかった。
問題点は、大きく言って二つある。稲田氏の防衛相としての言動が適切であったかという問題と、現憲法が定めるシビリアン・コントロールは適切かという問題である。前者については、今後国会などにおいて解明がすすむことを期待したい。本稿では後者の制度問題を取り上げる。
まず、日本国憲法の下では、そもそも「シビリアン・コントロール」を論じる余地はあるのか、という疑問がある。憲法9条によれば、日本には「軍」はないので、シビリアン・コントロールの必要もないとも考えられるからである。しかし、日本は自衛のために武装した自衛隊を持っているので、やはり、シビリアン・コントロールの必要があるだろう。
具体的には、シビリアン・コントロールは、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」という規定(66条2項)によって確保されていると解されている。しかし、これでシビリアン・コントロールが十分とは言えないと思う。
現憲法では、旧憲法下のように陸軍が強引に内閣を倒すことは不可能になっている。この点では改善しているのだが、次のような問題が残っている。
第1に、防衛相に就任する人はつねに能力があるとは限らない。自衛隊を適切に監督できる人もいれば、できない人もいる。防衛相は、例えば、政治資金規正法違反の理由で刑事罰を受けるかもしれない。また、自衛隊を政治目的に濫用するかもしれない。
自衛隊から見ても心底から仕えたい防衛相もいれば、信頼できないとみなす人もいる。これらは通常、表で語られないことであるが、現実には問題になりうることが今回の事件で露呈された。要するに、文民がトップであってもそれだけでは安心できないのである。内閣の構成員が文民でなければならないのは、シビリアン・コントロールの必要条件であるが、十分条件ではないのだ。
第2に、自衛隊の主張には説得力があり、防衛相がそれを承認しないとするのは困難なことである。たとえば、自衛隊が作戦Aで成功しなかったので作戦Bが必要と主張するケースを考えてみる。政府は諸外国との関係など総合的な考慮から作戦Bを実行すべきでないと判断しても、防衛相ははたして作戦Bを不許可とできるか。理論的にはもちろんできるはずだが、実際には自衛隊は現場をよく知っており、よく考えて防衛相に上げてくるだろうからその主張には説得力がある。
また、かつての帝国軍隊の場合は、作戦を途中で変更すると、それまでの犠牲を「無駄にするのか」という議論が使われた。
一方、政府の判断は多かれ少なかれ妥協が含まれており、したがって説得力は弱い。自衛隊の考えのほうが理屈にかなっているように見えることがありうる。
しかし、それでも自衛隊の主張を退け、政府の判断に従わせなければならないことがある。これがシビリアン・コントロールであるが、単に上に立つ政府が自衛隊を押さえつけるということでなく、長い目で見ると妥協をした政府のほうが正しかったことが分かってくるのである。これは裁判の証明のようなことでないが、歴史の教訓である。
日本の憲法規定は米国に習ったものであるが、実は、日米のシビリアン・コントロールは異なっているところがある。米国ではシビリアン・コントロールはよく効いているように見えるが、実際にはシビリアン・コントロールは簡単でなく、あらゆる手段で確保に努めなければならないと認識されている。
これに比べると、日本のシビリアン・コントロールは、憲法の規定はあるが、自衛隊の海外での武力行使は今までは皆無であり、したがってまた、シビリアン・コントロールが本当に必要になる事態には立ち至ったことがなかった。つまり経験が乏しいので、シビリアン・コントロールの議論は机上の空論に陥るのである。旧憲法下では問題とすべき事例が多数あったが、旧軍のことは現在の自衛隊とはほぼ完全に切り離されており、参照すべき前例とは認識されていない。
今後どうすればよいかだが、憲法を改正して自衛隊を正規の防衛軍にするなら、「軍はいかなる場合でも政府の判断に従う」という原則を明記すべきだ。つまり、文民によるコントロールは人の面からの規制であり、「軍はいかなる場合でも政府の判断に従う」という原則はルールの問題であり、両方が必要である。そして、この二つの原則の下でシビリアン・コントロールが必要な諸事項、とくに、政治にかかわってくる問題について自衛隊がどこまで研究したり、主張したりできるかを法律で規定すべきである。かつて、自衛隊員が有事の場合の対応に関する法制上の欠陥について研究したことが問題視されたことがあったが、一概に否定されるべきことでなかった。それは一定程度まで、つまり、シビリアン・コントロールに反しない限度内では認められてしかるべきことであった。
さらに、制度面の措置とともに、戦前の軍による暴走とそれをコントロールできなかった政治の欠陥などを含め歴史を徹底的に見つめなおし、その結果を政府と自衛隊の在り方に反映させ、自衛隊が政府に反旗を翻すようなことはあり得ないようにする努力が必要である。
内閣改造②シビリアン・コントロール
南スーダンへの自衛隊PKO部隊の派遣は憲法の文民統制(シビリアン・コントロール)についてあらためて考える機会になった。問題は、派遣部隊が作成していた日報の開示が求められたのに対し、防衛省は調査の結果として、すでに破棄したと答えたことからはじまった。しかし、さらにある自民党議員によって再調査が求められた結果、日報が統合幕僚監部に残っていることが判明した(12月末)。このことが稲田防衛相に報告されたのは、翌年の1月末であった。
さらにその後、日報は派遣部隊の親元である陸上自衛隊にも残っていたことが判明した。そうなると、防衛省の最初の「破棄した」との説明と矛盾してくる、虚偽の回答をしたと追及される恐れもあった。発見された日報の取り扱いに苦慮した防衛省では、2月15日、稲田防衛相、岡部陸上幕僚長、事務方トップの黒江事務次官らが出席して対応を協議し、「不公表」とすることに決定した。しかし、後日、その経緯も外部に漏出した。
この間、稲田防衛相は国会で答弁の矛盾、事実関係の説明の不明確さ、防衛省内の把握の不十分さを指摘された。これに対し稲田氏は、自身が指示して徹底的に調査し、日報を公表させたとし、「シビリアン・コントロールは効いていた」と強調した(3月17日の記者会見)が、国民の納得を得ることはできなかった。
問題点は、大きく言って二つある。稲田氏の防衛相としての言動が適切であったかという問題と、現憲法が定めるシビリアン・コントロールは適切かという問題である。前者については、今後国会などにおいて解明がすすむことを期待したい。本稿では後者の制度問題を取り上げる。
まず、日本国憲法の下では、そもそも「シビリアン・コントロール」を論じる余地はあるのか、という疑問がある。憲法9条によれば、日本には「軍」はないので、シビリアン・コントロールの必要もないとも考えられるからである。しかし、日本は自衛のために武装した自衛隊を持っているので、やはり、シビリアン・コントロールの必要があるだろう。
具体的には、シビリアン・コントロールは、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」という規定(66条2項)によって確保されていると解されている。しかし、これでシビリアン・コントロールが十分とは言えないと思う。
現憲法では、旧憲法下のように陸軍が強引に内閣を倒すことは不可能になっている。この点では改善しているのだが、次のような問題が残っている。
第1に、防衛相に就任する人はつねに能力があるとは限らない。自衛隊を適切に監督できる人もいれば、できない人もいる。防衛相は、例えば、政治資金規正法違反の理由で刑事罰を受けるかもしれない。また、自衛隊を政治目的に濫用するかもしれない。
自衛隊から見ても心底から仕えたい防衛相もいれば、信頼できないとみなす人もいる。これらは通常、表で語られないことであるが、現実には問題になりうることが今回の事件で露呈された。要するに、文民がトップであってもそれだけでは安心できないのである。内閣の構成員が文民でなければならないのは、シビリアン・コントロールの必要条件であるが、十分条件ではないのだ。
第2に、自衛隊の主張には説得力があり、防衛相がそれを承認しないとするのは困難なことである。たとえば、自衛隊が作戦Aで成功しなかったので作戦Bが必要と主張するケースを考えてみる。政府は諸外国との関係など総合的な考慮から作戦Bを実行すべきでないと判断しても、防衛相ははたして作戦Bを不許可とできるか。理論的にはもちろんできるはずだが、実際には自衛隊は現場をよく知っており、よく考えて防衛相に上げてくるだろうからその主張には説得力がある。
また、かつての帝国軍隊の場合は、作戦を途中で変更すると、それまでの犠牲を「無駄にするのか」という議論が使われた。
一方、政府の判断は多かれ少なかれ妥協が含まれており、したがって説得力は弱い。自衛隊の考えのほうが理屈にかなっているように見えることがありうる。
しかし、それでも自衛隊の主張を退け、政府の判断に従わせなければならないことがある。これがシビリアン・コントロールであるが、単に上に立つ政府が自衛隊を押さえつけるということでなく、長い目で見ると妥協をした政府のほうが正しかったことが分かってくるのである。これは裁判の証明のようなことでないが、歴史の教訓である。
日本の憲法規定は米国に習ったものであるが、実は、日米のシビリアン・コントロールは異なっているところがある。米国ではシビリアン・コントロールはよく効いているように見えるが、実際にはシビリアン・コントロールは簡単でなく、あらゆる手段で確保に努めなければならないと認識されている。
これに比べると、日本のシビリアン・コントロールは、憲法の規定はあるが、自衛隊の海外での武力行使は今までは皆無であり、したがってまた、シビリアン・コントロールが本当に必要になる事態には立ち至ったことがなかった。つまり経験が乏しいので、シビリアン・コントロールの議論は机上の空論に陥るのである。旧憲法下では問題とすべき事例が多数あったが、旧軍のことは現在の自衛隊とはほぼ完全に切り離されており、参照すべき前例とは認識されていない。
今後どうすればよいかだが、憲法を改正して自衛隊を正規の防衛軍にするなら、「軍はいかなる場合でも政府の判断に従う」という原則を明記すべきだ。つまり、文民によるコントロールは人の面からの規制であり、「軍はいかなる場合でも政府の判断に従う」という原則はルールの問題であり、両方が必要である。そして、この二つの原則の下でシビリアン・コントロールが必要な諸事項、とくに、政治にかかわってくる問題について自衛隊がどこまで研究したり、主張したりできるかを法律で規定すべきである。かつて、自衛隊員が有事の場合の対応に関する法制上の欠陥について研究したことが問題視されたことがあったが、一概に否定されるべきことでなかった。それは一定程度まで、つまり、シビリアン・コントロールに反しない限度内では認められてしかるべきことであった。
さらに、制度面の措置とともに、戦前の軍による暴走とそれをコントロールできなかった政治の欠陥などを含め歴史を徹底的に見つめなおし、その結果を政府と自衛隊の在り方に反映させ、自衛隊が政府に反旗を翻すようなことはあり得ないようにする努力が必要である。
2017.08.08
大筋としては、最初のICBM実験(7月4日)の際には中ロが日米韓などに同調せず国際社会が割れていた感があったが、さすがに第2回目の実験となると関係国は北朝鮮に厳しい姿勢で臨むことで一致し、今般のASEAN会議でも各国はこぞって北朝鮮を非難したという流れである。
しかし、マニラで米朝両国は、もちろん直接対話ではなかったが、一種の間接的なコミュニケーションを行ったと思われる。
特に、ティラーソン長官の、「北朝鮮が一連のミサイル発射実験を中止すれば米国は北朝鮮と話し合いをする用意がある」という発言である。米国はオバマ政権時代から、「北朝鮮が核を放棄すること」を関係改善の条件とし、トランプ政権も(いやいやながら?)この立場を維持しつつ、「北朝鮮との対話を始めるには一定の環境が必要」とも述べていた。
これらに比べ、今回のティラーソン発言については次の点が注目された。
第1に、「ミサイルの発射実験を中止すれば話し合う用意がある」という表明は、「核を放棄しない限り対話しない」というのと比べ、前向きの印象がある。
第2に、これまでは、核放棄という最終目標達成と話し合いの開始の条件を区別していなかったが、今回は「話し合いを始める」ことに絞って条件を具体的に示した。
第3に、核実験には言及しなかった。話し合いの開始のためには核実験の停止は必要でないとも解しうる発言だった。ただし、ティラーソン氏はそのようなことを十分認識した上で発言したか、疑問の余地はありそうだ。
一方、リ・ヨンホ外相の発言は、各国から強硬な姿勢に終始し、攻撃的であったなどと評されたそうだ。しかし、北朝鮮の外相として各国が歓迎するようなことを発言できるはずはないので、リ・ヨンホ氏の発言が強硬であったというだけではあまり意味がない。少なくともこれまでの北朝鮮の発言と比べさらに強硬になっていたか、というところまで踏み込まなければならない。そのように見ていくと、リ・ヨンホ氏の発言は決して強硬であったとは思われない。
リ・ヨンホ氏は、米国を非難する文脈の中でアフガニスタン、イラン、リビアなどで政権が交代させられたことに言及した。米国によって攻撃されることは北朝鮮が20年以上繰り返している基本問題であり、核・ミサイル問題の核心である。要するにリ・ヨンホ氏の発言は従来通りだったのだ。
リ・ヨンホ氏は河野新外相とも、また、カン・ギョンフア(康京和)韓国外相とも短時間言葉を交わした。
同氏がティラーソン長官の発言をどのように受け止めたか、知る由もないが、全体的にみると、歓迎できるという気持ちを持ったのではないかと推測される。
マニラでの米国と北朝鮮
北朝鮮によるICBMの第2回目実験(7月28日)を非難して国連安保理が北朝鮮制裁の新決議を採択したのが8月5日。その直後に(7日)マニラで開かれたASEAN地域フォーラム(ARF)において北朝鮮によるミサイル発射実験問題が議論され、ほぼすべての国が北朝鮮を非難し、態度を変更するよう求めたが、北朝鮮のリ・ヨンホ(李容浩)外相は従来からの米国非難を繰り返し、まったく応じる姿勢を見せなかったという。大筋としては、最初のICBM実験(7月4日)の際には中ロが日米韓などに同調せず国際社会が割れていた感があったが、さすがに第2回目の実験となると関係国は北朝鮮に厳しい姿勢で臨むことで一致し、今般のASEAN会議でも各国はこぞって北朝鮮を非難したという流れである。
しかし、マニラで米朝両国は、もちろん直接対話ではなかったが、一種の間接的なコミュニケーションを行ったと思われる。
特に、ティラーソン長官の、「北朝鮮が一連のミサイル発射実験を中止すれば米国は北朝鮮と話し合いをする用意がある」という発言である。米国はオバマ政権時代から、「北朝鮮が核を放棄すること」を関係改善の条件とし、トランプ政権も(いやいやながら?)この立場を維持しつつ、「北朝鮮との対話を始めるには一定の環境が必要」とも述べていた。
これらに比べ、今回のティラーソン発言については次の点が注目された。
第1に、「ミサイルの発射実験を中止すれば話し合う用意がある」という表明は、「核を放棄しない限り対話しない」というのと比べ、前向きの印象がある。
第2に、これまでは、核放棄という最終目標達成と話し合いの開始の条件を区別していなかったが、今回は「話し合いを始める」ことに絞って条件を具体的に示した。
第3に、核実験には言及しなかった。話し合いの開始のためには核実験の停止は必要でないとも解しうる発言だった。ただし、ティラーソン氏はそのようなことを十分認識した上で発言したか、疑問の余地はありそうだ。
一方、リ・ヨンホ外相の発言は、各国から強硬な姿勢に終始し、攻撃的であったなどと評されたそうだ。しかし、北朝鮮の外相として各国が歓迎するようなことを発言できるはずはないので、リ・ヨンホ氏の発言が強硬であったというだけではあまり意味がない。少なくともこれまでの北朝鮮の発言と比べさらに強硬になっていたか、というところまで踏み込まなければならない。そのように見ていくと、リ・ヨンホ氏の発言は決して強硬であったとは思われない。
リ・ヨンホ氏は、米国を非難する文脈の中でアフガニスタン、イラン、リビアなどで政権が交代させられたことに言及した。米国によって攻撃されることは北朝鮮が20年以上繰り返している基本問題であり、核・ミサイル問題の核心である。要するにリ・ヨンホ氏の発言は従来通りだったのだ。
リ・ヨンホ氏は河野新外相とも、また、カン・ギョンフア(康京和)韓国外相とも短時間言葉を交わした。
同氏がティラーソン長官の発言をどのように受け止めたか、知る由もないが、全体的にみると、歓迎できるという気持ちを持ったのではないかと推測される。
2017.08.04
小野寺は安倍内閣で2回目の防衛相であり、能力、人柄、他国への配慮などいずれの点においても優れた人物であり、2012年から2年間の防衛相時代には高い信頼を勝ち得ていた。防衛省内で好かれていたからと言ってりっぱな防衛相とは限らないが、小野寺はどの角度から見ても優れた防衛相だった。安倍首相が稲田に替え、小野寺を防衛相に再任したのは、激しく傷ついた防衛省・自衛隊を立て直すのに賢明な人事であった。
しかるに、南スーダンへの自衛隊の派遣から発した防衛省・自衛隊の問題はこの人事で半分は解消されたが、あと半分は未解決のまま残っている。具体的には、稲田防衛相の下で発生した二つの問題、すなわち防衛省・自衛隊における隠ぺいと、いわゆる「文民統制(シビリアン・コントロール)」の欠如である。
自衛隊への期待は大きい。よりよい自衛隊になってもらいたい。その重要な任務にふさわしい法的根拠を整備したい。自衛隊員には誇りをもって任務についてほしい、またそのために必要な待遇をしてあげたいと思う。
しかし、自衛隊員を神格化して、過ちを犯すことはないという前提に立ってはならない。彼らも我々と同じ人間であり、過ちを犯すことも、それを隠蔽しようとすることもある。その前提で見ると、防衛相直轄の防衛監察は十分機能しないことが、今回露呈されたのではないか。
防衛監察は平成19年に設立された制度であり、その目的は、「不正や非違行為」、あるいはそれにつながる行為がある場合、あるいはあると疑いをもたれる場合に事実関係を調査すること、あるいは問題となる行為を未然に防止することなどである。この防衛監察は防衛大臣の直轄として行われ、その職員は事務官等と陸海空の自衛官、および検察庁、公正取引委員会からの出向者、公認会計士等から構成されている。
この職員構成を見ると、前述した防衛省員・自衛隊員も過ちを犯すことがあるという認識に立っているように見える。
また、防衛省・自衛隊は制度だけでは足りないことがありうるので、防衛省員や自衛隊員などに対して、「業務上の問題点、見聞きした不正行為等、コンプライアンス(注 法律順守)に関する問題点について、幅広い情報提供をお願いします」と呼び掛けている。いわゆる内部告発も奨励しているわけであるが、情報提供の方法としては「ホットライン・ボタンからの提供」を指示している。
これらの制度はよく考えられていると見えるが、ざんねんながら、今回のPKO部隊の日報隠ぺいに関しては機能したとはいいがたい。とくに、稲田防衛相が日報を不公表とすることを了承したか否かという最大問題については、不公表の決定が行われた際の状況は不明としつつ、「大臣が不公表を了承したという事実はない」、と結論だけ明言した。つまり、全体は不明としつつ、その中の一点だけ明確だとしたのであり、監察の信頼性に疑問を持たれたのは当然であった。状況が分からないのであれば、稲田大臣の関与についても断言できないとすべきだったのである。
ここに書いたことについては、不正確な点があるかもしれない。そうであれば、今後の審議において事実関係が明らかにされるにしたがい、当然訂正しなければならない。そのことを断ったうえであるが、特別監察には限界があることを指摘したい。それは今回の特別監察の報告書にも記載されていることである。
今すぐでないかもしれないが、自衛隊の活動は状況いかんで海外にも広がりうる。国会での答弁ではそのようなことはないというような趣旨の説明がなされたが、法律にはそれが可能だと記載されている。いわゆる「存立危機事態」である。その際、自衛隊は、例えば、北朝鮮軍と対峙し、北朝鮮軍か、日本の自衛隊か、どちらが先に発砲したか問題になることがありうる。そのような場合、だれからも、どの国から疑われても耐えうる真実の証明はできるか。もし今回の監察報告のような説得力のない結論だけ、つまり、自衛隊は先に発砲していないという結論だけ言っても到底信用してもらえないだろう。さらに言えば、本当に機能しない制度は、真実を隠蔽するには役に立つかもしれないが、実は真実の追及をそらすだけに罪が重い。
今後、防衛省・自衛隊において過ちが発生する場合に備えて、真の意味で第三者から構成される調査メカニズムを構築することが必要である。国の防衛にかかわることであり、いつもガラス張りにできないのは当然だが、どうしても必要な場合、総理大臣の判断で、あるいは国民の一定数、たとえば10万人が要求した場合、純粋に第三者の機関が、法的権限を持って、防衛相の管轄下でなく、独立して調査することが絶対的に必要である。それは、自衛隊を強くするためにも必要である。
内閣改造と自衛隊①
8月3日の内閣改造により、防衛相は稲田朋美から小野寺五典に交替した。稲田はPKO部隊の派遣、とくにいわゆる日報問題などをめぐり防衛省内の隠ぺいを防げず、国会では一貫した説明をできなかった。また、かねてからの個人的主義主張との整合性のなさを指摘されると落涙したり、シンガポールでのシャングリラ対話に出席した際は女性であることを誇示する発言をして顰蹙を買うなど国の安全保障に責任を持つ人物にはふさわしくない振る舞いを繰り返した。さらに森友学園問題など所管外のことについても自らの関与を問われ、一貫した説明をできなかった。小野寺は安倍内閣で2回目の防衛相であり、能力、人柄、他国への配慮などいずれの点においても優れた人物であり、2012年から2年間の防衛相時代には高い信頼を勝ち得ていた。防衛省内で好かれていたからと言ってりっぱな防衛相とは限らないが、小野寺はどの角度から見ても優れた防衛相だった。安倍首相が稲田に替え、小野寺を防衛相に再任したのは、激しく傷ついた防衛省・自衛隊を立て直すのに賢明な人事であった。
しかるに、南スーダンへの自衛隊の派遣から発した防衛省・自衛隊の問題はこの人事で半分は解消されたが、あと半分は未解決のまま残っている。具体的には、稲田防衛相の下で発生した二つの問題、すなわち防衛省・自衛隊における隠ぺいと、いわゆる「文民統制(シビリアン・コントロール)」の欠如である。
自衛隊への期待は大きい。よりよい自衛隊になってもらいたい。その重要な任務にふさわしい法的根拠を整備したい。自衛隊員には誇りをもって任務についてほしい、またそのために必要な待遇をしてあげたいと思う。
しかし、自衛隊員を神格化して、過ちを犯すことはないという前提に立ってはならない。彼らも我々と同じ人間であり、過ちを犯すことも、それを隠蔽しようとすることもある。その前提で見ると、防衛相直轄の防衛監察は十分機能しないことが、今回露呈されたのではないか。
防衛監察は平成19年に設立された制度であり、その目的は、「不正や非違行為」、あるいはそれにつながる行為がある場合、あるいはあると疑いをもたれる場合に事実関係を調査すること、あるいは問題となる行為を未然に防止することなどである。この防衛監察は防衛大臣の直轄として行われ、その職員は事務官等と陸海空の自衛官、および検察庁、公正取引委員会からの出向者、公認会計士等から構成されている。
この職員構成を見ると、前述した防衛省員・自衛隊員も過ちを犯すことがあるという認識に立っているように見える。
また、防衛省・自衛隊は制度だけでは足りないことがありうるので、防衛省員や自衛隊員などに対して、「業務上の問題点、見聞きした不正行為等、コンプライアンス(注 法律順守)に関する問題点について、幅広い情報提供をお願いします」と呼び掛けている。いわゆる内部告発も奨励しているわけであるが、情報提供の方法としては「ホットライン・ボタンからの提供」を指示している。
これらの制度はよく考えられていると見えるが、ざんねんながら、今回のPKO部隊の日報隠ぺいに関しては機能したとはいいがたい。とくに、稲田防衛相が日報を不公表とすることを了承したか否かという最大問題については、不公表の決定が行われた際の状況は不明としつつ、「大臣が不公表を了承したという事実はない」、と結論だけ明言した。つまり、全体は不明としつつ、その中の一点だけ明確だとしたのであり、監察の信頼性に疑問を持たれたのは当然であった。状況が分からないのであれば、稲田大臣の関与についても断言できないとすべきだったのである。
ここに書いたことについては、不正確な点があるかもしれない。そうであれば、今後の審議において事実関係が明らかにされるにしたがい、当然訂正しなければならない。そのことを断ったうえであるが、特別監察には限界があることを指摘したい。それは今回の特別監察の報告書にも記載されていることである。
今すぐでないかもしれないが、自衛隊の活動は状況いかんで海外にも広がりうる。国会での答弁ではそのようなことはないというような趣旨の説明がなされたが、法律にはそれが可能だと記載されている。いわゆる「存立危機事態」である。その際、自衛隊は、例えば、北朝鮮軍と対峙し、北朝鮮軍か、日本の自衛隊か、どちらが先に発砲したか問題になることがありうる。そのような場合、だれからも、どの国から疑われても耐えうる真実の証明はできるか。もし今回の監察報告のような説得力のない結論だけ、つまり、自衛隊は先に発砲していないという結論だけ言っても到底信用してもらえないだろう。さらに言えば、本当に機能しない制度は、真実を隠蔽するには役に立つかもしれないが、実は真実の追及をそらすだけに罪が重い。
今後、防衛省・自衛隊において過ちが発生する場合に備えて、真の意味で第三者から構成される調査メカニズムを構築することが必要である。国の防衛にかかわることであり、いつもガラス張りにできないのは当然だが、どうしても必要な場合、総理大臣の判断で、あるいは国民の一定数、たとえば10万人が要求した場合、純粋に第三者の機関が、法的権限を持って、防衛相の管轄下でなく、独立して調査することが絶対的に必要である。それは、自衛隊を強くするためにも必要である。
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