平和外交研究所

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2017.04.04

ミャンマーの民主化は進んでいるか

 ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問は3月30日、民主的な政権が生まれてからの1年を回顧してテレビ演説した。
 長年の軍人政権に代わってやっと実現した民主政権であるが、今、国民の間には失望が広がりつつあると言われている。アウン・サン・スー・チー氏自身、「国民の期待ほどには発展させられなかった」と認め、さらに、「私の努力が十分でなく、もっと完璧にこなせる人がいるというなら身を引く」とまで述べた。新政権が発足した時の熱気が冷めるのはある程度やむを得ないことかもしれないが、長年自由を拘束されても軍人政権と戦い続けてきた同女史の言葉としては、少々残念だ。
 アウン・サン・スー・チー氏がこのようなことを口にしたのは、ミャンマーにおける民主化勢力、軍部、それに少数民族問題の鼎立状態があまりに根深く、さらなる民主化へ向かって進める自信がなくなってきたからではないかと思われる。

 日本などでは少数民族といっても深刻な感じはないが、ミャンマーでは大問題だ。ミャンマーの政治は、以前から軍政とアウン・サン・スー・チーが率いるNLD(国民民主連盟)などが求める民主政治の2本柱で語られることが多かったが、実は、1948年に英国の植民地支配を脱して独立して以来、これに少数民族が加わる三つ巴状態であった。ただ、少数民族問題はあまり進展しなかったために、軍と民主勢力のせめぎあいだけに焦点が当たってきた。
 実際には、少数民族問題はミャンマーの政治に強い影響を及ぼしていた。軍が政治を牛耳ってきたのは全人口の3割近い少数民族と政府が対立状態にあるからだ。彼らにとって政府はビルマ族であり、不信感は根強い。
 一方、政府はなんとか武装闘争をやめさせようと努力してきたが、現実には「国軍」に頼らざるを得なかった。
 しかし、民主化勢力にとって「国軍」は民主化を妨げる敵であった。その本質が露呈されたのが1990年の総選挙であり、NLDが大勝したが、時の軍事政権は選挙結果を完全に無視して政権の移譲を拒否した。それ以来、「国軍」は民主化に対する反対勢力となり、民主的に選ばれた政権への移行が実現した今でも、議会では4分の1の議席を憲法上確保している。国政に対して決定的な影響力を合法的に保持しているのだ。
 
 2016年3月に新政権発足後、アウン・サン・スー・チー氏は6月にタイ、8月に中国、9月に米国、11月に日本を相次いで訪れ、各地で祝福を受け、また国家再建への協力を要望した。
 国内では、新政権は少数民族との和解に力を注ぎ、スー・チー女史の父親であるアウン・サン将軍が約70年前に試みた諸民族の大同団結会議を再開した。新パンロン会議である。
 しかし、今から思えば、アウン・サン・スー・チー氏はすでにそのころから少数民族の和解はなかなか進まないことを実感しつつあったようだ。新パンロン会議が当初予定されていた7月から延期され8月31日にずれ込んだこと自体はさほど深刻でないかもしれないが、最大の難問はカチン州の独立勢力、カチン独立機構(KIO)とその軍隊(KIA)であり、数年前からのミャンマー政府との武装闘争は完全に終わっていなかった。
 アウン・サン・スー・チー氏が、そのような中8月17日から21日まで中国を訪問したのはちょっとした驚きだった。常識的には、新生ミャンマーの命運がかかっている会議の準備が数日後に迫っているのに5日間も外国を訪問することなどありえないので、その時は、カチンの問題を含めて準備は整ったのかとも思われたが、そうでなかったことはすぐに露呈され、KIAは激しい攻勢に出た。
 なお、中国はカチン州と接しており、強い影響力を持っている。アウン・サン・スー・チー氏が、中国にカチンとの和解に力添えを依頼した可能性もあったが、5日間も中国に滞在した理由は説明がつかなかった。
 
 新政権にとってさらに頭の痛い問題は、バングラデシュと国境を接するラカイン州のロヒンギャの扱いだ。2015年春に数千人のロヒンギャ難民がどの国からも拒否され海上をさまよった事件は世界的に有名になった。オバマ大統領はスー・チー氏に対し少数民族問題の解決を望んでいると表明するとともに、この問題をミャンマー政府が善処することを促した。
 一方、ミャンマー政府はロヒンギャをミャンマー国内の少数民族と認めておらず、バングラデシュからの難民と位置付けており、国籍も付与せず、「(不法移民の)ベンガル人」という呼称を用い続けているので、スー・チー最高顧問は「ラカイン州の問題の解決を政府として重視している」と応じるにとどまった。
 アウン・サン・スー・チー氏はそれしか言えなかったのだろう。最近もロヒンギャに対する暴行などが多発し、またそれに反発してロヒンギャ族による反撃事件も起こっている。
 このような状況にあって有効な対策を打ち出せないミャンマー政府に対して、インドネシアやマレイシアなどイスラム人口の多い国からは失望と批判の声が上がっている。

 以上のような状況を背景に今回の演説を聞くと、少数民族問題はアウン・サン・スー・チー氏にとってお手上げに近い状況なのかと思えてくる。
 しかし、アウン・サン・スー・チー氏が本当にあきらめムードになってきたのであれば、それはそれで大問題だ。同氏が近日中に退くことになると、その後継者は簡単に見つからないだろう。有能な人物はいくらもいるだろうが、これまでの政治状況からしてミャンマーの指導者となれる人物は育っていないはずだ。ミャンマーが民主的な政権のもとで順調に発展していくのに障害となる問題は少なくないようだ。
2017.03.31

朴槿恵前大統領の逮捕

 朴槿恵前大統領がついに逮捕された。裁判所が検察当局による逮捕請求を認めた結果だ。朴槿恵氏が実際どのような罪を犯したのか。韓国での裁判はこれからであり、事実関係はまだ確定していない。ましてや日本にいる我々が知っていることは限られているので、逮捕について安易に論評すべきでない。
 しかし、韓国は日本の重要な隣国であり、3週間前まで韓国の大統領であった人が逮捕され、収監されたことは日本にとっても重大な出来事であり、注目するのは当然だろう。
 
 日本から見ると、韓国は同じ民主主義の法治国家であるが、日本の常識で理解できる面とできない面が両方あるように思えてならない。
 韓国にも憲法以下の法律があり、それによって国民の権利が守られ、また義務が定められている。また、法の実現のために裁判制度が設けられている。朴槿恵氏についていえば、韓国国会における弾劾も、検察当局による取調べも、また憲法裁判所による弾劾の是非についての判断も、そして逮捕の是非についての裁判所の判断もすべて法の定める手続きにしたがって行われた。これは我々としても容易に理解できることである。
 しかし、これらの決定や判断の理由と根拠については理解困難な面がある。朴槿恵氏はチェ・スンシル被告に演説などについて相談したことは認めつつも、人事に関与させたことも、賄賂を受け取ったことも否認し続けてきた。このような姿勢は一貫しており、現在も変わっていない。だから、朴槿恵氏が重大な過ちを犯したとは思えず、収監するのは理解に苦しむ。
 裁判所や検察当局の説明には、朴槿恵氏が捜査に協力しないという指摘もあるが、それが3週間前まで大統領であった人を収監する理由になるとは思えない。
 さらに付言すると、検察当局などの説明には、チェ・スンシル氏やサムソン電子の実質上のトップの訴追と「バランスをとるために」ということが混じっている。これも理解に苦しむ。
 もっとも、以上は表面的なことに過ぎず、朴槿恵氏には本当に重大な犯罪事実があると言うなら話は違ってくる。我々としても理解可能となるだろう。
 細かいことにも触れてしまったが、要するに、韓国の裁判所や検察当局の判断は、報道されている限り、理由と根拠がとぼしく、世論に影響されているのではないかという疑念をぬぐえないのである。
 
 それは韓国の実情だと言われそうな気もする。そうかもしれないが、このような韓国論には一言付け加えたい。
 現在、日韓関係はとくに慰安婦少女像の問題などをめぐって非常に悪化している。そして、残念ながら、韓国人は日本に怒りを覚え、日本人はそれを不愉快に思うことが少なくないが、韓国人の怒りは日本にだけ向くのではなく、問題が違えば韓国人自身にも向くことがあるということだ。
 
2017.03.30

教科書検定は古臭い感覚でないか

 小学校の道徳教科書の検定結果が3月24日に公表された。直接検定結果を見たのではなく、二、三の新聞報道からの印象だが、検定は「上からの目線だ」「カビの生えたような古臭い感覚だ」「高齢者を特に重視している」「児童に興味を持たせる発想が希薄だ」と思った。

 小1の教科書では散歩中に友達の家の「パン屋」を見つけた話が教科書原案に書いてあったが、「パン屋」は「和菓子屋」に修正された。修正目的は、「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つ」点が足りないからだと説明されたそうだが、「和菓子屋」と言っても小学校の1年生にはまず分からないだろう。そのような言いかえは目的にかなうか、さっぱりわからない。
 もっとも、検定意見はすべて取り入れないと教科書として認められないということではなく、「教科書全体で項目全てを扱ってほしいとの意図で、どこを修正するかは教科書会社の判断」と説明されている(『日経新聞』25日付)が、「和菓子屋」への修正意見があったことに変わりはない。
 さらに、「おじさん」が「おじいさん」に、「アスレチックの遊具で遊ぶ公園」が「和楽器店」にそれぞれ修正されたが、「和菓子屋」と同様、そのような書き換えが「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つ」ことにつながるとは思えない。ちなみに、私は3人の孫を持つ「おじいさん」だが、「和楽器店」へ一度も行ったことがない。アスレチック遊具は何回も見かけたのでそれなりに知っている。

 教科書は児童に興味を覚えさせることを重視すべきだ。かりに「和楽器店」を例にとれば、そこには児童にとって何か面白いことがあることを紹介し、教えてあげるべきだ。そうなっておれば評価したいが、ただ「和楽器店」のイラストだけでは児童は興味を覚えないだろう。かえって面白くないところだと思うかもしれない。

 まさかと思うが、検定委員は「カタカナはだめで、和言葉ならよい」という考えでないことを希望する。日本語の中には外来語が無数にあり、日本人の生活の中に入り込んでいる。そのことも日本の文化だ。そういうと、反論が出るかもしれないが、「日本の文化」を古い頭で、狭く考えないでもらいたい。アニメにも日本文化として世界に誇れるものがある。そういう側面にも注意を払ってほしい。

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