平和外交研究所

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2016.03.08

女性差別・慰安婦問題について日本は国際的な感覚を見誤ってはならない

 日本における女性差別について審査してきた国連女子差別撤廃委員会は7日、「女性活躍推進法」など、前回2009年の勧告以降の取り組みを評価する一方、夫婦同姓、再婚禁止期間、雇用差別、セクハラなどについてはまだ問題があることを指摘し、日本にさらなる改善を求める報告書(同委員会での審議を総括した「最終見解」)を発表した。
 慰安婦問題については、「未解決の多くの課題が残され、遺憾である」とした。先般の日韓合意については、「犠牲者(元慰安婦)中心の立場に立ったものでない」と批判して元慰安婦の側に立った履行を求め、国の指導者や官僚が、元慰安婦を再び傷つけるような発言を慎むよう促し、元慰安婦の女性たちに「補償、賠償、公式謝罪、名誉回復のための措置などを含む十分かつ有効な救済を実施」するよう勧告した。教科書についても、適切に記述して学生や社会に周知させるよう求めた。

 岸田外相は8日午前の閣議後の記者会見で、この報告書について、「日本政府の説明内容を十分踏まえておらず、遺憾だ」と述べたと報道された。
 もしこれが、2月16日の同委員会審議で、外務省の杉山外務審議官が慰安婦問題に関して軍や官憲によるいわゆる「強制連行」は確認できなかったなどと反論したことを指しているならば、岸田首相の発言こそ問題だ。

 日本政府がこの委員会で説明した翌日、当研究所のHPに掲載した懸念は、今もそのまま当てはまる。 

「2月16日、ジュネーブの女子差別撤廃委員会で日本政府の代表は、慰安婦問題に関し、いわゆる朝日新聞による「吉田清治証言」や「慰安婦20万人」の報道はいずれも誤りであったことを朝日新聞自身が認めたことを説明したと報道されている。
 この説明自体は正しいが、懸念がある。
 1つは、日本政府の代表は「吉田証言は国際社会に大きな影響を与えた」と述べたそうだが、何を根拠にそのようなことを言えるのか。慰安婦問題について国連の要請を受け人権委員会(現在の人権理事会)の特別報告者となっていたクマラスワミ氏は、「個別の点で不正確なところがあっても、全体の趣旨は変わらない。吉田証言があったから報告を作成したのではない」と言っていた。
 当時、日本政府で慰安婦問題にかかわっていた者は、確かめたわけではないが、誰も吉田証言を重視していなかったと思う。
 第2に、朝日新聞の誤報を説明するのは結構だが、全体の説明とのバランスが問題だ。もし、クマラスワミ報告の誤りをついてその信憑性に疑問を呈しようとしたのであれば、そのような方法は誤りだ。国連の人権関係委員会であれ女子差別撤廃委員会であれ、裁判の場ではない。重要なことは日本が慰安婦問題にどのように取り組んでいるかを客観的に説明し理解してもらうことだ。
 ただし、日本政府代表による説明の全体が報道されているわけではないので、全体のバランスは分からない。
 第3に、もし、日本政府が今後も朝日新聞の誤りを国際的な場で説明し続けるならば、各国は、日本が慰安婦問題に真摯に向き合っていないと誤解する恐れがある。今回、求められて説明したことに目くじら立てる必要はないが、慰安婦問題について国連の場で説明を求められることは今後何回もあるだろう。日本政府が重箱の隅をつつくような議論を繰り返すこと国益を損なう恐れがあり、重大な懸念がある。
 第4に、先般の韓国政府との「今後、国連等国際社会において、本問題について互いに非難・批判することは控える」との合意とも関連がありうる。日本政府が正しいと思っていることを説明しても、韓国政府は違った認識を持っていることがありうる。今回の女子差別撤廃委員会での日本政府代表の説明はこの点で問題とならないか。また、逆に、韓国政府が、将来日本政府と考えの違うことを発言した場合、日本政府はどう対応するのか。日本政府は一貫した姿勢で臨めるか。」

 国連で慰安婦問題が取り上げられる機会は人権理事会の構造上、1年に何回かありうる。日本政府は杉山審議官の説明を今後も繰り返すのだろうか。岸田外相の発言を聞くと、そうする考えのようにも思われる。
 しかし、それは日本の立場をさらに悪化させる危険があることに早く気付くべきだ。日本側が力を入れていることは、「強制連行」など一部の記述に誤りがあるという指摘だが、「強制連行はなかった」ことを知れば、日本政府に対する批判はなくなると思うのはあまりにも幼稚な考えだ。それどころではない。そのような議論は国連と各国が嫌うことである。なぜなら彼らは、一部の記述には誤りはありうるという前提で、日本政府の慰安婦問題に取り組む姿勢を問題にしているからだ。
 日本政府が直視しなければならないのは、世界は女性の権利を擁護したいと望んでいることとそれを実現するための運動が展開されていることであり、国連女子差別撤廃委員会はそのためのメカニズムである。日本の一部の人が主張している「強制連行はなかった」ということが事実であってもこの運動の正統性は変わらないというのが彼らの考えだ。
 慰安婦問題について日本はなんら批判されるいわれはないというなら別だが、一部の事実関係にこだわるのは国益を害する。世界の常識を見誤ってはならない。 
 

2016.03.02

(短評)朴槿恵大統領の対日姿勢

 朴槿恵大統領は「三一節(1919年3月1日に日本から独立を求める運動が起こったことを記念する日)」で恒例の演説を行った。歴代の大統領は毎年この日に重要演説を行なっており、日本に対する姿勢を示すバロメータのような意味がある。
 朴槿恵大統領は就任直後の三一節(2013年)で「加害者と被害者という歴史的立場は千年の歴史が流れても変わらない」と述べるなど毎年厳しい対日認識を示していたが、今年はそのような激しい言及はせず、「歴史の過ちを忘れず、合意の趣旨と精神を完全に実践に移し、未来世代に教訓として記憶されるように努力しなければならない」と、歴史にも言及しつつ建設的な物言いに徹した。

 朴槿恵大統領は昨年11月の安倍首相との会談以来、難問の慰安婦問題を含め日本を批判するのでなく、協力して解決していこうという姿勢になっていた(当研究所HP2月15日「韓国のリバランシング?」)。今回の三一節演説はそれを再確認する意味がある。朴槿恵大統領が未来志向的になったと片づけるのは言い過ぎだが、対日姿勢を転換させた努力は率直に認めてよい。
 一方、北朝鮮に対して朴槿恵大統領は、「住民から搾取し、核開発だけに集中することで政権を維持することはできず、無意味だということを明確に悟らせなければならない」と厳しい言葉で批判した。北朝鮮の指導者のしていることがいかに愚かなことか、上からの目線で教えてやるという意味合いも感じさせる批判だ。このように言えば、北朝鮮は当然激烈に反発することを承知の上でこう言ったのだろう。今の朴槿恵大統領には、剣士が真っ向から相手に対して打ちかかることをほうふつさせるところがある。

 ともあれ、慰安婦問題の日韓合意についてはまだ強い反対勢力が残っており、韓国政府は説得に努めている。日本政府としてもいたずらに各国を刺激しないよう注意が必要だ。日本の論理で一部表現の正誤などを声高に言揚げすることなど、問題の解決に役立たないどころか、国益に反する。国際社会が何を問題にしているかを見定めなければならない。

2016.03.01

盧武鉉元大統領の対外姿勢

今後の作業の便宜のために作成した李明博前大統領に続くノートである。

盧武鉉大統領の全般的特徴
 人権派弁護士として学生とともに軍人政治に反対してきた経歴を持つ盧武鉉大統領は、金泳三・金大中両政権の民主化をさらに進めた。とくに歴史の清算にこだわり、日本統治時代の歴史を修正/是正しようとした他、朝鮮戦争時の韓国軍による民間人虐殺、軍事政権下での人権抑圧事件の真相究明にも努めた。
 2004年3月、「日帝強制占領下親日反民族行為の真相糾明に関する特別法(通称親日反民族特別法)」を制定。2005年1月の改正で法律名から「親日」を外し、「日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」とした。また、この法律に基づき「真相糾明委員会」を設置した。
 2005年5月、金泳三・金大中政権下で成立した過去の清算に関する特別法を含め、総括法として「真実・和解のための過去整理基本法」を制定。
同年12月、「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」を制定。
2006年には全斗煥元大統領らの叙勲を取り消した。

 退任の翌年、自殺。政府補助金の不正使用に関係していたことが原因で逮捕は近いと見られていたさなかであった。しかし、この件で検事総長は、「前大統領を死に追いやった」として世論の強い批判を浴び、国民に謝罪した。
 また、当時の世論調査では「前大統領に対する捜査は政治報復だ」と答えた人が62.5%あったそうだ。韓国では司法の独立が弱いと指摘されている。これはその一例だった。

日本との関係
 2003年6月、初の訪日。日程が顕忠日という殉国者に敬意を払う日と重なり韓国内で批判もあったが、盧武鉉は「私たちはいつまでも過去の足かせに囚われているわけにはいかない」と構わず、訪日を実現した。小泉首相と未来志向的な関係を構築していくこと、シャトル首脳会談を推進することなどに合意した。大統領就任当初は日本に協力的だったのだ。

 しかし、2005年2月、島根県議会で「竹島の日を定める条例」制定の動きがあり、3月に成立すると、韓国では強い反発が起こった。高野紀元大使が質問に答えて「竹島は日本領土と考えている」と発言したことから激しい反日デモが発生。
 廬武鉉大統領は三一節(3月1日の独立記念日)の演説で、日本に植民地支配への明確な謝罪と反省、賠償を要求した。対日強硬方針への転換宣言だった。
 この頃、韓国民にむけた談話のなかで、「外交戦争もあり得る」と述べたと報道された。

 小泉首相の靖国神社参拝は2001年以後、退任する2006 年まで毎年1 回ずつ行われた。2004年までは、大きな問題とならなかったが、2005年以後は日韓関係が悪化していたことを背景に問題となり、そうなると関係がさらに悪化するという悪循環に陥った。
 盧武鉉大統領は12月の訪日も中止した。
 
 第三国へ訪問中も日本批判を行なった。2005年4月、ドイツで、ドイツの常任理事国入りは支持するが日本は支持しないと述べ、また日本の植民地統治をナチスのホロコーストにたとえた共同宣言を発出することを持ちかけたが、ドイツ側から厳しくたしなめられた(報道)。

 2006年4月、盧武鉉大統領は特別談話で、「日本国民と指導者達に丁重に頼みます。我々はこれ以上新たな謝罪を要求はしません。既に累次行った謝罪と符合する行動を要求するだけです。誤った歴史を美化したり正当化したりする行為を韓国の主権と国民的自尊心を侮辱する行為を中止してくれということです。」と発言。
 2006年10月、安倍首相が訪韓(就任の翌月)。日本外務省の発表は、「両首脳は胸襟を開いて日韓関係、北朝鮮問題等に関して意見交換した」として主要問題についての話し合いの概要を説明しただけだったが、一部の報道では、「北朝鮮による地下核実験があったにも関わらず、会談時間の半分近くを歴史認識問題に割いたために両国の溝は埋まらず、共同文書の発表に至らなかった」と言われた。
 11月、ハノイのAPEC首脳会議の際、安倍首相およびブッシュ米大統領と3者で会談。

米国との関係
 盧武鉉は大統領選挙の前から反米で知られていたが、在韓米軍による女子中学生死亡事件やブッシュ大統領の北朝鮮に対する強硬姿勢のために反米機運が高まっており、前歴は大統領選挙で不利にならず、盧武鉉は「反米だからどうだと言うのだ?」などと述べたこともあったと言われていた。
 しかし、このような米国に対するツッパリは後に重圧となって跳ね返り、盧武鉉大統領の姿勢に影響を及ぼした。
 就任3カ月後の2003年5月、訪米し、「もし53年前に米国が韓国を助けなかったら私は今ごろ政治犯収容所にいたかもしれない」と述べたのも自己の経歴を意識しての発言だったが、米国からの支持は得られず、また国民からも、自虐的かつ国家的自尊心を侮辱する発言だと思われ批判された。
 盧武鉉大統領は実際に米国に協力もした。イラク戦争を支持して兵士3260人を派兵した。その理由について、あくまでも平和維持のためだと説き、北朝鮮の核危機を解決するにあたり、米国の支持を得るために派兵が必要なのだと主張したが、反対勢力は盧武鉉を米国の傀儡と非難した。
 米国との自由貿易協定(FTA)についても盧武鉉は前向きで、2006年2月、交渉を開始した。これには国内の反対が強かったが、盧武鉉は韓国経済に好影響があると譲らず、締結した。批准は李明博政権下で行われた。

 しかし、盧武鉉大統領は韓国内では左派と攻撃され、米国でも高く評価されなかった。
 「周辺諸国と案件ごとに選択的協力関係を築く」という廬武鉉の方針も歓迎ざれず、同盟国としてふさわしくない発言と思われた。
 また、北朝鮮に対する盧武鉉大統領の姿勢は米国の政策と調和しないとみなされた。
 米国との関係は低調なままであった。盧武鉉大統領は3回訪米したが、米国はいずれの時も実務訪問という簡略な儀礼形式で受け入れた。
 ニューヨーク・タイムズ紙は2006年9月、「米韓関係はここ数ヶ月で『日本海ほど広がった(as wide as the Sea of Japan)』」と評したこともあった。
 韓国内で起こったダグラス・マッカーサー将軍の銅像撤去論争に言及して、「恩を忘れる者ほど悪いものはない。今週の『恩知らず大賞』は韓国が獲得した」と皮肉られたこともあった。韓国はアメリカの三番目の敵国と見なされたこともあった。
 時間的には前後するが、2005年10月28日付の東亜日報(韓国の3大新聞の1つ)でさえ、「米ワシントンの知識人層の「反韓認識」に、新しい流れが感知されている。以前にはなかった嘲弄まじりの批判が表われ、共和党議員の間に主に見られた反韓感情が、民主党中心部に広がる兆しまで感知される。知韓派はこのような気流について、「そうではない」という声を出せないでいる。」 と報道した。
 戦時作戦統制権の移譲問題もそのような文脈の中で見ていく必要がある。
 朝鮮戦争以来米軍が連合軍の統制権を握っており、平時の統制権は1994年に韓国軍に移されていたが、戦時の統制権は依然として米軍にあり、盧武鉉は「自主国防」の観点から韓国軍への移譲を積極的に推進しようとした。米軍は当初懐疑的であったが、韓国側が強く要望するのであれば、移譲してもよいとの考えになり、2007年に12年4月の移譲でいったん合意が成立した。
 しかし、移譲は韓国軍にとって両刃の剣であり、また、米軍を朝鮮半島につなぎとめるためにも反対が強く、李明博政権時代の2010年、移譲を15年12月に先送りすると決まったが、その後ヘーゲル米国防長官と韓国の韓民求国防相の間で移譲を再び延期することが合意された。韓国防相は、記者会見で「20年代半ば」がメドだと表明している。

北朝鮮との関係
 金大中の太陽政策を引き継ぎ、「関与」と「包容」を重視した。北朝鮮を孤立させないよう積極的にかかわっていくという方針だ。
 2004年11月にはロサンゼルスで、「核とミサイルが外部の脅威から自国を守るための抑制手段だという北朝鮮の主張には一理ある」と述べたこともあった。
 北朝鮮に肥料や米などの物質的支援もした。太陽政策の象徴である開城工業団地は金大中大統領時代に合意されたが、工事の開始から生産の開始、鉄道輸送は盧武鉉政権下で実現した。

 このような盧武鉉の友好的姿勢にも関わらず、北朝鮮は2006年7月、日本を超えて飛行するミサイルを発射した。盧武鉉の立場は苦しくなったはずだが、「果たしてわが国の安保上の危機だったか」「(政府対応が遅れたのは、国民を不安にしないために敢えて)ゆっくり対応した」「敢えて日本のように夜明けからばか騒ぎを起こさなければならない理由は無い」などと、国際社会の見方とは非常に隔たった政府見解を発表した。このような見解は当時の日本との関係を反映していた面もあった。
 国連安保理での北朝鮮制裁の決議案については強い警戒感を示した。
 ミサイル発射から数日後南北閣僚級会談(第19回)が決裂。しかも北は、「南は北の先軍政治の恩恵をこうむっている」という、恩を仇で返す言葉を浴びせた。
 それでも8月15日の光復節では、「過去、北朝鮮が犯した戦争や拉致などで苦痛を受けた人々を思えば、北朝鮮に対して寛容と和解の手を差し伸べることは、決して容易なことではない」としながらも「胸の奥に残っている怒りと憎悪の感情を、もはや克服しなければならない。過去を許し、和解と協力の道に進まなければならない」と述べたため議論を惹起し、「北朝鮮が責任を認め謝罪をしていないうえ、社会的合意がない状態での発言であり、議論を呼ぶものとみられる」と論評された(2006年8月16日付東亜日報)。 後に、盧武鉉大統領はこの発言が原因で、「北朝鮮が過去に行った戦争や拉致を赦す」と言ったと言われるようになった。

 しかし、北朝鮮は盧武鉉大統領の融和的姿勢にかまわず、10月に初の核実験を実施した。安保理は制裁決議を採択した。盧武鉉大統領もさすがに「一時は与野党代表や歴代の大統領経験者を集めて意見を聴くといったふらつきを見せたが、その後は従来の路線に立ち戻り、米国から求められた対北朝鮮への制裁拡大に同意しないなど、なおも宥和姿勢を継続する意思を明らかにしている」と評されている(ウィキペディア「盧武鉉」)。

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