平和外交研究所

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2015.02.26

防衛省は文民統制を手直しする?

THEPAGEに本日(26日)掲載された一文です。

「「背広組」と「制服組」を対等に――。政府は、防衛省設置法を改正し、文官である内部部局の防衛官僚が武官である自衛官より上位にあると解釈される規定を改める方針を固めました。27日にも閣議決定され、国会提出されると報じられています。この改正をめぐっては、「文民統制」(シビリアンコントロール)の観点から懸念する見方もあります。文民統制とは一体どういうものなのでしょうか。

「背広組」が防衛相を補佐する規定
 防衛省は我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つことが任務です。そのために置かれている陸海空自衛隊の最高指揮権は総理大臣にあり、その下で防衛大臣が自衛隊を指揮・運用しますが、その際、防衛大臣は官房長や局長から補佐を受けることになっています(防衛省設置法12条)。

 この官房長や局長が置かれているところが「内部部局」、略して「内局」であり、そこで勤務している人たちは制服の自衛隊員(制服組) でなく、ビジネススーツの事務官(背広組) です 。

 防衛大臣は内局の補佐を受けて自衛隊を指揮するという、いわば三者構成の仕組みは防衛省だけのユニークなものです。これを導入したのはいわゆるシビリアンコントロールのためですが、現在、自衛隊員の地位を高める目的で、内局のあり方を変更しようという計画が防衛省で進められていると報道されています。
「軍は政府の決定に従う」というルール
 シビリアンコントロールはもともと欧米で確立された概念ですが、我が国にとっても極めて重要な問題です。その意味については、さまざまな説明がありますが、要点は、「軍は政府の判断・決定に従わなければならない」ということです。

 軍と政府の主張・判断が異なる場合、軍は武力を持っているのでその判断を政府に強制することも可能ですが、それを許しては軍の暴走を止められなくなる、戦争の惨禍をもたらすという歴史的経験に基づき、国民の利益を擁護し、その希望を実現するには民主的な政府の判断・決定を優先させなければならないというルールが確立されています。民主的な政治であれば誤りはないということではなく、国民が受け入れた方法で出された決定であれば、それでよしとしようという考えであると思います。

「文民統制」と「文官統制」の違い
 日本では新憲法にこのルールが盛り込まれました。日本国憲法第66条2項の「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」という規定です。また、前述した防衛省設置法の内局規定です。

 日本におけるシビリアンコントロールは「文民統制」と呼ばれています。「文民」は、新憲法制定の際、日本には「civilian」に該当する言葉がなかったので、新たに使われた訳語です。
 しかし、軍を統制する主体は、総理大臣や国務大臣、また内局の背広組と、すべて公務員であり、いずれも民間人ではありません。そのため、「文民」より「文官」のほうが用語として適切であるとして、「文官統制」という言葉が使われるようになりました。そして、日本では「文民統制(政府による統制)」と「文官統制(背広組らが政府を支える統制)」を区別する傾向もありますが、それは本質的な区別ではありません。趣旨はどちらも「軍人でない公務員による統制」と解すべきであり、英語ではシビリアンコントロール(civilian control)しか使いません。
シビリアンコントロールはどうなる?
 内容的には、理想論を言えば、憲法66条だけでは十分でなく、「軍は政府の判断・決定に従わなければならない」というルールを直接的に規定したほうがよいという考えもあり得ます。もっともその場合は、憲法で日本には「軍」がないことになっているのでそのまま記載することはできず、「軍」を「自衛隊」に書き換えるなど一定の調整を加えることが必要でしょう。
 また、防衛省の内局についても現在の防衛省設置法の規定が最適か、検討の余地はあります。しかし、一部に報道されているような「作戦のことが分からない文官に防衛大臣を補佐させるのは問題だ」というのは狭量な考えであるのみならず、本来のシビリアンコントロールに背馳(はいち)している恐れがあります。旧憲法下で、満州から華北地方へ侵攻した例など、作戦上の理由から戦闘範囲が拡大したことは何回もありました。

 今後、自衛隊の海外における活動が拡大する可能性が大きくなっています。そのようなことも視野に入れて、内局の在り方を含め防衛省設置法の改正を検討していくのは理由のあることでしょうが、この重要なシビリアンコントロールを弱体化させず、より強固にしていくことが肝要です。

2015.02.20

戦後70周年新談話

 戦後70周年に発出される総理談話に関し、有識者の意見を聞くための懇談会、「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」(略称・21世紀構想懇談会)の設置が発表された。
 総理の諮問機関という位置づけであり、その役割については、「談話を書くことを目的にしたものではない。政府が談話の具体的内容を検討するに当たり、意見を伺いたい」と菅官房長官により説明された。最終的に談話を作るのは、あくまでも政府だ、政府が作る談話は懇談会の意見と異なるものになりうるということである。懇談会のそうそうたるメンバーに対して失礼ではないかという気もするが、以前よくあった、官僚が作文したものを有識者の意見であると称してそのまま結論とするよりはるかによい。メンバーは自由に意見を述べることができ、それをどのように活用するかは総理しだいというのは総理の諮問機関の本来の姿なのであろう。昨年7月に閣議決定された安全保障法制に関する新方針も、それに先立って発表された懇談会の報告のうち一部を採用しなかった。
 談話の内容については、菅官房長官は記者会見で、「先の大戦への反省、戦後平和国家としての歩み、今後日本はアジア太平洋地域や世界にどう貢献していくか。世界に発信できるようなものを英知を結集して考え、新たな談話に書き込んでいきたい」と述べた。これも立派な姿勢であるが、「先の大戦への反省」をどのように表明するかについては考えなければならないことがある。とくに、戦後50年の際の「村山談話」と60年の「小泉談話」で表明したことをどのように扱うかである。
 安倍総理は、この二つの談話を「全体として引き継ぐ」と語っている。この言葉には方向性は示されているが、不明確な面もあり、すでに内外でさまざまな議論が出ているが、私は次のように考える。
 重要なポイントは、分かりやすくするため多少書き換えたが、①戦争をしたのは誤りであった、②日本は植民地支配と侵略によって多くの国に多大の損害と苦痛を与えた、③反省しお詫びする、の3点であり、これをどう扱うかが問題であるが、結論を先に言うと、新談話ではこの3点を言い換える必要はないし、言い換えるべきでないと思う。その理由はつぎのとおりである。
 第1に、この3点に関する村山談話と小泉談話における言及については、国民の間にさまざまな意見があり、一致していない。安倍総理が自分の考えを新談話に盛り込みたいのは分かるが、10年ごとという節目であれ、その時の総理が前任者とは少し異なる自己の信念を書き込むのは果たして賢明か。さらに言えば、村山談話と小泉談話は一致していない部分があり、今回さらに一致しない談話を発表するのは賢明でないのではないか。もし、先の大戦に関して日本に違った意見があることを示すのが目的ならば、2つの談話で足りている。
 第2に、新談話が村山談話と小泉談話の過ち、あるいは適切でない点を正そうとするならば、それは無理なことである。新談話は将来安倍総理の談話として記憶されるが、村山談話と小泉談話を書き換えることはできないからである。書き換えるならば、政府が正面からこの3点を取り上げ、国民的議論を行ない、それを集約して政府見解とする必要がある。政府見解は一つの例であり、法律ということも考えられる。いずれにしてもそれは不可能に近いのではないか。
 第3に、「全体として引き継ぐ」と説明しつつ、重要なポイントの一部であれ引き継がないのは誠実な姿勢とは言えない。これは総理の考えでないだろうが、念のため指摘しておく。
 第4に、安倍総理が国会で指摘したことに通じるが、具体的な文言をあれこれ議論するのは果たして得策か疑問である。
 第5に、近隣諸国のみならず米国なども新談話の内容に強い関心を見せている。その状況の中で、村山談話および小泉談話と異なる内容の新談話を発表することが安倍政権として得策か疑問である。下手をすれば、米国などの警戒心をむしろあおる結果になる恐れがある。

 以上のような考慮から、新談話では具体的なポイントには深入りせず、ただ「村山談話と小泉談話の立場を継承する」とのみ表明し、その上で「戦後平和国家としての歩み、今後日本はアジア太平洋地域や世界にどう貢献していくか」を大いに論じるのがよいと考える。
2015.02.11

新「開発協力大綱」には問題あり

 政府は2月10日、ODA大綱に代えて新たに「開発協力大綱」を閣議決定した。従来は他国の軍へはいっさい援助を供与しなかったが、新しい方針では災害救助などの非軍事目的の場合には認める道を開いた。たとえば、A国の軍隊が災害救助に従事している場合は資金援助できることにしたのである。
 新方針は、A国の軍隊の行動が非軍事目的であるか否かについて、「その実質的意義に着目し、個別具体的に検討する」としている。厳格に判断するという趣旨なのであろう。しかし、軍隊にはいっさい援助しないこととしていた従来の方針と、一定の場合とはいえそれを可能にした新方針の違いは大きい。
 政府が非軍事目的であることを確保するのだから大丈夫だ、と考えるのはあまりにも表面的である。たとえば、A国の軍隊は一方では戦争をしながら、他方で災害救助に従事することがあり、その場合に災害救助だけに援助するというのは形式的にはありうるとしても、実質的には意味をなさない。A国の軍隊の財布は一つであり、災害救助に援助することは結果的に戦争にも援助することになるからである。もう少し正確に言えば、災害救助の関係で援助してもらった分だけA国の軍隊は戦争にお金を使えるのである。
 もし、「災害援助」に貢献したいならば他に方法がある。たとえば、避難民の支援であれば、国連の難民高等弁務官(UNHCR)に拠出すればよい。実際これまでそうしてきている。あるいは、A国の軍隊でなく政府に対し災害救助のために援助すればよい。これも実際してきている。つまり、災害救助に協力するのはよいが、軍隊に援助する必要はないのである。
また、国際的には、日本が行なった援助がODAとして認められない可能性が出てくる。各国の援助が開発目的にかなっているかを審査するのはDAC(開発援助委員会)という国際機関である。ここではODAとして認められるための基準が定められており、軍に供与した援助はODAとして認められない危険がある。つまり、日本政府が大丈夫と判断すれば問題ないとは言えないのである。
ODAのGNP(国民総生産)に対する比率は、各国の開発協力に対する熱意と努力の度合いを示す指標であり、日本を含め大多数の国はこの比率を高めるのに懸命に努めてきた。日本の協力がODAとして認められなくなれば、この比率は下がる。これは日本にとって深刻な問題となろう。
米国だけはこの比率が低くても意に介さないようである。米国としては対外政策の遂行上巨額の軍事援助を供与することが必要だからであり、比較にならない。
日本の新方針は軍事援助をするということではないので、もちろん米国とは違うが、他国の軍隊に援助する理由も必要性もなく、しかもDACでの審査の問題もあるのにそれに踏み切るのはなぜか。それは、これまでの軍隊にはいっさい援助しないという方針に穴をあけることに眼目があるのではないか。もうしそうだとすれば、形式的には非軍事目的とはいえ、実質的には日本が米国型の軍事援助国に近づく一歩を踏み出そうとしていると考えざるをえない。
これは深刻な問題であり、国民はさらに第2歩、第3歩が踏み出されないよう制止しなければならない。

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