平和外交研究所

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2015.02.08

日韓国交正常化「50年」関係改善なるか 新談話の行方は?

今年は日本と韓国が1965年に正式の国家間関係(外交関係)を結んでからちょうど50年目に当たります。第2次世界大戦は1945年に終わりましたが、それから20年たってようやく日本と韓国の関係が正常化されたのは次のような事情からでした。
 日本は1910年に韓国(当時は「大韓帝国」)を併合し、統治を始めました。一方、日本は、米国、中華民国などいわゆる連合国と戦争し、1945年にこの戦争は終結しました。この時、日本の朝鮮統治も同時に終了しました。
日本と連合国の間の戦争状態の法的処理は1951年に締結されたサンフランシスコ平和条約(以下、単に「平和条約」)で行なわれました。朝鮮は日本と戦争状態にあったのではなく連合国でありませんでしたが、連合国の側では戦争中から朝鮮の問題についても関心を持ち、1943年、米英中3国の首脳がカイロで行なった戦後処理に関する宣言では、「前記三大国(注 米英中のこと)ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ(注 「ヤガテ」と読む。意味は「間もなく」)朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス」と謳いました。要するに、連合国は朝鮮を独立させると宣言したのです。そして、平和条約はカイロ宣言に基づき、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済洲島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と定めました(第2条(a))。
カイロ宣言や平和条約が想定していた「朝鮮」とは朝鮮半島全体を統治する国家のことですが、日本が戦争に敗れると朝鮮半島の南部には連合国が、北部にはソ連が進駐して南北に分かれました。1948年、南部では「大韓民国」が、北部では「朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」)」が成立し、両政権は統一朝鮮の実現を目指しましたが、進展しませんでした。それどころか2年後には朝鮮戦争が勃発し、南北の対立は決定的になってしまいました。
日本が統一国家としての「朝鮮」を承認する見込みは遠のいてしまいましたが、ともに自由陣営に属する「大韓民国」とは関係を正常化することが必要だったので、1965年、日本と韓国は基本条約を締結して外交関係を樹立しました。
一方、北部の北朝鮮と日本の間では関係がないままの状態が、戦争が終わって70年になるのに続いています。韓国と北朝鮮が将来統一国家を樹立するか、それは両国の問題ですが、日本と北朝鮮は国交正常化を実現し、諸懸案を解決するための努力を一層強化していくことが必要です。

日韓関係正常化後、韓国は長足の経済成長を実現し、1996年には「先進国クラブ」と言われるOECD(経済協力開発機構)にも加盟しました。世界でも有数の、経済発展の勢いがある国として「タイガー」と呼ばれたこともありました。今や韓国はいくつかの分野で世界のトップクラスにあります。日本はこのような韓国経済の発展に協力してきました。現在、両国間の経済関係は緊密です。
文化面では、韓国は以前日本文化の流入を強く警戒し、制限していましたが、今は開放的になっています。また、日本側でも「韓流ブーム」がおきるなど、韓国に対する関心は高まっています。このような文化面での関係緊密化は経済関係とともに、両国関係を進展させる重要な要因となっています。
一方、歴史問題、とくに慰安婦問題などをめぐって日韓関係は非常に悪化しており、安倍首相と朴槿恵大統領の首脳会談は一度も行われていません。両国は植民地支配を終結させ正規の国家間関係を結びましたが、韓国人の国民感情には過去の歴史の影響を払しょくできない面があることを加害者であった日本として忘れたり、過小評価したりしてはなりません。慰安婦問題を解決するため日本はこれまでに努力を重ねてきましたし、韓国にはそのことを正しく理解してもらいたいのは当然です。それと同時に、日本は国際社会の状況にも注意しつつ、今後もこの問題の解決のため誠実に対応していかなければなりません。
日本と韓国は長い歴史を持つ隣国どうしであり、また、アジアの平和と安定に大きな責任を負っており、一刻も早く関係を改善することが必要です。韓国の朴槿恵大統領は、歴史問題について厳しい姿勢を維持しつつも、日本との関係改善を前向きに考える姿勢を示しています。安倍首相の側でも関係改善の糸口を探ろうとしており、両国の首脳が今後積極的に一歩を踏み出すことが期待されます。
今年は終戦70周年なので安倍首相は新しい談話を発表する考えです。20年前の50周年に村山首相は談話を発表し、戦争をしたのは誤りであった、日本は植民地支配と侵略によって多くの国に多大の損害と苦痛を与えた、反省しお詫びする、という極めて重要な表明を行ないました。これらのことは、今後日本が韓国を含め近隣諸国と善隣友好関係を増進していくのに不可欠の基本認識です。今年行なわれる安倍首相の談話においては、このような認識とともに、日本が戦後一貫して平和国家として歩んできたこと、また、今後アジア太平洋地域や世界に貢献していくことを示すことが期待されます。

(THEPAGEに2月7日掲載)
2015.01.29

自衛隊は邦人を救出出来るか

「イスラム国」による日本人拘束事件が重大局面を迎えています

日本人が海外で危険な目にあうケースが増えています。様々な形態がありますが、どうしても必要な場合自衛隊が救出に行けないか、という気持ちが我々の頭をよぎります。日本政府もそのような質問に対してどのように説明するか、すでに準備しているようです。
基本から言えば、日本人の安全を保護するのはその日本人が居住、活動あるいは滞在している国の責任であり、逆に、日本にいる外国人の安全を確保するのは日本の責任です。
しかし、自然災害のため、あるいはテロ攻撃に巻き込まれたため外国人が危険な状態に陥っても十分に保護できない場合があります。それでも滞在国の政府によって保護してもらうという筋道を踏み外すことはできません。地震などの場合は、外国の救助隊が駆け付けその国の人たちと協力して救助に当たることがよくありますが、その場合も当該国が受け入れに同意することが必要です。

相手国の同意なしに警察や軍隊などを送り込むことがこれまでなかったわけではありません。たとえば、1980年、イランに拘束されている大使館員を救出するために米国は軍を出動させましたが、失敗に終わりました。イランには事前に知らせず行なったことでありルール違反でした。その結果、米国とイランとの関係がますます悪化しただけでなく、米国内からも批判の声が上がりました。
一方、人道上の理由で外国軍が住民などを救済する場合には、相手国の同意がなくても認められるべきである、という考えが国連などで強くなっています。これは「保護する責任」と呼ばれる問題です。現在、過激派組織の「イスラム国」に対して米国などが行なっている空爆の場合も住民や外国人の保護など人道上の理由を掲げており、国際的に広い支持を得ています。一部中東諸国も参加しています。しかし、「保護する責任」はまだ一般的に認知されるには至ってないので、日本がこの考えに依拠して行動するには問題があるでしょう。

わが自衛隊が日本人を救出することについては、憲法の定める平和主義に照らしてそのような海外での行動が可能かという問題があります。日本の自衛隊が海外で活動することについては、国連の平和維持活動への参加やソマリア沖で海賊からの襲撃を防ぐため輸送船を護衛することなど憲法に抵触しないと判断された場合以外は認められていませんでした。
2014年7月に閣議決定された新方針では、この他、自衛隊が海外で日本人を救出するために出動することが検討され、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」などいわゆる3要件を満たす場合には可能と考えられました。もちろんこの場合も相手国の同意は必要です。
しかし、最近発生した「イスラム国」による日本人の拘束のような場合には、この要件を満たすと言えないのではないかと思われます。また、同意を求める相手国はイラクか、シリアか、それとも「イスラム国」か、ということも問題になります。
「イスラム国」の関係から離れて一般論として考えますと、かりに憲法に照らして問題ないと判断された場合にも、特別の法律を制定して自衛隊の行動準則を明確にするのが通例です。平和維持活動の場合は最初から法律を制定しました。海賊対策の場合は、当初、自衛隊法ですでに想定されている「海上警備行動」と性格付けられましたが、すぐ後で海賊対策のための特別法が制定されました。将来邦人を救出する場合にもやはり特別の法律を制定することとなると思われます。

なお、法的な問題をクリアできても、自衛隊が邦人を救出するには特別の訓練・装備が必要です。

(THEPAGEに1月29日掲載された)
2015.01.27

尖閣諸島の地位に関する古文献

尖閣諸島については多数の研究(玉石混淆)があり、その結果を記した資料は膨大な量に上るが、重要な論点はつぎのようなものだと思う。

①古い文献にどのような記載があるか。

②日本が1895年に尖閣諸島を日本の領土に編入したことをどのように見るか。

③戦後の日本の領土再画定において尖閣諸島はどのように扱われたか。とくにサンフランシスコ平和条約でどのように扱われたか。簡単に言えば、尖閣諸島の法的地位いかんである。

④その後日中両政府は尖閣諸島をどのように扱ってきたか。いわゆる「棚上げしたか否か」などの議論である。

⑤1968年の石油埋蔵に関する国連調査との関係。

⑥沖縄返還との関連。

このなかでも基本的な問題は、もともと中国領であったか否か、および、国際法的に尖閣諸島はどのような地位にあるか、である。前者については、①の古い文献が何と記載しているかが決め手になる。

中国はかつて明国の海防書『籌海圖編』(胡宗憲著)、清国の使節(冊封使)である汪楫(オウシュウ)の『使琉球雑録』、それに西太后の詔書を引用していたが、最後の文献は偽造であることが判明しており、現在は使わなくなっているようである。
汪楫『使琉球雑録』は、冊封使として琉球へ赴いた時の旅行記で、福建から東へ航行し、尖閣諸島の最東端の赤嶼で「郊」を過ぎる、そこが「中外の界」だと記載した。これについて、中国政府は「中外の界」は中国と外国との境だと主張しているが、この「中外の界」と言ったのは案内の琉球人船員であり、その意味するところは「琉球の境界」という意味であった。つまり尖閣諸島は当時琉球の外であるとみなされていた(らしい)のである。
しかし、琉球の外は明の領域だったのではない。明や清の領土は大陸が海に至るまでであり、それに近傍の島嶼だけが領域に含まれていた。
そのことを示す文献として次のようなものがある。
○同じ汪楫が著した『観海集』には「過東沙山、是閩山盡處」と記載されていた。「閩山」とは福建の陸地のことであり、この意味は「東沙山を過ぎれば福建でなくなる(あるいは福建の領域が終わる)」である。東沙山は馬祖列島の一部であり、やはり大陸にへばりついているような位置にある島である。
○明朝の歴史書である『皇明実録』は、臺山、礵山、東湧、烏丘、彭湖、彭山(いずれも大陸に近接している島嶼)は明の庭の中としつつ、「この他の溟渤(大洋)は、華夷(明と諸外国)の共にする所なり」と記載している。
○16,17世紀の明代の地方誌(多数)も明の領域が海岸までであると明記している。例、萬暦『福州府志』巻三「疆域」「東抵海一百九十里」
○明代の勅撰書『大明一統志』も同様に明の領域は海岸までであると記載している。例、巻七十四福建・福州府「東至海岸一百九十里」

なお、尖閣諸島の法的地位については、2014年3月12日にアップしたもの(オピニオンのアーカイブから検索)を参照願います。         

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