10月, 2014 - 平和外交研究所 - Page 4
2014.10.16
10月7日午後4時、ピョンヤン空港に到着。ターミナルからはるか遠いところに駐機した。飛行場が拡張工事中のためであろう。数千人(?)の兵士が駆り出されていた。まさに人海戦術であり、文革期の中国をほうふつとさせる光景であった。ターミナルビルのすぐ近くを流れている普道河の護岸工事は先に完了し、きれいな河岸を見せていた。昨年も北朝鮮にきた同行者が驚く変化であった。
撮影については、軍の施設、軍人など軍関係についてはいっさい不可。飛行場の工事も写真にとれなかった。しかし、それ以外は大体撮影可。
健康状態のチェック用紙の提出と入国はスムーズであったが、最後の税関での検査が厳しかった。入国に際し申告した時計、携帯電話、カメラ、コンピュータはすべて出して見せなければならない。さらに書物には厳しかった。手提げかばんに入れていた『間宮林蔵』は見せたが、もう一冊あるはずだ、X線透視で見えた、と言う。ほとんど全部ひっくり返して見せた。カメラの蓄電池とチップのカバーは壊れてしまった。軍人らしい検査官は「落ち着いて」「すみません」などと言っていた。このように厳しいチェックは今まで経験したことがなかった。金正日の総書記就任記念(10月8日)と労働党大会(10月10日)を控えてとくに厳しかったのかもしれない。荷物を受け取ってから検査が済むまで1時間以上かかったように思う。
対外文化連絡協会のリ・ソンホとキム・ミョンイル両氏が出迎えてくれた。
なお、出発時は、税関検査のエリアに入るのに10分ほど待たされたが、検査そのものは簡単。次に搭乗手続き、そこで出国カードを渡し、搭乗券をもらった。売店は建設中のターミナルの一角にあり、いまはみすぼらしい。スイス時計を数個置いていた。
宿舎は高麗ホテル。1階ロビーはやや暗い。室内のテレビでBBCや中国のCCTVとならんでNHK World が見られたが、それは音楽番組で、翌朝そのチャンネルは中国のCCTVになっていた。CCTVは3~4チャンネルで放送し、1つはCCTV Americaであった。ロシアのテレビも放映されていた。
ピョンヤンの電信局は移転中で、その間ボドンガン・ホテルの一角に小さい事務所を置いている。しかし、所持していたNexus5はインターネット接続も電話接続もできなかった。携帯電話を借りて(有料)通話することは可能。リース料約3千円、通話料は14ドル。限度を越せば追加できる。ホテルで料金を払えば簡単にできる。しかしインターネットはダメ。インターネットを利用するにはピョンヤンに出発する前に要望を出しておく必要があるそうだ。
ロビーに中国語を話す人が数名。このホテルに限らず街中のレストランでも中国語を話す人をときどき見かけた。もっともよく使える外貨は人民元である。
夕食は朝鮮料理。在日で北へ渡ったマダムが開いている店。横浜出身だそうだ。
8日、朝一番で万寿台の金日成と金正日の銅像を訪問し、同行の代表が花束を献花した。これを済ませないと一日が始まらないらしい。あたりは大勢の人出で、一般人とともに職場の各単位の人たち、軍の部隊員なども多数見かけた。チマチョゴリの女性も。全部合わせると数千人にのぼるか。隣に議事堂や革命博物館。
次いで万景台。金日成の生家がある。14歳で家を出た。地主の持家に住んでおり、親は墓守をしながら農作をしていた。
ピョンヤンの街の生活は他の国とそう変わりがなく普通で、緊張感は伝わってこない。人々は明るい表情で歩いている。1986年の中国より女性の衣服はカラフル。子供連れが気楽に歩いている。女生徒が店をのぞき込んでいる。今回訪朝の10人のうち8人は訪朝経験があるが、一様に明るい表情だと話していた。明るいというのは普通という意味であり、とくにいつも笑っているのではない。ホテルのすぐ隣に屋台よりももう少ししっかりした程度の小屋風の売店があり、各種の食物や飲み物を売っている。そこを女性がのぞき込んだり何か購入したりしていた。アイスクリームを食べながら談笑している少女たちも見かけた。
「光復地区商業中心」という商店を訪問した。日本のスーパー・マーケットに近い。私が勤務した2001年のベオグラードのスーパーより商品がはるかに豊富だ。ビールは1カンが100円前後。自転車は1万円くらい。厨房器具も各種あり、なかには数千円のフライパンもあった。この値段は現地通貨のウォンで表示されており、ウォンで購入できる。我々はウォンを持っていないので一角にある両替(購入代金支払い所?)へ行けば、その日は7万ウォンを3千円で換算してくれるそうであった。ここに引用した値段はそのレートを使って円に計算したものである。
この店には一般の人が自由に出入りしている。かつての北京の友諠商店とは比較にならない。友諠商店は外国人と外貨兌換券を使える一部の中国人だけが利用でき、普通の現地人がいないことはすぐに分かる。もっとも、「光復地区商業中心」のような店は、ピョンヤンではおそらくまだ例外的なのであろう。それだけに人が殺到するようだ。
買い物したおばさんがタクシーに乗り込んでいるのも見かけた。街中にはタクシーが結構走っている。手を挙げて止めている人もいる。初乗りが3千ウォンの数倍だという人も同行者の中にいたが、要確認だ。タクシー会社も今は数社ある。昨年は1社だけであったとある人が言っていた。経済制裁で燃料は不足しているはずであるが、そのようなことは感じさせずにタクシーや車が走っている。どのように油を調達しているのか。質問したが明確な答えは得られなかった。タクシーに使っている車は北朝鮮の「平和自動車」製と輸入したものだそうだ。この制裁の下でどこから輸入しているのだろうか。
地下道へ自転車を抱えて降りていく人。10数名の男が乗っているトラック。出勤か。地下鉄の入り口には大勢の人たち。ラッシュなのだろう。
夜になると町は暗い。街灯が極端に少ないからだ。1990年代の初めはそのわずかな街灯の下で学生が勉強していたそうだ。いまはそのようなことはない。郊外へ出ると真っ暗で、そのなかを我々が乗ったバスが突っ走る。急に工事中の標識が出てくるので怖い。電力は全国的にまだ不足しているそうで、水力発電所を新設する計画が数件あると言う。火力は新設せず、現有施設の改良などに留めている。
町はグレーの建物が多く、味気ないが清潔である。比較的新しく見える。2001年のベオグラードのように重苦しい雰囲気はない。広告がほとんどないことも町の特色だ。いくつかガラス張りのようなぴかぴかした外装のビルもでき始めている。三角帽子の形をしたユギョン・ホテルは長い間工事が完成しておらず、エジプトの業者を入れているそうだ。外見だけはモダンな形を見せている。
行進でよく映像に出てくるのが金日成広場で、大同河を挟んでその対面にあるチュチェ塔の頂上から平壌市を一望できる。素晴らしい景色だ。ユギョン・ホテルもよく見える。「朝鮮戦争で米国は平壌に42.8万発の爆弾を落とした。当時の人口は42万人。米国では百年たっても立ち直れないだろうと言っていた」という説明であった。現在平壌は人口230万人。
交通の要所で何回も通るところに古い門がある。「普道門ボドンモン」と言い、平壌の古い城壁の一つ。
凱旋門は1982年に完成。1945年(右)と1925年(左)の字が見える。後者は金日成が祖国回復を志し平壌を後にした年である。
いたるところで有名なモランボン楽団の演奏がビデオで放映される。ポップミュージック的なBGMであるが、北京から平壌までの2時間弱聞き続けると疲れる。昼食のためにレストランに入るとそこでも聞かされる。モランボン楽団のDVDはどこへ行っても売り切れであった。モランボン楽団でないカラオケBGMも、大同河ビールが経営しているレストランで聞いた。
青年スポーツセンター一帯に、各競技ごとに立派な施設が作られている。国民意識高揚のためスポーツには国家的な政策として力を入れている。一流の競技選手だけでなく、全国民がスポーツを奨励されており、各単位で卓球台を増やし、駐車場をテニスコートにしたりしている。アジア大会での成績は満足できるものであり、北朝鮮はナンバー2の黄炳瑞党総政治局長、崔竜海体育指導委員会委員長および金養建党統一戦線部長をインチョンへ送り込み、韓国の首相などとも会談した。ともかく、北朝鮮がスポーツにいかに力を入れているか、どうして女子サッカーなどが強いのか、平壌に行ってみて初めて分かりかけた気がした。
北朝鮮訪問
10月7日から13日まで北朝鮮を訪問した。以下は町の様子などのメモである10月7日午後4時、ピョンヤン空港に到着。ターミナルからはるか遠いところに駐機した。飛行場が拡張工事中のためであろう。数千人(?)の兵士が駆り出されていた。まさに人海戦術であり、文革期の中国をほうふつとさせる光景であった。ターミナルビルのすぐ近くを流れている普道河の護岸工事は先に完了し、きれいな河岸を見せていた。昨年も北朝鮮にきた同行者が驚く変化であった。
撮影については、軍の施設、軍人など軍関係についてはいっさい不可。飛行場の工事も写真にとれなかった。しかし、それ以外は大体撮影可。
健康状態のチェック用紙の提出と入国はスムーズであったが、最後の税関での検査が厳しかった。入国に際し申告した時計、携帯電話、カメラ、コンピュータはすべて出して見せなければならない。さらに書物には厳しかった。手提げかばんに入れていた『間宮林蔵』は見せたが、もう一冊あるはずだ、X線透視で見えた、と言う。ほとんど全部ひっくり返して見せた。カメラの蓄電池とチップのカバーは壊れてしまった。軍人らしい検査官は「落ち着いて」「すみません」などと言っていた。このように厳しいチェックは今まで経験したことがなかった。金正日の総書記就任記念(10月8日)と労働党大会(10月10日)を控えてとくに厳しかったのかもしれない。荷物を受け取ってから検査が済むまで1時間以上かかったように思う。
対外文化連絡協会のリ・ソンホとキム・ミョンイル両氏が出迎えてくれた。
なお、出発時は、税関検査のエリアに入るのに10分ほど待たされたが、検査そのものは簡単。次に搭乗手続き、そこで出国カードを渡し、搭乗券をもらった。売店は建設中のターミナルの一角にあり、いまはみすぼらしい。スイス時計を数個置いていた。
宿舎は高麗ホテル。1階ロビーはやや暗い。室内のテレビでBBCや中国のCCTVとならんでNHK World が見られたが、それは音楽番組で、翌朝そのチャンネルは中国のCCTVになっていた。CCTVは3~4チャンネルで放送し、1つはCCTV Americaであった。ロシアのテレビも放映されていた。
ピョンヤンの電信局は移転中で、その間ボドンガン・ホテルの一角に小さい事務所を置いている。しかし、所持していたNexus5はインターネット接続も電話接続もできなかった。携帯電話を借りて(有料)通話することは可能。リース料約3千円、通話料は14ドル。限度を越せば追加できる。ホテルで料金を払えば簡単にできる。しかしインターネットはダメ。インターネットを利用するにはピョンヤンに出発する前に要望を出しておく必要があるそうだ。
ロビーに中国語を話す人が数名。このホテルに限らず街中のレストランでも中国語を話す人をときどき見かけた。もっともよく使える外貨は人民元である。
夕食は朝鮮料理。在日で北へ渡ったマダムが開いている店。横浜出身だそうだ。
8日、朝一番で万寿台の金日成と金正日の銅像を訪問し、同行の代表が花束を献花した。これを済ませないと一日が始まらないらしい。あたりは大勢の人出で、一般人とともに職場の各単位の人たち、軍の部隊員なども多数見かけた。チマチョゴリの女性も。全部合わせると数千人にのぼるか。隣に議事堂や革命博物館。
次いで万景台。金日成の生家がある。14歳で家を出た。地主の持家に住んでおり、親は墓守をしながら農作をしていた。
ピョンヤンの街の生活は他の国とそう変わりがなく普通で、緊張感は伝わってこない。人々は明るい表情で歩いている。1986年の中国より女性の衣服はカラフル。子供連れが気楽に歩いている。女生徒が店をのぞき込んでいる。今回訪朝の10人のうち8人は訪朝経験があるが、一様に明るい表情だと話していた。明るいというのは普通という意味であり、とくにいつも笑っているのではない。ホテルのすぐ隣に屋台よりももう少ししっかりした程度の小屋風の売店があり、各種の食物や飲み物を売っている。そこを女性がのぞき込んだり何か購入したりしていた。アイスクリームを食べながら談笑している少女たちも見かけた。
「光復地区商業中心」という商店を訪問した。日本のスーパー・マーケットに近い。私が勤務した2001年のベオグラードのスーパーより商品がはるかに豊富だ。ビールは1カンが100円前後。自転車は1万円くらい。厨房器具も各種あり、なかには数千円のフライパンもあった。この値段は現地通貨のウォンで表示されており、ウォンで購入できる。我々はウォンを持っていないので一角にある両替(購入代金支払い所?)へ行けば、その日は7万ウォンを3千円で換算してくれるそうであった。ここに引用した値段はそのレートを使って円に計算したものである。
この店には一般の人が自由に出入りしている。かつての北京の友諠商店とは比較にならない。友諠商店は外国人と外貨兌換券を使える一部の中国人だけが利用でき、普通の現地人がいないことはすぐに分かる。もっとも、「光復地区商業中心」のような店は、ピョンヤンではおそらくまだ例外的なのであろう。それだけに人が殺到するようだ。
買い物したおばさんがタクシーに乗り込んでいるのも見かけた。街中にはタクシーが結構走っている。手を挙げて止めている人もいる。初乗りが3千ウォンの数倍だという人も同行者の中にいたが、要確認だ。タクシー会社も今は数社ある。昨年は1社だけであったとある人が言っていた。経済制裁で燃料は不足しているはずであるが、そのようなことは感じさせずにタクシーや車が走っている。どのように油を調達しているのか。質問したが明確な答えは得られなかった。タクシーに使っている車は北朝鮮の「平和自動車」製と輸入したものだそうだ。この制裁の下でどこから輸入しているのだろうか。
地下道へ自転車を抱えて降りていく人。10数名の男が乗っているトラック。出勤か。地下鉄の入り口には大勢の人たち。ラッシュなのだろう。
夜になると町は暗い。街灯が極端に少ないからだ。1990年代の初めはそのわずかな街灯の下で学生が勉強していたそうだ。いまはそのようなことはない。郊外へ出ると真っ暗で、そのなかを我々が乗ったバスが突っ走る。急に工事中の標識が出てくるので怖い。電力は全国的にまだ不足しているそうで、水力発電所を新設する計画が数件あると言う。火力は新設せず、現有施設の改良などに留めている。
町はグレーの建物が多く、味気ないが清潔である。比較的新しく見える。2001年のベオグラードのように重苦しい雰囲気はない。広告がほとんどないことも町の特色だ。いくつかガラス張りのようなぴかぴかした外装のビルもでき始めている。三角帽子の形をしたユギョン・ホテルは長い間工事が完成しておらず、エジプトの業者を入れているそうだ。外見だけはモダンな形を見せている。
行進でよく映像に出てくるのが金日成広場で、大同河を挟んでその対面にあるチュチェ塔の頂上から平壌市を一望できる。素晴らしい景色だ。ユギョン・ホテルもよく見える。「朝鮮戦争で米国は平壌に42.8万発の爆弾を落とした。当時の人口は42万人。米国では百年たっても立ち直れないだろうと言っていた」という説明であった。現在平壌は人口230万人。
交通の要所で何回も通るところに古い門がある。「普道門ボドンモン」と言い、平壌の古い城壁の一つ。
凱旋門は1982年に完成。1945年(右)と1925年(左)の字が見える。後者は金日成が祖国回復を志し平壌を後にした年である。
いたるところで有名なモランボン楽団の演奏がビデオで放映される。ポップミュージック的なBGMであるが、北京から平壌までの2時間弱聞き続けると疲れる。昼食のためにレストランに入るとそこでも聞かされる。モランボン楽団のDVDはどこへ行っても売り切れであった。モランボン楽団でないカラオケBGMも、大同河ビールが経営しているレストランで聞いた。
青年スポーツセンター一帯に、各競技ごとに立派な施設が作られている。国民意識高揚のためスポーツには国家的な政策として力を入れている。一流の競技選手だけでなく、全国民がスポーツを奨励されており、各単位で卓球台を増やし、駐車場をテニスコートにしたりしている。アジア大会での成績は満足できるものであり、北朝鮮はナンバー2の黄炳瑞党総政治局長、崔竜海体育指導委員会委員長および金養建党統一戦線部長をインチョンへ送り込み、韓国の首相などとも会談した。ともかく、北朝鮮がスポーツにいかに力を入れているか、どうして女子サッカーなどが強いのか、平壌に行ってみて初めて分かりかけた気がした。
2014.10.05
第1に、これを機会に南北関係が進展するかである。
第2に、北朝鮮の最近の積極的な外交の一環としてである。
第3に、チェリョンヘ国家体育指導委員長とキムヤンゴン労働党統一戦線部長が同行しており、それぞれの職責との関係でこれら両人が訪韓するのはごく自然であるが、チェリョンヘは前総政治局長であった。最近北朝鮮では高級幹部の人事異動が頻繁に行われることと、金正恩第1書記が数週間公の場に出ないことから、外部では種々憶測を呼んでいた。その一環でチェリョンヘが閑職に回されたのではないかとも言われていたが、今回の3者そろい踏みの訪韓でこのような噂は吹き飛ぶであろう。
韓国側はパククネ大統領に会うか打診したが、ファンピンソ部長は体よく断ったと韓国の通信社が報道している。これが事実で。あったのであればの話であるが、ファンピンソ部長は金第1書記を差し置いて南の大統領に会うのをひかえたのかもしれない。彼らは韓国の首相にはあった。
今回訪韓した3人は金ジョンウン体制を支えるキーパーソンではないか。
ファンピョンソ軍総政治局長の訪韓
北朝鮮の最高幹部、ファンピョンソ軍総政治局長がアジア大会閉幕の機会に韓国を訪問し注目されている。第1に、これを機会に南北関係が進展するかである。
第2に、北朝鮮の最近の積極的な外交の一環としてである。
第3に、チェリョンヘ国家体育指導委員長とキムヤンゴン労働党統一戦線部長が同行しており、それぞれの職責との関係でこれら両人が訪韓するのはごく自然であるが、チェリョンヘは前総政治局長であった。最近北朝鮮では高級幹部の人事異動が頻繁に行われることと、金正恩第1書記が数週間公の場に出ないことから、外部では種々憶測を呼んでいた。その一環でチェリョンヘが閑職に回されたのではないかとも言われていたが、今回の3者そろい踏みの訪韓でこのような噂は吹き飛ぶであろう。
韓国側はパククネ大統領に会うか打診したが、ファンピンソ部長は体よく断ったと韓国の通信社が報道している。これが事実で。あったのであればの話であるが、ファンピンソ部長は金第1書記を差し置いて南の大統領に会うのをひかえたのかもしれない。彼らは韓国の首相にはあった。
今回訪韓した3人は金ジョンウン体制を支えるキーパーソンではないか。
2014.10.05
そうなると、米国が要請してくれば、イラク戦争のような場合に自衛隊が米軍に協力すべきか問われることになる。しかるに、閣議決定された新方針に従えば、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」などの要件が満たすことが条件であるが、自衛隊を派遣することはできる。さらに、日米間で合意された(現時点ではまだ合意前であるが)日米防衛協力のための指針でも自衛隊を派遣できるわけである。
日本は協力を拒否できるか。法的には、集団的自衛権を行使するか否かは日本の権利であり義務でないので拒否できるが、法的に可能であるにもかかわらず拒否するのはよけい困難であろう。
米軍の活動に自衛隊が参加する場合に実態的に何が問題となるか。米軍は紛争のあるところでも活動する。イラクもそうであったし、シリアについても米議会では軍事介入すべきであったという意見は強い。世界政治における米国の在り方から見て、紛争があり、それに巻き込まれるから行動しないというのはありえないことである。もっとも米軍は問題があれば必ず出動するのではない。米国が軍事介入の是非を検討したが、結局しなかった例はいくつもある。北朝鮮との関係でも検討したがやめたことがあった。しかし、米軍が行動しない理由は紛争に巻き込まれるからではない。成功の可能性がどのくらいあるか、米軍のこうむる損害の大きさなど諸般の事情を勘案した結果である。
日本の状況は大きく異なっている。紛争を起こしてはならない、紛争に巻き込まれてはならないというのは、日本国憲法の根幹であり、またそのような制限を自らに課すことについては、大多数の国民が支持している。「絶対的平和主義」と揶揄されるような硬直した考えを取らない人も、自衛隊の積極的意義を認める人も、また、国連の平和維持活動には自衛隊も他国と同じように参加、貢献すべきであるという考えの人も、紛争に巻き込まれてはならないことを心底から受け入れるのではないか。
この重要な国民的規範を閣議決定の新方針や日米間防衛協力の新指針が変更するのは認めるわけにはいかない。これこそ憲法を改正して自衛隊が米軍と同じように行動できるようにすべきか、国民に十分な議論の機会を提供し、その意見を聞くべきことである。
日米防衛指針の中間報告
政府は、年末に予定されている、日米防衛協力のための新指針(ガイドライン)に関する中間報告において、1997年に策定された現行の指針が日米の防衛協力を日本の周辺(「周辺事態」)に限っていた制限をなくすそうである(『朝日新聞』10月4日付)。政府は、関連法案が国会で審議される際、「周辺事態」は必ずしも地理的概念でないと説明していたので、新指針についての報告が行われ、「周辺事態」の概念がなくなっても自衛隊の行動範囲を変更するのではないと説明するかもしれないが、「周辺事態」とは、「我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重大な影響を与える事態」と法律で定義されている。「周辺事態」という区分がなくなれば、地理的限定がなくなることは明らかであろう。7月に決定された集団的自衛権等に関する閣議決定で、他国に対する武力攻撃が行われた場合にも一定の要件を満たせば自衛隊が出動することが可能になったこととあいまって、自衛隊が米軍と協力する範囲について限定がなくなれば、たとえば中近東で米軍が行なう活動に自衛隊が参加することが可能になることを意味している。そうなると、米国が要請してくれば、イラク戦争のような場合に自衛隊が米軍に協力すべきか問われることになる。しかるに、閣議決定された新方針に従えば、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」などの要件が満たすことが条件であるが、自衛隊を派遣することはできる。さらに、日米間で合意された(現時点ではまだ合意前であるが)日米防衛協力のための指針でも自衛隊を派遣できるわけである。
日本は協力を拒否できるか。法的には、集団的自衛権を行使するか否かは日本の権利であり義務でないので拒否できるが、法的に可能であるにもかかわらず拒否するのはよけい困難であろう。
米軍の活動に自衛隊が参加する場合に実態的に何が問題となるか。米軍は紛争のあるところでも活動する。イラクもそうであったし、シリアについても米議会では軍事介入すべきであったという意見は強い。世界政治における米国の在り方から見て、紛争があり、それに巻き込まれるから行動しないというのはありえないことである。もっとも米軍は問題があれば必ず出動するのではない。米国が軍事介入の是非を検討したが、結局しなかった例はいくつもある。北朝鮮との関係でも検討したがやめたことがあった。しかし、米軍が行動しない理由は紛争に巻き込まれるからではない。成功の可能性がどのくらいあるか、米軍のこうむる損害の大きさなど諸般の事情を勘案した結果である。
日本の状況は大きく異なっている。紛争を起こしてはならない、紛争に巻き込まれてはならないというのは、日本国憲法の根幹であり、またそのような制限を自らに課すことについては、大多数の国民が支持している。「絶対的平和主義」と揶揄されるような硬直した考えを取らない人も、自衛隊の積極的意義を認める人も、また、国連の平和維持活動には自衛隊も他国と同じように参加、貢献すべきであるという考えの人も、紛争に巻き込まれてはならないことを心底から受け入れるのではないか。
この重要な国民的規範を閣議決定の新方針や日米間防衛協力の新指針が変更するのは認めるわけにはいかない。これこそ憲法を改正して自衛隊が米軍と同じように行動できるようにすべきか、国民に十分な議論の機会を提供し、その意見を聞くべきことである。
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